高冷地野菜概論
大目次
Ⅰ高冷地野菜の生産環境
Ⅱ生産の推移
Ⅲ大規模産地
++++++++++++++++++++++++++++++++++
++++++++++++++++++++++++++++++++++
Ⅰ高冷地野菜の生産環境
1 農業進展の基盤
(1) 社会・経済の進展と農業
農業は食料生産が主目的で、人の生命を維持するために必要で欠くことができない産業で
ある。かつて、自然に生育しているものを食料として採取していた時代では、おのずから収
量に限度があり、扶養人口もこれによって制限されていた。このような時代では、食料採取
が人間活動のすべてであり、人は“食うために働いた”
。この状態から脱却するために、人は
採種して播種することを着想し、さらに耕作によって成育を助長して収量を安定させ、増加
することに成功した。これが耕蔭農業の起源で、これによって人の生活が安定し文化を芽生
えさせた。まさに Cultivation はカルチュアを生む源泉であった。農業の進展によって農器
具・貯蔵方法が開発され、さらにこれを相互に交換する第 3 次産業が発生した。これまでの
日本は稲作によるコメの自給が農業の原則で、これに若干の野菜額と魚介類とを加えて副食
物とした。やがて、社会・経済の発庭にともない、職人や商人があらわれ、その仲介の場とな
る定期市が開設されるようになり、資本主義経済の糸口にたどりついた。江戸時代には手作
業ではあるが、工場生産万式のマニファクチュアが成立し、それが今日の多くの地場産業の
基盤となっているものも多い。城下町の成立にともなって、近郊にはコメのほかに、販売を
目的とする野菜生産も行われるようになり、城下町と近郊農村との結節地点には、青果市場
が開設されるようになった。江戸時代には栽培技術も格段と進歩したが、その多くはコメの
増産を目的としたものであった。野菜生産でも、油紙を使用した促成栽培も始められるよう
になったが、1838 年の水野忠邦の天保の改革の際には、ぜいたく品の生産という理由で禁止
令が出たほどであった。このような、江戸時代の不自由な封建制のもとでは、野菜園芸の進
展も政治上から制約された。
やがて、文明開化の明治期に入ったが、当時はすでに 19 世紀の終りに近く、欧米の高度
化した資本主義社会の進展に目を奪われた明治政府は、さかんに文物を輸入し、政府主導の
もとで産業革命を推進しようとした。農業の基盤である農地も、明治初年の地租改正で表面
的には近代化されたものの、封建的な土地所有制度と年貢の物納はそのまま温存され、下層
の小作農民は重圧に苦しみながら農業の発展に努めた。洋式の農法や野菜の新品種も相つい
で導入されたが、いずれも上部からの指導と導入によるもので、これが「明治式農法」の発展
であった 1)。あたかもこの時期に養蚕業が台頭し、これと結合した製糸業が進展したが、そ
の労働力は『女工哀史』や『ああ野麦峠』を見るまでもなく、貧困な農村子女の苛酷で長時
間労働に支えられていた。農村社会にも貨幣経済が浸透し、農民も製糸業者も、海外の絹相
場に一喜一憂しながら獲得した労銀は、農家の生計を支えるとともに、当時としては貴重な
外貨の獲得であり、日本経済の資本の蓄積に貢献した。
やがて、大正期となり第 1 次世界大戦に突入すると工業は未旨有の発展をとげ好景気を招
来したが、戦後の不況によって当時の底の浅い日本経済はたちまち行き語った。ついで昭和
期に入ると世界大恐慌に直面し、
これが農村を直撃し、
養蚕業への打撃はとくに大きかった。
これによって桑畑は野菜畑や果樹園に代るなどの、土地利用の改変がなされた。しかし、政
府の努力にもかかわらず日本経済は好転する兆はなく、軍部主導による大陸政策の強行によ
って乗り切ることとした。その結果は、第 2 次世界大戦となり、戦時下では主食生産以外の
農業は、ほとんど不急不要のものとして栽培不可能の状態となった。しかも、大戦そのもの
が破局となり、多大の犠牲を代償として、新時代への転進を余儀なくきれた。戦後、連合軍
総司令部の指令により強行された農地改革は、
農地のいっそうの細分化を招来したけれども、
農民自身による新しい生産方式を開くこととなった。また、緊急開拓地として農地を開発し
た開拓農民の果した役割も大きかった。その後、日本の経済は曲折をみながらも進展し、1960
年代には高度成長期に入った。この時期に当って、日本の経済の進展に見合う農業を育成す
る目的で、1961 年に「農業基本法」が制定され、1966 年には野菜の生産と出荷の安定を目的
とした「野菜生産出荷安定法」が公布され、これにもとづいた施策や援助が行われた。わが国
の冷涼地のなかには、これらの諸制度を巧みに活用して輸送園芸としての基礎を固め、つい
に低暖地の野菜生産地との間に出荷期の季節分担がなされることとなった。こうして、施設
化と相まって、ほとんどすべての野菜の周年供給が可能となった。その後も多くの課題を内
包しながらも生産が進展し、これまで僻地といわれていた高冷地域に、目を見張るような大
規模な野菜主産地が形成されるに至った。
このように、経済の発展が起動力となって、環境諸条件の中から、栽培を可能とする要因
を引き出して活用する新しい生産形態が形成された。高冷地における野菜生育はその適例で
あるといえよう。この背後には生産活動を助成し、あるいは規制する政治的基盤がある。こ
れは農業の場合では農政であり、制度化されて農業活動を統制することとなる。ただし、こ
のような政治力は、とかく全国画一的に作用する傾向があり、それぞれの地域の実情や、個々
の農民の要望とは一致しないような場合も発生する。
農業の生産基盤は農地であり、それそれ個有の土地条件と気候条件を持ち、その地の農産
活動の基盤となっている。また、そこで農耕を営む農民側にも、 土地柄ともいうべき固有の
歴史的背景や住民性を背負い、自然環境と相まって地域的な特性、すなわち「地域性」を形成
している。農業をとりまく諸条件には、その土地の高度・位置・地盤・気侯・土壌、住民性など
のように、短い人生では、その変化が感知できないような息の長いものがあり、他方では、
気象条件や青果物の市場価格のように変動して止まないものとがある。この環境のなかで、
農民は農産物を生産し、出荷して需要者に供給し、これによって、自身の生計を維持してい
る。
上述のような視点によって、わが国における高冷地野菜の生産と流通を地理学の見地から
追究していく。また、高冷地で開発された栽培技術や新品副は、輸送手段の進展などととも
に、日本の野菜園芸全般に波及し、国民の消費生活にも大きな影響を及ぼしている。これら
の実態を調査して記録し、説明することを通して、日本の野菜園芸の発展の資料のひとつと
したいと考える。
(2) 現代社会の動向と野菜生産
第 2 次世界大戦後の日本の社会・経済の進展は、さまざまな過程をへて経済の高度成長を
つくり出し、やがて安定期に入った。高度成長の途上期では、大量生産による生産の合理化
が至上の指標とされていたが、
さらに進んで多品目・優良品の生産が要請される時代となった。
世上でいわれるように、
“重厚長大”の生産様式から“軽薄短小” に移行しようとしている。
農業生産でも、農業基本法で企図したような大規模生産万式から、消費者の多様化したニー
ズに即応するような方式、すなわち多品目の優良品の供給が要求されるようになった。これ
が、世界経済の動向によって、増幅され、あるいは制約される時代となった。すなわち、農
業基本法のねらいとした主産地形成は、同法の成立当時の時代の要請で、各種の生産助成を
拡充し、野菜生産もこれによって大規模化が進んだ 2)。経営の大規模化は大規模販売機構と
相まって巨大流通体系を形成した。大規模生産方式は、これまでは合理的で有利な手段では
あったけれども、現在のように、いちおう経済の高度成長が完了し、 国民の生活様式と価値
観が多面化した今では、必ずしもこれに対応できるものではなくなった。農業生産そのもの
も、単品目の大量生産によって生じた地力の低下が懸念され、他方では供給過剰によって、
市場価格の低落を招き、生産者を苦境に陥し入れる。また、生産者と消費者の中間に介在す
る流通形態も.大きな変化をみせ、末端の分野でも、量販店や大規模外食店が出現し、その資
本力と宣伝によって、生産者も消費者もその機構にくみ込まれていく。したがって、販売業
者も、より有利な特産的な農産品の開発につとめ、しかも包装・運搬・展示に適した生産品の
出荷を生産者に要求する。これに応じるための出荷団体である農業協同組合や各県の経済事
業農業協同組合連合会(経済連)でも販売体制の強化に努め、野菜の生産・流通が組織化され、
野菜も“管理化”される時代となった 3)。
しかし、いかなる場合でも、生産者費と流通経済を節減することが生産の原則であることに
変りはなく、そのためにも生産の立地条件の適否が課題となる。
しかしながら、農業生産品は生物の育成によって生成されるもので、無機物や化学薬品を原
材料とする重化学工業とは生産様式を異にしている。また、農産品の多くは食料品であり、
人の生命を支え、その活動のエネルギー源となる生活必需品である。したがって、その生育
には生物としての大自然の原則には違反することはできない。また、生産者も共同出荷体制
下にあるとはいえ、基本的には個々の農民とその家族であり、消費者はそれ以上に不特定多
数で、しかもその生産品は毎日間断なく消費される。したがって、その価格形成が不適当で
あり、流通が渋滞するようなことがあれば社会問題となる。したがって、その生産様式・流通
体系・価格の形成も、工業製品の場合とはかなり異なった形態をとっている 4)。
(3) 冷涼池型野菜園芸の成立
高冷地野菜は、原則的には冷涼な夏季の高地の冷涼気候を利用したもので、この気候に適
応した農産品を夏季に供給するという、風土産業としての起原を有する 5)。しかも、社会・
経済の発展によって誘発された新しい輸送園芸で、かつては見捨られていた隔絶山村地域に
大規模な野菜生産地城が形成され、
これによってその地域の経済性や生活様式・価値判断を一
変させた。こうして、高冷地園芸は、低暖地図芸に相い対するものとなり、その生産技術と
輸送万式は、
一般の輸送園芸に大きな影轡を与え、
その輪送技術の先鱗となったものも多い。
高冷地における野菜は当初から商品作物を目的としたもので、自給的生産や都市近郊型から
進展した低地の野菜生産とは、異なった発展の過程をたどってきた。まさに、これは日本の
経済・社会の発展に対応し、それと歩調を合わせた生産形態で、新しい栽培技術と大規模経営
による機械化を進め、まさに農業基本法の企図した農業の優等生であった。しかし、この方
式も、いまでは転機に直面している。すなわち、連作による連作障害が頭在化するとともに、
生産地相互の競合が激化した。したがって、大資本による合理化した工業生産品には見られ
ないような価格の乱高下に翻ろうされることとなる。しかも、生物育成の産業であるため、
生産調整や生産者による価格調整が困難である。いずれにしても、野菜生産は基本的には農
地が基盤であり、その成育を促進させ、収穫するための環境条件と労働力を欠くことはでき
ない。
冷涼地野菜の生産条件として、その産地と市場との距離や位置関係、冷涼な夏季の気候条
件、緩い傾斜でかつ広い農用地の存在、土壌条件などの要因は、野菜生産を営み得るための
可能性(possibility)を与えるものである。また、この可能性を引き出す側の農民も、その地域
の個有の歴史的背景・住民性を背負っている。野菜の生産には、このような基礎条件を基盤と
しながら、絶えず変動してやまない気象条件や市場の影響を受けて一喜一憂し、生産が促進
されたり制約されたりする。
今日のように管理化された社会では農民側も組織化され、
また、
生産を推進するためのすぐれた指導者の存在も重要な条件である。これらの指導者は見識の
高い篤農家の場合もあり、熱意を待った自治体や農協などの職員の場合もある。農村社会も
複雑となり生産方式も多様化した時代では、
農業指導者は単なるリーダーであるだけでなく、
地域農業のオルガナィザーとしての見識と手腕を必要とし、成果をあげている野菜生産地の
背後には、このような指導者の活動がある。
2 野菜生産からみた高冷地
(1) 高距・緯度差と気温・植生
周知のように高距に伴なった気温の逓減は、100m につき 0.55℃である。したがって、低
地が炎暑に悩む盛夏でも、高度が 1、000m を超える高地では、30℃を超えることは少ない。
標高 942m の軽井沢の 8 月の平均気温は 20.6℃で、東京の 26.7C に比較すると 6℃以上も低
温で、札幌の 21.7℃よりも低い。ここよりもさらに標高の高い 1、000m 以上の高冷野菜の
主産地では、すでに稲作の限界上に相当し、北海道の十勝または梶釧平野にも匹敵する。こ
うした高地の夏季は冷涼で、まことに快適ではあるけれども、その期間は短い。逆に冬期は
厳寒で、時にはー20℃を下まわることもあり、野外の農作業は休止を余儀なくされる。
高地の夏季は冷涼ではあるが、晴天の昼間は日射や紫外線が強く、かなりの高温となる。
しかし、日較差が大きく日没とともに気温は急激に低下し、盛夏でも、
“熱帯夜”となること
はない。この夜間の低温は野菜の病虫害の被害を少なくし、かつ、早朝に発生する濃霧は葉
菜類の食味をよくする効果がある。
気温の逓減は、高距によるもののほかに、緯度にも関係している。北半球の中緯度では平
均して、緯度 2 度について 1.4℃の気温差がある。したがって、本州中央部と北海道中央部
との間には 8 度の緯度差があり、6℃に違い気温差が生ずる。このようにして、単純に計算
すれば本州中央部の 1、000m の高地の気温は、北緯 40 度の岩手県北部の、ほぼ 500m の
高さの地点の気温に該当し、北海道ではこれが海岸部の低地に相当する。こうした気温差は
植生に反映し、本州中央地区では、ほぼ 1、500m 以上の高地が針葉樹林帯となり、700m 以
上が温帯針葉混合林で、それ以下が隣帯混合林となる。これも高緯度となるにしたがって低
下し、東北の山地地域や北海道全域が温帯混合林帯となる。緯度にともなう植相の推移は、
すでに本多静六によって提唱され、温帯落葉樹はブナによって代表されるとした 6)。鈴木国
夫も林相が人為的に改変される以前の日本の原始的林相を、常緑広葉樹林帯・落葉広葉樹林
帯・亜高山性亜寒林および高山性寒帯性倭小針葉樹林帯に分け、
常緑広葉樹林は琉球および九
州・中国・本州南西部一帯に、落葉広葉樹林帯は本州では信州や東北地方に、亜熱帯性針葉樹
林は本州の山岳地帯や北海道に分布していることを図示している 7)。
常緑広葉樹林地帯は、早くから日本人の活動の主要舞台であったが、近年では在来の自然
林はほとんど消滅し、落葉広葉樹を含む 2 次的植生によって置き換えられた所が多い。これ
に対応する本州中央山地地域や東北の冷涼地でも、かつてブナやミズナラなどの落葉広葉樹
の自然林が主であったけれども、現在ではスギ・ヒノキなどの有用材の人工針葉樹林となり、
既存のブナなどの自然林は保存林として保護する必要が提唱されるような状態となった。
高地の冷涼性を利用した夏季野菜の主産地は、この地域のなかで、しかも大規模な耕地造
成が可能な地域に形成されている。このような日本における冷涼地帯は、世界または日本の
広域からみた場合、どのような気候区分城に該当するものであろうか。
(2) 気候区分からみた冷涼地域
これまで、世界の気候区分は、多くの学者がこれを試みている。そのなかで・植生と気候と
を結合させたものに、W.ケッペンの気候区分がある。この区分は純粋な気候条件そのものを
対象としたものではないので、批判も多く、かつこれを大陸東岸および冷涼地域に澄用する
には頃雑にすぎる。また、気候区分の対象を、植生の最低気温を基準としたものであり、最
高上限気温には適用することができない。このような難点があるけれども、一般的なものと
して広く採用され、高等学校などの地理教科書もこれを区分の基準にしている。そこで、本
書でもこれに従って、日本の冷涼地帯は、ケッペンの気候区分ではどのような区分城に該当
するかを検討してみたい。日本の中枢地帯を含む南西日本の低暖地域は常緑広葉樹林帯で、
夏季は熱帯なみの高温となるため、Cfa の記号で表現され、大陸東岸に顕著にみられるモン
スーン気候の地域に該当する。これに対し、本州中央の山地地帯や東北・北海道では冬は厳寒
で、夏季は冷涼のために Dfb の記号で表記される地域が多い。ケッペンのいう暖帯と冷帯、
すなわち記号の C と D との区分線は、最寒月の平均気温がー3℃であり、冷帯の D の地域で
は普通積雪が根雪となる。また、夏季の最暖月の平均気温を表示する小文字の a と b との境
界線は 22℃である。したがって a の地域では夏が高温のため冬型の冷涼型野菜では高温障害
を起すこととなる。したがって最暖月の平均気温が 22℃以下であれば、冷涼性作物の夏季に
おける栽培が安定となる目標とすることができる。この記号の小文字の「f」は日本のように乾
期が明瞭でない湿潤な地域を示す記号である。冬季が厳寒とならないような地域では Cfb の
気候区分となるけれども、日本国内でこれに該当する地域は少なく、世界的には西ヨーロッ
パなどのような大陸西岸域に広く出現する。
日本の中央高地帯にケッぺンの区分を適用すると、Dfb の地域となり、高度がほぼ 1、000m
を超えるところとなる。すなわち、長野県の菅平や南佐久郡川上村・南牧村および群馬県の嬬
恋村に代表されるような冷涼野菜の主産地は Dfb の地域に該当し、ここでは冬は厳寒である
が夏は冷涼で、軟弱な冷涼型野菜の夏季栽培が可能である。これよりも若干高度の低い中央
日本の諸盆地では Dfa、Cfa などの記号に該当する地帯となるので、一律にケッベン記号を
適用することは煩雑となる。しかし、最暖月の平均気温の a、b の分界線は、後に述べるよ
うな盛夏における冷涼作物の栽培目標として重要な意味を持つものということができる。
次に、日本列島を単位とした狭城の気候区分については、福井英一郎(1933)・関口武(1959).
鈴木秀夫(1962)・前島郁夫(1967)の各氏のほか、稲作栽培環境から見た内島善兵衛(1962)など
の諸氏によって数多くの試案が示されている。その多くの場合、中央日本の地域では、表日
本型と裏日本型に区分し、内陸部はその中間地帯として、中部内陸気候区を設定している。
しかし、地形が複雑で垂直的にも変化の著しいこの山岳地域の気候は多様で、単純に気候区
を設定することは困難である。とくに内陸の諸盆地では気温の年鮫差・日鮫差が大きく、比較
的雨が少なく、山岳地帯とは様相を異にしている。
(3) 高垣と農業
高距にともない気温・値相が推移するのと同様に、農業地域も垂直的に変化し、この状況は
熱帯・亜熱帯の高山地域ではとくに顕著である。この地域でも標高の高い地域は冷涼であり、
そこが高原状地形であれば都市が発達し農耕地が展開する。たとえばメキシコのオリザバ山
(5、699m)の斜面の植生と農作物をみると、500m 以下の低地では、ゴム・バナナなどの湿潤
性熱帯作物が栽培きれているが、それ以上になるとコーヒー・カカオ・コメが作付けされる。
さらに、1、500m 以上の高地では、カッサバ・コムギ・トウモロコシ・豆類・リンゴなどの穀物
帯・果樹帯となる。これよりも高い 3、000m 以上では森林帯となり、一部にはコムギが作付
けされる。4、500m までは牧野帯、それを超えると寒帯と同様な氷雪地帯となる 6)。これ
と同様な条件で、
アンデスやエチオピア高原では温帯性作物が栽培され、
高原都市が成立し、
南アメリカではインカの文明が栄えた。このような熱帯高原では野菜と果樹の周年塔栽もな
されている 9)。現在のように、熱帯・亜熱帯地域における住民の生活水準の向上と大都市の
形成にともなって、このような熱帯の高地にも輸送園芸地帯が形成されるようになった。香
港では大量の野菜が中国本土の高地から入荷し、ベトナムのホーチミン市では北東の 1、
000m 内外の高地からキャベツが輸送されているという 10)。また、日本列島弧の南端に位
置し、経済の発展の顕著な台湾ではさまざまなタイプの農業が経営されている 11)。台湾中
央部は 3、000m を超える高山城で、その周辺には特色のある高冷地型農業が展開している。
1956 年に着工し 1960 年に完工した台中と花蓮とを結ぶ東西横貫公路の中央部に相当する
梨山地域は、2,000m を超える高地で、盛夏の 7 月の平均気温は 20℃以下となり、高冷地型
の野菜と温帯型落葉果樹が栽培されている。このあたりはかつて「蕃界」とよばれ、山地人が
焼畑農業を営んでいたところであるが、ここに公営農場が開かれ、しかも横貫公路の開通に
ともなって、一転して輸送園芸地帯となった。日本の 1、000m を超える高地の野菜園芸地
域では、低温期が長いため、果樹や果菜の成育が阻害され、藁菜類の単作地帯となっている
ところが多いけれども、梨山の 1 月の平均気温は 6℃であるため、温帯果樹の成育が可能で
12)、夏キャベツ・ハクサイ・ブロッコリの葉菜畑と、日本から導入したリンゴ・ナシ・モモの果
樹園とが共存している 13)。台湾の高地農業は熱帯と温帯の日本の高地農業の間の漸移的な
亜熱帯の特色を持っている。
日本の中枢である大都市地帯の夏は炎暑のため、この時期における冷涼作物の作付けは不
可能に近い。しかし、これに近接する中部山岳地帯は夏が冷涼であり、暖地型とは出荷期を
異にする輸送園芸が可能である。これに対して、西ヨーロッパやアメリカ合衆国北東部のよ
うな経済の先進地帯は、Cfb または Dfb の冷涼地であるため、冷涼作物の輸送園芸はその必
要がなく、
オランダなどでは夏季ですら、
トマトの加温栽培を行っているような状況である。
そのかわりに、暖地型輸送園芸の発達は顕著で、北西ヨーロッパではアフリカの地中海沿岸
地域、合衆国ではカリフォルニア・フロリダにおいて大規模な輸送園芸がなされ、大型保冷車
や船舶利用による大量・高速で、かつ遠距離輸送がなされている。日本は国土が狭小ではある
けれども、暖地型・冷涼地型の両者の輸送園芸地帯が併存する世界でも数少ない地域である。
(4) 日本にあげる高知の地理学的研究
日本における高地型冷涼地域の諸相を、地理学の視点から追究したものは多い。日本の高
冷地を多面的に把握して多くの成果を発表した市川健夫は、1966 年にこれを「高冷地の地理
学」として集成した。このなかで、高距地は人間活動の限界に近い地域ではあるが、その不利
な条件を克服するために人間の能力が最大限に発揮されるところであるといい、このような
努力が、日本の農業に及ぼした影響を述べている。本書のなかでは、日本の中央高冷地を経
済の発展段階に応じて類型化を行った。すなわち、原始的自給農業型・自給的混合農業型.集
約的自給主穀型・商業的主穀農業型・穀桑式農業型・自由式遠郊農業型・商業的混合農業型・主
業的酪農型・企業的酪農型とし、それぞれに該当する地域の土地利用・農業経営の特色などに
論及している 15)。この類型のなかで、高冷地野菜園芸の段階に相当するものは、自由式遠
郊農業と商業的混合農業の 2 つのタィプで、前者に該当するものに菅平・川上村・富士見高原
を、後者は野辺山高原のように野菜生産と酪農経営を複合させたものがあることを指摘して
いる。しかし今日では、どの高冷地でも近代化が進展しているので、この類型も再検討の時
期に相当するように思われる。
このほかに、高冷地域を居住環境の視点から説述したものに、山口源吾の「高距限界集落」
があり、このなかに「高距野菜園芸集落」の項目がある 16)。高冷地農村のなかには、これま
でのような農法をそのまま踏襲した主穀農業生産方式では、生産性の向上が望めなかったた
めに、経済の成長から取り残されたものと、戦後の日本人の食生活の変化に応じるために、
その土地条件に適応させた新しい農業経営を推進したものとがあるとし、このような新しい
経営を指向したものには、在来の集落から発展したものと、戦後の開拓地から進展したもの
とがある。新しい開拓地には、野辺山や岐阜県高根村の留之原開拓地・群馬県嬬恋村の開拓地
などがあり、酪農開拓集落としては、山梨県高丘村柳平や、諏訪市霧ケ峯蛇こつ原がある。
また、既存の農村から進展したものとして諏訪の原村の玉川地区などをとりあげ、ここでは
養蚕の衰退と内陸工業の発展にともなって、キャベツ・セルリー・レタスなどの野菜が、イネ
とともに栽培されている。この書のなかで、開拓村は在来村に比較すると生産力が低いと思
われるような記述があるけれども、現在ではどのようであろうか。このように、その地域の
基盤となる社会環境の相違によって、
生産形態と生産規模が異なっていることに注目したい。
開拓地のなかには、開拓に失敗し離散したところも多いけれども、既存の慣行などに制約さ
れることがなく、先進的で生産力の高い企業的農業を発展させたものも多い。この書物の第
2 篇のモノグラフのなかに、「干曲川上流川上村における生活態様の変貌」の項目がある…。
現在・川上村は典型的な高冷地野菜村として知られているが、
かつては稲作をともなった林業
と養蚕の村であった。これが戦後ハクサイを王とする園芸村として変貌し、村民の生活様式
を一変させたことを述べている。現在、川上村は夏レタスを基幹作物とする野菜園芸村とな
り、かつての水田はほとんど野菜畑に転換した。
また、高冷地を人口の視点から論述したものに小林寛義の論文がある 18)。これによると、
居住の上限は、ほぼ農耕限界と一致し、火山性高原地域は、飛騨・赤石・木曽などの山岳地帯
よりも居住と農業の限界が高い。さらに、これらの山岳地帯に介在する諸盆地の人口密度が
高いことにも言及している。上述の著作や論文も、高地における野菜園芸にも触れてはいる
が、高冷地における農業の発達段階・居住環境・人口などに視点をおいたもので、高冷地図芸
そのものを主題としたものではない。当時では、高冷地における野菜園芸農業の成立の日が
浅く、生産規模もそれほど大きくなかったために、高冷地研究の大きな視点となり得なかっ
たものと思われる。
戦前、信州の中学校の地理教師として、地理学界・教育界に大きな影響を与えたのは三沢勝
衛であった。三沢は大地の表面と大気の底面の接触するところを一大化合体とみなし、これ
を「風土」とした独特の風土論を展開した。
この風土論は気候・気象・地質・地形・陸水・動植物な
どの諸条件を、あらゆる角度から入念な観察と調査によって導き出した結論であり、このよ
うな周到な観察と現地調査の実践を基礎とした研究法は、
今日でも地理学界・教育界に多くの
共感を与えている。こうした風土によって育成されたものが「風土産業」であり 19)、信州の
低温を利用した生産品として、ジャガイモ・テンサイ・フリージャ・ウメ・マツタケ・リンゴ・早
漬けダイコン・ムギなどをあげている。このような生産品も、今日のような大規模な高冷地型
輸送園芸が成立する以前の状態を示すものである。
しかし、
近代的な高冷地型野菜生産でも、
その基盤となっているものは、このような「風土」である。今日では、市場での有利性が望め
るものであるならば、高度化した施設園芸のように「風土」を無視したような生産も可能とな
ったけれども、大量でかつ広大な農地を必要とするような大衆野菜の場合では.今日でも露地
栽培が主であるために、
自然環境の適否は重要な課題である。
したがって三沢の「風土論」は、
いまもなお多くの示唆を与えている。
このような視点を拡充し、科学的な地域観を持った田中啓爾の中央日本に関連する諸論文
は、これまでにおける地域研究の規範であった 20)。また、戦前における飛騨の奥山中・信濃
の奥木曽の高冷山村地域の土地利用については、上野福男によって数多くの調査報告がなさ
れたが、
これを総括したものが農林省農業技術研究所報告の「高冷地域における山村の土地利
用に関する研究」であった血。
この研究報告は当時の山村の状況を克明に知り得ることができ
るばかりでなく、山村調査の手段や方法をも示唆するものであった。これを新しい視点で書
き直したものが「高冷山村の土地利用の秩序」である 22)。
このほか、戦前の高冷地の地域研究例として、桝田一二の菅平における報告がある。これ
によると菅平では、
当時すでにキャベツ・ハクサイの夏季栽培が輸送園芸として行われていた
ことを述べている 23)。
高冷地域の研究は、これ以外にも数多くの報告がなされているけれども、これを単行書と
して総括したものはそれほど多くはない。
そのなかで、
高冷山村における事例研究として、
「御
岳乗鞍周辺の地理」がある 24)。本書は愛知・岐阜に在勤する 11 名の高校教師が、上野の指導
のもとで行った研究調査の結果を総括したものである。この調査報告は、この地域が技術革
新によって変貌する直前の状況を調査し記録したモノグラフで、その序文で上野は次のよう
に述べている。高冷地域の研究には、高度差にもとづいて、その地域性・地域格差・土地利用
の形態を調査する要があり、これはその地域の水平的関係や距離を検討する以上に重要であ
る。さらに、その地域の将来性をも考察することは、現在の状況を説明するのにも劣らない
重要性を持つものである、として、山地地域の研究には、つねに高距を念頭においた前向き
の視点が必要なことを述べている 25)。本書では研究地域の地誌的叙述につづいて、その各
論として、対象地域の稲作・高冷地野菜の生産・高原牧場の利用と畜産・林産・大規模ダムの建
設・レクリエーションランドとしての利用などの諸課題をとりあげて地域の現状分析を行い、
これが目下進行中の技術改新によって、どのように再編成されようとしているかを論述して
いる。このなかの「高冷地野菜の生産」の項目では、木曽郡開田村におけるハクサイ・レタスの
夏季栽培の状況をとりあげ、その生産が開田村の産業の首位となり、これが本村ばかりでな
く近接地域にも波及し、その村の産業・経済に変革を招来していることを述べている 26)。
また、高冷地域を文化論の見地から縞著したものに、市川健夫らの「日本のブナ帯文化」が
ありの、この用語は中尾佐助の提唱した照葉樹林文化論 28)29)に対応させたものである。中
尾らの照葉樹林文化論は、日本の低暖地には照葉樹の常緑広葉樹林が卓越し、これを基盤と
して発展した文化に対して名づけられたものである。照葉文化圏は海洋や国境を超えて、日
本から東南アジアの各地に及び、この地域の栽培作物・生活様式・文化構造などに共通項が多
いことから、このような文化圏を提唱したものであった。これに対応する視点で編著ざれた
「日本のブナ帯文化」では、日本の冷涼地は落葉広葉樹林帯で、その基幹樹木がブナであると
し、そひこは西南日本の暖帯文化とは趣を異にした森林を基盤とする文化様式が形成されて
いると論じている。このような植生を基盤とした文化の深層構造は、その中心地域ではその
現象が明瞭であるけれども、周辺部ではいくつもの移行現象があらわれている。本書のなか
でも「ブナ帯における夏野菜の発展」の項目を設け、日本の中央高地ばかりでなく東北日本・
九州中央山地などにおける野菜生産地は、このようなブナ帯文化圏のなかに形成されている
という 30)。高度化した経済社会のなかで形成されたわが国の高冷地型輸送園芸は、その地
域の森林を基盤とした文化の深層と、
どのような結合関係がみられるのであろうか。
しかし、
今日ではブナなどの自然林は、ほとんどスギやヒノキなどのような収益を目的とする人工経
済林に転換したが、このような人工林地は一般に水源函養量に乏しく土壌浸食が進むととも
に、倒木が多くなるなどの 2 次的要因による環境の変化が誘発されるようになった。なお、
W.ケッペンは西ヨーロッパなどに普通にみられる冷涼で、年較差の小さい大陸西岸性気侯
(Cfb)に対し“ブナ気侯”の名を与えているが、東洋と西洋とは文化の基盤を異にするため、
ケッペンのブナ気候と日本におけるブナ帯文化とは、どのような関連があるのだろうか。
(5) 高冷池の概念
これまで本書では、「高冷地」の用語の概念を規定しないままで使用してきた。「高冷地」の
用語は「高原」などと同様に人によって概念が異なり、観光業者などによって安易に使用され
ている場合が多い。しかし、野菜生産の対象として高地農業を考える場合にはその概念を明
確にしておく必要がある。このような概念規定は、関係諸地域の調査の結論として帰納的に
誘導されるものであるが、広範囲にわたる調査の効率を高めるためには、すでに調査して知
り得た典型的な地域における共通項と、植物の生体としての栽培条件との特性を指標として
結合させ、これを他の地域に及ぼす演繹的手法が必要と考える。すなわち、冷涼性野菜品目
の盛夏における栽培を可能とする自然的条件と、
栽培植物の固有の成育環境とを重ね合わせ、
わが国の中央冷涼地の主産地にこれを冷涼地野菜の栽培基準とした。
生体である野菜は人類の場合と同様に、極端な暑さと寒さには弱い。とくに低地における
冷涼性作物の夏季栽培では、高温障害が発生するため、このような障害の少ない冷涼地域に
適地を選択する必要がある。軟弱葉菜類の成育には最暖月の平均気温が、ほぼ 22℃~23℃以
下の地域がこの条件に合致し、本州の中央高地城は、ほぼこの条件を満たしている。
①高冷地
本州の中央部を東西に通る北緯36度を基準としてみた場合、
最暖月8月の平均気温の22℃
の等温線は、ほぼ 1、000m の等高線と一致する。したがって、冷涼野菜生産の見地からみ
ると、最暖月の平均気温が 22℃を超えないところ、すなわち本州中央部では 1、000m 以上
の高地を「高冷地」と規定することにした。しかし、高緯度地方に向うに従って、この基準高
度は低下し、岩手県では 500m となり、北海道では海岸低地にまで下る。したがって、北海
道は、野菜生産の立地点の見地から「高冷地」の用語は不適当といえる。近年、農林水産省で
は、このような冷涼地を一括して「寒冷地」と総称しているけれども、日本の中央高地では高
距によって、作物の垂直的作付体系が形成されているので、いちおう北海道とは区別して考
えることとしたい。北海道では海岸低地でも冷涼で、気候の水平的地域差が大きいのに対し
て本州中央高冷地では、垂直的な変化が大きい。一般的にみれば、北海道の低地は、本州中
央高冷地に比較して、冬季は寒冷で日照時間が短いけれども、夏季は日照時間が長く野菜生
産には有利である。しかし、これまで、わが国の大都市消費市場には遠距離のため、輸送時
間の長い軟弱野菜類の輸送には難点があった。
本州中央高冷地は、ほぼ水稲の上限界線の上にある。無霜期間は 100~130 日で、植物の
成育期間には制約があり、ここでは中央日本の各地で普遍的にみられる竹林がなく、柿の木
も見当らない。農作物でも適応する作付品目が少なく、果樹類や果菜類の経済的生産はなさ
れていない。したがって、短期間で収穫が可能な葉菜類の適地で、しかも、これまで従来は
1 年 1 作が普通で単品生産がなされていた。しかし、栽培技術の革新の結果、このような制
約は次第に小さくなった。わが国の高冷野菜の主産地である群馬県の嬬恋村、長野県真田町
の菅平地区、同南佐久郡の川上村・南牧村は、こうした条件のもとで、これまで夏季出荷のキ
ャベツ・ハクサイ・レタスの独占的な有利性を保持していた。これらの主産地は広大な農地造
成の基盤は平坦地また緩い綾傾斜面で、火山の裾野高原、旧湖盆、段丘面である。
しかし、一般に 1、000m を超える地域は地形が急峻で、農地造成が困難なところが多い
けれども、前述のような主産地では、大規模な農地を造成の可能な高原状の地を選択してい
る。したがって、その主産地は相互に離れて形成されるため、西南日本の暖地図芸地帯でみ
られるような連続してベルト状に耕地を展開するところは少ない。土壌は火山灰士の酸性土
壌のところが多く、土壌条件には恵まれていない場合が多いが、前述の気候と地形を活用す
ることによって、一大葉茎菜類の主産地を形成することができた。しかし、作品目が限定さ
れ、多年にわたる連作が地力の劣化を招来しつつある。
②準高冷池
本州の中央地区でも、高度が 1、000m 以下になると、軟弱葉茎菜額の盛夏栽培には、や
や不安をともなう。しかし、作物の生育期間が長くなり、野菜でも夏秋型の果菜類を含めた
すべての生産が可能となり、しかも、低暖地が高温のため生育に支障のある場合でも、ここ
では抑制型の優良品の生産が可能となり、他方では優良な水田が展開する。これに果樹や花
きの生産が加わって土地利用は多彩である。このような地域を「準高冷地」とし、本州中央高
地では、その上限を 1、000m とし、下限は最寒月の平均気温が 0℃以下となる地域とした。
最寒月平均が 0℃以下になると冬季は農地が凍結し、露地における農耕作業が困難となる。
この下限線を本州中央部でみると、ほぼ 500m の高度に相当する。そこで、漸移地帯を容認
したうえで 500m~1、000m の地域を準高冷地とした。中央日本の高地地域に介在する多く
の構造諸盆地はこれに相当する。ここでは人口密度も高くなり、農業経営が多彩となるけれ
ども、開拓地を除いては経営規模が小さい。準高冷地の盆地群では市街化が発達し、付加価
値の高い内陸型の工業化が進んでいるので、農業でこれに対応し得る価値の高い優良品の生
産が望まれる。東北地方では海岸平野でも、準高冷地型の農業を営んでいる。
③低暖地
中央日本では 500m 以下の低地がこれに相当し わが国の農地の大部分もここにある。周
年の農作業が可能で作付けは多彩であるけれども、盛夏の野菜栽培には難点がある。大都市
近郊では都市型の農業経営がなされ、西南日本の太平洋臨海地域には暖地図芸地帯が形成さ
れ、施設化と相まって果菜類や花きの周年供給がなされている。
1
高冷地野菜の生産環境
(1) 野菜園芸の特色
一般に農業は、近代化された先進工業に比較すれば生産性が低い。しかし、その生産品の
多くは人命を支える食料品である。これまでの日本は社会・経済・国家体制は、稲作を基盤と
して形成された。野菜額はコメほどではないけれども、生活必需品であることには変りはな
く、その育成と流通のためには、さまざまな対策が講せられた。この間に無意識的に、ある
いは意識的に選抜と採種の改良がくり返され、いくつもの新品目・新品種が育成された。しか
し、その原種はほとんどが海外から伝播したもので、長年月の間に日本の風土に適応した。
野菜は永年作物である果樹類などとは異なり、大部分が 1 年生または多年生の草本で、短期
間に成育し収穫することができる。したがって、条件さえ整っていれば、いつ、どこでも比
較的容易に作付けが可能で、しかも、選抜や品種の改良も短期間に進めることができる。ま
た、栽培に必要な資本投下も少なく、商品化が容易である。しかし、野菜の生育は、厳格に
管理された施設園芸は別として、つねに気候・天候に支配され、時には不測の被害を受けるこ
とが多い。高冷地における突然の降電の被害などはその例である。また、基本的には生産者
である農家が零細であるうえ、消費者もそれ以上に不特定多数で、新鮮なものが間断なく消
費されるため、大資本によって製造される工産品とは、異なった流通形態と価格形成がなさ
れる。そのうえ、青果物は新鮮であることが商品価格を左右するため、多量のストックを抱
えることができない。すなわち、流通にも弾力性に乏しい。
これまでのように、輸送手段がほとんど人力や畜力に依存していた当時では、輸送距離に
限度があり、日本の都市の近郊でも、かつてはチューネンの想定したような近郊野菜園が形
成されていた 31)32)。ところが日本では、第 1 次大戦後から鉄道による新しい輸送体系が生
まれ、暖地でも高冷地でも、採算さえとれるならば、とこにでも産地が形成され、
“遠郊農業”
と呼ぶのにふさわしい商業的農業地帯が形成された。このような遠隔産地における野菜生産
は第 2 次世界大戦中の中断期を経過して、戦後急速に発展した 33)。経済と交通の発達によ
って野菜供給圏はさらに拡大するとともに、他方では工業化・都市化の進展にともなって、巨
大都市圏への人口集中が加速した。その結果、近郊農業圏では耕地の潰廃や減少がつづき、
農業労働力の不足と相まって、近郊の野菜生産は停迷、衰退を余儀なくされた。こうして輸
送園芸が一般化したため、日本では「近郊農業」・「遠郊農業」の用語は、すでに死語となった意
がある。こうして、大都市の従来の野菜供給圏は、その外縁部に押し出されたような位置に
配列するようになった。そして、千葉県が全国の野菜生産の首位となり、茨城県・神奈川県・
埼玉県のほか、高冷地野菜主産県の群馬・長野もこれに組み込まれるに至った。千葉県でもこ
れまで市川などの東京近郊に生産の核心があったが、両総用水事業の整備などと相まって、
県の東部が主産地となった 34)。名古屋圏でも溝尾平野の既存の野菜生産が伸びなやみの状
態であるのに対し、豊橋周辺や渥美などの東三河の生産が拡大し、全国的な大産地に発展し
た。この場合でも、豊川用水の受益が生産の安定と拡大に果した役割が大きい。京阪神圏で
も泉南地区・淡路島・香川県・徳島県の遠隔地に生産圏が拡大した。
このような大都市における野菜供給圏の遠心的拡大は、坂本英夫の「野菜生産の立地移動」
の主題となっている 35)。今日の高冷地野菜の主産地である本州中央高冷地は、かつては僻
遠の地であったが、現在では首都圏ばかりでなく、名古屋圏・京阪神圏の外縁に相当する位置
に組み込まれた。
これらの大都市圏がさらに拡大して、
相互に相接するようになった状態は、
その形態からみて、合衆国の大西洋岸の大都市城の、いわゆるメガロポリスに相似するもの
として糊、
“東海道メガロポリス"の名辞が一般化した。したがって、本州中央高冷地におけ
る夏野菜供給地は、この東海道メガロポリスの外縁部に包含される形となった。しかし、合
衆国東北部のメガロポリスとわが国の東海道メガロポリスとは質的にはかなりの相異がある
ので、単純に対比することはできない。すなわち、合衆国の北東のボストンからニューヨー
ク、ボルチモアを経てワシントンにいたる地域は世界の経済活動の中心地帯で、その緯度は
北緯 39 度~46 度の 5 度にわたり、わが国の岩手県から北海道中部地域に当たる。ここは冷
涼地帯のため、東海道メガロポリスのような冷涼野菜の遠隔輸送園芸はその必要はない。合
衆国のメガロポリスの背後のアパラチアの山地・丘陵地は林野を主とする放牧地で、
その間の
ところどころにレクリェーショナルな土地利用がなされているのにすぎない。また、イギリ
スのイングランドやウェールズの地域の野菜栽培をみると、大衆野菜のキャベツは、ほとん
ど全域で栽培され、レタスもほぼこれに近い分布となっているが、とくにロンドンやマンチ
ェスターなどの大都市圏周辺部に作付け密度が高い。これに対して、セルリーやアスパラガ
スは特産的な嶺向があり、特定の地域に作付けが集中している。セルリーはロンドン北方の
ノーホーク州南西部やケンブリッジ州の一部のほか、マンチェスターやリバプールの周辺部
に多い。アスパラガスも、ほぼセルリーと同様の分布を示し、ロンドン北方を主産地とし、
このほかバーミンガム周辺のミッドランドでも栽培されている。イギリスの野菜主産地は、
ほぼ北緯 51~54 度の高緯度にあり、山地・丘陵地の多いウェールズでは野菜生産が少なく、
土地利用も粗放的で主として畜産地域となっている 37)。
わが国の中枢地帯の東海道メガロポリスは北緯 34~36 度、すなわち緯度差は 2 度にすぎ
ず、盛夏は熱帯なみの炎暑となり、冷涼性軟弱野菜の夏季栽培は不可能に近い。このような
環境のもとで、その外縁に相当する本州中央高冷地域の適地に高冷地型輸送園芸を成立させ
た。
(2) 野菜の生産季節
すべて野菜には、それぞれ季節や環境による特有の対応性がみられる。隣地性のものや冷
涼性のものがあり、好湿性のものもあれば過湿を嫌うものもある。こうした野菜の環境に対
する適応性は、その原産地における自然環境のもとで形成され、受けつがれたものである。
また、開花にも短日性のもの、長日性のものなどがあって、それぞれ個有の開花期や結実期
を持っている。このほか、野菜の葉茎部・果実・根部など、利用部位によって、それぞれ個有
の収穫適期をもっていろ。これは、野菜固有の植物体としての基本的な生育の原則で、施設
化や品種改良などによって、変化させることは可能であるにしても気懐・地形.土壌などの自
然環境と同様に、野産生産に可能性を与えるものである。したがって、収穫適期には大量生
産がなされるけれども、これはやがて価格の低落を招来する。これを避けるために出荷を平
準化し、長期化するためにも播種期や移植期を調整する必要がある。そこで、施設化によっ
て、許容される範囲内で人為的に環境を改変し、出荷期を拡大し、より有利な販売戦略を策
定している。
軟弱な葉菜類の低温地における収穫の適期は、冬を越した早春で、ダィコンなどの提案類
もこれに加わる。これらは普通、晩秋に播種して越冬させ、春季に未成熟なものを収穫して
供用するものが多い。晩春から初夏にかけてはバレィショ・イチゴ・エンドウの季節となり、
夏から秋にかけては多様な果菜類が成熟し味覚の季節となる。日本の四季は、その季節に応
じて多彩な野菜品目がみられ、かつては収穫の初期のものが、初物として珍重がられた。し
たがって、出荷期を前進させることが販売に有利で、すでに戦前から、西南日本の暖海地帯
では、温暖な気候と地形を巧みに利用した促成栽培がなされてきた。静岡県久能山のイチゴ
の石垣栽培はその適例であり 38)、愛知県渥美半島におけるサヤエンドウや花きの生産柵、
外房州の花きやサヤエンドウの生産伽、南朗豆における花の栽培など川、数多くの研究例が
あり、早くから暖地型輸送園芸地帯が形成されていた。
戦後、高知県・宮崎県などでは、これを施設化して、キュウリ・トマト・ピーマン・メロン・
スイカなどの夏型果菜類の早期出荷がなされ、さらに進めて周年供給を可能にした。愛知県
の渥美半島でも、メロンが電照菊とともに温室内で栽培され、トマトも周年出荷がなされて
いる。このように、従来の夏秋出荷品は施設化し、さらに加温によって周年供給がなされる
ようになった。しかし、冬春型の葉菜類・果菜類では、これを夏期に出荷のための、冷房など
の施設化は現在では、採算に問題があるため、夏季に冷涼な高冷地や東北・北海道の冷涼気候
を利用することによって、露地栽培による周年供給を可能とした。
冷涼地型野菜園芸は暖地型園芸と比較すると、多くの特色がみられる。栽培期間が夏に限
られ・キャベツ・ハクサイ・レタスなどの冷涼野菜が、ダイコン・ニンジンなどの冬型根菜類が
大衆野菜として、路地で大量に生産され出荷され、栽培環境を有利に活用するための栽培技
術が進んでいる。地温の保持や、肥料の流出の防止や除草の労力節減のためポリエチレンシ
ートを使用するマルチング栽培が一般化し、他方では、過湿をさけ、品質の向上を促進させ
るため、ブウレンソウなどの「雨よけ栽培」などの施設化もなされるようになり、これが全国
に普及し、キャベツではハウス育苗も一般化した。このほか、セルリーのように特別な労力
と管理を必要とするものは、早くから施設化が進んでいる。キャベツなどの大量消費の大衆
高冷地野菜の主産地では、大規模経営が普通で、大型の機械を使用し、これまでの僻遠の高
冷地域に大生産地が形成され、地域社会に産業革命ともいうべき変貌をもたらした。
園芸農業の施設化は自然条件を制御するための手段ではあるけれども、台風などのような
突発的な災害には弱い。高冷地園芸地域でも多くの災害に見舞われる。耕地が高位にあるた
め 集中豪雨の際における圃場の浸食が大きく、
とくにポリエチレンフィルムによるマルチン
グ栽培は、これを増幅させている。また、高冷地であるが故の特有の災害もある。雹(ひょ
う)などはその例で、小豆大や大豆大のもののほかに、時にはピンポン玉大のものに見舞わ
れることもあって、軟弱な粟菜類に被害を与える。著者がはじめて野辺山を訪れた 1963 年 8
月 2 日の午後、激しい雷鳴とともに大豆大の降雹に驚いたが、これによって、ハクサィが 2
割の減産になったという。このような降雹は連日の猛暑で夏型の気圧配置がつづいたあとに
起りやすい。また、1984 年 8 月の 1、2、3 日には長野県内では連日のように雷雨が発生し、
東信濃・佐久地方では大豆大のものが降り、
下伊那の一部ではピンポン玉大のものもあって農
作物に大きな被害を与えた 42)。
(3) 高冷埋野菜生産の地理学的研究
前述のほかに、わが国の山地・高冷地を対象とする地理学的研究公費書・論文はかなりの数
にのぼっている。このほか、山村振興が提唱されている今日では、山村振興会の「山村の変貌
と開発」があり 43)、また、農林統計協会からは、上野福男編著による「日本の山村と地理学」
が刊行され、関係諸論文が集録されている川。これらの刊行物の多くは高冷地における夏野
菜の生産にも論及している。さらに前述した「日本のプナ帯文化や」45)や「御岳乗鞍周辺の地
理 46)でも対象地域における夏季出荷野菜の生産状況を述べ、野菜生産がその地域において、
重要な地位にあることに言及している。
このような著書・論文は、高冷地または山村研究のなかで高冷地野菜に言及したもので、高
冷地野菜そのものを体系化して研究の主題としたものは少なく、また.最近の流通形態のなか
に、高冷地野菜を位置づけたものも少ない。さらに、輸送園芸として野菜生産をとりあげた
著書も多いけれども 47)、高冷地遠芸そのものを論及の対象にしたものは少なかった。
このなかで、小池とみ子は「嬬恋のキャベツ」として嬬恋村のキャベツ生産をとりあげ、こ
のような僻地において、夏の東京市場のキャベツを独占する大規模な産地に発展した状況を
述べた 46)。「日本農業の地域分析」のなかにも収録きれている 49)。また、著者自身も御岳東
麓の開田村に台頭した高冷地野菜生産を輸送園芸として取りあげその生産環境と、そこが新
産地として、どのようにして市場開拓を行ってきたかを論じた 50)。これに次いで、南佐久
の川上村と野辺山の野菜生産を対比して、
両者の農業経営の差異・出荷対策について報告した
51)。菅平と嬬恋の両産地を対比し 52)、また、九州の局地的な産地である九州の飯田高原に
おける夏野菜の生産状況 53)や、愛知県の三河高原でなされている夏野菜の生産状況を報告
した 54)。
しかし、坂本英夫がその者の「野菜生産の立地移動」で述べているように、野菜生産を暖地
または高冷地という認識のみで論評するのであれば、生産がこれによって一方的に規定され
るような誤解を生ずるおそれがあるものとし、このような短絡的な思考は一次方程式の解を
求めるようなものである、との注意をうながしている。ついで高冷地における農業的土地利
用の垂直的配列区分の解明と設定の必要なことを述べている 55)。このような視点でなされ
た丸山浩明の火山斜面の土地利用の垂直的分化の報告と今後の進展に注目したい 56)。
高冷地における野菜生産は、わが国の野菜生産のなかで、どのような地位を占め、生産や
流通の上でいかなる特色を有し、かつ、これが池地域の野菜生産のみならず、農業経営全般
に及ぼした影響はどのようであろうか。さらに、最近における高冷地野菜生産品の輸送手段
の進展は顕著であり、これが一般の輸送園芸の先駆となったものも多い。本書はこのような
輸送園芸としての高冷地野菜生産の実態に迫るとともに、その資料を提供しようとするもの
である。
++++++++++++++++++++++++++++++++++
Ⅱ生産の推移
1 導入の経過
(1)導入前の地域環境
時間は空間とともに、万象の基本原型である。時間の推移にともなって万物は流転し、現
在もその過程の中にある。その推移は短い人生では感知できないような息の長いものから、
時々刻々と変化してやまないものとがある。かつて.人類は環境条件を受動的に受け入れて生
存していたが、やがて能動的にこれに働きかけ、その間に住民性または民族性を醸成し、文
化を創造し歴史を築いた。現在の人類の行動のすべては、先人たちの残してきた成果の延長
上にある。高冷地野菜の導入の日は浅いとはいえ、すでに半世紀以上を経過し、その間、社
会・経済の進展にともなって、
多くの試行錯誤を重ねて栽培を進め、
やがて生産を定着させた。
しかし、高冷地のように、いわば農業の限界地域における農業活動は、成立と進展の経過
が新しい。また、高冷山村はこれまで僻遠の地であり、従来のような米作指向の暖地型農業
の視点からみれば、生産性が低い寒村にすぎなかった。したがって、農業よりも狩猟・林産・
畜産を主とし、マタギや木地室が活躍し、製炭と馬産の地域であった。このような環境のも
とで、先人たちは生活の安定を求めて雑穀を自給し、失敗をくり返しながら稲作の導入に執
念を燃やした。
しかし、明治以降、貨幣経済の浸透と、国際経済への直結によって事情は一変した。日本
の中央高冷地は腰地型農業には恵まれなかったけれとも、有史前から人が住みつき、受動的
ではあるが、その環境条件を生活に組み込んで生活していた。長野県小県郡真田町の菅平地
区・川上村、開田村などの高冷地域には縄文遺跡が認められ、それ以後も林業を基盤とした文
化を醸成した。しかし、それ以後の日本の文化は米作を中心とした暖地型をもとにして発展
し、高冷地域でも稲作への指向が強かった。こうして、川上村や開田村でも水田が開かれ、
近年では保温折衷苗代を開発するなどの努力が重ねられた。その結果、準高冷地では土地生
産性の高い優良米が生産されたが、高冷地では、その努力に報いられるほどの収量はなかっ
た。しかし、このような世界の驚異に値するような米作導入の執念ともいうべき先人の努力
は、やがて、この地に野菜を導入する際の精神的基盤となったといえよう。
高冷地において稲作を可能にしたのは、馬産と結合した日本型混合農業の成果でもある。
馬の飼育は厩肥源として重要な役割を果し、役馬として農耕用・運搬用に使役され、出産した
仔馬は山村農家の重要な現金収入源であった。
このような日本的な自給式混合農業も明治以降、大きな変容を余儀なくされた。世界経済
を背景とした資本主義経済が日本の山村にも襲来し、現金収入源の確保が当面の課題となっ
た。これに対応して導入されたのが養蚕業で、高冷地の蚕は病虫害が少ないため、良質のマ
ユが生産きれた。しかし、桑の成育が遅れて収量が少なく、掃立てもほぼ夏に限られるので、
低地のような収益は得られなかったけれども、他に適当な代替産業を見出すことができなか
ったため、養蚕は山村の重要な生産業であった。その地域の特性に応じた桑の栽培や養蚕技
術が推進され、苦労して導入した稲作と相まって穀桑式農業を形成した.桑の品種も高度によ
って選択されるようになり.岐阜県の飛騨地方では、高度 500m 以上が「剣持」、800m を超え
ると「新案 2 号」が仕立てられた。掃立ても、これに準じてなされ、高根村の中洞地区では 6
月 20 日、
1,250m の野麦では 7 月 10 日となる 1)。
低地では年数回の掃立てが可能であるが、
高度が増すにしたがって減少し、高冷地では夏 1 回となる。このような穀桑式農業は、わが
国全土に浸透したけれども、高冷山村においては、養蚕は現金収入の手段でもあった。こう
して、海外の生糸相場に対し、養蚕農家も製糸業者も一喜一憂しながら苛酷な作業に耐えて
きた。
ところが、第 1 次世界大戦後の不況が養蚕業に打撃を与え、昭和初期の化学繊維の出現が
これに追い討ちをかけた。
1929 年の世界大恐慌の波及によってる蚕業は壊滅的な状態となり、
生活の基盤を矢なった農山村では深刻な危機に直面した。これに対処するため 1932 年、政
府は全国の市町村に対して経済自力更生計画を策定させた。政府も当時は助成資金にも事欠
くような財政状態であったので、農山村を自力で更生させるため、新産業の導入による収入
源の獲得や・生活改善による無駄の排除を勧奨した。高冷山村では、このころ各地で栽培の気
運がみえはじめていた夏期出荷野菜の導入を更生運動の努力目標としてとりあげたところが
多かった。あたかも、この時期は全国の鉄道網がいちおう整備され、生産品を鉄道に乗せて
輸送する道が開かれた。
(2)導入の状況
明治初期は、各種の欧米型の野菜や果樹の新品種が相ついでわが国に渡来し 2)、農法も洋
式が最上とされ、これまで見られなかった農作物が登場した。この変化は地租改正とともに
農業も新時代に入り、いわゆる「明治農法」の進展となった 3)。野菜でも・当時“玉菜"といわ
れていた結球キャベツや、アカナスと称されたトマトを始め、多くの桑菜・果菜額が導入され
た。バレイショもアメリカ合衆国より優良品種を入れ、北海道をはじめ各地冷涼地で栽培が
開始された 4)。
高冷地における洋風葉菜の夏季栽培が始まったのは軽井沢であった。1897(明治 30)年ころ、
ここに滞在した外人避暑客の要望に応ずるため玉菜の栽培が始められた 5)。しかし、これも
要請されるままに栽培していたようで、当時の農民はその調理法も知らなかったといわれ。
たまたま軽井沢において外人に招待された農民が、
西洋料理のなかにロールキャベツがあり、
これが自分たちの育てた玉菜であったことを知って驚いたと伝えられる。その後、外人滞在
客が多くなり、キャベツの需要が増加し、栽培面積も拡大し生産量も増加した。したがって、
夏季の 2 ヵ月間の別荘滞在客だけでは消費しきれない状態となり、青果商にその販売を依頼
した。しかし、一般にはなじみが少なく、ほとんど買手がつかなかった。そこで、残された
道は東京に市場を求める以外にはないとのことで、1913(大正 2)年、縁故を求めて試行的に
神田市場に出荷したところ、珍しがられて高値を呼んだといわれる。このようにして、信州
のキャベツが鉄道によって、はじめて東京に送られたが、これが輸送園芸としての高冷地野
菜の端緒となった 6)。
やがて、第 1 次世界大戦による好況で、大都市における需要が喚起され、仲買人主導によ
る生産と流通が促進された。産地の青果商のなかでも有力なものは.やがて仲買人に発展した。
また、国鉄篠ノ井線と中央西線の開通にともない、これを利用して開西・名古屋万面にも販路
を開拓した。当時、出荷組合は形成されておらず、高冷キャベツも、そのほとんどか産地商
人または有力な仲買人の支配下にあり、その取引も“青田買い"で、一塚いくらで買いとられ
た。一塚は 75~80 坪(247~264 平方メートルで、四塚がほぼ 1 反(1O アール)に相当した。
大正末期から昭和初期ころにかけては一塚が約 30 俵(675kg、1 俵 6 貫=22.5kg)がおよそ 13
~14 円で、これが 15 円以上になれば“当った"とよるこんだという。仲費商は収穫の報酬と
して、1 俵につき 4 円 20 銭~4 円 80 銭の支出をしていたから、l0 アールあたりの粗収入は
52~56 円にもなった。
このようにして、軽井沢を核として発展した夏キャベツの生産は、しだいに各地に拡大し
た。国鉄中央本線の全通によって、東西の鉄道交通の接点となった塩尻の桔梗ケ原では、よ
うやく自主販売によるキャベツの生産を開始したが、当時の平均セリ価格は 10 アールにつ
き 125~166 円で、軽井沢周辺の青田売りよりは、はるかに高値であり、出荷経費を差引い
た実収益でも有利であった。しかも、のち群馬県嬬恋村や八ツ岳周辺に新産地が形成される
と、それに抑えられて軽井沢のキャベツは伸びなやみの状態となった。
桔梗ケ原は、標高 600~700m の準高冷地ではあるが、鉄道利用では抜群の利便があった。
ここのキャベツは1911(大正元)年に、
長野の出身者で塩尻の大門に住んでいた松木大次郎が、
初めてここで栽培したといわれる。当初は 2 反(20 アール)ほどで、塩尻で販売する程度にす
ぎなかったが、1914 年には 3 反、1915 年には 1 町歩とな、今日の塩尻市の大野菜産地形成
の素地となった。
八ツ岳周辺では野辺山高原で 1897(明治 30)年ころに試作されたといわれる
が、当時では隔絶地域のため搬出は不可能であった。しかし、標高が高いために病虫害が少
なく、採種には適していたので、1921(大正 10)年、長野県農事試験場が野辺山の板橋地区に
委託試験地を設け、井出沢伊助の試験園場では、桔梗ケ原で成功した純枠種から分離したサ
クセッション種を取り入れて採種した。この信州系サクセッションは結球状態が良好で、1
個平均 700~800 匁(2.6~3.0kg)にもなったという。しかし、採種には 2 年を要し、前年 10
月上旬に掘りとった親キャベツを翌年 4 月下句に定植し、6 月下旬に花を咲かせて 8 月に採
種した。この間 7 年間の指導と観測をつづけ、1927(昭和 2)年には採種組合をつくり、翌 28
年には 7 升(12.6 リットル)の種を探り、県内の農会を通して配布した。当時は 1 合(0.18 リッ
トル)につき 2 円であった。このように、長野県農事試験場は、当時すでにキャベツの品種改
良の先駆であった。また、関東大震災の翌年(1924)、標高 1、000m 余の富士見高原でもキ
ャベツの生産を開始した。この年は 6 月 12 日から 8 月 14 日にかけて、長野県下では雨が少
なく、50 年来の大干害といわれ、稲も桑も大被害を受けた。したがって、8 月から秋までの
短期間に成育可能なものには野菜のほかにはなく、そのなかでキャベツが最も有望ときれて
いた。そこで富士見と原村の農民は先進地である桔梗ケ原を視察し、そこでキャベツの種子
を入手して播種し、11 月には結球させ収穫した。昭和農村恐慌の始まった 1930 年には協業
化し、両地域での栽培戸数は合わせて 266 戸、栽培面積は 18 ヘクタールとなり、1O アール
あたり 3.8 トン、8 貫匁(30kg)で 125 俵の生産があった。その売上げは 250 円、手取り 171
円であった。恐慌前の 1929 年のマユ相場が 1 貫(3.75kg)70 銭、桑園 10 アールあたり 15 貫
(56.2kg)として l09 円であったものが、1930 年には 1 貫につき 1 円 50 銭の大暴落となり、
10 アールにつき 22 円 50 銭にしかならなかったといわれた。このように、キャベツの収益
はマユの売上げよりもはるかに多く、当時長野県の農家が 1 戸平均 688 円の借財にあえいで
いたなかで、原村の農家は 760 円の貯金が可能となり、まさにキャベツは救世主のような状
態であった 7)。このほか、菅平や嬬恋でもキャベツの生産を開始した。ここでは、カピタン
イモ(ジャガイモの在来種)のほか、ソバ・アワの雑穀と製炭で渡世したが、隣接地の軽井沢の
影響を受け、ハクサィとともにキャベツの生産をはじめ、ともに 1 戸あたり平均 7 アールに
もなった。販売は上田や軽井沢の青果商すなわち玉菜屋に青田売りしていた。上田の青果商
青木彦治はその代表格で、さかんに作付けを勧奨し、村の更生計画の一助とした。さらにそ
の上には大市場を根拠とするブローカーがあって、産地商人と相まって一連の組織的な出荷
系統が形成されていた。大阪の天満市場を拠点とした中野統六は仲買会社を組織し、とくに
高冷地野菜の将来性に着目し、青木らの産地商人を督励して主産地を育成し、生産物を鉄道
によって関西に運び、巨利を得ていた。当時、農民側には出荷組織もなく、面倒な貨車の配
車の手配などは、このような仲買人に依存しなくてはならない状態であった。しかし、この
ような高冷地野菜の生産の初期において、仲買人の主産地形成に果した役割は大きかった。
しかし、菅平ではこれまで上田までおるすのに 1 日を要したが、1928(昭和 3)年、今日の
上田交通の前身の上田温泉電軌が上田から真田までの 12.8km の軌道を敷設すると、菅平や
嬬恋の野菜は馬の背や荷馬車によって真田駅に運び、ここから鉄軌道に乗せた。このような
状態では、その生産規模は大きくなった 8)。
また、キャベツ・ハクサイとともにダイコンも高冷地野菜としての歴史は古い。当時の高冷
地のダイコンはミノワセダイコンで、早漬けタクアンとしての民需のほか、軍隊 が大量の需
要者であった。ダイコンは輸送途上における変質が少なく、かつ、比較的省力的な作物であ
った。このような冷涼性野菜の夏季出荷が始められたころは、あたかも全国の鉄道網が、い
ちおう整備に近づきつつあった時期であった。
(1) 生産の盛衰
高冷地における野菜生産は明治期に舵脂し、ゆるやかな成長を経過しながら大正期をへて
1920 年代末の昭和期に入った。ところが昭和は不況の中で幕を明け、やがて 1929 年に端を
発した世界大恐慌に巻きこまれた。翌年の農産物の大暴落は農村を直撃した。これに対応す
るため、政府もさまざまな施策を講じたけれども、底の浅かった当時の日本の経済力では、
これを立て直すだけの力はなく、結局、軍部の独走を招き、政治もこれに追随し、大陸政策
の強行によって乗り切ろうとした。これが 1931 年の満州事変となり、1932 年には上海に飛
火して上海事変を引きおこし、やがて全面的な日中戦争へと拡大した。これによって軍需景
気を招来したけれども、農村は依然として低迷をつづけ、食糧・兵員・労働力を供出するだけ
の母胎にすぎなかった。
政府にもこの状態を改善するための財政力がなく、農村の自力で立て直しを要請し、その
方策を農山村に策定させた。高冷山村では養蚕に代るものとして野菜生産をとりあげるもの
もあった。嬬恋村のキャベツ生産も、このような情勢のなかで生産を拡大した。同村では菅
平の場合と同様に、上田の青果商や中野統六の勧奨があり、村長戸部彪平がこれをとりあげ
て推進した。これはまさに嬬恋村の“村おこし”であった。ここでは水田試作も成功せず・養
蚕もマユの大暴落に遭遇していた矢先であったので、更生の道をキャベツに求めた。あたか
もこの時期は、県道上田菅平線の途中にある菅平口から分かれ、鳥居峠を越える長野・渋川線
が 1935 年に開通した。これは現在の国道 144 号であり、荷馬車のほかに貨物自動車の乗り
入れも可能となり、キャベツを真田駅に運び鉄軌道に乗せることが可能となった。
菅平におけるハクサイも、この波のなかで進展した。すなわち、世界大恐慌発生の直後、
小県郡長村(現真田町)出身の青果商が、中国の青島から新しい種子を入れ、渋沢地区の 16 戸
の農家に試作させた。渋沢は現在の国道 144 号の菅平口近くの標高 700m の山間地であった
が、ハクサイを旧盆すぎに出荷することに成功し、市場では高値を呼んだ。この青果商は茨
城県の水戸白菜・宮城県の仙台白菜などの国内産種も入れて試作させたが、
そのなかで宮城県
の小牛田の渡辺採種場の松島白菜がここの土地に適合したというので、菅平へ入れた。菅平
では導入後 3 年で作付が 5 ヘクタールとなった。しかし、8 割までが青田売りで、包装用の
カヤ俵代が 1 つにつき 4 銭、
、菅平から真田駅までの運賃が 1 俵(6 貫、22.5kg)4 銭で、1 俵
あたりの手取りは平均 76 銭程度であった。当時の桝田一二の調査によると、戦前の最盛期
には菅平でハクサィ 8.5 町歩、キャベツ 13.1 町歩の作付があり、当初は荷馬車で上田駅まで
運んだが、その後は真田駅へ集めた 9)。当時すでに菅平はスキー場として開発され、スキー
客の残した糞尿が肥料源として使用され、夏の蚕室が冬のスキー客の客室として転用するこ
とが可能で、観光と農業とが有機的に結合し“ホテル農業”ともいえるような状態となり、
多い年には野菜を載せた 150 両の貨車が関西・関東・中京の市場へ向った。
このころ、のちに国鉄小海線となった佐久鉄道が小諸から南に伸び、1915 年 8 月には中
込、12 月には羽黒下、ついで 1919 年には小海に達した。この鉄道は中信越連絡鉄道という
構想によって敷設されたものであったが、不況のため、第 1 次大戦直後には工事が中断され
ていた。昭和期になるとこの鉄道は鉄道省に移管され、1935(昭和 10)年には中央東線の小淵
沢駅に接続し、国鉄小海線として全通した 10)。
小海線の開通は東信州の山村地域の経済の更生に貢献し、この交通革命はこの地の産業革
命を引きおこした。1933 年、野辺山で試作されたハクサイは、1935 年には高原野菜出荷組
合に組織され、神戸の青果会社と契約して関西へ出荷した。
また、川上村でも 1934 年に県の農事試験場や佐久都農会の技師たちの指導によりハクサ
イの作付けを開始した。これまで主として林業に依存していた隔絶山村であったが、商品作
物としてのハクサイの導入は、この村の更生をもたらし産業革命の契機となった。
しかし、戦前からかなりの出荷量を持っていた各地の高冷地型輸送園芸も、やがて第 2 次
世界大戦の激化によって中断を余儀なくされた。この非常事態は戦争遂行のための統制経済
体制となり、農会の組織もその機構に組み込まれていった。年とともに米穀の統制がきびし
くなり、青果物に対しても生産配給統制が始まった。すなわち、1940(昭和 15)年には青果物
配給統制規約が公布され、34 品目が統制下に入った。翌 41 年からは矢つぎばやに物価統制
令・農地作付統制規則・農業生産統制令が出て、いちだんと統制が強化された。米穀統制はさ
らにきびしく食糧難の憂いのあるなかで、1941 年、ついに太平洋戦争に突入した。青果物も
卸・小売の最高価格が定められ、卸売白菜は 1 貫(3.7kg)37~46 銭、小売では 100 匁につき 4
銭 5 厘~5 銭 5 厘となった。
他方、これまで農民のための組織であった各種の農業団体も、その上部構造である帝国農
会によって、国策遂行の名のもとで統制された。主食の米は食糧管理法によって、1942 年か
らは配給制が強化され、大人 1 日 2 合 3 勺(330g)となり、その他の直接戦争遂行に参与でき
ない産業はすべて不急不要として抹消された。とくに、夏季に鉄道輸送を必要とするような
高冷地園芸はその息をとめられた。高冷地でも多少なりとも稲作可能のところでは、米の生
産と供出が強請され、その不可能なところではジャガィモ畑に転換させられた。さらに戦況
が悪化した 1943 年には、すべての農業団体が帝国農業会として統制され、青果物用の肥料・
農薬の配給が停止され・種子でさえ入手が困難な状況となった。こうして、1945 年には長野
県全県におけるキャベツの作付けは 1941 年の半分の 8 ヘクタール、ハクサイは 4 分の 1 の
520 ヘクタールとなり、その納入先もほとんどが軍隊または軍需工場などに限定された。そ
のうえ、米軍による本土の無差別空襲に地震.台風などの自然災害までがこれに加わり、戦争
そのものが継続不可能な状態に追い込まれた。
2
戦後の進展
(1) 統制の解除
1945 年 8 月 15 日、太平洋戦争を含めた 15 年間におよぶ長期間の戦争は終った。空襲・
機銃掃射・艦砲射撃など直接死につながる恐怖はなくなったけれども、
食糧難はいっそう深刻
となり、
国民は餓死線上を低迷した。
米の配給は戦時中よりも少ない 2 合 1 勺(315g)となり、
それもジャガィモなどを含むものであった。しかも、遅配・延配・欠配が日常化し、都市住民
は食糧を求めるため、
衣料品までも買い出しの抵当にした。
公定価格制度があったけれども、
やみ価格が横行して、この制度は無いのにも等しい状態であった。しかも、インフレが昂進
して、深刻な社会不安がつづいた。
こうしたなかで、占領軍総司令部(GHQ)では、農民開放の名のもとで農地改革を断行させ
た。敗戦直後、幣原内閣によって改革を企図したけれども、その具体化には難行をきわめた。
しかし.これに対する GHQ の勧告は強力で、在来の大地主・不在地主は解体され、これまで
の小作農がその土地を買い受けて自作農となった。その結果、由緒ある豪農や地方の名家が
没落し、農地の細分化と零細化がいっそう進んだけれども、小作農にとっては農地が耕作者
自身のものとなった。こうして、農民による自主的な営農がなされるようになって、農業の
民主化が進み、農民の営農意欲が向上した。
他方では、これまでの戦時色の濃厚であった帝国農会とその下部組織の市町村議会は解体
され、これに代るため、1947 年に農業協同組合法が制定され、民主的な手段によって農業協
同組合が結成されることとなった。この農協は農民の意志によって農業の民主化・協業化・共
同販売・資材や肥料なとの共同購入などのほか農民相互の共済・信用・金融・厚生・営農指導な
どを目的とした。しかし、当初の販売は米が王であり、食糧難のための食糧管理と統制は継
続され、その供出・販売などの実務は農協に引きつがれた。青果物の共同出荷などの業務も農
協に引きつがれたが、これらの園芸団体などは、市町村単位などで結成された一般農協に対
し専門農協となる場合が多く、
独自に生産指導・出横用資材の購入・種子の斡旋・販売情報の交
換と共同計算などの業務を行うこととした。こうして多くの農協が結成されたが、1950 年代
になると農協の財政と信用基盤を強固にする目的で、
行政指導による農協の合併が促進され、
それそれの地域の情況に応じて、市町村単位をも超えた大型広域農協も成立し、この状況は
今日まで及んでいる。その上部構造として府県の各府県ことに中央会が設立され、全国的に
も統合して全国農業協同組合中央会(全中)となり一対しいピラミッド型の農業組織が完成さ
れていった。そのなかで、都道府県を冬粒とした野菜の出荷・販売・斡旋などの業務はそれぞ
れの中央会傘下の経済事業農業協同組合連合会すなわち経済連が担当することとなった。
1947 年には日本国憲法が制定されて戦後の日本の基本法となり、
戦後の混乱もようやく収
拾への道をたどり、米以外の農作物はしだいに自由化されろようになった。1948 年には食糧
危機もようやく峠を越え、翌年 4 月 1 日には野菜配給規則が廃止され、青果物も 1940 年以
来 9 年ぶりに自由化した。このほか、肥料や資材の統制も解除された。
高冷地では、野菜以外に適当な農作物が見当らなかったので、菅平・嬬恋・川上などのかつ
ての夏野菜の主産地では、輸送中の変質の少ないダイコンを攻切りに、ハクサイ・キャベツの
生産を再開した。各農協では生産されたダイコンを使用して、タクワン工場を直営して付加
価値を高めた。しかし 無秩序な栽培のため、早くも連作障害による病虫害に犯され、他方で
はハクサイ・キャベツのような高収益の作物に抑えられて伸びなやみ、
生産を中止したところ
も多かった。
ハクサイ・キャベツの生産が復活の軌道に乗るとともに、各地に産地が拡大した。国鉄篠ノ
井線に沿う筑摩山地の本城村では・農協連合会の技師の勧奨を受け1948年ハクサイの栽培を
再開した。このあたりは 700~900m の準高冷地型産地ではあるが、松本盆地よりは低温で
あり、作付面積も拡大し、やがて高距に従った作付期・出荷期を設定した。さらに収益の高い
新品種を入れ、大玉で良質なものが収穫できたので、本城村ばかりでなく、隣村の坂北・麻績
みさ
(おみ)・坂井のほか・四賀村の綿部、松本市の三才山・入山辺などにも産地が拡大した。その
核心地は篠ノ井線西条駅の周辺で「西条白菜」の銘柄で出荷し、各地に率先してスカシ木箱を
使用した。
このほか、塩尻の小野地区や筑塵山地東麓の青木村でも栽培を始めた。青木村は上田温泉
電軌(現上田交通)の別所温泉駅に近く、小野は中央東線小野駅の周辺で、出荷条件に恵まれ
ていた。しかし 弱小産地では貨車の配車が十分ではなく、東京市場でも、ようやく 3 日目
のセリに間に合わせるような状態であった。
他方では、海外からの引き揚げ者たちによって、高冷地の各地にも開拓地が開かれた。こ
のなかで、長野県南牧村の野辺山開拓地でも、はじめは雑穀などを栽培していたが成育不良
で第 1 次の入植者の中からは離脱者が多かった。ここも、初めダイコンを入れたが、やがて
ハクサイとキャベツの生産によって活路を見出した。しかも開拓地の中央に国鉄野辺山駅(1、
357m)があり、
鉄道輸送の便に恵まれていたことが、
ここの輸送園芸発展の基盤となった 11)。
しかし、
このような高冷開拓地では環境条件の劣悪なところが多く・失敗して離散したところ
も多かったが、この野辺山における開拓の成功は各地に大きな刺激を与えた。このような開
拓地で、野菜生産に活路を見出したところには、岐阜県郡上郡高鷲村(たかすむら)の蛭ケ
野(ひるがの)開拓地、栃木県北の鶏頂山開拓地、奥日光の戦場ケ原開拓地などのほか、岡
山県北の蒜山高原(ひるぜんこうげん)もその例で、比較的省力経営の可能なダィコン栽培
から出発した。このような開拓地では既存の農村にありがちな慣習に束縛されることのない
自由な経営が可能で、開拓者相互の団結が強く、耕地面積も広大で.しかも規模拡大の余地も
残っていた。そのいずれもが酪農をとり入れ、個人的にあるいは地域的な複合経営を行って
地力の消耗を防ぐのに大きな効果をあげた。しかし、輸送手段が鉄道からトラックに転換し
つつあった時代で、これまでの僻地としての不利な条件から解放された結果でもあった。
(2) 新産坤・新品目の登場
1950 年代に入ると、しだいにトラック輸送が一般化するようになり、これまで鉄道の利便
に恵まれなかった僻地にも新産地が登場するようになった。前にも述べた開拓地もこのよう
な状況のもとで新産地となったものであるが、御岳火山東麓の開田村の場合はその例であっ
た。この村の村域の大部分が 1、000m 以上の高冷地で、しかも平坦地や緩い傾斜地が多く、
その村名のように水田も広く開発されていた。ここも 1953 年に「西条白菜」を範として、農
業普及員の指導によってハクサイを導入した。新産地であるため土壌条件に恵まれ品質が良
好で、まず名古屋市場を目標に出荷して好評を得て「御岳白菜」の銘柄を確立した。ついで
1969 年にはレタスを入れ、「御岳レタス」として先進主産地を追うこととなった 12)。
こうして、戦後の高冷地野菜は新産地を加えて大増産の時代となった。長野県についてこ
れを見ると、1949 年の作付けはキャベツが 453 ヘクタールで、敗戦の 1945 年と比較すると
57%の増、ハクサィは 641 ヘクタールで 23%の増であった。ところが 1950 年にはキャベツ
が 899 ヘクタール、生産量も 2 万 231 トンで 2.17 倍、ハクサイも 826 ヘクタールで生産量
も 1 万 3、531 トンの増加となった。
しかし、このような増産は、やがて市場価格の暴落を招来し、1950 年におけるキャベツの
市場価格は 1 貫(3.75kg)につき平均 32 円 75 銭で、1947 年における産地価格の 44 円 55 銭
を下まわり、ハクサイも 1 円 81 銭で 3 年前の 40 円 18 銭と大差がなかった。しかし、この
時期はィンフレの昂進による狂乱物価の時代で実質は 3 分の1 に相当する暴落であった 13)。
戦後における大きな仲買商人は、ある程度の出荷調整機能を持ってはいたが、戦後は何らの
調整機能のないままで増産態勢に入ったため、価格の振幅が大きくなり、生産者ばかりでな
く、消費者にも大きな影響を及ぼすこととなった。
他方では土地条件に対応した品種改良が進展した。戦前でも各地城において、それぞれの
土地の特性により、無意識にあるいは意識的に選抜や交配がなされて、多くの特産的な名品
を育成した。とくに、ダイコンやカブは、それぞれの地域名を冠した地場農業的な野菜とな
り特産となっていた。戦時中は種苗統制法によって、野菜の種苗も統制下に入り、戦後しば
らくの間は、在来の統制品種に依存していた。高冷地でも、そこに適応した品種が確立され
ないままで、しかも試行錯誤の状態で作付けられたため、生産も不安定であった。この間、
高冷地における作付けの拡大と、現地調達の駐留軍の要請もあって、優良品指向が強くなっ
た。
これより前の 1949 年どろ、軽井沢などで夏キャベツに原因不明の抽台現象が発生して問
題となった。これに対処するため長野県農業試験場において、長野交配中生甘藍すなわち SE
甘藍を開発することに成功した。
この品種は抽台期・収穫期が一定であるため計画出荷を行う
に便利で、しかも耐暑性・耐病性にも強く、結球も扇平で箱詰めしやすく、かつ、葉の緑色が
濃いうえに玉じまりがよく、
高冷地向きの特徴を備えた当時としては画期的な品種であった。
1959 年 8 月 14 日の台風で、中央西線と真田駅までの搬出路が不通となった菅平では、SB
甘藍を須坂を経由して国鉄吉田駅(現在の北長野駅)へ出し、北陸本線を経由して 6 日間を要
して大阪へ輸送したが、ほとんど変質することがなかったので、その輸送耐性の強いことが
実証された。こうして、長野県では SE の種苗登録を行うとともに、当初、その採用は長野
県内に限ることとい 各地でその栽培講習会を開いて、その普及に努めた。その結果、1960
年の長野県の県外出荷用のキャベツの 90%が SE 種となった。これに対抗するため種苗会社
でも、新品種の育成に努めたけれども、すでに SE の評価が定着していたので、これを抜く
ことができなかった。
ハクサイもキャベツと同様に同試験場で耐病性の「MC 白菜」を育成し、
それから数年間は、
長野県ではハクサイの 60~70%をこの品種で栽培した。このほか、カリフラワー.ブロッコ
リ.メキャベツのほかダイコンやカブの新種が開発され、1960 年以降実用化した。このよう
にして、ほとんとの野菜類が一代交配(F1)の時代となり、品質が格段に向上したが、これに
よって農象自身における採種は、ほとんど見られなくなった。まさにこれはバイオテクノロ
ジーの先駆であった。
戦後の高冷地野菜の進展に大きな影蟹を与えたのは駐留軍の需要に応じたいわゆる“特需
野菜”であった。軍で消費する野菜は現地調達の万針であったため、キャベツの需要が増加
するとともに、これまでほとんど栽培されていなかったレタスの登場となった。1947 年、占
領軍の指示によってレタスの作付けが開始されたが、その要請にもとづいて厳重な土壌検査
を行い、寄生虫卵の絶無と、清浄栽培が絶対の条件となった。はじめ軽井沢から東京へ出荷
されたが、当時は道路の整備が不十分で、舗装区間も少なく、かつ木炭自動車を使用するな
どで、7 時間も要した。ところが、1950 年、朝鮮戦争が勃発するとレタスの需要が急増し、
早朝に収穫して九州佐世保までの長距離輸送を始めた。このような栽培法から輸送方式にい
たるまで、すべてアメリカ方式であった。この間、ようやく国民生活が向上し、しかも、レ
タスの歯ざわりが日本人好みでもあったので、民需が増加した。
1950 年代は高冷地野菜が輸送園芸としての基盤を確立した時代であった。
包装も以前のカ
ヤ俵にかわって、スカシ木箱が一般化し、トラック輸送も開始された。しかし、当初は鉄道
による貨車輸送が主であったために、各地の出荷団体では貨車の配車獲得に苦労し、駅長や
鉄道管理局に対し配車を懇請した。しかし、通風車が少なかったので・多くの場合普通貨車が
配車され、ムレを防ぐため積みおるし用のドアを開いたままで走行した。そのため、さまざ
まなトラブルもあり、所要日数も東京で 3 日売り、関西では 5 日間を要し、この間における
腐敗、変質のため商品価値を失うことも多かった。したがって比較的近距離の京浜・名古屋向
けからしだいにトラック輸送に転換されていった。
1951(昭和 26)年には日本もようやく講和が成立し、1956 年にはソ連との国交も回復し、
国際社会に復帰した。この間、特需景気によって日本の経済も立ち直り、1956 年の経済白書
にあるような“もはや戦後ではない“というほどの回復をみせ、いわゆる“高原景気”を現出
させた。この間、工業生産は飛躍的に進展した。農業においても「農業機械化促進法」の施行
により、資金援助のもとで動力耕運機が入り、野菜作でもトラクター、スピードスプレヤー
などの農業機械や防除器具の導入が進み、やがてこれも大型化した。潅水にもスプリンクラ
ーが設置されるようになり、畑地かんがいの用語が定着し、共同耕作・協同防除が進展した。
このようにして、日本の経済も復興期から脱却し、高度成長期へ移行した。岸内閣のあとを
受けた池田内閣は所得倍増計画を打ち出すなど、新しい転機を迎えた。
3
経済の進展と高冷地野菜
(1) 農業基本法と野菜生産出荷安定法の公布
日本の経済の高度成長にともなって、農業も大きな進伸をみせたけれども、工業の進展に
は及ばず、農業と工業との所得格差が増大し、向都離村の傾向が強くなった。農村人口は減
少いいわゆる“過疎”といわれる状態となり、農業の進展に歯止めがかかることとなった。
他方、交通環境は革命的な変貌をみせた。道路の改修が進展し、いかなる僻地にも自動車が
入り込むことが可能となり、自家用車・自家用トラックが普及し、貨物輸送も鉄道からトラッ
クに転換するようになった。他方では農作業の機械化が進み、従来の農業労働様式を一変さ
せた。
こうした状況のなかで、難産の末、農業基本法が制定され、1961 年 6 月に公布されるこ
ととなった。これは経済の高度成長のなかで、これからの日本の農業の生き残りをかけたも
のであった。農業生産の効率を向上させるため、選択拡大方式による主産地の形成、農業構
造改善、農産物の価格安定などの対策が打ち出された。農業基本法は、いわば大規模な工業
的生産方式によって農業を再編成しようとするものであった 14)。また、経済の成長にとも
ない物価の上昇が顕著になり、国民生活必鷺品である生鮮食料品の価格変動と高騰の傾向が
昂進した。野菜においてもその生産と出荷の安定をはかるため、政府は 1963 年の経済閣僚
懇談会において「野菜指定産地制度」を決定し、「野菜指定産地生産出荷指導事業実施要項」を
定めた。他方では、野菜価格の暴落時における生産者の救済を目的とした補填制度が開始さ
れた。1964 年はあたかも東京オリンピック・東海道新幹線および名神高速道路の開通に象徴
されるような経済の高度成長期にあった。東京オリンピックの開催は、生鮮食料品の低温流
通を促進し普及させる契機となった。
こうした社会・経済環境のなかで、野菜生産と流通をいっそう安定させるため、1966 年 6
月、国会で「野菜生産出荷安定法」が成立し、7 月 1 日に公布された。この通称“野菜法”は、
大消費地に出荷する主要野菜について、安定した生産と計画的な出荷を可能とするような集
団産地を育成するとともに、価格の著しい低落に際しての救済措置を定めたもので、野菜生
産の健全な発展と消費生活の安定をはかることを目的としたものであった。この法律では、
国民生活に大きな影響を及ぼす重要な野菜を「指定野菜」として、その需給の見通しを立てる
ほか、指定野菜の集団産地または集団産地として発展の可能性を有する産地を「野菜指定産
地」に指定した。
その指定野菜はキャベツ・ハクサイ・レタス・ホウレンソウ・トマト・キュウリ・
ナス・ピーマン・ダイコン・ニンジン・タマネギ・サトイモ・バレイショおよびネギの 14 品目で
ある。夏野菜では、キャベツ・ハクサイ・レタス・トマト・キュウリ・ピーマン・ダイコン・ニンジ
ン・タマネギの 9 品目と夏秋キャベツなどの 11 種別の 45 の産地を指定産地とした 15)。その
指定の際には、地元の農協の希望を入れ、集団化を行い得る 5 ヘクタール以上の農地を有す
ることを条件とし、指定された産地では、3 年以内に「生産出荷近代化計画」を策定させ、こ
れに対する資金援助を行い近代化を推進させることとした。その内容をみると、トラクター
および付属作業機械・防除用磯貝・定置配管施設・移動潅水施設・共同育苗施設を導入すること
によって農耕作業の機械化を進め、出荷の近代化のためには集出荷場・フォークリフト・選果
機・予冷施設・電算機などを取り入れ、他方では、農地の基盤整備のために、農道の新設改優
および舗装・園場整備・畑地潅勝施設などを整備することとし、その資金は国・都道府県・地元
の 3 者で調達することとした。
また、指定産地の健全な育成をはかるために、指導員や情報連絡員をおくほか、「野菜奨励
品種選定作柄調査団」を設けて、生産技術の指導と向上を行うこととした。このほか、野菜生
産出荷安定法に関連する奨励事業として、
野菜近代化モデル団地設置事業・野産技術研惨施設
設置事業・園芸プラスチック処理施設設置事業・青果物低温出荷体制整備促進事業・野菜集送
センター設置事業.特殊野菜団地育成事業などの広汎にわたり、さらに野菜作柄安定緊急対策
事業・基幹野菜産地近代化事業などのさまざまな事業や施設の設置がなされた。
長野県などの
高冷野菜の主要産地では、すでに耕地の大規模化が進み、いずれも指定産地として、これら
の制度を十分に利用して主産地の形成に役立たせた。野菜の生産規模拡大の基礎となるもの
は耕地の拡大であり、これを可能にするための余地があることが条件である。そのようなと
ころでは、従来の畑地を核として開墾・開拓がなされ、群馬県の嬬恋村や長野県の川上村など
では耕地を倍増することに成功した。これらの事業は地方自治体や農協を通して実施された
ために農協の基盤と指導力が強化され、その連合体である各府県の中央会、とくにそのなか
の経済事業農業協同組合連合会(経済運)の指導と統制力が強化され、出荷計画・共同販売体
制・共同計算のもとで、繊密な情報を背景とした出荷計画を推進している。こうした背景のも
とで、従来の野菜産地は大型化して整備された。
しかし、経営の統制と大型化の影には、これに追随することができないような産地もあら
われた。その多くは弱小産地で、労働力や資金が不足のため、土地改良や経営規模の拡大が
困難であり、病虫害の多発や価格の大暴落のような非常事態に対処し克服するだけの耐性と
能力を失った産地もあらわれるにいたった。
野菜も、これまでのように作れば売れるような時代ではなくなった。大産地ではその信用
と銘柄を背景にした大規模な出荷戦略を練り、巨大生産と巨大流通に挑むようになった。し
たがって戦後、各地に発生した経験の乏しい弱小産地は疎外され排除される結果となり、そ
のなかには、かなりの大産地に発展したものも含まれた。かつて、「西条白菜」として名声の
高かった筑摩山地のハクサイ産地では、水田を兼営し、経営規模が小さく、しかも、規模拡
大の求めがなかった。そのうえ、長野と松本両市の中間地帯にあり労動力が流出し、地元に
も工業化の波が押し寄せるなどの条件が重なって衰退を余儀なくされた。また、トラック輪
送の時代に入って、一時、新興産地として意気の高かった木曽の開田村の場合も同様で、新
しい事態に対処する力が弱く、病虫害の発生と価格の大暴落のダブルパンチを受けて生産意
欲を失った。
1960 年代の後半には経済の高度成長がさらに進展し、1970 年の大阪の万国博覧会はその
頂点の象徴であった。この時期は、農業振興地域の整備や総合農政の声が高く、技術革新の
時代でもあった。輸送園芸も鉄道貨車輪送からトラックに換わった。また、鉄道時代にはす
べてスカシ木箱の包装であったが、1967 年ごろからダンボール箱包装に切り換わった。青果
物のダンボール包装は 1960 年代に水分の少ない果菜・根菜から始まっていたが、耐水性に問
題があって、葉菜類への導入は遅れていた。ところが耐水性ダンポールの開発によって、1960
年代後半には水分の多い軟弱物も、すべてダンボール包装となった。従来の木箱ではかさば
るので、出荷直前に組み立てていた。これは猫の手も借りたい多忙な出荷直前の長時間労働
であった。それに従来の木箱は木材資源保全上からも課題となっていた。ダンボールも同じ
木材パルプを素材としたものではあるが、その使用量も少なく資材購入費も低かった。こう
して、1967 的年からまずキャベツから切り換えが始まり、やがてハクサイ・レタス・ホウレン
ソウに及んだ。その資材はたたんだままで配給され、出荷の際には展開するだけですみ、出
荷労力の省力化に貢献し、その余力は面場管理と生産規模拡大に振り向けられることとなっ
た。
他方、このころからコメの豊作がつづき、1968 年には在庫が 300 万トンに及び、過剰の
兆があらわれ始めた。
1969 年には食糧管理法が改正され、
実質上コメの配給制度が停止され、
他面では稲作転換対策要約が閣議決定され、1970 年、大阪万博の年から実施されることとな
った。
こうして、野菜の生産規模が拡大し産地が巨大化するとともに、稲作の代書として安易に
転換できる野菜の作付けが増大し、野菜もコメと同様な構造的生産過剰の様相を見せるよう
になった。その結果、価格の乱高下がくり返されることとなり、夏秋キャベツでも出荷調整
や、暴落時における産地廃棄処分も実施されるようになった。
こうして、
1972 年にはまず秋冬キャベツ・ダイコン・ハクサイについて計画生産出荷が具体
化し、奨励金の交付・予約概算支払などが制度化されるとともに、価格低落時における価格補
填事業や産地廃棄などの市場隔離の制度も実施されるようになった。
生産側もこれに対応し、
産地間の競合にうち勝つため大量出荷・規格の統一を強化し・野菜生産も新時代に即応した管
理体制に組み込まれるにいたった。したがって、農協側でも経済運の指導計画にもとづいて
共販体制を伸長させた。
長野県では早くから北佐久郡に共同計算委員会による共販体制があり、やがて南佐久や諏
訪のキャベツ、松本筑摩山地のハクサイにも実施されるようになって、全国的にもその運営
のモデルとされていた。現在では農協が主となってこの業務を推進するとともに、品質の管
理・規格の統一・検査を厳重にして、その銘柄の品質を向上させて、銘柄の信用を高めること
に努めている。さらに、長野県経済運では全県を対象に、各単協ことに作付面積・収穫量・収
穫時期などの資料の提出を求め、これによって全県的な旬別の出荷計画を策定して各農協に
協力を求めて計画出荷を推進している。このような全県的な出荷計画は長野県の経済運のほ
か、静岡県経済運・高知県園芸運などが全国のモデルとされ、いずれも大規模産地を控え、巨
大都市中央卸売市場に対して若干の距離のある主産県である。
このような長野県側の姿勢に対し、
群馬県嬬恋村では若干異なった出荷形態をとってきた。
ここは産地が巨大でしかも一地域に集中し、かつ産地仲買商人との商慣習もあって、農協を
通す系統出荷と商人への販売とが相なかばする状態であった。しかし、嬬恋村農協が東京都
との間に締結した出荷協定や、価格低落時における価格安定制度が、農協を通してなされる
ようになったため、農協を通す系統出荷率がしだいに高くなった。こうして各農協は県経済
連を頂点とした商社のような性格を強めることとなった。
かくして、高冷地野菜の生産も工業的生産方式に乗せられて大規模経営化し、大量生産を
推進して、複数以上の巨大都市中央卸売市場を目標に大量輸送を行って、未曾有の活況をみ
せるにいたった。これまで僻地といわれていた高冷山村の経済は、直接巨大都市市場の市況
につながり、その価格変動に一喜一憂しながらも高収益を得て、目を見張るような一大集積
野菜主産地を形成し、8 桁農家が続出して、その生活様式を一変させ、なかには“野菜御殿”
といわれるような豪邸も建築されるになった。これはまさに、農業基本法の企図とした農業
の優等生であった。
(2) 農業の転換と技術革新
池田内閣の掲げた所得倍増計画による経済の高度成長は、
佐藤内閣・田中内閣へと引きつが
れ、昭和元禄を謳歌していた日本に一大ショックが起きた。すなわち、1973 年の秋、中東戦
争の拡大にともなう石油危機で、これによって日本の経済が混乱し、インフレが昂進して狂
乱物価を招き、これまでの経済の高度成長にともなうひずみが一挙に露呈した。しかし、先
進国の石油の消費節減と産油国の足並みの乱れによって、危機を克服することができた。こ
の間における物価の変動が大きくなり、労働人口が特定地域に偏在化し、貿易摩擦の深刻化・
教育諸問題などの社会の底流が表面に出て、これまでの高度成長を目標とした生産万式も転
換を迫られることとなった。
野菜生産も、これまで無理を承知で推進された単作型の大規模経営による農作物の連作障
害が顕在化し、地力の減退が大きな課題となった。他方では野菜価格の乱高下がいちだんと
激しくなり、稲作転換にともなう野菜の供給過剰、産地間競合がいっそう大きな間題となっ
た。
露地栽培が主であった高冷地野菜栽培は加温型の施設園芸のように、直接には石油危機に
は影響されなかったけれども、輸送手段には大きな痛手を受けた。燃料不足によるトラック
の滅便やダンボール資材の供給不足が大きな障害となった。しかし、かつての不況のときの
状況とは異なり、経済基盤の強固となった日本、まもなくこの危機からの脱出に成功した。
ところが.その反面では日本の農業は大きな転機にさしかかった。これはこれまでの日本が
経験しなかった事態であった。日本人の米の消費量も 1965 年ころから減少する傾向があら
われはじめ、しかも.その後の米の豊作と相まって政府在庫米は増加の一途をたどった。そこ
で、1971 年度から米の生産調整が始まり、石油危機の終った 1977~78 年には 2 年つづきの
豊作となった。そこで、1978 年から稲作の減反政策が実施されることとなり、その再編対策
として野菜の作付けが急増した。高冷地では米作の効率が低く収量も少なかったため、減産
の対象となった。この傾向は石油危機以前からの議題ではあったけれども、この時期になっ
て一挙に表面化した。長野県川上村では 180 ヘクタールに及ぶ水田が経営されていたが、そ
のほとんどが野菜畑に転換し、村をあげての高冷地野菜村となった。
他方では野菜栽培技術も格段の進歩を見せた。石油化学工業の副産物として、大量に供給
されるポリェチレンフィルムを使用した施設園芸が普及するとともに、露地栽培でもこれを
使用して畝を覆うマルチング栽培が一般化した。マルチング栽培によって、除草などの省力
化がなされるとともに、従来高冷地では 1 期作であったが、これが 2 期作・3 期作も可能とな
り、作期が前後に拡大して反収が増加し、これまで高距によって形成されていた生産秩序が
乱れることとなる。これによって高冷地産のものが準高冷地の収穫期の領分を犯すこととな
った。マルチングによって土地の乾燥を防止し、土壌の流出を防ぐ効果が大きいけれども、
集中豪雨の際には降水が地下に鯵透することがなく、一挙に流出するため、土壌浸食による
耕地の崩壊が憂慮されるようになった。また、使い捨てたフィルムシートの処理法などの新
しい課題も発生した。
さらに、高度成長期に実用化した野菜の予冷施設が、この時期において一般化し、高冷地
のみならず低地の産地にまで普及し、予冷処理と保冷トラックを使用する低温流通が当然の
ことのようになり、輸送手段の第 2 次の革新を招来した。予冷を実用化したのは長野県の高
冷地・準高冷地で、この導入によって野菜の変質・腐敗を防止し、収穫時と変りない新鮮なも
のを提供することが可能となった。このような施設の導入は、「流通近代化施設」としての資
金援助を受けることができるので、施設の導入が容易となった。
また、輪送手段の飛躍的な発展にともない、本州中央高冷地とほぼ同じような条件のもと
にある東北・北海道の冷涼地野菜の伸長が著しく、
本州中央高袷地は追いあげられる形となり、
新しい競合関係が頭著になった。さらに、貿易収支の不均衡の是正と自由化を要請する外圧
のため、野菜の輸入も大幅に伸びてきた。軟弱な葉菜類にはその影響が比較的少ないけれど
も、予冷と低温輸送を完全にすれば、軟弱ものでもかなりの遠距離・長時間の輸送に耐え得る
ことが実証されているので、近い将来には、これが実現することであろう。とくに、季節の
逆であるニュージーランドなどからは、すでに大量の果菜類が輪入きれている。さらに、本
州中央高冷地では観光業との対応が大きな課題となっている。また、生物工学の発展は農業
の転機をもたらした。
① 新時代への対応
前述のように、さまざまな外的環境の変化によって、高冷地野菜の生産も、これに対処し
ながら進展した。ところが、国民の食生活にも大きな変化があらわれた。1960 年代までは米
を主食とし、これに若干の副食物を加えていた食生活も 1970 年代から大きく変り、1973 年
には牛乳・乳製品・魚介類が 1.2 倍と増加したのに対し、米は 67%に低下し、イモ類は 59%
に落ち込んだ。その反面、パン食の普及、肉と酪農品の需要拡大とに呼応して、新鮮野菜に
対する要望が強くなった。これは、まさに食生活革命(Dietary Revolution)でもあった。他方
では、
流通形態も革命的な変貌をとげ、
食料品に対する新しい要求が出されるようになった。
すなわち、食品の安全性と健康食品に対する関心が強くなり、ミネラル・ビタミンなどの用語
が食品の宣伝用語としてさかんに使用され、自然食品や有機農業に対する指向が強くなり、
有色野菜が健康的であるとの理由で需要が増加してきた。
また、食生活も元来、生命を維持する手段であったが、いまでは食生活そのものを楽しむ
段階へと変化した。グルメ指向などはその象徴であろう。
他方では、加工食品および外食産業の発展で、これには女性、とくに主婦などが就業・趣味・
旅行などのための外出の機会が多くなったことにも関連し、調理に手のかかららないものが
要求され、さらにチェーン化され・大規模化した外食産業の進展がこれに拍車をかけた。
このような頬向のなかで・野菜の需要にも大きな変化がみられろ。国民 1 人 1 日当りの野
菜消費量は 1973 年ころから 300g で、これも頭打ちの状態にあり、今後もその拡大には期待
が持てない。しかし、その消費内容をみると、在来の伝統的なイモ類、根菜類の需要が大幅
に減退した反面、レタス・ブロッコリ・アスパラガス・セルリーのような洋菜額と果実的野菜、
すなわちイチゴ・メロン・ピーマンなどの伸長がみられる。
これに呼応して供給側にも大きな変化を招来した。
これを列挙すると、つきのようである。第 1 に、ほとんどの野菜が周年供給を可能とし、
これまでのような季節感を失ってしまったことである。夏秋期に供給されていた果菜額は施
設化の進展にともない、いつ、どこでも生産が可能となった。高知県や宮崎県などの暖地図
芸地域では、
初期の段階では温暖な気候条件が重要な意味を持っていたが、
現在ではむしろ、
従来の伝統を基盤とした進んだ技術に支えられ、施設化した産地銘柄品としての意味が大き
くなった。また、主として冬または早春の寒冷期に供給されていたキャベツ・レタス・ハクサ
ィも高冷地または冷涼地に通地を選択することにより、年間ほとんど変りない出荷量を確保
するようになった。すなわち、施設化の進展と冷涼地での選択であり、ここに暖地園芸と高
冷地園芸との差異がみられる。
第 2 に、大規模な物流時代への対応である。巨大都市の中央卸売市場は入荷量が多い。そ
の中心的な役割を果しているのは、荷受会社すなわち卸売業者で、その業績を拡大するため
に、集荷能力を増強している。したがって、そこで形成される市場価格は他の地方市場なら
びに産地に大きな影翼を与える。また、ここで集荷された野菜は他の地方市場などへ転送さ
れる量が多くなった。また.大量の購入者である量販店や外食産業者の要求に応じた形状・規
格・色彩が豊かなものが要望され、いちだんと見栄えのよいものとなった。
第 3 の傾向は多品目化への進展である。これは前述の規格化とはやや性格を異にするよう
であるが、販売を多面化するためには、商品の個性化・特産化も時代の動きである。したがっ
て、どの産地でも、他産地に見られないような優良品や特産品の産出に腐心している。しか
も、これを可能にしたのは生物工学の進展にともなう新品種の開発であり、高級品の大衆化
である。また、農豪の兼業化が進むなかで、婦女子の細かな手作業による栽培技術が有効と
なる場合も多い。とくに、準高冷地では大量生産品目を基幹とし、これにこのような特産的
な高級品目を加え、総合的な出荷体制を整備しているところが多い。
第 4 の課題は土壌対策である。これまで、多年の連作を強行してきた耕地では、土壌条件
が劣化し、さまざまな障害が顕在化している。したがって、新しい“土づくり”が焦眉の課
題となった。このための深耕・客士の施入・有機肥料の投入が必要となり、畜産と結合した複
合経営が望ましいといえる。しかし、各農家ごとにこれを取り入れることは労力配分からも
困難な場合が多いため、これを地域に拡大した地域的複合経営によってこの解決を急ぐ必要
がある。
第 5 にバイオテクノロジーの進展による農業革命である。
すでに組織培養の進展によって、
高級品目の一般化が容易となり、洋ランなどの育成には著しい効果をあげ、これまでの“高
嶺の花”が大衆化し容易に手に入るようになった。野菜類でもレタス・キャベツ・トマト・ニン
ジンでは実用化の段階に達し、こうして育苗きれた優良品種が大量生産によって均質なもの
が供給されるようになり、この幼苗をカプセルにした人工種子も出現した。これを整備され
た施設による工業的生産様式によって育成すれば、自然条件を遮断し、ウィルスによる汚染
防止が完全となり、栽培の技術革新が進行中である。ただし、このような育成は、現在でも
かなり面倒な作業と多大な経費を必要とするけれども、やがて工場的生産方式でこれも軽減
されるものと思われる。さらに遺伝子組みかえによって、これまで見られなかった人工品種
が出現し、農業のみならず人の思想にも大きな影竪を及ぼすこととなった。しかし、基本的
には生物のもつ個有の生育・生殖。遺伝の諸現象を引き出して利用したものであり、無から
有を導き出したものではなく、絶えざる研究の成果として出現したものである。
このように、現代は野菜生産も大きな転機の中にあるといえよう。しかし、農業は、人の
生命を維持するための基本産業であり、生産性を追求する以前に、産業倫理の確立が望まれ
る。
注および参考文軟
1)上野福男・高校地理研究会(1969):御岳乗鞍周辺の地理、p.276
2)川崎敏(1980):世界の産物誌.p.25
3)農林水産省農蚕園芸局監修(1974):日本の稲作・ p.61 地球社
4)前掲 2)、p.25
5)長野県経済運(1974):長野県そ菜発展史、p.2
6)松崎正治(1977):信州の特産と鉄道・p.100、銀河書房
7)上掲書:P.112
8)8)前掲 pp.51~53
9)9)桝田一二(1940):信州菅平の地域性・地理 3ー1.大塚地理学会
10)
前掲 6)、p.123
11)
野辺山開拓農業協同組合縞(1968):野辺山開拓二十年史
12)
加藤武夫(1965):御岳東麓の高冷蹄菜の産地形成と市場 人文地理 17-3
13)
前掲 6)、p.128
14)
昌谷孝(1985):農業基本法農政の展開・農業と経済臨時増刊「農政の戦後 40 年」p.40
15)
15)前掲 5)、p.17
++++++++++++++++++++++++++++++++++
Ⅲ大規模産地
ここで述べる大規模産地とは、
同一の市町村または同一の農協の管轄下にある集積産地で、
経営面積が200 ヘクタールを越え、
農家も100 戸以上を数える集団化した産地を対象とする。
これに相当するものは菅平・嬬恋村・川上村および野辺山高原である。その生産品は全国に配
送される。
4
生産環境
(1) 気候と土壌
菅平・嬬恋村・川上村・野辺山原の大規模産地は、
いずれも標高1、
000m を超える高冷地で、
広大な圃場を有し、全国にその名を知られた主産地である。
菅平の 8 月の平均気温は 20℃を超えることがなく、年平均気温は 6.2℃で札幌の 7℃より
も低く、稚内(6.3℃)・旭川(6.3℃)・帯広(6.1℃)に匹敵する。年降水量は 1、000mm で、上田
の 915mm よりは多いけれども、日本の平均よりは少なく、冬季には積雪が根雪となる。ま
た、隣村の嬬恋村田代にある農林水産省の種苗管理センター嬬恋農場(高度 1、230m)におけ
る 8 月の平均気温は 20℃、年平均気温は 7.8℃で、ここも菅平と大差はない。嬬恋村役場の
ある大前(890m)でも、8 月の平均気温は 21℃、年平均でも 9℃で、ほぼ函館に相当する。菅
平の冬季の積雪量は平均 100mm 内外で、根雪は 12 月上旬から 4 月下旬までで、平均する
と 9 月 25 日に初霜、5 月 27 に終霜をみる。積雪の最深は 200~350 皿におよび、戦前から
スキー場として冬型の外来客を迎えていた。8 月の平均気温は 20℃内外であるけれども、夜
間は 15℃にまで下降し、早朝は霧が発生し高冷地野菜産地としての条件をそろえている。
嬬恋村田代の降水量は 1、655mm、 大前では 1、266mm で 9 月と 8 月に多く、菅平の
裏日本型気侯とはやや異なった表日本式気候で、冬の積雪は少なく根雪も 30cm 内外で、ス
キー場としては不向きである。
八ケ岳火山群の東に位置する川上村は、
全村城が 1、
000m を超える高冷村で、
村役場も 1、
180m にあり、わが国における町村役場の最高地点である。ここも寒冷で年平均 8℃で、9
月下旬には初霜があり 5 月下句が終霜で無霜期間も 100 日余りにすぎない。ここの年降水量
は 1、223mm で、菅平と同様に高冷地としては比較的少なく、最深積雪も 40cm で、これ
はそれほど多いとはいえない。
これよりもさらに標高の高い八ヶ岳火山東斜面の、南牧村野辺山の開拓地にある信州大学
農学部野辺山農場(標高 1、351m)での平均気温は 6.4℃と低く、7~8 月でも 1 日の最高気温
が 20℃を超える日はわずか 20 日内外で、
最高気温が 30℃を超える日は少ない。
降水量は 1、
512mm で冬季には少なく、夏季には夕立型の降雨が多い。冬季の積雪の少ないことは土壌
に保温性が少なく、土壌の凍結のため、越冬作物でも断根が多く、凍害を受けることが多い。
広大な高原のため冬季は北西の季節風が強く.瞬間風速 20m 以上の突風に見舞われることも
多い。
該当諸産地の地形を概観すると、菅平は千曲川の支流、神川の源流部に当たり、耕地は旧
湖盆に相当する盆地性の平地と、四阿(あずまや)火山南西の裾野性高原面上に展開する。
嬬恋村は村城の西半分が 1、000m 以上の高冷地で、その南東に浅間山(2、543m)、南に鳥帽
子岳(2、065m)などを主峰とする浅間火山群および湯の丸カルデラで、そのなかに大桟敷山・
小桟敷山・村上山・鍋蓋山・糠塚山など大小の焙岩円頂丘がトロィデ型火山の展示場のように
並び 1)、その山麓に鹿沢・新鹿沢の温泉が湧出し、この山麓のあたりまで耕地が拡大してい
る。地域の北西部は菅平につづく四阿火山(2、333m)の裾野で、その北東には万座温泉を抱
く白根山(2、138m)を主峰とする白根火山群がつづく。この南北の火山群の裾野の接合線に
沿って西から東に利根川の原流のひとつの吾妻川が流れ その南北の波浪状裾野性高原面に
広大な耕地がつづき、その耕高境は 1、550m に及んでいる。村城の東部は、吾妻川が浅間
火山噴出物を下刻する皮流をつくり、標高も 1、000m 以下となり耕地は狭小となる。菅平・
嬬恋の両産地ともに火山灰の黒褐色土で酸性が強い。
八ヶ岳火山東部の川上村および南牧村の西部一帯は火山の裾野性高原であるが、そのなか
を千曲川の源流の梓川が流れる。川上村ではほぼ東から西に流れ、流路に沿って広い氾濫原
を形成している。村城の東部では広大な段丘を形成しているが・西部では流路を北に向け、八
ケ岳火山裾野高原を下刻して飲流を形成し、ところどころに理横谷をつくり、氾濫魔をとも
なっている。これまで、この低地では稲作が営まれ、段丘面・裾野性高原では畑作がなされて
いたが、稲作転換により低地の水田が野菜畑に転換されたところが多く、川上村ではそのほ
とんどか野菜生産地となった。八ケ岳の裾野性高原面はもと林地で巨礫が多く、その全面的
な開拓は戦後で、野辺山原の開拓はその代表例である。これらの火山斜面の主産地の多くは
火山礫が多く、強酸性の火山灰土ではあるが、川上村東部の梓川の段丘面ではその被覆がな
く、優良な畑作農地を提供している。
(2) 開拓の状況
これらの主産地は、かつては僻遠の地で、採取生活を主としていた先史時代は別として、
近世以後の稲作を主とするような、暖地型農業経営には不適格地であった。
① 菅平:ここは 1745(延享 2)年に上田の商人により、ついで 1851(嘉永 4)年には上田藩
によって開墾が試みられたが、いずれも失敗に終った。しかし、上田藩の抱え人のな
かで、ここに踏み留まった人たちが菅平の草分けになったといわれる。明治以来、本
格的に開拓者が入り込んだけれども、これは 1883(明治 16)年、北信牧場(現在の菅平
牧場)を開くためのものであった。しかし、公的な援助や補償がなく、定着率はきわめ
て低かった。当時、土地は官有地であったけれども、その管理が放漫であったので、
自由に開墾することができた。しかし、その開墾作業は容易ではなく、試行錯誤の状
態でなされた。このようにして、ようやく 1 町 4~5 反の畑に、在来種のバレィショの
加比丹芋を植えつけ、アワ・ソバの雑穀を自給的に栽培し、冬は製炭と出稼ぎによって
かろうじて生計を維持していた。大正期になると秋蚕用の採種と、札幌から春コムギ・
エンバク・マメなどの種子を入れ、200 坪の試験地において栽培法を試験したが、これ
が高冷地園芸の端緒となった 2)
。これと並行して、たびたび水稲の試作がなされたけ
れども成功しなかったので断念して、高冷地向きの雑穀などの栽培に戻った。このこ
ろ、上田営林署がバレィショの原種を入れ、2 反歩の試作を開始したのが種バレィシ
ョ栽培のはじめとされる。1924(大正 13)年には長野県の種バレィショの生産指定地と
なり、県農会・県農務課の委託を受けて 4 町歩の畑で生産を開始すると同時に、採種組
合を結成してこれに対応した。
② 鷹恋村 :当村城も隔絶山村ではあるが、菅平などと同様に各地に縄文土器が出土し、
有史以前からの居住地であった。古代の大和の英雄伝説の主人公の日本武尊が、東征
の帰途ここを通り、かつての海難の際、海神の怒りを鎮めるため、尊の身代りとして
おかたちばなひめ
海に身を投げたという妃 弟橘姫 を、この地で 3 幕したという説話が本村の村名になっ
たという。これは、ここが古くからの通路であり、かつ、展望がよかった当時の状況
を物語るものであろう。また、北国往還であった大笹街道がここを通り、大笹には関
所が設けられ、三原、大前、大笹、田代の各集落は宿場町のような性格があり、街村
状の集落形態を残している。しかし、冬季は通行の途絶することが多かった。荘園時
代には三原荘に属し、武田氏系の真田氏の沼田領となり、のち 1681(夫和元)年には天
領として幕府の代官の支配下にあった。こうして当地は、上州にありながら、信州と
の結合が深かった。火山地域のため火山災害乙遭うことが多く、1783(天明 3}年の浅間
大噴火による火砕流によって鎌原集落が埋没し、570 人の庄民のうち観音堂へ避難し
た 93 名が、かろうじて難をまぬがれたといわれている。このみたりでは現在でも耕地
化は進んでいない。当時は、わずかにアワ・ヒエ・ソバ・トウモロコシなどの雑穀と、ダ
イズ・ァズキなどの豆類を自給的に栽培するほか、山林稼業・製炭・出稼ぎと、大笹街道
の駄賃かせぎで生計を維持していたのにすぎなかった。とくに西部地一は、稲作さえ
も定着しなかった高冷の寒村であった。ところが国鉄信越本線の開通によって駄賃か
せぎは消滅し、大正期には養蚕が入って、わずかな現金収入を得ていた。
2 導入と進展
大規模産地における輸送園芸としての野菜の導入は、野辺山のような戦後の開拓地以外で
は、すでに戦前からなされていた。その契機となったのは、それぞれの主産地によって若干
の差異は見られるものの、その基本条件では、農村恐慌による養蚕の不振と、これに代る品
目としての野菜の導入であり、これを可能としたものは鉄道輸送の利便であった。
(2) 嬬恋村
嬬恋村でも、ほぼこれと同様な経過をたどって野菜生産が進展した。昭和初期の農村恐
慌の際には、菅平の場合と同様に青木彦治によってキャベツが尊えされ、当時の村長が
これを受けて、農村更生の切札とした。鳥居峠の改修と上田温泉電軌真田駅の開業はこ
の進展の基盤となった。嬬恋村西部地域は、広大な農用可能地が存在し、その周囲には
未開発の国有地が展開していた。当初は国有地を借用して開拓を進めていたが、やがて
耕作農家に払い下げられ、1965 年には全域で 1、310 ヘクタール、1戸平均 3 ヘクター
ルに近い経営を行っていた。こうして、田代集落を核として、キャベツを主産とする大
規模野菜生産が本格化した。さらに、その周辺には、いくつもの戦後の開拓地が開発さ
れた。浅間北麓の大内・山梨・中原、四阿火山や白根南麓の北山・干俣(ほしまた)・仙之
入の開拓地でもキャベツの生産を始めた。このうち、中原開拓は 1948 年に、上田市に近
い神川流域の住民が入植したので、当初は 30 戸であったが、1985 年には 20 戸が定着し
て野菜精算を行っている。ここは浅間北一の標高 1、200m の地点で、耕境は 1、350m
に及ぶ。その気候条件は田代よりきびしく、1 月の平均匁温は一 6℃、最低気温は一 20℃
を記録し、積雪も lm を超える。初霜の平均は 9 月 25 日であるため野菜生産も盛夏用の
夏 1 作型が多くなる。壮年層の農業専従者が多く営農意欲が強く、年齢別人口構成も理
想的である。仙之入閣拓は、白根火山南麓の火山抽出物の堆積地で、集落も散居形態を
なしている。かつて、陸軍の演習場であったが、1948 年以後、草津町などの群馬県東部
地域からの入植者によって開拓され、1985 年には 30 戸が定着している。当初は自給用
の雑穀と出荷用のダイコンを栽培していたが、1958 年ころから田代にならってキャベツ
を入れ、1962 年には生産を軌道に乗せ、嬬恋キャベツ生産地域のひとつになった。ここ
では酪農との複合経営が特色である。すなわち、土地条件が集約的農業には不向きであ
ったため、一部の農家が酪農との複合経営を始めたが、これが各農家に普及した。はじ
めはジャージー種を入れていたが、のちホルスタィン種に切り換え、1 戸平均 27 頭を飼
育している。その牛乳は嬬恋農協において精乳している。当初は、この経営に批判的で
あった他の開拓地でも、酪農との複合経営に踏み切るものもあらわれ、その厩肥は野菜
単作型農家にとっても重要な有機肥料源を提供している。したがって、広域的な視点で
みれば、嬬恋全域では、地域的複合経営を行っているといえよう。
3.生産規模の拡大
(1) 規模拡大の必要性
大規模高冷地野菜の主産地では、いずれも広大な集積産地が展開し、1戸あたりの経営規
模も大きい。高冷地野菜の出荷期がほぼ盛夏と初秋の短期間に限られているため、収益の増
大には規模の拡大が前提条件となる。また.野菜の単作型経営が多いため、地力保全のために
も耕地に余裕のあることが要求され、この事情は、前述の野辺山開拓の場合に端的にあらわ
れている。これまで高冷地野菜生産農場の周辺には未開発の林地が存在し、しかも、そこが
国有也・公有地・入会地となっていたところが多かった。このような土地が、戦後の緊急開拓
の対象となり、その後の農業基本法農政に基づく経営規模拡大の気運に乗って、国や地方自
治体などの資金援助を受けて開墾し、規模拡大に成功した。嬬恋村や野辺山開拓地はその例
であり、酪農などの複合経営を営むものもあり、労力競合の課題を除けば、野菜生産と酪農
とは補完的関係にある。規模拡大と機械化の進展によって大量生産が可能となり、生産性の
高い農家集団を形成した。
(2) 菅平と娘恋村の状況
菅平でも第 2 次大戦後から 1960 年代にかけて、
前述したような 278 ヘクタールの国有地・
公有地・民有地が農家の所有となって規模拡大への道を開き、生産品目が多角化した。戦前す
でに 100 ヘクタール近い耕地を所有していたものが、350 ヘクタールに拡大した。嬬恋村で
も、その後における耕地の拡大は顕著であった。在来の集落に顔拓地を加えた当村では、パ
イロット事業による大規模な農地造成を行った。この事業は強力な政治力を背景として、関
東農政局が主体となり、大笹地区に「嬬恋西部開拓建設事業所」をおいて、四阿火山東南斜面
の国有地 600 ヘクタールと民有地 170 ヘクタールを対象として農地を開発し、群馬県でもこ
れに呼応して 300 ヘクタール余を開発した。開拓事業のほか、土壌改良・農道建設・畑地灌漑
施設などの附帯事業を推進し、さらに野菜流通近代化資金の援助を受けて集出荷施設を充実
した。その結果、夏秋キャベツを基幹とする野菜生産は飛躍的に発展し、嬬恋農協は 1974
年に朝日農業賞を受賞した。経営規模が広大であるため機械化が進展し、深耕に必要なトラ
クターは 3、134 台で、このうち 30PS 以上が 604 台、動力噴霧磯 704 台、共同県出荷場も
85 となっている。各農家でも大小 2 台のトラククーとトラック、動力噴霧機を所有し、地力
の減退を防止しながら大量出荷を行っている。経営規模の大きいことは、比較的省力化が可
能なキャベツの生産に適し・わが国最大の夏秋キャベツの産地となった。
4 生産の状況と課題
大規模産地では、国の援助、助成を積極的に取り入れ、経済の高度成長時代にふさわしい
農業地域を形成した。
(3) 嬬恋村の大規模生産
群馬県はわが国最大の夏秋キャベツの主産県で、その作付けは 2、590 ヘクタールにおよ
び、主として 7 月~10 月の 4 ヵ月間に大量出荷を行っている 14)。群馬県はその 91%が夏
秋キャベツで、大都市市場では圧倒的なシェアを持っているが、そのうちの 77%が県域西部
の嬬恋村の生産である。したがって、群馬キャベツは“嬬恋キャベツ”であるともいえる。
キャベツは嬬恋村のシンボルでもあり、村章にさえなっている。その主産地は村域西部の長
野県域に食い込んだ標高 1、000m 以上の高冷地で、既存集落の田代がその中核をなし、耕
地は開拓地一帯におよびその大圃場と生産の状況は壮観である。
嬬恋村では、高度 900~1、450m の地域に 2、329 ヘクタールの耕地が展開し、その 90%
以上が畑であり、
その主産品目がキャベツである。
すなわち農業生産の 56.2%がキャベツで、
これにレタスの 9.7%、バレィショ 5.6%、ハクサイ 5.1%、ダイコン 1.1%、その他 22.3%と
つづき、とくに新規の開拓地では、 その大部分がキャベツとなっている。
1980 年の農林業センサスによると、嬬恋全村の農家は 1、193 戸で、耕地面積は 3、000
ヘクタールにおよぶ。そのうち専業率は 307 戸(42%)、第 1 種兼業が 246 戸(21%)、第 2 種
兼業 440 戸(37%)で専業率の高さは群馬県内で第 2 位、1 戸あたりの経営面積も第 2 位であ
る。しかし、当村は地域が広大で不生産地や多数の零細農家を含むため、市町村単位の統計
では若干その比率が低下するけれども、高冷野菜の主産地である西部地域の田代・干侯(ほし
また)・大笹地区の専業率は 65.7%におよび、経営面積も 1 戸あたり 3 ヘクタールを超える。
また、同年のセンサスでは、野菜の作付けは、キャベツ 1、470 ヘクタール、レタス 181
ヘクタール、バレィショ 160 ヘクタール、 ハクサイ 134 ヘクタール、ダイコン 26 ヘクター
ル、トマト 3.3 ヘクタールとなっている。しかし、標高のやや低い東部の山間低地には 120
ヘクタールの水田も経営されている。当村の農家の年間 1、500 万円以上の農家は 16 戸で、
いずれも野菜生産農家である。また、野菜生産を第 1 位とする農家は 702 戸で、そのうち野
菜生産単一経営農家は 595 戸におよび、その比率はきわめて高い。
当村の農出荷額のうち、野菜は 73.3%を占め、共同出荷場は耕地の中央に配置され 85 ヵ
所に及んでいる。しかし、収穫時には多大の労力を必要とするため雇用を必要とする農家は
98 戸で、その延人員は 7、671 人におよび大規模産地の様相を伺ううことができる。
つざに若干の農家の経営状況をみる。田代の K 農家はキャベツ 4.8 ヘクタール、ハクサイ
1 ヘクタール、レタス 20 アールの作付けを行い、本人夫妻と長男および長女の 4 名が野菜作
に専従し、キャベツだけでも 1 万 9、200 ケース(1 ケース 15kg づめ)、1アールにつき6ト
ンで 400 ケースの生産をあげている。耕作には大小 2 台のトラクターと 2 台のトラック、大
型動力噴霧機を使用している。農作業を合理化するため、年間・月間・週間ことに独自の計画
表を策定し、これによって作業の効率の向上と省力化を進め、余暇を生み出す工夫をしてい
る。
これとほぼ等しい経営規模を持つ A 氏は、その収益が K 氏の約半分で、営農に対する意
欲や姿勢によってこのような格差があらわれている。
また、この地域の標準型で平均的な規模を有する I 氏は家族 5 名、うち農業専従者は 3 名
で 4 ヘクタールのキャベツ畑から 1 万 6,000 ケース、0.8 ヘクタールのハクサイで 3,000 ケ
ース、0.2 ヘクタールのレタス 700 ケースの生産をあげている。このほか、0.2 ヘクタールの
バレィショ 300 ケース(20kg づめ)も出している。
また、大規模経営の S 氏は 7 人家族中 5 人が野菜作に専従し、年間 30 人の雇用を入れ、
大型トラクター2 台を所有し、キャベツ 8 ヘクタール、ハクサイ・レタスそれぞれ 2 ヘクター
ルの作付けを行っている。専作経営による地力の消耗を防止するため、かつては大量のカラ
松の落葉を利用していたが、大規模経営の時代になると、酪農家と提携して大量の堆肥源を
入れている。
肥料源の確保は大規模産地の最重要課題で、当村では農協主導のもとで、新鋭の肥料製造
施設を導入するほか、上の貝地区に 2,000 余万円で共同堆肥舎を建設するなどの対応に懸命
である。仙之入地区をはじめ、村内には 16 戸の酪農専業農家があり、600 頭(うち 200 頭が
ジャージー種)が飼育されているが、野菜農家にとっては重要な厩肥源を提供し、地域的複合
経営を推進している。酪農における牛乳の生産が 2 億円で、農協で集乳加工してミカド牛乳
の銘で、2,000cc 入りのものを 2,000 個、1,000cc 入り 10 万個の 2 種類をパックして販売し
ている。飼育牛のうちの 250 頭は繁殖用の雌牛で、この売上げも 1 億円におよび 当村の酪
農は野菜生産に次ぐ生産をあげている。飼料源として農協でも 200 ヘクタールにイタリフン
ライグラス・エンバクなどを入れ、村内の需要に応ずるほか、群馬県畜産開発公社を通して生
牧草または干草として、村の内外に出し、700 万円の生産があるという。大量の厩肥や牧草
は大型トラックによって野菜農家に供給され、地域的な複合経営を行っている。
当村における野菜生産の状況を長野県と比較してみる。1979 年の関東農政局編の「嬬恋村
の農業」15)によると、キャベツでは、長野県側では 10 アールあたりの労働時間が 74.4 時
間で嬬恋村の 66 時間よりも多い。これは長野県側は一般的に嬬恋村より経営規模が小さい
ことにも起因する。しかし、農薬の使用量は長野の 2 倍以上である。これも経営規模が大き
く、省力化と連作等による障害の多発に対処するためである。
レタスの場合、その反収は長野側の 87%で、所得も 62%にすぎない。労働時間も長野側
の 90.9 時間に比し嬬恋では 75.3 時間と少ない。長野側では中耕・除草・防除などに手の込ん
だキメの細かい経営を行っているのに対し群馬側では省力が多い。嬬恋におけるレタスは、
キャベツの連作障害回避の手段として入れたもので、生産もキャベツに対する副次的なもの
となっている。このような経営規模の大小が、嬬恋側には比較的省力経営が可能なキャベツ
を定着させ、これと競合を避けろような形で、長野側がレタスを主産とするようになった。
こうして収穫されたキャベツは、広大な耕地のなかの各所に設置された集荷場に運び、そ
れぞれ LL、L、M に選別してダンポール箱につめて検査員の検査を受ける。出荷量の多い
のは L サィズで、1 ケース 15kg づめで普通 12 個球である。出荷の最盛期には村の内外の道
路は輸送トラックのラッシュとなる。
当村のような単作型の大産地では、市場価格の変動にとくに敏感で、市況を受けるたびに
一喜一憂する。とくに暴落の場合には深刻で、1 ケースが 500 円を下まわると、生産費さえ
も償えないこととなり、市場隔離や産地廃棄などの非常手段に訴えることもある反面、時に
は思いがけない高値で、笑いのとまらないこともある。これも大規模な輸送園芸主産地の宿
命である。
このような価格問題の他に、深刻にになってきたのは連作障害による減収である。キャベ
ツはハクサイ・レタスなどに比較して比較的この耐性には強いとされていたが、40 余年にお
よぶ単作型栽培のため 萎黄病・梶コブ病の発生が顕在化しとくに古い圃場に多発する。この
対策は土壌消毒によって一時的には克服できるけれども、根本的な施策ではなく、近年、と
くに梶コブ病の被害が頭著となった。そこで、農協や村当局は輪作の推進と土づくりを勧奨
し、手のつけられなくなった園場に対しては 1 ヘクタールにつき 2 トンの大量の客土の施用
を行うこととしている。しかし、これには多大の労力と資金を要するため、農民はこの受入
れを渋る傾向がある。また、1 年間休耕すれば梶コブ病を 40%に抑えることができるといわ
れるが、休耕は直接減収となるため これにもあまり乗気ではない。しかし、このような場合
でも自然はかなり寛大であるために、無理を承知で連作を強行することが多い。
その根本的対応としては輪作体系の確立であり、そのためには畜産との有機的結合の強化
が必要である。普通、キャベツのあとにはライ麦を採種してすき込み、翌年レタスを入れて、
そのあとにまたライ麦をすき込む。そのかわりに牧草を入れて畜産農家に提供するものもあ
る。火山の裾野性高原のため、土壌が酸性で、しかも下層に巨礫が多く深耕の障害となるた
め、サブソイラーによる破砕が必要である。火山灰士のため腐植含量が少なく、有害なァル
ミナの量も多い。作物に必要な石灰や鱗分が少ないため、大型トラクターにサプソイラーを
セットして、10 アールにつき 300g の苦土石灰を入れ、燐酸肥料として熔成鱗肥 20kg を施
入している。
品種も SE のほか、春秋、耐病 60 日、はやみどり、オリンピアを入れるなど、多品目化
が進展した。それで榎コブ病の多発に悩まされ、PCNB の多用となる。しかし、このよう
な消毒剤の多用は新しい環境問題を引きおこしている。したがって、当村のように他に適当
な代替産業が見当らないために、根本的な障害回避策を確立することが必要である。
また、マルチング栽培の普及は作期を拡大し、収益の増大につながるけれども、降水が直
接大地に浸透することなく流出するので、土壌流出と土壌浸食が進み、さらに使い古したフ
ィルムの処理などの新しい課題が発生した。これも大規模産地であるだけに、問題が深刻で
ある。さらに、大産地の単一生産体制そのものが大きな課題となり、とくに価格暴落時に対
する産地廃棄や市場隔離などの非常手段が日常化しつつある。そのために生産品を多品目化
して危険の分散を進めることが必要であり、レタスの導入はその例である。このほか、グリ
ーンボール・ブロッコリ・カリフラワーなどの導入も進められているが、大規模経営であるた
め、小まわりの利かない難点もある。
また、こうした高冷地の場合、観光などの他産業との土地利用競合がある。嬬恋村の野菜
産地の後背地一帯は上信越国立公園のわが国一級の観光地帯である。しかし、観光用地の場
合では、多少の傾斜や火山地形はそれほど大きな障害ではなく、農業との土地利用の競合は
少ない。また、別荘地などの開発が進んでいる地域は、その多くは東部の六里が原一帯の火
山斜面または泥流地帯で、耕地化するためには開墾が必要である。西部の広大な野菜畑の南
隅に新鹿沢の温泉があるけれども、規模がそれほど大きくなく、そのために既存の畑地に影
響するほどではない。したがって、このような環境のもとで、今後とも野菜生産を酪農との
合理的地域的複合経営によって、生産性の高い野菜生産を総続発展させる必要がある。
2 高冷地野菜園芸の課題と克服
(2) 連作鷹寮の顕在化
これまでの野菜生育は、
生産性の向上を至上のものとし、
土地利用の高度化を進めてきた。
さらに栽培技術の進展によって、高冷地野菜栽培でも、2 期作・3 期作も可能となった。この
ような生産様式は、工業生産における大量生産万式をそのまま農業に適用するようなことと
なったが、その結果、地力の酷使による土壌条件の劣悪化を招来し、単品目の連作にともな
う連作障害の頭在化や病虫害の多発に悩むこととなった。このことは、どの野菜作でも共通
の課題ではあるけれども、高冷地野菜産地のように、栽培作目が特定品目に特化し、しかも
大規模経営生産である場合にはとくに切実な課題である。
三重県安濃町にある農林水産省の野菜試験場が 1984 年に行ったアンケート調査の報告に
よると、国内の 881 地区の野菜産地において連作障害が顕在化し、延べ作付面積の 2 割にそ
の被害が見られるという。これは土壌中の微生物が原因とみられる病害によるもので、その
防止のため薬剤散布などによる消毒がなされてきたか、その毒性による環境への影響も無視
できないものになった。同試験場の全国調査は 1983~84 年にわたり、キュウリ・ナス・豆額・
キャベツ・ネギなどの 46 作品目を対象にしたもので、その主要品目と病虫害はつきのようで
ある。
キュウリ.土壌線虫害
スイカ.急性萎黄病
ト マ ト・青 枯 病
イ チ ゴ.萎 黄 病
キャベツ・根コブ病
ハクサイ.根コブ病
レ タ ス.軟 腐 病
ホウレンソウ.立 枯 れ
ジャガィモ.そうか病
ダイ コ ン.萎 黄 病
ニンジン・土壌線虫害
さらに、その主要なものを農政地域別にみると次のようである。
関 東 キャベツ 1500 ヘクタール、ハクサイ 1300 ヘクタール
北海道 タ マネギ 2、590 ヘクタール、 ダイコン 642 ヘクタール、ニンジン 840 ヘクタ
ール
宮 崎 サツマイモ 770 ヘクタール
佐 賀 タマネギ 1000 ヘクタール
このなかで、ダィコンの萎黄病は 35 県、イチゴは 32 県、トマトでは 32 県に彼害が及んで
いるという。その後、同試験場では 1986 年にも同様の調査を行ったが、これを前のと比較
すると障害発生産地が 340 ヵ所も増加し、被害野菜品目も 6 種目も多くなった 1)。
高冷地野菜の主産県の長野県でも、販売対象野菜総作付面積 3 万ヘクタールのうちの
15.4%の 4、632 ヘクタールに、このような障害が発生しているという。その基幹作物であ
るハクサィの 878 ヘクタール(30.5%)、キャベツ 510 ヘクタール(22.5%)、レタス 1、168 ヘ
クタール(21.6%)の葉物 3 品だけでも、2、556 ヘクタール(24.3%)、すなわち4分の1がこ
れに該当している。このほか、生産を推進しているホウレンソウ 94.1 ヘクタール(22.7%)、
ダイコン 437 ヘクタール(19.4%)、キュウリ 83.5 ヘクタール(11.2%)にも障害が発生し、こ
れを地域にみると、南佐久で約 25%、上田・小諸地区の 20%のように、従来の先進的大規模
な高冷地野菜主産地域にこれが目立っている。品目別の障害は次のようである。
ハクサイ 根コブ病・黄化病
レ タ ス.軟腐病・根コブ線虫病・萎凋病
キャベツ.梶コブ病・萎黄病
ダイコン 萎黄病・根部生理障害
ニンジン.黒腐病
ト マ ト.萎凋病
キュウリ.斑点細菌病
このように障害は多様で、土壌伝染に起因するものが多い。この対策として、それぞれの
産地では試験研究機関の研究成果にもとづいて、各病害ことに薬剤による防除を始め、 pH
矯正、マルチ作型の導入、生物学的防除法などを単一に、あるいはこれを組み合わせて総合
防除対策を樹立し、また「野菜作柄安定総合特別事業」などの各種の援助事業を導入して輪作
体系を練っている 2)。従来のわが国の農業でも、経験による輪作体系すなわち“まわしづく
り”がなされていた。野辺山の開拓地のように、当初から野菜作を酪農と結合させた複合経
営にともなう輪作体系は、個々の農家の経営からみれば、日本の高冷地における理想的な営
農といえよう 3)。しかし、その前提として欧米なみの経営面積を必要とするばかりでなく、
野菜と畜産とが均衡のとれた収益のあることが要請され、かつ労力にも余裕があることも要
求される。したがって、個々の農家ではこのような複合経営が困難となる傾向があり、これ
を超えた広域の地域的複合経営が行われるようになった。こうして、野菜畑にも牧草を入れ
て輪作の一環とするとともに、畜産農家から大量の厩肥の供給を受け入れることができる。
そのためにも、これに対応し得る農村社会の組織化が必要である。
地力の低下を防止するためには、でき得るかぎり有機肥料を使用する必要があり、その準
備段階としての土づくりが重要な課題である。堆肥施入のほか、地力の低下した耕地には“天
地返し”といわれる深耕や、客土の施入もなされてはいるが、大規模産地ではその量が多く、
多大の経費と労力を要する。従来から、カラ松葉の施用、緑肥のすき込みもなされてはいる
が、緑肥の播種は収穫直後に実施しなければならないので、労力競合の問題がある。これに
加えて、輪作障害に対処するためには、このほかにも耐病性品種の育成や、同料の作物の作
付けを制限し、多品目化への進展が必要となり、キャベツやハクサイなどのアブラナ料のな
かへ、レタスなどを入れることが普通となった。とくに、大量生産方式の多い高冷地野菜の
主産地では地力の保持が最重要な課題で、各農家はもとより、関係自治体や農協によって土
壌診断所や堆肥センターなどを開設して、その対応に懸命である。この対応が不十分であっ
たため、産地が衰退し、あるいは消滅してしまった例も多い。
(3) 連作障害に対する組戦的な対応
ここでは、広域的な見地から、積極的な連作障害に対処している例として、多くの高冷地
型野菜の生産地を有する長野県をとりあげる。同県では農政の 3 課(園芸蚕糸課・畜産課・農業
技術課)、経済運の 3 部(野菜部・畜産部・生産資材部)、県農業試験場の 4 場(2 つの農業総合試
験場・野菜花き試験場・畜産試験場)、および農協中央会の関係者によって、1984 年に「長野県
野菜連作障害総合対策事業」を発足させ、その成果をあげつつある。その概要は次のようであ
る。
① 野菜連作障害克服総合対策実証園の設置
連作障害に対するこれまでに知り得たすべての知見を総合整理いそれを検証するために設
立したものである。ここでは 5 品目の野菜を対象として、15 農協の延べ 50 ヵ所(1 ヵ所 10
アール)の実証圃場を設置して、経済連の県内支所が主となって、ここで指導会・検討会を開
いて有効な対策とその構想を樹立する。
② 野菜・畜産複合対策事業実施圃の設置
この実施面は野菜と畜産との複合経営を目指して、野菜と牧草、飼料作物との輪作体系を
確立するためのものである。野菜連作障害発生地に対して、牧草や飼料作物を導入して土壌
改良を行うのを目的としている。すなわち、当初の 3 年間は牧草・飼料作物を作付けし、4 年
目に野菜畑に戻そうとするもので、この事業園は 9 農協の 70 ヵ所、18 ヘクタールに開設し
た。このほか、流通体系の確立や牛の硝酸塩中毒防止に対する技術指導も行うこととした。
③ 生産農家意向調査
農家のこの問題に対する現状認識の対応の実態と、この対策に対する阻害要因を調査して
今後の総合対策の指針としようとするものである。県内から 300 戸の対象農家を摘出してア
ンケート方式による調査を行う。
④ 野菜連作障害総合対策指針の編成
前述の 3 事業の成果を結集して対策の指針を作成し、総合的な対策を樹立し推進しようと
するものである。この長野県の県をあげての大規模な総合的な対策の樹立には、大きな期待
がよせられている。連作障害の克服と地力の保全には、栽培技術・病理・育種などの広範な分
野の総合が必要である。すでに汚染された畑地では、作物の組み合わせによる総合的防除体
系を確立し、畜産との複合経営には、数年を単位とする輪作体系の編成とその経営の確立を
はかることが必要であり、これまでの野菜作に対する理念の変革も要請される。これは生物
を育成する農業の基本的な課題でもあり、生物工学の研究成果に大きな期待が寄せられる。
4 高冷地野菜の適応品目
(1) 葉茎菜類
葉茎菜類は一般的には軟弱野菜といわれ、低暖地では冬または春の寒冷地に生育させ、未
成熟のものを出荷する。キャベツ・ハクサイ・レタス・ホウレンソウなどの大衆菜粟類は、セル
リー・パセリ・アスパラガスなどとともに軟弱野菜で、高温に対する耐性に弱いため、夏季出
荷のためには冷涼地に栽培適地を求めている。このなかで、キャベツ・ハクサイ・レタスは薬
物 3 品ともよばれ、高冷地野菜の代表的主品目である。キャベツ・ハクサイはアブラナ料、
レタスはキク料に属し、低暖地での普通の栽培ではいずれも初冬に播種し越冬させる。春に
なると抽台し、キャベツ・ハクサイは黄色の十字花、レタスは頭伏花をつける。抽台すると葉
がこわくなり、食品としての価値が減退するので、収穫は抽台前に完了する必要がある。い
ずれも交雑して変種や品種が多い。以下主要品目についての特性・主産地について述べる。
② キャベツ
江戸時代から葉ボタンとして観賞用として栽培されていたが、明治期に入って結球種が導
入され、当初は「玉菜」といわれた。のち、甘藍の名辞が使用されろようになったが、今日で
はキャベツの名に統一されている。キャベツも周年供給がなされるようになったので、農業
統計では出荷期によって、冬春・夏秋ものとして集計されている。したがって、夏秋キャベツ
は高冷地または冷涼地産のものとみても差支えない。
キャベツの生育適温は日平均 15~20℃で、15℃以下では生育が遅れ、25℃を超えると高
温障害があらわれ、30℃以上では栽培ができなくなる。したがって、関東・東海の暖地では、
春季の抽台前に収穫を完了する。これを夏季に供治するためには、夏の冷涼な気候を必要と
する。高冷地では、普通、晩春・初夏に播種して育苗し、5 月下旬から 6 月にかけて本畑に定
植する。生育期間は 1l0~120 日、定植後は 60~70 日であるが、この間数回にわたって防除
作業を行う。出荷期を平準化するために、定植も少しずつずらせて行い、収穫の適期の確認
を誤らないようにする。収穫は 8 月上旬に始まり 10 月まで連続してなされる。収穫までの
日数は、ハクサイ・レタスより多少長いけれども、やや省力が可能な作物であるため、大規模
産地を形成しやすい。しかし、競合生産地が多くなる。栽培労力も 10 アールにつき 15~20
人で、ハクサイ・レタスよりやや少ない。また、結球が固いためかなりの長時間の輸送にも耐
えることができる。品種も戦前までは低暖地用の在来種をそのまま使用していたが、抽台期
が不樋いのため計画的な出荷に難点があった。これを高冷地に適応した品種に改良したのは
長野県であった。長野県農業試験場では在来のサクセッション系を中心に選抜を行い、これ
にアーリー系を交配し、1959 年に一代雑種の長野交配中性甘藍をつくりあげ、これを SE と
称した。すなわち、サクセッションの S とアーリーの E をとったものであった 57)。これに
よって SE は高冷地における標準品種として普及した。しかし、やや萎黄病に弱いなどの難
点があったので、これを改良し食味のよい軟らかいカンラン信州(CS)を育成した。それ以後、
生物工学の進展にともない、種苗会社や農業試験場によって YR34、53、54 などの耐病性品
種が育成され多品種の時代に入った。キャベツの育苗は普通ハウス内で行っているが、寒冷
で積雪の多い高冷地域では、ハウスが損傷するため低地の農家に育苗を委託したり、そこへ
出向いたりして行っている場合が多い。定植後もポリエチレンフィルムを使用したマルチン
グ栽培が普及し、これによって作期が拡大し、2 期作・3 期作も可能となり、除草などの労力
も節減することができる。本州中央高冷地では高度 1、500m あたりが上限となるが、標高
の高いところは盛夏出荷の 1 期作が多い。これより高度が下るにしたがって作期が拡大し、
これに適応した作型が設定されている。
キャベツは大衆野菜の代表格で・全国いたるところで栽培されている。
その首位は愛知県の
15 万トン(1985 年)で、とくに厳寒期の出荷に特色がある別。2 位は群馬県の 17 万トンであ
るが、これは主として嬬恋村の高冷地産である。以下、干葉・神奈川などの首都圏周辺の生産
県がつづき、第 5 位は長野県の 8 万トンの高冷地型生産となっている。
キャベツには変種が多く、観賞用のものから、花蕾を食用とするカリフラワー・ブロッコリ
のほか、芽球を利用するメキャベツもある。いずれも冷凍型作物で、夏季には高冷地が産地
で、一般のキャベツを基幹作物としながら、副次的に栽培されている。
++++++++++++++++++++++++++++++++++
ダウンロード

Ⅲ大規模産地