素 粒 子 論 グ ル ー プ の形 成 と湯 川 記 念 館 設 立
小長谷
大 介
レキーワー ド
素 粒 子 論 グ ルー プ 、
湯 川 秀樹 、湯川 記 念館 、
基礎物 理学研究所 、
民 主化
Summary
Hideki Yukawa (1907-1981)
received the Nobel Prize in Physics 1949 "for his prediction of the
existence of mesons on the basis of theoretical work on nuclear forces." In 1952, the Yukawa
Hall was built in Kyoto University as a memorial to his Nobel Prize. The establishment
of this
Hall was eagerly supported by the members of "Soryushiron Group" including Yukawa, Sin-itiro
Tomonaga (1906-1979),
and Shoichi Sakata (1911-1970). The Soryushiron Group (SG) having
its origin in the meeting held in the early 1940s was organized for the Japanese collaboration of
the theoretical
research
on particle physics in 1952. This paper describes the history of the
organization of SG and examines the relationship between the activity of SG and the foundation
of the Yukawa Hall.
1.は
じめ に
戦 後 復 興 の 象 徴 の 一 つ と され た 湯 川 秀 樹 の ノー ベ ル物 理 学 賞 受 賞 。 敗 戦 後 の 占領 期 日本 、経
済 的 困 窮 に あ え ぐ 日本 で 、 ノ ー ベ ル賞 受 賞 の 社 会 的 反 響 は な お さ らで あ っ た 。 湯 川 の ノ ーベ ル
賞 受 賞 は 、 戦 後 日本 に 身 をお く科 学 者 に対 して も大 きな波 及 効 果 を 及 ぼ した 。 そ の 直接 的 事 例
は 、 京 都 大 学 に創 られ た 湯 川 記 念 館 で あ ろ う。
記 念 館 は 、 湯 川 の ノ ー ベ ル物 理 学 賞 受 賞(1949年11月
か け に 、1952年7月
に京 大 内 に設 立 され 、1953年8月
に授 賞 報 告 、 同 年12月 に授 与)を
に基 礎 物 理 学 研 究 所(以
下 、 基 研)と
きっ
な
っ た施 設 で あ る 。 「素 粒 子 論 そ の 他 の 基 礎 物 理 学 に 関 す る 研 究 」 を設 置 目的 と した 基 研 は 、京 大
素 粒 子論 グル ー プの 形 成 と湯 川 記 念 館 設立(小 長 谷)-103一
の 附 置 研 究 所 で あ りなが ら、全 国 初 の 共 同 利 用 研 究所 とな っ た1。 大 学 の 附 置 研 究 所 は 、東 北 大
学 の 金 属 材 料 研 究 所 、広 島大 学 の 理 論 物 理 学 研 究 所 の よ う に、 す で に 戦 前 ・戦 中 に存 在 した が 、
基 研 は そ れ ま で の 附 概 研 究所 と異 な り、 全 国 の 大 学 の研 究 者 た ち に オ ー プ ンな 共 同利 用 研 究所
と な っ た 。 疲 弊 した 戦 後 日本 の 科 学 界 に と って 、全 国 の研 究 者 に 開 か れ た湯 川 記 念 館 は 当 時 の
科 学 界 の 希 望 と映 った に ち が い な い。 本稿 は 、 この 湯 川記 念 館 の 設 立 を 、素 粒 子 論 グ ル ー プ の
形 成 と組 織 化 の 過 程 の な か で 論 じ、記 念 館 の 設 立 過 程 の 一 断 面 を明 らか に す る。
湯 川 記 念 館 ・基 研 の 設 立 の 過 程 は 、小 林 稔 「基 礎 物 理 学 研 究 所 の沿 革 」(1958年)、 長 岡 洋 介 ・
登 谷 美 穂 子 「基 礎 物 理 学 研 究 所 の 歴 史」(1996年)を
は じめ とす る多 数 の 文 献 で 記 述 され て き
た2。 しか し、 こ れ らの 文 献 の ほぼ す べ て が 、基 研 関 係 者 に よ っ て執 筆 され て い る。1950年 代 初
め に設 立 され 、現 在 も活 発 に 運 営 され て い る研 究 所 だ け に 、 そ の よ う な成 り行 き は 自然 な こ と
で あ ろ うが 、21世 紀 の 最 初 の10年 が 過 ぎ、20世 紀 後 半 の 出 来 事 が 歴 史 の 一 部 と な っ て い くな か
で 、1950年 代 の湯 川 記 念 館 ・基 研 の設 立 は 、 歴 史的 観 点 に 立 って あ らた め て 見 返 され るべ きで
あ ろ う。
記 念 館 ・基 研 の 設 立 と そ の 制 度 づ く りに 対 す る、 素 粒 子 論 グ ル ー プ の 関 わ りにつ い て も、上
記 の 文 献 な ど で触 れ ら れ て い る。 素 粒 子 論 グ ルー プ は 、 戦 中 の 中 間子 討 論 会 を 出発 点 に 、 若 手
の 素 粒 子 論 研 究 者 た ち に よっ て 形 成 され 、1952年 に組 織 化 され た 研 究 者 組 織 で あ る 。 グ ル ー プ
の メ ンバ ー だ っ た 武 谷 三 男 ら に象 徴 され る よ う に、 素 粒 子 論 グ ル ー プ は戦 後 民 主 化 運 動 に も深
く関 与 して い た。 民 主 化 の 運 動 体 的 性 格 を もつ 素 粒 子 論 グ ル ー プ の 関 わ りは 、 戦 後 日本 の 研 究
機 関 運 営 に と っ て 大 き な 意 味 を もっ て い た 。 そ れ は 、悪 化 した 研 究 環 境 を 立 て 直 し、 新 た な研
究 制 度 を創 出す る 一 つ の 道 筋 を与 え た か らで あ る。 しか し、 科 学 者 の 民 主 化 運 動 が20世 紀 後 半
の 日本 に お い て1司じ トー ンで 続 け られ た わ け で は な く、初 期 に は 勢 い を もつ も の の 、 そ の 後 、
弱 体 化 した の で あ り、素 粒 子 論 グ ル ー プや 基 研 も同 様 に 、設 立 当 初 と20世 紀 末 とで は 、科 学 界 ・
物 理 学 界 で の 位 置づ けが 同 じと は言 え な い 。 これ ら の動 向 は 、 こ れ まで の 日本 の 科 学 、 そ して
今 後 の 日本 の 科 学 の 行 く末 を読 み 解 く うえ で 、 重 要 な経 路 とな っ て い た よ うに 思 え る 。
以 下 で は 、戦 後 お よび20世 紀 後 半 の 日本 科 学 界 の歩 み を再 考 す る 第 一 歩 と して 、湯 川 記 念 館 ・
基 研 の 歴 史 を手 が か りに 戦 中 ・戦 後 の 素粒 子 論 グ ル ー プ の 動 向 を追 い 、 湯 川 記 念 館 の 設 立 と彼
ら と の 関 係 を示 して い く。
2.素
粒 子 論 グ ル ー プ の 起 源3
素 粒 子 論 グ ル ー プの 出 発 点 は 中 間子 討 論 会(メ
ソ ン会)に
会 の 起 源 を た ど る と、 関 西 の 湯 川 秀 樹(1907-1981)の
1951)・ 朝 永 振 一 郎(1906-1979)ら
あ る と され る 。 さ らに 、 こ れ らの
グ ル ー プ と、 東 京 の 仁 科 芳 雄(1890-
の グル ー プ に行 き着 く。 彼 らは 、1930年 代 半 ば の 湯 川 の 中
間子 論 とそ の 発 展 を議 論 す る た め に 交 流 し、 一 つ の 研 究 会 を 開 くに 至 っ た4。 本 節 で は 、 こ う し
た 中 間 子 討 論 会 が 開 か れ る まで の 過 程 を述 べ る。
1933年5月
、 湯 川 秀 樹 は 、 京 都 帝 国大 学 理 学 部 副 手 、 講 師 を経 て 、 大 阪 帝 国 大 学 理 学 部 講 師
と な っ た 。 翌 年9月
に は 、 湯 川 は坂 田 昌 一(1911-1970>を
助 手 と して迎 え 、 「湯 川 研 究 室 」 を
立 ち上 げ た 。 そ の 後 、坂 田 とつ きあ い の あ った 武 谷 三 男(1911-2000)が
う に な り、彼 は1938年4月
一104一
龍 谷紀 要
湯 川 研 究 室 を訪 ね る よ
に 阪 大 の 無 給 副 手 とな っ た。 同 年 同 月 、小 林 稔(1908-2001>は
第32巻(2011)第2号
理研
研 究 員 か ら阪 大 に 来 て 講 師 と な っ た 。 こ れ ら の 湯 川 研 究 室 メ ンバ ー は 、 湯 川 の 論 文 「Onthe
InteractionofElementaryParticles」
の 第 一 ∼ 第 四 論 文(1∼IV:1934∼1938年)の
て 順 次現 れ 、彼 の 中 間子 論 の 形 成 に とっ て重 要 な協 力 者 た ちで あ っ た5。1938年4月
川 研 究 室 は 、湯 川(助
教 授)、 坂 田(講 師)、 武 谷(副 手)、 小 林(講
共著者 と し
、阪 大 の 湯
師)に 、 阪 大 を卒 業 した 岡
山大 介(副 手)、 斐 在 黙(副 手)、 当 時 学 部3年 生 の谷 川 安 孝 が 加 わ り、規 模 を大 き く して い た6。
湯 川 の 中 間 子 論(U粒
子 論)は
、1934年 に 日本 数 学 物 理 学 会 欧 文 誌 上 で 最 初 に 発 表 され た 後
しば ら く注 目 を浴 び る こ と は な か っ た'。 だ が 、1936∼1937年
環 境 は 変 わ っ た 。C.D。AndersonやS.H.Nedde㎜eyerら
子 の存 在 が 示 唆 され 、 そ のAnderson粒
してE.C.G.StOckelbergが
に か け て 、 中 間 子 理 論 を と りま く
の分析 の結 果、宇宙 線の なか に新粒
子 の 正 体 に つ い て 、J.R.Oppenhe㎞er、R.Serber、
そ
論 じ始 め た 。 湯 川 ら は新 粒 子 を 湯 川 中 間 子 と関 係 す る とみ て 、中 間
子 論 の 続 く論 文 を準 備 し、1937年 後 半 ∼1938年 前 半 に 立 て 続 け に 第 二 、 第 三 、 第 四 論 文 を発 表
した の で あ る 。1937年 の 宇 宙 線 中 の 新 粒 子 発 見 に 関 す るAndersonとNeddermeyerの
そ れ に対 応 す る理 論 研 究 がN.Ke㎜erやH.J.Bhabhaら
報告 後は、
に よ っ て展 開 され 、新 粒 子 へ 向 け た 理
論 研 究 は 激 し さ を増 して い た 。
湯 川 の 中 間子 論 は 、 坂 田 らの 協 力 を 得 なが ら、 日本 数 学 物 理 学 会 大 阪 支 部 常 会 、 同学 会 年 会
を主 な舞 台 と して 報 告 され 、 そ の 内 容 が 同学 会 の 欧 文 誌 に 発 表 され た 。 研 究 報 告 、 論 文 発 表 は 、
い ず れ も阪 大 湯 川 研 究 室 の 主 要 メ ンバ ー 全 員 で 行 わ れ 、細 か な計 算 を 岡 山 ら副 手 が支 え た 。1938
年4月
以 降 の 湯 川 研 究 室 で は 、 活 発 に 「理 論 コ ロ キ ウム 」 が 行 わ れ 、 メ ンバ ー全 員 に分 担 が 決
め られ 、定 期 的 に 各 分 担 部 分 の 進 捗 状 況が 報 告 し合 わ れ た。 分 担 の 一 例 は 、湯 川 と斐 が 「Nuclear
Force」 、 小 林 と岡 山 が 「CosmicRay」 、坂 田 と谷 川 が 「β一Disintegration」
、 武 谷 が 「FormaHsm
etc.」 で あ っ た8。 ま た 、 中 間 子 論 に 関 連 す る基 礎 文 献 や 最 新 の 外 国 文 献 も報 告 され る な ど、 阪
大 湯川研 究室 は中間子 論の発展 の ための工房 となっていた。
東 京 で は 、 理 化 学 研 究 所(以
下 、理 研)の
な り、そ こ に は 、朝 永 振 一 郎(1937年5月
稔(1938年4月
仁 科 芳 雄 研 究 室 が 原 子 核 や 宇 宙 線 の研 究 の 中 心 と
∼1939年10月 の 問 は ラ イ プ ツ ィ ヒ大 学 に 留 学)、 小 林
か ら阪 大 湯 川 研 究 室)、 玉 木 英 彦 らが い た。 「量 子 力 学 の 発 祥 時 代 を ボ ー ア 教 授
の 研 究 室 で 」過 ご し、 「多 数 の 研 究 者 の 自由 な討 論 の なか か ら近 代 的 理 論 が 生 み だ さ れ る とい う
事 実 を知 っ て 」 い た 仁 科 は 、Andersonら
の 新 粒 子 発 見 の 報 告 を経 て 有 望 性 を増 した 湯 川 理 論 を
多 数 の 研 究 者 で 議 論 す る こ と を提 案 した9。 仁 科 は1937年8月5日
に 湯 川 に宛 て て 次 の よ うに 書
いてい た。
扱 て あ な た の 理 論 の 帰 結 に つ い て 、 又 吾 々の 実験 と理 論 と の 関 連 並 に 論 文 等 に就 い て 、
お 互 い よ く話 し合 っ て 出 来 る だ け吾 国 に於 け る理 論 並 に 実 験 の方 の 収 穫 を多 くす る た め に 、
一 度 会 合 して 討 議 を 行 っ て は ど う で し ょ うか1°
。
こ の 提 案 に よ り、8月19日
、理 研 で 湯 川 の 講 演 会(「HeavyQuantaの
理 論 に就 て 」)が 行 わ れ 、
仁 科 、小 林 、玉 木 、竹 内 柾 、一 宮 虎 雄 、 そ して坂 田 が 出 席 したll。さ ら に 、湯 川 らは 、1939年6
月以 降 の 理 研 学 術 講 演 会 に定 期 的 に 参 加 し、 中 間子 論 に つ い て 報 告 した 。1939年10月
に なると、
朝 永 が ラ イ プ ツ ィ ヒか ら帰 国 し、 彼 を 中心 とす る 中 間 子 論 の 研 究 グ ル ー プが 形 成 され 、 東 京 グ
ル ー プ は 、仁 科 研 の 実 験 家 た ち との密 接 な連 絡 も相 ま っ て活 気 づ い て い た12。
素 粒 子論 グル ー プの 形 成 と湯 川 記 念館 設立(小 長 谷)-105一
一 方 、1938年 後 半 ∼1939年 前 半 にか け て 、 阪 大 の 湯 川 研 究 室 は 激 動 した 。 まず 、1938年9月
13日 に 、武 谷 は 自然 弁 証 法 に 関 す る思 想 問 題 で 特 高 警 察 に捕 ら え ら れ 、 そ の 後 、 阪 大 の 副 手 を
辞 め る こ と に な っ だ3。 ま た 、京 大 教 授 の 玉 城 嘉 十 郎(1886-1938)が1938年5月
に急 逝 した こ
と を受 け て 、1938年Il月 、 そ の 後 任 に湯 川 の 名 が 挙 が っ た の で あ る。1938年 末 ∼1939年 初 め の
湯 川 か ら仁 科 宛 の 手 紙 に は 、木 村 正 路(1883-1962)、
荒 勝 文 策(1890-1973)ら
意 向 や 、 そ れ に対 す る 湯 川 の要 望 や そ の対 応 が 書 きつ づ られ 、1939年5月
す る まで 、 人事 の状 況 が 何 度 も仁 科 に報 告 され て い る14。5月26日
の京大 教授 らの
に湯 川 が 京 大 に 着 任
、湯 川 秀 樹 は 京 都 帝 国 大 学 の
理 学 部 物 理 学 第 二 講座 の 教 授 と な り、坂 田 、 谷 川 が 湯 川 と と も に阪 大 か ら京 大 へ 転 任 し、 二 人
は 京 大 講 師 、 副 手 とな っ た 亘5。
数 年 をか け て よ うや く形 成 され つ つ あ っ た 阪 大 の 湯 川 研 究 室 は 、
こ れ を もっ て 幕 を 閉 じ、 京 大 で 再 出発 した 。
京 大 に転 任 した湯 川 を 中心 とす る 関西 グル ー プ、 そ して 、 ラ イ プ ツ ィ ヒか ら帰 国 した 朝 永 を
中 心 に活 気 づ い た 東 京 グ ル ー プ が 、1939年12月 以 降 の 理 研 学 術 講 演 会(毎 年 、6月
、12月 に 開
催)で 集 う こ と に な っ た 。 しか し、研 究 発 表 の 場 が あ っ て も問 題 は あ っ た 。 理 研 学 術 講 演 会 を
は じめ 、 日本 数 学 物 理 学 会 支 部 常 会 、 同学 会 年 会 で は 、発 表 時 間 の 制 限 が あ り、 十 分 な 議 論 を
で き る場 とは必 ず しも言 え な か っ た の で あ る。 そ こで 、 「仁 科 ・朝 永 ・武 谷 らが 、 もっ と 自 由 に
討 論 で きる場 と して創 り出 した のが メ ソ ン会 で あ っ た 」肛5。
武 谷 三 男 は 、 メ ソ ン会 を 開 い た 理 由
を、 「学 会 で は研 究 の 成 果 の 発 表 に重 点 が 注 が れ て い るた め と、時 間 の 制 限 の ため に 十 分 な討 論
が 出 来 な い 」 こ と、 また 、他 の 領 域 で あ る と 「大 体 方 法 が き ま っ て い る た め 形 式 的 な 発 表 で も
或 程 度 間 に 合 う」 が 、 「中 間 子 に 関 して は混 沌 と してお り、決 ま っ た成 果 を発 表 す る だ け で は役
に 立 た ず 、 む しろ討 論 に そ の 主 体 を 置 か ね ば な らな い か ら」 と述 べ て い だ7。 こ の メ ソ ン会 が の
ち に 「中 間 子 討 論 会 」 と して 知 ら れ る もの と な っ た。
メ ソ ン会 か ら 「中 間子 討 論 会 」 へ の 足 跡 につ い て は 、 河 辺 ・小 沼 論 文(1982年)が
詳 しい 。
そ こ に は 、 湯 川 の 研 究 室 日誌 の 内容 に 基 づ き、 「会 の 名 称 の 変 遷 」 や 、 「仁 科 門 下 の 旧 知 が 、 毎
年6月
・12月の理 研 学 術 講 演 会 の 機 会 に 自 由活 発 な論 議 の花 を咲 か せ て い た 小 さ な 集 ま りか ら、
人 数 が 増 して セ ミ ・フ ォー マ ル な 会 合 に な って い っ た様 子 」 が 描 か れ て い る 監8。
第一 回 は 、「理 論 の 会 」 とい う名 称 で 、1941年6月12日
に東 京 の茗 渓 会 館 で 行 わ れ た 。 会 場 の
茗 渓 会 館 は 、東 京 文 理 科 大 学 の 同 窓 会 館 で あ り、 同大 教 授 の 朝 永 振 一 郎 を 介 して手 配 した で あ
ろ う こ とが 推 測 され る。 前 日 の6月11日
に は第39回 理 研 学 術 講 演 会 が あ り、 湯 川 は 谷 川 ら と研
究 報 告 して19、次 の 日に坂 田 ら と と も に 「理 論 の 会 」 に 出 席 した 。 第 二 回 も 「理 論 の会 」 とい う
名 称 で1941年12月13日
に 茗 渓 会 館 で 開 か れ た。 前 々 日の12月11日 に 第40回 理 研 学 術 講 演 会 が 行
わ れ 、湯 川 は 上 野 静 夫 ら と研 究 報 告 した後 、「理 論 の 会 」 に坂 田 、 谷 川 ら と 出席 して い る。 第 一
回 、第 二 回 の 会 は ほ ぼ 理 研 学 術 講 演 会 に合 わせ て 開催 され た が 、 第 三 回 にあ た る 会 は 「迷 想 会 」
と して1942年4月24日
に 理 研 学 術 講 演 会 の 日程 とは独 立 に行 わ れ た 。 た だ し、 会 場 は 理 研18号
館 陳 列 室 で あ っ た2°
。 第 四 回 「迷 想 会 」(1942年6月13日)、
日)、 第 六 回 「中 間子 懇 談 会 」(1943年6月19日)を
報 告 一 』(1949年)で
知 られ る1943年9月26・27日
第 五 回 「メ ソ ン会 」(1942年12月12
経 て、 「
素 粒 子 論 の研 究1一
中間子討 論会
の 第 七 回 が 行 わ れ る。 この 会 は 、 「中 間 子 討
論 会 」 とい う名 称 と な っ た 初 め て の 回 だ った 一 方 で 、 「終 戦 前 の 日本 の 中 間子 問 題 につ い て の 最
後 的 な総 決算 」 と な っ た 回 で あ る2!。東 京 グ ル ー プの 朝 永 を 中心 と した 一 連 の 会 は 、理 研 仁 科 研
究 室 の 「自由 な研 究 の ふ ん い き」 を、 湯 川 ら関 西 グ ル ー プ の 「自由 なふ ん い き とむ す び つ け 」、
一106一
龍谷 紀 要
第32巻(2011)第2号
「更 に全 国 的 に 」拡 大 しなが ら、戦 後 の 素 粒 子 論 研 究 者 の研 究 お よ び ネ ッ トワー クの 基 盤 とな る
の だ っ た 認。
3.素
粒子 論 グループの形 成 と組 織化
1944年11月 に な っ て も 、 「メ ソ ン会 」 「中 間 子 討 論 会 」 に近 い 会 が 、 東 京 大 学 第 ニ 工 学 部 で 学
術 研 究 会 議 素 粒 子(論
〉 班 発 表 会 と して 行 わ れ 、 小 林 稔 、 坂 田 昌 一 、谷 川 安 孝 ら の 参 加 の も
と 、素 粒 子 論 が 議 論 され た 欝。 そ の 後 は 、 空 襲 な どの戦 災 を受 け て 、素 粒 子 論 研 究 者 た ち が 会 す
る議 論 の 場 は な くな り、 終 戦 を迎 え た 。 終 戦 に際 して 、 武 谷 三 男 は 、 「わ れ わ れ は 軍 部 の 独 裁 、
非 科 学 的 思 想 の 重 圧 か ら解 放 され た の で あ る 」 と語 っ たが2薯
、坂 田 昌 一 は 、次 の よ うな研 究 条 件
へ の 懸 念 を述 べ て い た 。 「(前略)平
和 が 回 復 した が 、 世 界 の物 理 学 界 が 再 び 戦 前 の 状 態 に も ど
る に は 相 当 の 時 間 を 要 した 。 そ れ は 世 界 の 大 半 の 国 が 戦 争 の痛 手 に は な は だ し く荒 廃 し、 科 学
者 の研 究 条 件 も著 し く悪 化 して い た か らで あ っ た。 また ア メ リ カの ご と くそ うで な い 国 で も大
多 数 の 科 学 者 が 戦 時 研 究 に動 員 され た た め 、 中 間子 の 研 究 の よ う な基 礎 的 な 方 面 へ も ど る に は
幾 分 手 間 とっ た か らで あ っ た 」器。
戦 後 の 日本 の 素 粒 子 論 研 究 は 、 他 の 科 学 分 野 と同 様 、 経 済 的 困 難 に 苦 しみ な が ら も、 理 論 研
究 に つ い て は 、実 験 研 究 よ り も占 領 政 策 の 制 約 が 少 な か っ た た め26、よ り早 くに復 調 の 兆 しを見
せ た 。 戦 前 に 日本 の 理 論 物 理 学 界 の 主 な 成 果 を 発 表 す る 場 だ っ た 、 日 本 数 学 物 理 学 会 の
PmCθ θd伽9Sq∫ 〃昭 ・
翫 〃8記0-〃α鷹 θ7η
漉Cα60C乞 θ瑠qプ 」αpαγZ、理 化 学 研 究 所 の 欧 文 報 告 が 、戦
争 の 末 期 以 降 、 休 刊 して い た こ とを 受 け て 、1946年 の 夏 に 、 湯 川 らは 、 秋 田屋 か ら協 力 を得 て
Pmgrθ33qプ
艶 θoγ
θ痂 αムP吻8乞osを 発刊 した 暫。 この 雑 誌 の最 初 の 編 集 メ ンバ ー は 、編 集 責 任 者
に湯 川 秀 樹 、 編 集 員 に 伏 見 康 治(1909-2008)、
小 谷 正 雄(1906-1993)、
坂 田昌一、朝 永振一郎
で あ っ た 。 当 初 の 雑 誌 運 営 には 財 政 難 、秋 田屋 の刊 行 辞 退 、発 行 作 業 の苦 難 が 連 続 したが 、1950
年 前 後 に は 、 中 間 子 理 論 発 見50周 年 記 念 号 な どが 発 行 さ れ 、 海 外 か らの 投 稿 も受 け て 、 発 行 部
数 は 当 初 の500部 か ら1200部 へ 増 大 した盤。
また 、 戦 後 の 素 粒 子 論 研 究 の 勢 い は 、1948年10月 の 日本 物 理 学 会 を機 会 に 発 行 さ れ る よ う に
な る討 論 予 稿 集 『
素 粒 子 論 研 究 』 に も現 れ て い た29。この 予 稿 集 は 、戦 前 の 中 間 子 討 論 会 の 予 稿
集 を そ の 前 史 とす るが 、1948年 に な り、東 大 の 中 村 誠 太 郎(1913-2007)を
大 の井 上 健(1921-2004)が
中心 に 発 刊 さ れ 、京
そ れ に 協 力 して 、彼 らの 隔号 の 交 互 分 担 で 発 行 さ れ た3°
。 『素 粒 子 論
研 究』 は、 研 究 報 告 だ け で な く、手 紙 類 、 海 外 通 信 、 エ ッセ イな ど を 含 む 「形 に と らわ れ な い
雑 誌 」 とな り、 素 粒 子 論 グ ル ー プ 間 に お い て 、「研 究 発 表 の ほ か 、研 究 態 勢 に 関す る 意 見 、研 究
者 の 問 の ひ ろ い 範 囲 に わ た る イ ン フ ォ メー シ ョ ンの 交 換 」の 貴 重 な 場 と な っ た 。r基 研 案 内』 に
よ れ ば 、 『素 粒 子 論 研 究 』 は 「素 粒 子 論 グ ル ー プ とい う民 主 的 な 研 究 者 の 連 合 体 の 形 成 に 大 きい
役 割 を演 じて 来 た 」 と評 され て い る31。さ らに 、 名 古 屋 大 学 理 学 部 物 理 教 室 の 坂 田 昌 一 に よる 、
「ラ ボ ラ ト リー一・デ モ ク ラ シ ー」 を謳 う研 究 室 会 議 の 提 唱 お よ び 発 足(1946年1月)32、
男r弁 証 法 の 諸 問 題 』 の 出 版(1946年12月)お
武谷三
よび そ の 受 容 はお、他 分 野 の研 究 者 た ち に 比 して
の 素 粒 子 論 研 究 者 の勢 い を 浮 き立 たせ て い た 。
1940年 代 後 半 に 形 成 され つ つ あ った 素 粒 子 論 グル ー プ は 、 中 間子 論 な ど の研 究 業 績 に加 え て 、
研 究 の 方 法 や 運 営 の 点 で 、 戦 後 科 学 界 で 存 在 感 を 見せ た が 、彼 ら を と り ま く経 済 的 環 境 は 、 当
素 粒子 論 グル ー プの 形 成 と湯 川 記 念館 設 立(小 長 谷)-107一
時 の 他 分 野 の 科 学 界 と変 わ りなか っ た。 湯 川 は1949年 の ノー ベ ル賞 受 賞 後 、 「自分 の 研 究 は研 究
費 が 少 な く、 設 備 の 貧 弱 な 国 に お い て 、 また社 会 一 般 の 科 学 に 対 す る 認 識 の 不 十 分 な環 境 に お
い て な され た こ と に 注 目 して も らい た い」 と訴 えて い る34。
1949年11月21日
付 け の京 都 大 学 新 聞社 の 週刊 『
学 園新 聞』 で は 、「荒 れ て ゆ く研 究 室 」 と題 し
て 、 深 刻 な京 大 理 学 部 の 状 況 を紹 介 して い る 。 そ こ に は、 「(前略)京 大 理 学 部 は 湯 川 博 士 の ノ
ー ベ ル 賞 に大 き くク ロ ー ズ ア ッ プ され ア カ デ ミズ ム の 面 目躍 如 た る もの が あ っ た が 、 果 して 現
状 は ど う で あ ろ うか 、研 究 者 は安 い サ ラ リー に 生 活 の 安 定 を か き、 研 究 費 は 貧 困 な 予 算 の た め
に現 状 の 維 持 す ら困 難 とな っ て い る、 さ らに定 員 法 に よ っ て 人 員 整 理 の 必 要 にせ ま ら れ研 究 室
の前 途 に は暗 雲 が た だ よ って い る 」 とあ る。 さ らに 、 「雨 も り壁 崩 れ て 」 い る研 究 室 、 「深 刻 な
電 力 危 機 」、 「人 員 ま で 削 減 」 と い っ た 言 葉 が並 び、 理 学 部 の 当 時 の 研 究 環 境 が 語 られ て い た 。
当該 記 事 は 、 湯 川 の ノ ー ベ ル賞 受 賞 に代 表 さ れ る よ う に、 そ れ まで の 日本 「科 学 史 の ピー ク を
な す と云 わ れ る 物 理 教 室 」 を抱 え る理 学 部 が こ の よ うな 状 態 で い い の か 、 とい うメ ッ セ ー ジ を
投 げ か け る と と も に 、 率 直 に 、戦 後 日本 の大 学 に お け る理 学 部 の研 究 環 境 の 悪 化 を露 わ に して
い た 。 数 年 経 っ て もそ の 状 況 は 変 わ らず 、1951年1月16日
の 『毎 日新 聞 』 に も 、 「科 学 者 の 悲
鳴 」 と タ イ トル づ け され た記 事 が掲 載 され 、 「もう売 払 うべ き物 もな い 。 食 費 と医 療 費 に 追 わ れ
研 究 は 全 く進 ま ない 」 とい う、 大 学 研 究 者 に対 す る 日本 学 術 会 議 の 科 学 者 生 活 擁 護 委 員 会 の 調
査 結 果 の 一 部 が 紹 介 さ れ て い る。 収 入 の8割
以上 が 食 費 に消 え て 、 研 究 に か け る 費 用 な どな い
研 究 者 が 多 くい た の で あ る 。
こ う した経 済状 況 に加 え て 、1930年 代 か ら勃 興 して きた 素 粒 子 物 理 学 は 歴 史 の 浅 い 分 野 だ っ
た ゆ え に 、 戦 後 日本 の 大 学 内 で よ り長 い 歴 史 を もつ 他 分 野 に 人 事 的 に 太 刀 打 ち で き な か っ た 。
大 学 内 で 発 言 権 の 小 さい 若 い 分 野 の 素 粒 子 論 研 究者 は 、 た だ で さ え経 済 的 に 苦 しい な か で 、 い
っ そ うの 困 難 を被 っ て い た。 日本 数 学 物 理 学 会 を経 て1946年 に 設 立 され た 日本 物 理 学 会 で は 、
年 会 の 折 に素 粒 子 論 懇 談 会 が 開 か れ 、 そ こ に 出席 して い た 若 手 研 究 者 た ち は 、 こ れ らの 状 況 に
つ い て意 見 交 換 した35。彼 らは 、戦 中 の 中 間 子 討 論 会 参 加 者 を中心 メ ンバ ー と しな が ら、1948年
創刊 の 『
素 粒 子 論 研 究 』 を介 して 全 国 的 ネ ッ トワ ー ク を築 い て い った 。
1950年 前 後 の素 粒 子 論 の研 究 者 数 は 、中 間 子 討 論 会 の 「20人前 後 か ら、100人 を超 え る まで に
膨 張 した 。 そ の 大 部 分 は 基 礎 の し っか り した研 究機 関 か ら月 給 を も ら え ず 、 無 給 の 大 学 院 生 で
あ っ た 。 ち ょ う どそ の 頃 新 制 大 学 の 充 実 の た め に 、 か な りの 人 が そ れ に就 職 して い っ たが 、 依
然 と して 多 くの 研 究 者 が 生 活 費 と研 究 費 の不 足 に悩 ま され て い た 」36。また 、全 国 の 新 制 大 学 へ
の 就 職 で 研 究 者 が 研 究 の 中 心 地 か ら離 れ る こ とは 、研 究 者 間 の 交 流 が 希 薄 に な る 問 題 もは ら ん
でいた。
武 谷 三 男 は 、 東 京 の 素粒 子 論 グ ル ー プの 空 洞 化 に つ い て 、 次 の よ う に語 って い る 。
「1949年(昭 和24年)ご
郎:引
用 者]氏
ろ 、東 京 大 学 物 理 学 教 室 に は 、 中村[誠
太 郎:引 用 者]氏
、 木 庭[二
を は じめ と して 、 素粒 子 論 に つ い て盛 ん に よ い仕 事 を して い る若 い 人 た ち を多
数 も って い た 。 ま た学 生 に も素 粒 子 論 希 望 者 が あ っ た 。 と こ ろ が 東 大 は 、 素 粒 子 論 につ い て 教
授 も助 教 授 もな い 始 末 だ った 、席 が なか っ た わ け で は なか っ た 。 そ の こ ろ まで 、 空 席 が い く ら
か あ った が 、 急 速 に うめ られ た。 も ち ろ ん素 粒 子 関 係 外 の 人 に よ って で あ る 。 素 粒 子 論 を や っ
て い る 人 た ち は、 業 績 に お い て は 比 較 に な らな い 、 よい 仕 事 を して い る に か か わ らず 、 助 手 以
下 の 地 位 で 、 また 多 数 の 研 究 者 は 、 費 用 が 出 な い とい うの で 、 ア ル バ イ トをや っ て 自活 しな け
一108一
龍谷紀要
第32巻(2011)第2号
れ ば な ら な か っ た 。[中 略]中 心 人物 木 庭 二 郎 氏 は大 阪 大 学 へ 、南 部 陽 一 郎 氏 は 山 口 嘉 夫氏 を伴
っ て大 阪 市 大 へ 、 ま た 、 気 象 台研 究 所 は 、[中 略]宇
宙 線 を や ら な い よ う な方 針 に な っ た た め 、
早 川 幸 男 氏 は そ こ を去 っ て 、大 阪 市 大 に 移 る こ と に な っ て 、 東 京 の 素 粒 子 論 グ ル ー プ は一 挙 に
さ び れ る こ とに な っ た 。 他 面 か らい え ば 、 関 西 で 素 粒 子 論 の 新 しい 力 が で きて 来 る の は よ い こ
と に ち が い な い が 、 中 心 で あ る 東 京 が 一 挙 に さ び れ る こ と は残 念 な こ とに は ち が い な い こ とで
あ っ た 。」訂
1949年 前 後 に は 、朝 永 ・湯 川 が と もに ア メ リカ に 渡 って い た 。 幾 層 の 諸 問 題 に 直 面 した 素 粒
子 論 研 究 者 た ち は 、1952年4月 の 素 粒 子 論 懇 談 会 を機 に 、 事 務 局 を京 大 に 置 く 「素 粒 子 論 グ ル
ー プ 」 を組 織 し た の で あ る銘。 当 時 の 素 粒 子 論 グ ルー プ は 、 「東 大 物 理 教 室 の 民 主 化 」 を 目指 し
て鈴、 ま た 、研 究 者 が 各 地 に 散 っ た こ とに よる組 織 の 弱 体 化 を避 け る た め に 、 さ らに 、 若 手 研 究
者 の 処 遇 の 改 善 を実 現 す る た め に 、 全 国 ネ ッ トワ ー ク を もつ 組 織 をつ く っ た の で あ る。
4.素
1952年7月
粒子 論 グル ープの議論 内容 と湯川 記念館 設 立
に京 都 大 学 に 設 立 さ れ る 湯 川 記 念 館 の 計 画 は 、1949年11月
受 賞 報 告 を受 け た 京 都 大 学 の 学 長(当 時)鳥 養 利 三 郎(1887-1976)が
に、 湯 川 の ノ ー ベ ル賞
記 念 事 業 を 発 案 した こ と
に端 を発 す る 。 こ の 鳥 養 案 に 京 大 理 学 部 物 理 教 室 の 荒 勝 文 策 、 小 林 稔 が協 力 して 、 実 際 の 計 画
案 が 練 られ た 尋
゜
。 同 時 期 に 、 日本 学 術 会 議 の 第4部 会 も同様 の記 念 事 業 を 考 え て い た た め 、京 大
と 日本 学 術 会 議 が 協 力 し合 い 計 画 を進 め る こ とが 決 め られ て い る 。 記 念 事 業 は 、 当 初 か ら ノ ー
ベ ル 賞 受 賞 を記 念 す る 研 究 所 の 設 立 に 向 け られ て い た 。 研 究 所 設 立 に あ た っ て は 、 湯 川 、 朝 永
が と も に滞 在 した ア メ リ カ ・プ リ ン ス トンの 高 等 研 究 所(InstituteforAdvancedStudy)が
イ
メ ー ジ され 、 荒 勝 ・小 林 らは 、 「将 来 の研 究 所 の 性 格 と して 、昔 の理 化 学 研 究 所 や(当 時 十 分 知
っ て い な か っ た が)プ
リ ン ス トンのInstituteforAdvancedStudyの
組 織 を頭 の 中 に うか べ 、 そ
の 実 現 に努 力 しよ う と決 意 して い た」 とい うU。
京 都 大 学 は 、 当時 ア メ リカ に い た湯 川 本 人 に 、 どの よ う な研 究 所 を創 りた い か を問 い 、 以 下
の よ うな 回 答(湯
川 の 鳥 養 宛 の 手 紙 、1950年6月10日
付)を 受 け て い る 。
[前 略]こ の 記 念 館 を 理 論 物 理 学 、特 に素 粒 子 論 研 究 の 全 国 的 中 心 と致 し度 、 従 っ て 以 下
の希 望 条 件 はす べ て は こ れ を前 提 とす る もの で あ ります 。
一 、 二 百 人 位 入 れ る講 演 室
二 、 図書 室 、特 に 図 書 閲 覧 室 の 設 備 を完 全 な もの にす る こ と。 こ れ に附 属 して 雑 誌 編 集
用 の事 務 室 を 置 くこ と
三 、 約 三 十 人程 度 の 着 席 で き る 会 議 室
四 、 随 時 くつ ろ い で 話 の で き る 談 話 室(三 十 人乃 至 五 十 人)
五 、 常 任 教 授 用 の 梢 大 きな 居 室 及 び 他 の 大 学 の 教 授 、 外 国 か ら招 聰 す る学 者 の た め の 部
屋(合
計 五 室 位)
六 、 研 究 室 、 大 小 種 々(十 五 室 位)以
上 各 室 に 全 部 黒 板 を備 え つ け る こ と
七 、 他 に事 務 室 、 小 使 室 等
尚 も し も建 物 に 余 裕 が あ れ ば 、 他 大 学 か ら研 究 に 来 る 人 の た め に 、 宿 泊 、 簡 単 な炊 事 の
素 粒 子 論 グ ルー プ の形 成 と湯 川記 念 館 設 立(小 長 谷)-109一
で き る設 備 が 望 ま しい こ と
[中 略]
前 に も 申 し ま した 通 り、 小 生 の希 望 は これ が 理 論 物 理 学 の 全 国 的 中心 に な る こ と で あ り
ます か ら、 学 術 会 議 第 四 部 と充 分 ご連 絡 下 さ る様 特 に 御 願 い致 します 。
当 建 物 の 建 設 が 進 行 す る に伴 い ま して 、 これ が 真 に理 論 物 理 学 の 中心 機 関 た る の 実 を 挙
げ る た め に 、 有 能 な研 究 指 導 者 を確 保 す る こ とが 最 も重 要 な 問 題 と な り ます 。 そ の た め に
は 、 第 一 に 常 任 の 教 授 以 下 の 席 を作 る こ と、第 二 に他 か ら 〔の 〕滞 在 者 の た め のFeUowship
の 如 き もの が 必 要 と な る と思 い ます が 、 これ 等 の 点 も御 配 慮 を煩 わ し度 、 取 敢 ず 右 延 引 乍
ら、 御 礼 考 々御 返 事 申上 る 次 第 でず2。
この 湯 川 案 に は 、 「プ リ ン ス トン研 究 所 で 便 利 で あ る」 と考 え られ た 黒 板 の 各 研 究 室 へ の 設
置 、談 話 室(サ
ロ ン)の 導 入 な ど、 プ リ ン ス トンで の 経 験 が 考 慮 され る と と もに 、 「理 論 物 理 学
の 全 国 的 中心 」 とな り得 る研 究 所 、「全 国 の 素粒 子 論 研 究 者 が 全 部 入 れ る」 規 模 の 講 演 室 な どに
見 られ る よ うに 、 素 粒 子 論 研 究 者 の 存 在 が 強 く意 識 さ れ て い だ3。 彼 の 研 究 所 案 は 、 日本 の 素 粒
子 論 研 究 者 の 利 用 を 念 頭 に置 きな が ら、 プ リ ンス トンで の経 験 を取 り入 れ る もの だ っ た 。 彼 の
案 は 、 そ の 後 、 湯 川 記 念 館 の建 物 構 想 と して 反 映 され 、 ほ ぼ 実 現 さ れ る に至 った 。
1940年 代 後 半 に組 織 化 して い っ た素 粒 子 論 グル ー プ は 、湯 川 の 名 声 に よ っ て 「実 現 しよ う と
して い る 研 究 機 関 」 が 全 国 の 若 手 研 究 者 た ち に 「解 放 」 され 、 「ま た そ こ に 出 来 る で あ ろ うポ ス
トが どの よ う に利 用 され る で あ ろ うか とい う こ と」 に 関 心 を寄 せ た44。劣 悪 な研 究 環 境 に置 か れ
た若 手 た ち に と っ て 、 この よ うな 関心 事 は 「当 然 」 で あ っ た 。 湯 川 記 念 館 に対 して彼 らが 何 を
期 待 して い た か は 、 『素 粒 子 論 グル ー プ事 務 局 報 』 第1号(1952年4月)に
掲 載 さ れ た 同 年4月
3日 の 素 粒 子 論 懇 談 会 の 議 題 か ら読 み 取 れ る45。
[前 略]
(b)議
題
(i)無
㈹
給者 の研究条件 改善。
(イ)武 者 修 行 費 の 支 出 とそ の 活 用 。
(ロ)地 方 の 新 制 大 学 の 実 情 調 査 。
の
(二)無 給 者 の 実 情 報 告 。
外 国留学 中の人の席 の活用。
小 人数の研究機 関の援助 。
(イ)文 献 の ゆ うず う [マ マ]。(か つ て 理 研 が 行 っ て い た よ う な制 度 を た と え ば湯 川
記 念 館 で 行 う。)
(ロ) 短 期 間 の國 内 留 学 の便 。(大研 究 機 関 よ り適 当 な資 格(無 給 で もよい)を 与 え る 。)
(勾 小 人 数 の 研 究 機 関 の実 情 発 表 。
㈹
研究 者の交流。
(イ) 湯 川 記 念 館 を この た め に 活 用 す る こ と。
(ロ) 内 規 に よ る人 事 の 統 制 。(定 員 の席 に任 期 を 限 る こ と、卒 業 よ りあ る年 数 内 に あ
る 人 は 他 の 大 学 出 身 者 を採 用 す る こ と。)
㈹
今 後 の こ ん だ ん 会[マ
マ]の 運 営 。
(イ)各 地 の 連 絡 責 任 者 と全 国 の 連 絡 の 中心 の 決 定 。
一110一
龍谷 紀 要
第32巻(2011)第2号
(口 連 絡 責 任 者 の 仕 事 の 範 囲 と任 期 の 決 定 。
㈲
(v)素
連 絡 に 要 す る 通 信 費 の捻 出 。
粒 子 論 関係 の 委 員 会 。
(イ)委 員 会 と連 絡 組 織 との 関 係 。
(ロ)学 術 会 議 と物 理 学 お よ び原 子 核 研 究 連 絡 委 員 会 な ら び に 素 粒 子 論 委 員 会 の 現 況
報告 。
こ こで 記 さ れ た 内 容 は 、素 粒 子 論 グ ル ー プ 内 の 議 論 だ が 、(ii)と(iii)の
「湯 川 記 念 館 」 の 記 述 が
表 して い る よ う に 、 記 念 館 を研 究 環 境 の 改 善 に 利 用 した い とい う彼 らの 意 向 を明 確 に 物 語 っ て
い た 。 実 際 に 、1952年7月
に 設 立 され た湯 川記 念 館 で 、 そ の 一 部 は 実 現 化 され て い た 。(i)の(イ)
の 「武 者 修 行 制 費 の 支 出 とそ の活 用 」 は 、湯 川 記 念 館 の 開 所 式 の 直 後 に 同館 で 開 催 され た 「夏
の学 校 」 で 部 分 的 に 実 現 さ れ た46。「武 者 修 行 制 度 」 は 、「研 究 者 の 短 期 間 の 交 流 」 を支 援 す る 制
度 で あ り、 「夏 の 学 校 」 は 「夏 休 み で な けれ ば武 者 修 行 に行 け な い」 無 給 の 素 粒 子 論 研 究 者 を対
象 に 据 えて 、記 念 館 か ら経 費 の 援 助 を受 け て 開 か れ だ7。 ㈲ の(イ)の 「文 献 の ゆ うず う 」 は 、「た
とえ ば 湯 川 記 念 館 で 行 う」 と括 弧 付 け され た よ う に 、記 念 館 の 事 業 部 に よ っ て 担 わ れ た 。 記 念
館 に は 、 研 究 部 と事 業 部 の 二 部 門が あ り、 そ の うち の事 業 部 は 、「図 書 室 の 整 備 、 文 献 目録 の 配
布 、雑 誌 編 集 の 世 話 」 な ど を行 う部 門 で あ っ た綿。 さ らに 、㈹ の 「研 究 者 の 交 流 」 は 、(イ)の「湯
川 記 念 館 を こ の た め に活 用 す る こ と」 とあ る よ う に 、記 念 館 の 「委 托 研 究 員 」 制 度 で 部 分 的 に
実 現 され た 。 この 制 度 は 、 「研 究 生 」 と称 され る外 部 の 研 究 者 が 一 定 期 間記 念 館 に滞 在 し、研 究
部 員 の 「研 究 指 導 者 」 と研 究 を進 め る こ と を支援 す る もの で 、「来 所 の た め の 旅 費 と滞 在 費 」 が
研 究 生 らに支 給 され た49。(ロ)の「人 事 の 統 制 」 に つ い て は 、記 念 館 の専 任 助 手 を3年 と して 「定
員 の 席 に任 期 」 をつ け る こ と に 反 映 され た50。
5.お
わ りに
素 粒 子 論 研 究 者 間 の ネ ッ トワ ー ク は 、 戦 中 の 中 間子 討 論 会 を下 地 に して 、 戦 後 の 素 粒 子 論 懇
談会、 『
素 粒 子 論 研 究 』 の 刊 行 を経 て 基 礎 づ け られ 、湯 川 の ノ ー ベ ル 賞 受 賞 を 契 機 に計 画 され た
湯 川 記 念 館 の 設 立 直 前 に 、 事 務 局 を もつ 正 式 な組 織 体 「素 粒 子 論 グ ル ー プ 」 と な っ た 。 素 粒 子
論 グ ル ー プ は 、 戦 後 の 民 主 化 運 動 の 流 れ の な か で 、 「ラ ボ ラ トリー ・デ モ ク ラ シー 」 「東 大 物 理
教 室 の 民 主 化 」 を謳 う運 動 体 とい う性 格 を も ち なが ら、 ノー ベ ル賞 受 賞 者 湯 川 秀 樹 の 所 属 す る
組 織 体 と して 、 湯 川 記 念 館 設 立 や 運 営 方 法 に 関 与 して い た 。 そ の結 果 、彼 らは 、素 粒 子 論 グ ル
ー プ 内 で 議 論 さ れ て い た研 究 環 境 の 対 応 策 を、 湯 川 記 念 館 で 反 映 させ た の で あ る 。 素 粒 子 論 グ
ル ー プが 湯 川 記 念 館 の 設 立 に どの よ うな形 で 関 与 した か とい う点 の 詳 細 は 別 稿 で 論 じた い51。
謝辞
本 稿 の 作 成 に あ た り、 『
基 研案内』 『
素 粒 子 論 グ ル ー プ事 務 局 報 』 な ど の 閲 覧 で 京 都 大 学 基 礎
物 理 学 研 究 所 に お 世 話 に な っ た 。 関 係 者 の皆 様 に深 くお 礼 申 し上 げ た い 。
素粒 子 論 グ ルー プの 形 成 と湯 川記 念 館 設 立(小 長 谷)-lll一
文 献 と注
1国
立 学 校 設 置 法(昭
和28年7月28日
に 一 部 改 正 の 公 布 、 同 年8月1日
に 施 行)第
四 条 の2。
同 項 に は 、 「国
立 大 学 の 教 員 そ の他 の者 で 当 該 研 究施 設 の 目的 た る研 究 と同一 の 研 究 に 従事 す る もの に利 用 させ るた め 、
国 立 大 学 に 、 左 表 の 通 り、 研 究 施 設 を 附 概 す る 」 と し て 、 京 都 大 学 の 基 礎 物 理 学 研 究 所 と並 ん で 、 東 京 大
学 の 宇 宙 線 観 測 所 も記 さ れ て い る 。
2小
林稔
「基 礎 物 理 掌 研 究 所 の 沿 革 」 基 礎 物 理 学 研 究 所
美穂子
、1-12頁
。 長 岡 洋 介 ・登 谷
「基 礎 物 理 学 研 究 所 の 歴 史 」 「素 粒 子 論 研 究 』Vo1.93No,6(1996年),349-399頁
物 理 学 研 究 所 を め ぐ っ て1.建
設 時 代(湯
礎 物 理 学 研 究 所 を め ぐ っ てIL発
4月 号 、36-43頁:1973年5月
-1978』 、1978年
書 店 、1982年
。 小 沼 通二
研 と し て)」 「自 然 」1958年2月
。 京 都 大 学 基 礎 物 理 学 研 究 所r京
「大 学 に お け る 硬 究 所 改 革 」 「講 座
、 と くに303-307頁
期 」 『日本 物 理 学 会 誌 」2006年12月
。 佐 藤 文隆
号 、265-275頁
号 、22-34頁
基礎
。 「座 談 会
。 小 林稔
基
「基 礎
号 、923-929頁
。 湯 川 秀 樹(渡
都 大 学 基 礎 物 理 学 研 究 所1953
日 本 の 大 学 改 革[4]学
術 体 制 と大 学」 青 木
「共 同 利 用 研 の 発 明 と 宇 宙 物 理,プ
ラ ズマ の揺 藍
。
は 、 次 の 文 献 に 負 う と こ ろ が 大 き い 。 河 辺 六 男 ・小 沼 通 二
1982年4月
号 、38-44頁
最 初 の 共 同 利 用 研 究 所 は ど の よ う し て で き た か 一 」r自 然 」1973年
号 、68-75頁
、299-324頁
。 「座 談 会
川 記 念 館 と し て)」 「自 然 』1958年1月
展 時 代(基
物 理 学 研 究 所 創 設 の こ ろ(1),(2)一
3第2節
「基 研 案 内 」1958年3月
「中 間 子 論 の 誕 生 」r日 本 物 理 学 会 誌 」
辺 慧 編 集 ・解 説)「 湯 川 秀 樹 著 作 集 別 巻 対 談 年 譜 ・著 作 目 録 」
(岩 波 書 店 、1990年)。
4中
間 子 論 と は 、 「原 子 核 を構 成 す る 核 子 間 に 働 く核 力 は 中 間 子 が 媒 介 す る と い う 理 論 」 で あ る(物
編 集 委 員 会r物
理 学 辞 典 改 訂 版 』(培 風 館 、1992年)、1271頁)。
本 数 学 物 理 学 会 の 欧 文 誌(注5)で
5日
の日
初 め て 発 表 した 。
本 数 学 物 理 学 会 の 欧 文 誌 に 掲 載 さ れ た 、 湯 川 の1∼1Vの
理 、11が 湯 川 と 坂 田 の 共 著 で1937年11月10日
理 、IVが
理学 辞 典
湯 川 秀 樹 は 、 彼 の 中 間 子 論 を1934年
論 文 は 、1が 湯 川 の 単 著 で1934年11月30日
に受
に 受 理 、II1が 湯 川 、 坂 田 、 武 谷 の 共 著 で1938年3月15日
湯 川 、 坂 田 、 小 林 、 武 谷 の 共 著 で1938年8月2日
thelnteract董onofElementaryPartlcles」,Pγocθ
に受
に 受 理 さ れ た 論 文 で あ る 。HidekiYhkawa,"On
θd盛
㎎ εqプ 〃昭P吻
ε乞
σo-」Mα
疏 θη2α
εε
σαε30cゼθ⑳qズ 」¢ραπ,
VoL17(1935):48-57;HidekiYukawaandShoichiSakata,℃ntheInteractionofE旦ementaryParticles.11,"
Pmcθ θd¢
ηgsqμ
んθP'L〃5乞co-〃αε
〃θ?η1α`歪cα
ど300乞θ`1りqズ
」窃ραη,VoLl9(1937):1084-1093;HidekiYukawa,
ShoichiSakataandMitsuoTbketani,'°On乳he夏nteractionofElementaryPartides.IiズP節ocθ
θα魏g8qブ
〃昭
P吻s記o一 ル1α
〃zθ
篇協`乞σα`80σ 歪
θ忽qrJαpα?z,Vo1.20(1938):319-340;HidekiYukawa,ShoichiSakata,Minoru
KobayasiandMitsuoTaketani,℃ntheInteractionofElementaryParticles.Iy"Pγocθ
θd伽gs(ガ
〃昭
Pんgs¢oσ一
ル話
αε
加 ㎜ 虚
ビcα
ε30σ乞
θ`雪qrJαPα η,Vbl.20(1938):720-745.
61938年4月
授:湯
末 当 時 の 大 阪 帝 国 大 学 理 学 部 湯 川 研 究 室 の メ ン バ ー と 彼 ら の 年 齢 は 以 下 の と お りで あ る 。 助 教
川 秀 樹(31歳)、
介(24歳)、
斐(武
講 師:坂
本)在
黙(不
田 昌 一(27歳)、
詳)、 三 回 生 砺 究 室 配 属:谷
巻 対 談 年 譜 ・著 作 目録 』(注3)、
7湯
小 林 稔(30歳)、
年 譜 、8頁
副 手(無
給):武
川 安 孝(22歳)。
谷 三 男(27歳)、
これは
岡 山大
『湯 川 秀 樹 著 作 集 別
を参 照 し た 。
川 の 初 期 の 中 間 子 論 は 発 表 後 し ば ら く注 目 さ れ な か っ た が 、 仁 科 芳 雄 ら に 「あ た た か く迎 え 」 ら れ て い
た 。 湯 川 は 、 「遍 歴 」 の な か で 、 「日本 の 学 者 が 新 し い 学 説 を 唱 え た 場 合 、 最 初 は 日 本 の 学 界 か ら無 視 あ る
い は冷 遇 され 、 次 に外 国 で認 め られ る よ うに な って 、初 め て 国内 で の 評価 が 高 まる のが 通 例 」 だ が 、彼 の
中 間 子 論 の 場 合 は 「少 し事 情 が 違 っ て い た 」 と 、 回 想 して い る 。 こ の 回 想 を 、 湯 川 は 「日 本 の 物 理 学 界 の
た め に も 」 「明 ら か に して お き た い 」 と述 べ て い る 。 「遍 歴 」 「湯 川 秀 樹 自 選 集 第 五 巻 遍 歴 』(朝
1971年)、243-247頁
、 引 用 は245頁
8
湯 川研 究 室 の 「
理 論 コ ロキ ウ ム」 の記 録 に つ いて は 、河 辺 ・小 沼 論 文(1982年
9
坂 田 昌一 「中 間子 理 論 研 究 の 回顧 」 「
物 理 学 と方 法
10
日新 聞 社 、
。
論 集1』(岩
、 注3)を
参 考 に した。
波 書 店 、1972年)。 引 用 部 分 は140頁 。
中 根 良 平 ・仁 科 雄 一 郎 ・仁 科 浩 二 郎 ・矢 崎 裕 二 ・江 沢 洋 編 『
仁 科 芳 雄 往 復 書 簡 集 現 代 物 理 学 の 開 拓II
1936-1939』(み すず 掛 房 、2006年)。 引 用 轡 簡 は601-602頁 。 ち なみ に 、原 文 は、 ひ らが な部 分 が カ タ カナ
で あ る こ と を断 っ てお く。
一112一
龍谷紀要
第32巻(2011)第2号
11
出席 メ ンバ ー は1937年8月12日
付 の仁 科 の 湯川 宛 手紙 か ら読 み取 った 。8月19日
あ っ た可 能 性 は あ る。 「
仁 科 芳 雄往 復 書 簡 集 現 代物 理 学 の 開拓II』(注10)、607頁
当 日に メ ンバ ー の 変 更が
。
12
坂 田、「
物 理 学 と方法
13
武 谷 三男 「素 粒 子論 グ ルー プの 形 成 一 私 の 目で見 た 一 」 湯 川秀 樹 ・坂 田 昌一 ・武谷 三 男 「
素 粒 子 の探 求」
論 集1』 、145頁 。
(動草香 房 、1965年)、79-240頁
、 と りわ け144-147頁 。河 辺 ・小 沼 、「中 間 子論 の誕 生 」(注3)、273頁
14
「
仁 科 芳 雄往 復 轡 簡 集 現 代 物 理学 の 開拓H」(注10)、760-820頁
15
「
湯 川 秀樹 著 作 集 別 巻 対 談 年 譜 ・著 作 日録 」(注3)、
16
河 辺 ・小 沼 、「中間 子 論 の誕 生 」(注3)、273頁
17
素 粒 子 論 研究 会 編r素 粒 子 論 の 研 究1一
18
河 辺 ・小 沼 、「中間 子 論 の誕 生 」(注3)、272-274頁
年譜 、8頁 。
。
中 聞 子討 論 会報 告 一 」(岩 波 書 店 、1949年)、223頁
。
。
19
r湯川 秀樹 著 作 集 別 巻 対 談 年 譜 ・著 作 目録 』(1990年)、 年 譜 、10頁 。
20
河 辺 ・小 沼 、 「中間 子 論 の 誕生 」(注3)、272頁
21
「
素 粒 子 論 の 研究1」(注17)、221頁
22
。
。
。
。
同文 献 、222頁 。
河 辺 ・小 沼 、 「中 間子 論 の 誕生 」(注3)、273-274頁
。
24
武谷、 「
素粒 子 の探 求j(注13)、191頁
。
25
坂 田、「
物 理学 と方 法
26
湯 川 記 念 館 ・基 礎 物 理 学 硬 究 所 の 最初 の案 をめ ぐっ て、 荒 勝 文 策 は次 の よ う な発 言 を して い た と され る。
論 集1」(注9)、150頁
。
「当分 は占 領政 策の た め実 現 しな い と して も、将 来 は核 物理 学 の 実験 的研 究 もひ ろ くお お う こ とが で きる よ
うに して お こ う」。 この 発 言 は 、 当初 の 基 研案 には 、実 験 部 門 も加 え られ てい た こ と を示 す と と もに 、 「占
領政 策 」 に よ っ て進 ま ない 実 験 研 究 の 当時 の状 況 を表 してい る。小 林 稔 、 『自然 」1973年4月
号(注2)、
39頁 。
27
武谷 、 「
素 粒 子 の 探 求」(注13)、194-195頁
案 内」(注2)、67-73頁
。 「ProgressofTheoreticalPhysics」
「基研 案 内j(注2)、69-70頁
。
29
武谷 、 「
素 粒 子 の探 求 」(注13>、204頁 。
30
「基研 案 内」(注2)、76-77頁
31
r基研 案 内」(注2)、76頁
32
坂 田 昌一 「研 究 室 会議 の 提 唱 」 「物理 学 と方 法
33
武谷、「
素 粒 子 の探 求」(注13)、196-197頁
坂 田 、r物 理 学 と方 法
35
の 沿革 につ いて は 、 『基研
を参 考 に した。
。
。
論 集1」(注9)、108頁
「
基研 案 内 」(注2)、17頁
。
36
r基研 案 内 」(注2)、17頁
。
37
武谷 、 「
素 粒 子 の 探 求」(注13)、204-206頁
論 集2』(岩
波書 店 、1972年)、3-8頁
。
。
。
。
「素粒 子 論 グ ルー プ事 務 局 報 」no,1(19524.19)。
39
武谷 、 「
素 粒 子 の 探 求」(注13)、233頁 。
40
湯川 記 念館 の 沿 革 は、 以下 を参 考 に した。r基 研 案内 」(注2)、1-12頁
歴 史」 「
素 粒 子 論 研 究」(1996年)(注2)、349-357頁
41
『奉研 案 内 」(注2)、2頁
42
小沼、「
大 学 に お け る研 究 所 改 革 」(注2)、304-306頁
43
「
基研 案 内 」(注2)、4頁
「基研 案 内 」(注2)、4-5頁
。 長 岡 ・登 谷 「基 礎 物 理学 研 究 所 の
。
。
。
。
。
45
「素粒 子 論 グ ルー プ事 務 局 報 」no.1(注38)、2頁
46
基研 の 「夏 の 学 校 」 と素 粒 子 論 グル ー プの 関 係 につ い て 、筆 者 は下 記 の 報 告 で 論 じた。 小 長 谷大 介 「基 礎
。
物 理 学 研 究 所 に お け る学 術 交 流 制 度 の起 源 」 日本 物 理学 会 第65回 年 秋 季 大 会(大 阪 府 立 大 学 、2010年9月
素 粒 子論 グル ー プの 形 成 と湯 川 記 念 館 設立(小 長 谷)-ll3一
25日)。
47
r素粒 子 論 グ ルー プ 事務 局報ho.1(注38)、1頁
。『
素 粒 子論 グ ル ー プ事 務 局 報 』no,3(1952,5.14)、1
頁。 『
素粒 子 論 グル ー プ事 務 局報ho,5(1952.6,13)、1頁
48
r基研 案 内』(注2)、9頁
。
。 ち なみ に、研 究 部 は 、「全 国的 理 論物 理 学 者 の研 究者 に委 嘱 して各 地 の 研 究 グ
ルー プ との 連絡 に」 当た り、「研 究 会の 立 案、 その 他記 念 館 の研 究 方針 な どに つい て 、で きる だ け研 究 者 か
ら直接 の声 を き く」 部 門 で あ る。
49
「
基 研 案 内」(注2)、24-25頁
50
「
基 研 案 内」(注2)、21頁
51
索粒 子論 グル ー プが どの よ うな形 で 湯川 謁 念 館の 設 立過 程 に 関 わ った か とい う点 に つ い て 、笹 者 は 來京 工
。
。
業 大学 の科 学 史 ・技 術 史 の研 究 会 、 火曜 ゼ ミナー ル で報 告 した こ と を付 記 して お く。 小 長 谷 大 介 「京都 大
学 基 礎 物 理 学 研 究 所 に お け る 研 究 交 流 制 度 の 形 成 ① 一・
戦 後 の 素 粒 子 論 グ ルー プ との 関係 を め ぐ っ
て 一 」(東 京工 業大 学 火 曜 ゼ ミナ ー ル、2010年7月20日)。
研 究所 にお け る学 術 交 流 制度 の形 成(仮)」
一114一
龍谷紀要
第32巻(2011)第2号
報 告 タ イ トル は 、 当 日、 「京 都大 学 基 礎 物 理 学
か ら上記 の タイ トルに 変 更 され た 。
ダウンロード

素粒子論グループの形成と湯川記念館設立 小長谷 大 介