追 悼
■吉川庄一先生
飯吉厚夫(中部大学総長)
吉川庄一先生は,去る11月5日,自宅で突然お亡くなり
になりました.享年75歳でした.
吉川先生は,核融合の草創期のパイオニアとして,発展
期の索引者として活躍されました.
1958年に東京大学の理学部物理学科を卒業後,米国 MIT
原子力工学科大学院に留学し,D. Rose教授の下で1961年に
わずか2年で Ph. D を得て,ただちに L.Spitzer が所長をし
ていたプリンストン大学プラズマ物理研究所
(PPPL)に招
かれました.当時,研究所には T. Stix,J. Dawson,R. Pease
など世界から名だたる研究者が集まっていました.吉川先
生は,すぐに主任研究員となり,同研究所の主装置であっ
た C‐ステラレータ実験のリーダー的存在として縦横無尽
の働きをしていました.
たまたま,1965∼67年の間,私はポスドクの研究員とし
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9年6月)
て吉川先生の下で C‐ステラレータの実験に参加していて,
その様子をつぶさに見ていました.そのときに達成された
合わせると現存する核融合方式のほとんどすべてに先生の
1 keV 近いイオン温度,RF 加熱や電流駆動,ダイバーター
アイデアが生かされているといってよく,先生無くしては
概念,といった多くの成果は,LHD はじめ今日のヘリカル
現在の核融合の進展はなかったと言っても過言ではないと
系研究のみならず,その後のトカマク研究の源流であると
思います.
思います.
吉川先生は,1973∼1976年に日本へ一時帰国され,東京
当時最大の課題は,C‐ステラレータで観測されていた異
大学教授として後進の育成に務めると共に JT-60 の基本構
常損失の原因究明とその改善方策を見つけることでした.
想をつくられました.当時の大学院生に伊藤公孝氏(核融
吉川先生がプラズマの平衡から始まって,ドリフト不安
合科学研究所教授)
,伊藤早苗氏(九州大学教授)
,牧島
定,対流胞(磁気面破壊などによる)など原因と考えられ
一夫氏(東京大学教授),岩橋理彦氏(内閣府審議官歴任)
ることを理論,実験を駆使して示し,どうすればそれが改
など現在いろいろな方面で活躍している多くの逸材が集
善できるかを熱く語っていました.それに対して Spitzer
まっていました.
所長はじめ所員が真剣に取り組もうとしていました.その
残念ながら,その頃先生は体調を崩され再びプリンスト
結果1
970年代に入って吉川先生のアイデアになる Levitron
ンに戻ることになり,プリンストン大学教授として2000年
(世界初の超伝導装置でもある),Spherator,FM-1 などの
に引退されるまで独創的アイデアを次々と発信し続けまし
内部導体型の建設・実験が進み,古典拡散に近いプラズマ
た.先生はプリンストンに戻った後も核融合科学研究所,
の生成が実証されました.
日本原子力研究所の良き指南役として,我国の核融合に力
これにより,“練獄の苦しみ”からの脱出に明るい見通し
強いメッセージを送り続けたことは,多くの方々の心に
が得られ,その後のトロイダル装置の設計指針が得られる
残っていることと思います.ITER 計画の遅れによって,
ようになりました.吉川先生は PPPL でのトカマク研究へ
先生の夢だった核融合点火実証実験の実現を待たずに亡く
の方針転換を指導し,ST トカマク実験を経てトカマク装
なられたことは,さぞ無念のことであったろうと思います.
置 PLT が建設されて,1億度のプラズマがつくられるなど
昨年の夏京都へ一緒に旅行した時には,珍しく先生の方
の成果が得られました.その結果に勇気づけられ,TFTR
から広隆寺に行きたいと言われました.ふくよかで慈愛溢
(米),JET
(EC),JT-60
(日)への発展につながったことは
れる弥勒菩薩をじっといつまでも見つめていた姿が今でも
よく知られています.
目に焼きついています.それが最後の別れとなってしまい
吉川先生は,天才的な頭脳の持ち主であり,並外れた創
ました.先生どうぞ安らかにお眠りください.
造性が数々のアイデアを生み,Heliac,ATC,PBX などを
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