「あまみエフエム ディ!ウェイヴ」放送原稿〈9月19日(金)放送分〉
テーマ「奄美の歴史②」
あまみエフエム ディ!ウェイヴをお聞きの皆様,おはようございます。鹿児島県立奄
美図書館です。今日は,「奄美の歴史」シリーズの第2回目です。
第1回目でお伝えしましたとおり,
「奄美」の歴史は,旧石器時代,奄美世(アマンユ)
按司世(アジヨ ),那覇世(ナハンユ ),大和世(ヤマトユ)の5つの時代に分けること
ができます。旧石器時代,アマンユ,アジヨについては,前回お話しましたので,今回は,
那覇世(ナハンユ),大和世(ヤマトユ)の時代についてお伝えします。
「那覇世(ナハンユ)」は,奄美が,琉球に支配されていた15世紀中頃から1609
あ づ ち ももやま
年までの約150年間をいいます。戦国・安土桃山時代の頃です。ナハンユの前は,奄美
せいりよく か
群島はほとんど鹿児島の勢 力下に入っていましたが,琉球が奄美を攻めたことにより,
奄美は「北」の管理から「南」の支配へと変わります。琉球の奄美征服には,大きく二つ
の目的がありました。一つ目は,日本への航路を確保するための港湾を支配すること,二
だとう
つ目は,貿易上の有力な競争相手に成長していた奄美勢力を打倒するためでした。中国の
みん
記録では,
「明」との交易回数は,琉球171回,こうえき
ベトナム89回,インドネシア37回,
日本19回となっています。いかに琉球において交易が大切だったかわかります。こうし
あ じ
た中で,奄美で勢力をもっていた按司は滅ぼされたり,また逆に琉球の味方になり勢力を
伸ばしたりしました。
みん
このころの交易の東アジアの中心は,中国「明」でした
。「明」の皇帝は,周りの国の
しようごう
王を家来とし,王の称 号を与えていました。このような関係をつくることで「明」との
交易が許されたのです。この関係を琉球は作っていましたが,日本は作っておらず,琉球
のち
しまづ
せいばつ
をとおして,「明」と交易をしようとしました。これが,後の島津氏による琉球征伐につ
ながり,奄美の歴史にも大きく関わってきます。ちなみに,このような交易の仕方は,こ
かんのわのなのこくおう
の時代だけではありません。江戸時代には,現在の福岡県で
,
「
漢 委奴国王」という金
かん
印が発見されました。1世紀ごろの中国「漢」の皇帝から日本の王が金印をもらって「王」
と認めてもらっています
。「銀印」や「銅印」をもらっている地域もありましたが,生死
ともな
の危険を 伴 う「海」を渡って来たのが,「金印」をもらえた理由といわれています。
ちゆうけい き ち
このようなことから,薩摩と琉球の結びつきがより強くなり,奄美は中
継基地として
にな
たいとう
の役割を担うことになります。16世紀前半は,島津氏と琉球の関係は対等でしたが,1
6世紀半ばぐらいから島津氏の勢力が強くなり
,琉球貿易を独占しようとします
。最初は,
ゆる
きようか
奄美に対する取り扱いも緩やかでしたが,その後,支配も強化されていきました。その時
はんえい
ほうさく き が ん
に「ノロ」制度をうまく活用しました
。
「ノロ」とは,集落の繁栄,農作物の豊作祈願や
しんによ
収穫への感謝の儀式を行う神女として,集落ごとに琉球王から任命された女性です。集落
の守り神的存在でした。また ,「ノロ」と関連する言葉として「ユタ」があります
。「ユ
きがん
タ」の特色は,死者と交信して個人の健康・幸福などの祈願や病気治療などを行います。
おおやけ
女性の「ユタ」が多いですが男性の「ユタ」もいます
。
「ノロ」が集落という「
公 」の
のうこう ぎ れ い
してき
場での農耕儀礼や防災儀礼が中心なのに対して
,「ユタ」は,私的な病気治療などを行っ
せしゆう
ていました。また ,「ノロ」は世襲されていくのに対して ,「ユタ」は基本的に本人だけ
ということになります。「ノロ」と「ユタ」も奄美の歴史の特徴の一つでもあります。
おとろ
こうした中で,次第に琉球の勢力も 衰 えていきます。島津氏が琉球に攻めていくのが,
1609年のことでした。時代は
,「大和世(ヤマトユ
)」に入ります。奄美は,江戸幕
りゆうきゆうおうこく
りようち
府に対して公式上は,琉 球王国の領地とされていましたが,実際は,薩摩藩の領地とな
りました。また,薩摩藩は,琉球や中国との交易を続けるため,奄美群島を直接支配した
うち
ことを隠し,表向きは奄美を「琉球の内」としました。そのため,奄美大島に住む人々は
服装や容姿,名前を薩摩藩の人々のようにしないことも決めました。
そして,この時代は,なんといっても「砂糖きび」が大きな存在となります。1690
せいとうぎよう
年に,薩摩藩が製 糖 業を沖縄から導入します。1747年には,米で納める税を黒糖に
そうかいあげ
計算しなおして納めることが決定されました。1830年は,薩摩藩による黒糖の総買上
が強くなり,奄美が厳しい時代を迎えます。そして,この時代を大まかに4期に分けるこ
とができます。1期は,新しい時代に入り
,奄美も経済的に成長していきました。2期は,
さくもつ
砂糖きびが入り,生活をよくしてくれる作物となりました。3期は,砂糖きびが奄美のた
すいしん
めから薩摩藩のために変わっていきました。4期は,奄美は,薩摩藩が明治維新を推進す
げんどうりよく
るための原 動 力となりました。
ここで,この時代の暮らしや食文化について少しお伝えします。現在,奄美では,「油
ソーメン」が有名ですが,「ソーメン」はもともと奄美にはなく,大阪から持ってきてい
ました。幕末の頃には,鹿児島の山川にソーメン工場がありました。黒糖とソーメンが交
しようじんりようり
換され,奄美に入ってきたということです 。「ソーメン」は貴重品で,精 進料理等に汁
物として使われ,「油ソーメン」が生まれたのは,案外新しいのではないかと考えられて
います。 けいはん
次に,「鶏飯」です。江戸時代に「鶏飯」と同じような料理は全国的にみられます。こ
の時は「にわとりめし」と読み ,「けいはん」と読むのは1730年の本が最初といわれ
かつらひさたけ
ています。奄美では,幕末の1862年の 桂 久武日記に初めて出てきます。使用材料・
調理法は現在とは異なると考えられますが,奄美では「おもてなし料理」として確立され
たことが,郷土料理として残っている理由といわれています。
最後に「砂糖」についてですが,薩摩藩の財政を支え,「黒糖地獄」といわれる厳しい
なんとう ざ つ わ
取り立てもあった
「
砂糖
」
ですが
,
奄美の自然や人々の生活・文化をまとめた
『
南島雑話
』
なごや さ げんた
そな
を書いた名越左源太の日記によれば
,「砂糖をもらった」「砂糖を供えた」「団子に砂糖を
ゆうふく
つけた」の言葉が出てきます。裕福な人に限られるでしょうが,砂糖をお菓子や料理によ
く使っていたことも考えられます。一般的には ,「奄美にとって”大和世(ヤマトユ )”
は,とてもつらい時代」ととらえがちですが,初めからそうだったわけではなく,薩摩藩
の政治的・経済的状況に応じて,時代の流れとともに変化してきたことがわかります。
ふもと す み お
尚,今回の「奄美の歴史②」は, 麓 純雄さんが書かれた『奄美の歴史入門』を参考に
させていただきました。
次回は,明治時代以降から戦後までの奄美の歴史をお伝えします。
県立奄美図書館には奄美の歴史に関する本がたくさんあります。ぜひご覧ください。
職員一同,皆様のご来館を心からお待ちしております。以上,鹿児島県立奄美図書館で
した。
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