2003 年度
財団法人交流協会日台交流センター歴史研究者交流事業報告書
内本鹿への旅
――〈尋根〉の人類学にむけて――
東京都立大学大学院
石垣直
派遣期間(2003 年 4 月 29 日∼7 月 27 日)
2004 年 8 月
財団法人
交流協会
内本鹿への旅
――〈尋根〉の人類学にむけて――
石 垣
直
(東京都立大学大学院)
場所は集団の刻印を受けており、また集団も場所の刻印を受けている。…
石は運び去ることはできるが、石と人間との間に樹立された関係を変えることは容易
ではない。(中略)ある集団が行ったことを他の集団が壊すことはできる。しかし昔
の人びとの構想は物的配置の中に、すなわちこの事物の中に、結晶化されている。
[アルヴァックス 1989]
一
はじめに
台湾先住民社会の各地では、1990 年代半ばから〈尋根〉1(ルーツ探し)と呼ばれる活動
が行われるようになってきた2。本稿の目的は、わたしが 2003 年冬に実際に参加した〈尋
根〉活動の詳細な内容を提示するとともに、こうした〈尋根〉という活動を人類学はどの
ように読み解いていけば良いのかを考察することにある。
本稿で紹介する〈尋根〉活動は、かつて台湾中部山地を勢力下においていた先住民・ブ
ヌンのうち、現在台東県延平郷の山麓部で生活する人々が中心となって行ったものである。
彼らの祖先は、日本植民地期末期に台湾総督府(以下、総督府)が実施した先住民政策に
より現在の居住地である山麓部への集団移住を強いられた。それから 60 余年、当該地域の
ブヌンは、祖先が生活していた〈マイ・アサン mai-asang〉
(旧集落)が点在する〈パシカ
1
〈尋根之旅〉(ルーツ探しの旅)とも呼ばれる。なお、本稿では現地語を表記する場合に
〈 〉を用い、説明が必要な場合は初出個所の後に日本語の意味を付した。
2 こうした先住民たちの〈尋根〉活動[e.g. 趙 1999]の背景としては、1980 年代半ばの民主
化後における台湾史ブーム、マジョリティである漢族(閩南人、客家人、etc.)が行ってい
る史跡探訪や〈祭祖〉探しといった〈尋根〉などの流行があると考えられる。
1
ウ Pasikau〉渓(鹿野溪)一帯の山地・〈内本鹿〉への〈尋根〉を始めた。
わたしが実際に参加した〈尋根〉は、延平郷桃源村に本拠をおく〈財團法人布農文教基
金會〉3(以下、基金会)が主催したものである。1999 年から断続的に台湾中部のブヌン諸
村落でフィールドワークを行っていたわたしは、2002 年の夏初めて台東県延平郷のブヌン
村落での調査を開始し、基金会の人々が前年の冬から数回にわたって実施して来たという
〈尋根〉に興味をもった。その夏は調査期間の都合もあり実際の〈尋根〉活動には参加で
きなかったが4、それから 1 年以上が経った 2003 年冬、ようやく〈尋根〉への同行調査が
実現した。本稿で提示する実際の〈尋根〉は、2003 年 11 月 25 日から 12 月 7 日までの 13
日間にわたって行われた。
本稿が以下で提示する内容の主要部分は、わたしがフィールド・ノートに記した極めて
一次的な情報である。こうしたある意味で「(比較的)未加工」の情報を公にすること意図
は、〈尋根〉を通じて彼ら現代のブヌンが、そして彼らに同行しながら彼らを調査・観察し
ようと努めたわたしが、実際にどのようなことを体験し何を考えたのかを、できる限りス
トレートなかたちで読者5に伝えようとすることにある。もちろん、フィールド・ノート自
体には、わたしだけでなく他の参加者らのプライベートな話題も記されており、そのまま
のかたちで公表することは不可能であった。その意味で本稿は「加工」された文章ではあ
フィールド
るが、現 場 の雰囲気が読者に率直に伝わるよう心がけて綴った文章である。
以下ではまず、実際の〈尋根〉の状況を詳述する予備知識として、第 2 節において内本
鹿という地域および基金会が行ってきた〈尋根〉活動について概説する。続く第 3 節は、
〈尋
根〉の具体的な内容に関する記述である。かなりの紙幅を割いて〈尋根〉での具体的な出
来事や参加者らの語りを記述するが、それは上記の意図に基づくものである。そして第 4
節では本稿の結びとして、こうした〈尋根〉を詳細に記述することを通じて、社会・文化
人類学(以下、人類学)はそこから何を読み取ることができるのかを、記憶(memory)、
場所(place)、アイデンティティ(identity)、もつれ合い(entanglement)といったキー
〈布農文教基金会〉とは桃源村出身の白光勝牧師が中心となって 1994 年に設立した団体
で、翌年には台湾先住民初の財団法人となった。文化観光施設〈布農部落〉および〈紅葉
温泉〉を運営するだけでなく、地域住民に対する福祉活動なども行っている[cf. 黄・胡
1999;布農文教基金会HP]。
4 ブヌンの場合〈尋根〉の実施時期としては、山地での野生動物(e.g. 百歩蛇、熊、etc.)
の活動、河川の水量、農閑期などを考慮し、晩秋から初春の期間が好まれる。
5 もちろん、
その読者の中にはブヌンも含まれている。なお、本稿とほぼ同じ内容の文章(中
国語)が、基金会が主催するシンポジウムでも発表される予定である。
3
2
ワードに寄りながら考えてみたい。
二
内本鹿について
内本鹿は現地語で〈ライプッヌク Laipu’nuk〉と呼ばれる。この名前は、この地域の一部
(北部一帯)が本来、台湾南部で生活する先住民・ルカイのマンタウラン集落の猟場であ
ったことに由来すると同時に、18 世紀初頭に本拠地である現在の南投県一帯の山地から花
蓮、高雄、台東方面へと勢力を拡大してきたブヌンにとって、この地が極めて新しい入植
地であったことを示唆している。1931 年に当該地域での現地調査を行った馬淵東一は、内
本鹿へ最初に入植したブヌンの数人が存命中だったこと、彼らの口述から判断して内本鹿
へのブヌンの最初の入植は当時から遡っても 55 年ほど前(1870 年代半ば)であったこと
を記している[移川ほか 1935: 167]。
1910 年(明治 43 年)に佐久間左馬太総督の指揮のもとで開始された「五箇年計画理蕃
事業」という名の先住民に対する武力制圧が完了すると、植民地統治の効率化や先住民の
同化政策を企図した総督府は、1919 年(大正 8 年)頃から各地で小規模な移住政策を実施
した[台湾総督府警務局 1941: 10]。また内本鹿地域に対しては 1909 年(明治 42 年)頃か
ら具体的な調査が開始され[cf. 入澤片村 1927: 307-8]、その後同地域内を横断する「内本鹿
越道路」に沿って、紅葉、清水、楓、嘉嘉代、桃林、橘、壽、常盤、朝日、出雲など駐在
所を建設していった。しかし、当該地域で本格的な集団移住政策が実施されるようになっ
たのは、他の先住民居住地域と同様に、台湾先住民の抗日蜂起として名高い霧社事件発生・
「鎮圧」後に総督府の先住民政策がより積極的な同化政策へと転化した 1930 年以降のこと
であった[葉 2002: 101-8]6。
総督府の積極的な先住民政策が着実に実を結びつつあるかのように思われた 1941 年(昭
和 16 年)3 月 9 日深夜、10 数人のブヌンが清水ならびに楓の両駐在所を襲撃し、日本人警
官を含む 3 人を殺害し 3 人にケガを負わせるという事件が発生した。世にいう「内本鹿事
件」である
7
。この抗日蜂起を率いたハイスル=タケシ・ヴィライナン
6
なお、台東地域のブヌンに対する大規模な集団移住政策の導火線としては、ブヌンによる
二つの駐在所襲撃事件――大関山事件(1932 年)および逢坂事件(1933 年)――を挙げる
ことができる[cf. 黄 2002: 52-5]。
7 抗日蜂起の理由としては、集団移住先での生活環境が劣悪さ、日本人警官による厳しい管
3
(Haisul=Takisi-vilainan)らは、約 1 ヶ月後には同じブヌンの説得に応じて投降したが、
その数ヵ月後には彼を含む 5 人のブヌンが台東庁の関山で処刑された。内本鹿事件の「鎮
圧」後、第 2・第 3 の内本鹿事件の発生を恐れた総督府は、内本鹿一帯のブヌンを全て山麓
の集落へ移住させるという強硬手段に出た。当該地域で暮らしていたブヌンは着の身着の
ままで住み慣れた集落を追われ、彼らの家は日本人によって焼き払われたと伝えられてい
る。
基金会の人々は、彼らの祖先がマイ・アサンを追われてから約 60 年が経過した 2001 年
の冬、同地域への〈尋根〉を始めた。彼らが内本鹿への〈尋根〉を行う目的は、文字通り
「ルーツ探し」であり、彼らはそれを「ブヌン文化を探す旅」と位置付けている[財團法人
布農文教基金會 2002a: 91]。そして彼らは、GPS(全地球測位システム)やGIS(地理情報
システム)を用いたいわゆる〈部落地図〉作成という方式で、同地域内の旧集落の位置関
係、居住していた人々、土地利用状況、その土地にまつわる伝承の記録収集などを目指し
てもいる[阿力曼 2002]。2003 年末現在のべ 12 回にわたる内本鹿への〈尋根〉活動を行っ
てきた基金会の人々は、中央研究院民族学研究所所長・黄應貴の言葉「内本鹿は歴史の窓」
を引用し[黄 2001: 4]、1929 年に総督府が作成した台湾地形図(縮尺 1/5 万)において内
本鹿一帯が空白であったこと、内本鹿のブヌンが日本による植民地統治に最後まで抵抗し
た人々であったことを強調する[財團法人布農文教基金會 2002a: 3;cf. 石垣 2003: 94-7]。
また彼らはビデオカメラで撮影した〈尋根〉の状況をドキュメンタリー映像として編集し、
台東県を中心とする各地のブヌン村落で上映会や〈部落地図〉調査成果報告会を開催して
いる[e.g. 財團法人布農文教基金會 2002a、2002b、2003]。さらに彼らは 2002 年 12 月 10
日の世界人権デーに、〈行政院文化建設委員會〉(以下、文建会)の協力のもと、ブヌンの
古老 15 人をヘリコプターで内本鹿に帰還させるというプロジェクトを行った。その日彼ら
ことぶき
は、日本植民地期の行政中心であった 壽 駐在所に現存する掲揚台に、同行した陳郁秀文建
会主任委員が揮毫した〈内本鹿元年〉旗を掲揚した。
理体制などが伝えられている。なお、当時の日本側の対応に関しては、総督府警務局理蕃
課の機関紙『理蕃の友』に掲載された記事(「内本鹿ブヌンの兇行」1941 年 4 月号;「内本
鹿事件第二回発表」同年 5 月号;「内本鹿事件第三回発表」同年 7 月号)[台湾総督府警務
局理蕃課 1993]、ならびに近年出版された当時の日本人警官の手記[青木 2002]などが参考
になる。
4
三
内本鹿への旅
◆11 月 25 日(火)、晴れ⇒曇り⇒雨。
お ん で こ ざ
午前 9 時過ぎ、同地を訪問していた日本の和楽器演奏集団・鬼太鼓座の人々を交えて、
基金会が運営する〈布農部落〉のステージで出発式・記者会見が開かれた。鬼太鼓座の代
表者が、さらには今回の〈尋根〉に参加する台湾在住のアメリカ人音楽家・ジャック8が今
回の〈尋根〉に対する思いを述べた。ジャックが、英語訛りの中国語で、「われわれアメリ
カ人は自分の根を探すことが出来ずにいる。皆さんのように現在でも自分たちの根を探る
ことができる人々を羨ましく思う」と語ったのが印象的だった。
その後、基金会の人々はブヌンの〈ピスライPis-lai〉9を披露し、鬼太鼓座の人々は「秩
父屋台囃」を演奏して互いにエールを送りあった。また基金会からは「友好の証」として
鬼太鼓座の代表者にブヌンの赤い織物が贈られた10。続いて基金会が用意した〈内本鹿〉旗
に鬼太鼓座の代表者が「貮」を記した。この〈内本鹿貮年〉旗を、日本植民地期の内本鹿
ことぶき
一帯における行政中心であった 壽 ――〈ピスパダンPis-paz-an〉――に掲揚することこそ、
今回の〈尋根〉に参加するわたしたちの最大の使命だった。
今回の〈尋根〉への参加者は、基金会幹部のホソン(Husun 、40 歳)、高山ガイドであ
るダホ(Dahu 、47 歳)とビウン(Biun 、37 歳)、桃源村出身で兵役を終えたばかりの
ビサド(Bisadu 、21 歳)、
基金会スタッフの漢族女性の淑恵(38 歳)、最年少のタハイ(Tahai 、
10 歳)、上述のジャック(35 歳)、そしてわたしの 8 人である。各自が、白米、薑、インス
タント麺、乾燥豚肉・野菜などを分担してリュックに詰め出発に備えた。リュックの重さ
は 30kg 近くになった。15 時過ぎ、わたしたちを乗せた車は〈布農部落〉を出発した。
わたしが今回の旅で最も怖れかつ興味を持っていたことのひとつは、現代ブヌンの日本
人に対する意識であった。というのも、彼らの祖先が内本鹿事件およびその後の強制的な
集団移住という歴史をもっていたからである。ワゴン車が紅葉村上方の延平林道を西に向
かって進むなか、隊のリーダーであるタマ・ダホ11が「かつてのブヌンの生活は…」と語り
8
プライバシーの問題を考慮し、本節に登場する人々の名前は全て仮名とした。
狩猟の前に豊猟を祈願して猟銃を祀って歌われる。歌詞の内容は、「動物たちと全て私の
猟銃に掛かるがいい。鹿よ、猪よ、山羊よ、全て私の猟銃に掛かるがいい」といったもの。
10 これは、山中で百歩蛇――〈カヴィアズkaviaz〉
、「友人」の意味もある――に出会った
とき、赤い布切れを見せて友好の証を示す、というブヌンの慣習に由来する。
11 「タマ・
(Tama-)」は「父」の意で、父親ほどの年齢の男性を呼ぶときは、血縁関係に
9
5
だした。彼は、「自身の祖先でなくともブヌンが住んでいたマイ・アサンを訪れると涙が零
れ落ちそうになる」と言った。景気付けの酒が少し入っていたせいもあろうが、彼はこう
も語った、「だから祖先の土地を奪った日本人を見ると怒りがこみ上げてくる…」、と。ホ
ソンが「おいおい、歴史のことは語るなよ」と制したが、わたしは「いや、知りたいから
話してくれ」と応じた。窓の外は雨になっていた。
17 時半過ぎ、今日の宿泊地である延平林道 25km 地点に到着した。戦後に建設された延
平林道の各所では土砂崩れが頻発し、車では林道の中間地点に満たない 25km 地点までし
か進めなかった。林道脇には道路工事のための掘っ立て小屋――トタンを二枚重ね合わせ
ただけの切妻造――があるのみだった。この地点まで同行してくれたブヌンの友人たちが
中心となって火起こしや薪集めをした。降り止まない雨のためになかなか火が起きない。
持参したゴムチューブにライターで火をつけ、湿っていない小屋の柱を削りだして薪に使
ったが、火が起きるまでには随分と時間がかかった。
20 時、ようやく焚き火が安定し、夕食の準備が始まった。この旅最初の食事は、一番幼
いタハイの荷から取り出した材料で作った乾燥豚肉と酸菜のインスタント麺である。食事
開始と前後して、明日からの〈尋根〉を前に購入した米酒での宴が始まった。ホソン、ジ
ャック、タハイ、ビサドは先に寝る準備を始めた。わたしはしばらく宴の輪に加わった後、
フィールド・ノートを記して、雨音を聞きながらシュラフの中に潜りこんだ。
◆11 月 26 日(水)、曇り⇒雨。
6 時、起床。中には明け方近くまで宴を続けていた者もいたようだ。ご飯と乾燥豚肉と酸
菜のスープが今日の朝食である。かなりの量だったが、「朝しっかり食べておかないと日中
歩けないんだ」とタマ・ダホが言った。7 時過ぎには荷物をまとめて、準備体操をして身体
を温めた。すぐ出発するはずが、猟銃12の弾の出が悪いとかでタマ・ダホたちが何度も試し
撃ちをしていた。
この地点まで同行してくれたタマ・アディマン(Tama-Adiman)の祈り13の後、8 時 10
関りなく「タマ-○○」と敬称で呼ぶのが普通である[cf. 馬淵 1974a]。
法律改正により先住民には数年前から、警察署に登録した猟銃の保有が認められた。自
家製の猟銃は銃口から弾・火薬を込めるという古典的なものである。銃弾としてはタイヤ
のベアリング球が使われる。散弾の場合は、より小さいベアリング玉が複数使用される。
13 現在、台湾先住民の約 8 割がキリスト教徒であり、タマ・アディマンの中国語による祈
りは、今後の行程、各隊員の保護、無事なる帰還を神(キリスト)に祈るといったもので
あった。
12
6
分過ぎに一行は内本鹿に向けて出発した。高山ガイドのビウンとタマ・ダホが隊の前後を
守る。出発して 10 分足らず、最初の難関に出くわした。幅 20m・傾斜 45 度近い土砂崩れ
跡が広がっていた。もし滑り落ちたら 50・60mは転がり落ちるだろう。わたしは前方を行
くビサドに倣い、膝を付き重心を落として進んだ。今回の〈尋根〉の目的地・壽は、昨晩
宿泊した 25kmの山小屋の向かい(西側正面)にある山々の裏手だという。右手に崖が聳え
る路を、上からの落石、左下への落下に気をつけながら進んだ。
重い荷物を背負っていること、わたしを含め〈尋根〉初心者や子供が同行していること
もあり、約 30・40 分おきに休憩をとった。すでに標高 1,500m ほどの地点を進んでいるた
め、身体を動かしていないと急激に体温が下る。わたしたちは身体を温めるためにビンロ
ウを噛んだ。休憩開始から 15 分から 20 分が経過して身体が冷え切る前に出発した。
先頭から最後尾までの距離、各メンバー間の距離がかなり開き始めた。時には先頭が休
憩地点に到着してから最後尾を歩く者がその休憩地点に到着するまでには 10 分ほどの間隔
があくこともあった。10 時 40 分過ぎ、31km 地点の山小屋に到着した。2 時間半ほどで 6km
を歩いたことになる。前日に基金会メンバーのハイスルが「重い荷を担いだ行程なので、1
日 10km も歩けば上出来だ」と言っていたことを思い出した。31km 地点山小屋は細い柱と
トタン屋根みの寂れた山小屋である。この小屋の柱に使用されている桧木も、着火用の薪
としてかなり削られていた。タマ・ダホの話では、かつてブヌンの祖先は台東から高雄の
ブヌン居住地まで〈マパ・ドゥラプ mapa-du’lap〉
(相互饗応)するのに 3 日ほどしかかか
らなかったらしい。彼らが歩いた路は現在の林道ではなく山の稜線で、高雄の親類や知人
への土産は途中の猟場で「調達」するのでかなりの軽装での旅が可能だったのだという。
ホソンやタマ・ダホが、
「オジが平地への移住後に日本兵(高砂義勇隊)として南洋に従
軍した」という話を始めた。「劣勢を強いられ補給も絶たれた日本兵の中には、あまりの空
腹に同じ日本兵の肉を食べるものもいたらしい」とタマ・ダホは言った。「村の○○のじい
さんは戦死して帰ってこなかった」、「△△のおじさんは、戦争が終った後、随分と遅れて
戦地から戻ってきた」といった話だった。その語り口はわたしが南投県でのブヌン調査の
際に聞いた「俺の祖父は日本の兵として戦ったんだ!」といった誇らしげなものではなか
った。タマ・ダホは、「自分たちの祖先は日本によって翻弄されてきた」と言った。
悪天候の初日、皆の疲労も酷かったので今晩はこの 31km 地点の小屋で一泊することに
なった。わたしたちは炊き上がったばかりのショウガ湯を飲んで身体を暖めた。しばらく
するとビウンが中心となり、皆で薪の切り出して今晩の寒さを凌ぐ準備を始めた。持参し
7
た米酒がまだたくさんあるので、ビウン、タマ・ダホ、ビサド、そしてわたしの 4 人は酒
を酌み交わし始めた。「俺は昔歌手を目指したこともあるんだ」といってタマ・ダホが中国
語の歌や日本語の歌を歌いだした。わたしは、宴に加わりつつフィールド・ノートの作成
に励んだ。
16 時ごろから夕食の準備が始まった。朝食の残りのご飯をお粥にし、おかずはビウンが
持参してくれた塩漬け豚肉だけだった。夕食後、タマ・ダホが林道の先にある〈美奈田〉
山の名前の由来を話してくれた。昔ブヌンの 5 人兄弟が山頂付近で猟をしていた際に大雪
が降ってきた。兄弟の一人はこの場所に止り焚き火で寒さを凌ごうとしたが他の 4 人はさ
っさと集落に戻った方がいいといって火を消してしまった。その結果、一人だけが生き残
り他の 4 人は全て凍え死んでしまったという。
〈ミンナタズ min-nataz〉という名前は「死
者が出た」というその伝承から来ていた。
出発式で「今でも根を捜し出せるブヌンが羨ましい」と語ったジャックが、「自分自身に
とってこの旅は『流浪の旅』なのだ」と言い出した。彼はこの旅を通じて、日常の現代的
な生活を離れ、心の中で自分との対話を望んでいるようだ。アーティストらしい考え方で
ある。しかし、「流浪の旅」という言葉にタマ・ダホが食って掛った。酒が入っていたせい
もあるだろう。タマ・ダホは「俺たちの旅は流浪なんかじゃない。祖先の住んでいた場所
に帰ることが流浪なんかであるはずがない」と反論した。ジャックにしてみればまったく
個人的な気持ちを語ったのであり、タマ・ダホの批判はお門違いではあった。しかし、現
代のブヌンがこの〈尋根〉をどう捉えているのかを窺い知ることができる興味深い出来事
だった。
◆11 月 27 日(木)、晴れ⇒霧⇒雨⇒曇り。
7 時 40 分、31km の山小屋を出発した。歩き始めて 5 分足らずで最初の難関に遭遇した。
その場所とは出発の数十分前に土砂崩れの轟音が聞こえてきた場所だ。昨夜から降り続け
ている雨のせいだろう。さらなる土砂崩れを誘発せぬよう、慎重に歩を進めた。
最初の休憩後の 8 時 28 分、先頭を行くタマ・ダホが道端に倒れているオスの〈サクSaku’t〉
(山羌)を発見した。別の狩猟者が散弾で撃ったものの、逃げた獲物を見つけ切れなかっ
たのだろうと彼は言った。さっそくビウンが肉の処理にとりかかった。角のある頭部は最
年少のタハイに贈られ、
〈ハタズha’taz〉
(肝臓)はぶつ切りにし生のまま少量の塩をまぶし
て食した。はじめは嫌がっていたジャックも、皆が食べるのを見て「小さいやつでいい」
と小さい塊を口に放り込んだ。その後皆で米酒を一杯だけ回し飲んだ。わたしがタマ・ダ
8
ホに「神(キリスト)に感謝だね」と言うと、彼は「いやこの土地に眠る祖先の加護によ
るものだ」と答えた。彼はすでに肝臓の一部と米酒一杯を土地の祖先に供えていた14。
9 時 10 分過ぎにその場所を出発。思わぬところで獲物が手に入ったこともあり、皆は意
気揚揚としている。それから 30 分が過ぎた頃〈氷箱瀑布〉と呼ばれる巨大な滝のそばを通
過したが、あまりの寒さに付近では休息できないほどだった。次の休憩地点では、持参し
た GPS でホソンが位置を測定した。標高はすでに 1,933m だった。身体を休めていると小
鳥の囀りが聞こえてきた。タマ・ダホの話では〈クゥルトゥス ku’ltu’s〉鳥の鳴声だと言う。
その後「カッ!」という音が遠くの方から何度か聞こえてきた。
「あれが山羌のメスの鳴声。
声が太いだろ。声が細いのはオスだ」、タマ・ダホがそう教えてくれた。
目的地である 37km 地点の山小屋はもうすぐとのことだったがなかなか辿り着かない。
前方を行くビウンたちの後を追ったが、わたしは傾斜 60 度から 70 度もある高さは 25m ほ
どの崖の前で立ち竦んでしまった。ポケットに入っていた黒糖コーヒー飴を頬張り体力と
気力の回復を待った。後続のビサドとタハイが到着し、彼らとともに急斜面を登った。12
時 45 分、目的地の山小屋に山小屋に到着した。屋根と壁がトタンで出来た小さな小屋であ
る。標高はすでに 2,200m を越えていた。
まだ 13 時前だったが、メンバーの疲労も激しく天候も崩れかけていたので、今晩はこの
山小屋で一泊することになった。わたしはビサド、タハイ、淑恵とともに数百メートル先
の小川まで水を汲みに行き、タマ・ダホらが食事の準備をした。朝食の残りのお粥っぽい
「ご飯」、前日にも出た酸菜と乾燥豚肉のスープである。しかし今日は、午前中に見つけた
山羌がスープとして食卓にあがり、山の食事としてはかなり豪華なものとなった。「これを
食べれば疲れない!」といってビウンが丸焼きにした山羌の〈ドゥム dumu〉(睾丸)をわ
たしに差し出した。わたしは睾丸の片方を最年少のタハイにあげようとしたが彼は「要ら
ない」と首を振った。わたしは、南投県のブヌンから聞いていた「睾丸は男しか食べては
いけない。それに、村の中で跛を引いて歩いているブヌンの男をよく見かけるだろう。あ
れは睾丸を奇数個しか食べなかったからだ!」という笑い話を思い出し、二つとも独り占
めした。その話を皆に話したら、「南投のブヌンもそんな冗談をいっているか!」といって
大笑いになった。
14
タマ・ダホは「こうした出来事が起こるかも知れないことは昨夜の火が知らせてくれた」
と言った。焚き火が「ボーボー」と音を立てて「喋り続ける」ときは、決まって獲物があ
ったりするか誰かが尋ねてくるかものだと説明した。
9
16 時、今晩の夕食の準備と薪の切り出しが始まった。即席の〈バニン banin〉
(炉)の三
つ石の位置を調整しながら「これがブヌンの三民主義だ」とタマ・ダホが言った。三つの
石を用いた炉というのは世界各地に遍在するが、それを「三民主義」と呼ぶあたりはさす
が「中華民国の国民」を自負するタマ・ダホだと思い、なんだか可笑しかった。
ご飯が炊き上がった後には、山羌の肉のスープ、そして山羌の内臓のスープが準備され、
18 時 20 分過ぎに夕食が始まった。食事をとりながら、ビサドが差し出した高粱酒の小瓶を、
タマ・ダホ、ビウン、ビサド、わたしの 4 人で少しずつ回し飲んだ。今晩の薪の一部に桧
木が使われていたこともあり、「日本人の桧木好き」が話題に挙がった。タマ・ダホが、戦
後に日本人が台湾の桧木を買いあさり値が高騰した話をすると、ジャックが「(台湾の良質
の桧木はほとんど残っていないから)日本人はいまじゃアメリカから桧木を輸入している
よ」と応じた。するとタマ・ダホが「延平郷のブヌンは、日本政府が移住先に家屋を用意
することもなく強制的に集団移住させたから、移住後の家を自分たちで建てた。だから戦
後も長いあいだ平地でも石板造りの家が残っていた。まったく、集団移住のことを思うと
日本人を見るたびに跪かせたくなる…」と吐き捨てるように言った。彼は「内本鹿の各家々
の下にはその家の祖先が埋葬されている。だから、集落の中に脚を踏み入れるときは、何
語でも構わないから祖先に対して挨拶しろよ。日本語でもいいけどな…」と付け加えた。
その後わたしたちは 21 時過ぎには就寝した。しかし寒さのせいで夜中に何度も目覚めた。
◆11 月 28 日(金)、晴れ⇒曇り。
午前 6 時 22 分起床。朝食は昨夜の残りのご飯と山羌の内臓のスープである。量が少なく
おかわりしようとしたが、タマ・ダホやビウンが自分はほとんど食べずにわれわれに「大
目に食っとけよ!」と言っていることに気付き、わたしは痩せ我慢をして「お腹一杯でも
う食べられないよ!」と応えた。
8 時、山小屋を出発した。8 時半過ぎには今日最初の休憩をとった。電波を遮る物がない
ので、このあたりではまだ携帯電話が通じる。ホソンが平地の仲間に隊の安全を伝えた。
美奈田(2,998m)山頂下を通り過ぎて以降は〈フルピハウ Hulpi-hau〉
(太い柱)と呼ばれ
る土地に入った。タマ・ダホによれば、かつてブヌンがこの地に大きな家を建てたその〈ハ
ウ hau〉
(柱)がとても太かったから、あるいは、このあたりには昔から巨木が多かったか
らという二つの由来が語られているという。
しばらく行くとタマ・ダホが、高雄方面(西)に広がる山々を指差し、あたりの地理を
説明してくれた。彼いわく、
〈バチングル Bacingul〉山(麻天久留山)の名前は、山にある
10
〈バチングル bacingul〉の森に由来すると言う。また現在の地点から麻天久留山の付近ま
で続く比較的平坦なこの土地を彼らは〈パンディアン Pandian〉(おかず)と呼ぶらしい。
その名のとおり多くの獲物が獲れると言う。台東の山から高雄の山までを 3 日で横断した
彼らの祖先もこの一帯で高雄への土産を調達していた訳である。
「このパンディアンは俺た
ち〈タケシ・ホソンガン Takisi-husungan〉(イシ・タンダ Isi-tanda クランの一部)の猟
場だ」とタマ・ダホが言った。同じイシ・タンダの者でも、タケシ・ホソンガンの者の同
行がなければこの地で猟をすることは出来ないし、同行者を得て猟をした場合でも獲物の
一部を必ずタケシ・ホソンガンの者に贈らなくてはならない、という話だった。以前に読
んだブヌンの獣肉の分配と贈与に関する馬淵東一の論文を思い出し、わたしは「いまブヌ
ンの猟場を歩いているのだ…」と感慨に耽った。(写真 1 パンディアン方面を臨む)
なだらかな道が続き足取りも軽かった。天候も良く昨日までの霧や雨が嘘のようだ。10
時 20 分過ぎに 43km の山小屋に到着した。しかし、細い柱とトタンの屋根だけの造りで、
山小屋というよりは「ぼろ小屋」といった風である。復路での食料を考えて、この地点に
米一袋とインスタント麺を残しておくことになっていた。昨夜ジャンケンで勝ったわたし
の米が一袋(五合)と、ビサドのインスタント麺数袋が小屋の外に埋められた。午後の行
程のことを考えて、かなり早いがここで昼食をとることになった。ホソンが GPS を取り出
して位置を確認した。標高 2,110m、昨晩泊まった 37km 地点の山小屋よりも 100m ほど低
い位置にある。昼食はいつもの乾燥豚肉と酸菜を具にしたインスタント麺だった。
昼食の際にジャックがわたしに質問を投げかけてきた。
「どうして人類学を学んでいるの
か?
それが社会に対して役に立つと思うか?」と訊く。彼自身以前アメリカの大学院で
ジャーゴン
文学を学んだ経験があるが、教授たちの論議が無益な戯 言 にしか思えず大学院を辞めたら
しい。彼は、
「発表した研究が現地の人々に役立つのかどうか?」とも訊いてきた。わたし
はただ、人類学が一般の社会・人文科学と違う点はフィールドワークという経験、現地の
人々と寝食をともにするという経験を通じて構築される学問であるという点に惹かれたの
だと返答した。ジャックはまた、「論文を書き終えた後も現地を訪れる?」と問う。わたし
は「もちろん。対象社会も変化するし、調査者自身の考え方それに人類学の理論だって変
化する。ぜったいに継続して調査する必要がある」と答えた。ジャックの次なる質問は、
「研
究成果は現地の人々にも見せるつもりなのか?」。この質問には正直たじろいでしまった。
わたしは、「研究成果は現地の人々にも見せるつもり。しかし、研究成果の発表には功罪が
ある。現地の人々が利用できる資料を残すことは重要だが、それ自体が現地社会を変容さ
11
せてしまう可能性があるから慎重にならなくてはいけない」、と答えた。ジャックのさらな
る質問は、
「ブヌンは現在でも自分たちの「根(ルーツ)」を見つけることが出来るほど「原
始的」な社会だ。そうした「原始的」な社会を研究することが現代社会の研究に役立つと
思うか?」というものだった。わたしはこう答えた、
「現代のブヌン社会は決して「原始的」
な社会ではないし、ニューヨークやパリといった世界の大都市の動向と先住民社会が色々
な意味で結びついているのが、グローバル化が極度に進んだ現代だ。たとえば、延平郷の
ブヌンにとって内本鹿は彼らのアイデンティティを支える「聖地」に成りつつあるが、ア
イデンティティを支える「聖地」を必要としているという点では 9.11 事件後に世界貿易セ
ンターをナショナル・アイデンティティの重要な部分と捉えているアメリカ人も同じじゃ
ないだろうか。文化や経済状況は違え、現代を生きる人々が求めているものはある程度似
通っていると思う」、と。ホソンの方から「そろそろ出発するぞ」という声がかかりわたし
とジャックとの「対談」は終った。その間、5 人のブヌンと一人の漢族女性は、静かにわた
ちしたちの会話に耳を傾けていた。
12 時 26 分、43km 地点の山小屋を出発した。ビサドとともに CHAGE & ASUKA の「男
と女」を歌いながら先へ進んだ。彼は中国語を、わたしは日本語の歌詞を口ずさんだ。12
時 50 分に休憩をとり、わたしは右足の裏に出来始めていたマメの応急処置をした。14 時
03 分には、今日の目的地である 48km 地点山小屋に到着した。幅 20m 以上、奥行きも 5m
くらいあり、これまでに立ち寄った山小屋の中ではもっと大きなものだった。ただし、入
り口付近は扉・壁ともになく、「夜になると吹く」という南東からの強風が心配だった。小
屋の周りにはかなり背丈の高い楓の木が生い茂っており、背後には大きな岩の絶壁が聳え
ていた。小屋はその岩壁に因み〈バトゥ・ダイガズ Batu-daingaz〉とも呼ばれるという。
「1 月、2 月頃、このあたりは紅葉で絶景だ」とタマ・ダホが言った。
薪の切り出し、水汲み、山小屋の掃除を皆で分担した。わたしも先日水里(南投県水里
郷)で購入した猟刀をもって薪の切り出しを手伝った。出発から 4 日目、8 人のチームワー
クもかなり良くなってきた。15 時過ぎから炊飯が始まった。メンバーが 8 人の中で腕時計
をしているのはわたし一人だったため、いつしかわたしが「時計係り」になっていた。タ
マ・ダホやホソンが「バリ、いま何時だ?」と訊いてくる。山の生活に「文明」を持ち込
んでしまったかとも考えたが、皆の役に立っているのが嬉しかった。
◆11 月 29 日(土)、晴天⇒快晴。
午前 6 時 18 分、目が覚めた。午後からの天候を危惧して早めに出発するはずが、結局出
12
発したのは 7 時 40 分のことだった。すぐに傾斜 60 度から 70 度近い林道脇の獣道を登り始
めた。登りきった後は 2m 近い背丈にまで伸びた〈パダン padan〉
(茅)の林が続く。その
後石板石がゴロゴロしている崖を横断し、さらにもう一つの大きな崖を渡りきったところ
で休憩した。ここも携帯電話が使えるスポットとらしい。ホソンが基金会文化部オフィス
に電話を入れた。彼はその後、アメリカに住む友人にも携帯で連絡をとった。「世界は繋が
っている」と感じた。
その後も茅林を進む。ビサドやタハイが、フードをすっぽり被ったわたしを見て「忍者
だ!」と笑った。9 時 23 分、休憩をとる。ホソンが GPS を取り出して位置を測定した。延
平林道 51km 地点、標高 2,360m。それからパンディアンの裏手に入り同様の茅林を進んだ。
9 時 58 分、見晴らしのいい崖崩れ跡に立ち、皆で彼らのマイ・アサンが点在する内本鹿一帯
を見渡した。タマ・ダホが、
「あそこに四つの山波があるだろ。祖先が暮らしていた山々だ」
と説明した。
10 時 25 分、パンディアンの裏手を回って、バチングル山頂の裏手にある延平林道の終着
点に到着した。これから先は、猟の道と獣道しかない。遠くから山羌の鳴声がする。タマ・
ダホの教えを受けていたおかげで、すぐにそれがメスの鳴声だと分かった。ホソンが「日
本時代は、清朝時代に開かれ日本時代に整備されたパシカウ渓沿いの古道を使っていたの
で、紅葉から壽まで公文を届けるのに 1 日しかかからなかった」と説明した。彼がわたし
を喜ばせようと、「戦後内本鹿に脚を踏み入れた日本人は、スバリが最初だよ!」と言った
が、内本鹿事件とその後の集団移住という歴史を知っているだけに、心の底から喜ぶこと
は出来なかった。10 時 53 分、休憩後に急斜面を西に向かって降りた。
〈バニル banil〉や
〈ディルク dilk〉の森を進む。この一体で発見された桧木のうち最大の物は胴回り 21m 以
上にもなるのだということだった。
猟 の 道 は あ る が 巨 木 が 生 い 茂 る 森 で 迷 う 危 険 性 が あ る た め 、〈 シ ン ・ パ ン ・ ハ ル
sin-pan-hal〉などと呼ばれる目印を頼りに急斜面を下った。こうした目印には茅を結んだ
ものや、細い木を折ったもの、それに木の幹に猟刀で傷をつけたものなどがある。わたし
が先頭を行くタマ・ダホに「やはり目印を頼りにして進むのか?」と訊ねると、彼は「目
印を残すのはあくまでも安全のため。俺たち高山ガイドは一度通った道はたいてい記憶し
ているものだ」と答えた。
12 時 5 分。タマ・ダホたちが〈麺店〉と呼ぶ場所で昼食をとった。小川が流れているの
で、この路を通る時はこの地点で休憩したり食事をしたりするのだという。彼が「バリ、
13
お前の荷物の中にインスタント麺はあるか?
塩は?」と訊く。わたしは荷が軽くなるこ
とを喜び、急いで材料を取り出した。弱い者、疲労の激しい者の荷物から消費するという
のが掟らしい。口には出さないがタマ・ダホやビウン流の心遣いである。
昼食後、急な斜面を木々に捉まりながら下って行く。14 時 23 分頃〈ナバシュ Nabas〉
というマイ・アサンに到着した。バチングル山の西側中腹にあるなだらかな土地だった。
タキシ・ホソンガンの集落ではないらしいが、屋敷跡に埋葬されているであろう祖先に対
してお菓子・タバコ・米酒を供えた。わたしもビサドとともに手を合わせた。彼はあまり
流暢とは言えないブヌン語で「わたしの名前はビサドです。母はイシ・タンダの者です。
初めてここを訪れます。お菓子やタバコそれに米酒があるのでどうぞ召し上がってくださ
い」と祈っていた。
15 時 02 分、ナバシュ下の急斜面を茅や木々の枝に捉まりながら降りた。この行程の難関
は 60 度ほどの急斜面だけでなく、人の首あたりまで伸びた〈咬人猫〉である。この野草の
刺は衣服の上からでも刺してきて激しい痒みを引き起こす。転ばぬよう、誤って〈咬人猫〉
を掴まぬように気をつけながら急斜面を降った。16 時過ぎ、急斜面を抜け小川に到着した。
しばらく休憩した後、さらに〈咬人猫〉と茅林の急斜面を滑り降りて、やっとのことでパ
シカウ溪の支流の一つに到着した。明日の朝、目の前に広がる幅 20m ほどの河を渡り、山
を一つ越えれば今回の〈尋根〉の目的地である〈タキ・ヴァフラス Taki-vahlas〉旧集落や
ピスパダンまではあと一息だ。いよいよ最終目的地が近づいて来たのである。
今晩はこの河岸で一泊することになった。流木を拾い集め薪にした。18 時 40 分、かなり
遅い夕食が始まった。ご飯、山羌と途中で採った薇と乾燥豚肉のスープでかなりのご馳走
だった。タマ・ダホが水の加減を間違えなかったらしく、ここ数日の水っぽいご飯(≒お
粥)とは違いふっくらした美味しいご飯である。ご飯だけを口に頬張ってみると、仄かな
甘さが美味しかった。20 時過ぎ、タマ・ダホとビウンが猟に出かけた。わたしがフィール
ド・ノートを記入していると、ビサドやタハイが「彼女はいるのか?
どんな女だ?」と
「修学旅行」的な話を始めた。わたしは、しばらく彼らの会話に加わった後、シュラフの
中で眠りに着いた。
◆11 月 30 日(日)、晴天。
今朝も 6 時過ぎに寒さで目が覚めた。朝食は昨晩の残りのご飯と山羌のスープの雑炊。
温かいスープを飲み干し冷え切った身体を温めた。今日の行程は、河の対岸の崖崩れ跡を
上ることから始まる。傾斜 70 度近いこの崖は 60m 以上の高さがある。はじめは冗談かと
14
思ったがこれより他に路はないらしい。「太陽が差し始めると暑いし、足場が見辛くなって
登り難くなるから」とビウンが一人先に 7 時には登り始めた。彼は、小型の鍬で足場を作
りながら徐々に登っていく。その後に各メンバーが続き、最後尾はホソンとわたしになっ
た。登り始めてすぐに陽が差してきた。なるほど斜面に正面から朝日があたり足場が見辛
い。すでに 6 人が先に登っているということもあり、ビウンが作ってくれた足場はわたし
が登るそばから崩れていった。途中ビウンに助けてもらいやっとのことでこの巨大な崖崩
れ跡を上りきった。ホソンの GPS 測定に依れば、最高点は標高 1,629m とのことだった。
(写真 2 崖崩跡を登るブヌン)
そこから先は和原山を南側から迂回し杉造林の中を進んだ。林務局の事業で 20 年以上年
前に杉の造林が行われたらしい。道程自体は大したことはないが、先ほどの崖でかなり体
力を使ってしまったらしく脚が進まない。9 時 52 分、この日 3 回目の休憩をとった。ビウ
ンが皆に差し出してくれたモチと胡麻のお菓子を食べて体力の回復を待った。10 時半過ぎ、
滝のある小川のそばで休憩し早めの昼食をとった。今日の昼食も乾燥豚肉が入ったインス
タント麺である。そのうち霧が出始めた。
午後も杉造林を西に進んだ。12 時 22 分、午後 1 回目の休憩をとったが、皆は言葉もな
く腰を下ろしたまま遠く杉造林の下方に目をやっていた。12 時 43 分、杉造林の中に〈タキ
シ・チヴァナンTakisi-civanan〉旧集落が出現した。タマ・ダホらと同じイシ・タンダの内、
同名のサブ・クランが住んでいたことが地名の由来だという15。北東から南西に伸びる鞍部
に〈マイ・ルマクmai-luma’h〉(旧い家)が 10 戸ほど点在しているとホソンが教えてくれ
た。
その後も同様に杉造林の急斜面を西に突っ切るという行程が続いた。14 時 10 分過ぎ、小
さな尾根を下っていると、淑恵が足を滑らして左手の造林に転げ落ちた。「あぁー」と叫び
声をあげたが、体勢を立て直せずに 10 数 m も転げ落ちた。タマ・ダホが急いで駆け下り
る。運良く大ケガはなかったようだ。突然の出来事に一瞬身体が凍り付いた。この〈尋根〉
が「死」と隣り合わせの行程であることを改めて思い知らされる。杉造林を抜け小さな土
砂崩れ跡を二つほど越えた。15 時を過ぎた頃、霧が出始め視界が悪くなった。タマ・ダホ
15
台湾先住民に関する歴史人類学の金字塔とも言うべき『台湾高砂族系統所属の研究』
(以
下、
『系統所属』)や、先住民各集落の概略的な位置や来歴を記した『高砂族調査書』5 巻に
は、先のナバシュ同様、この集落名も記載されていない[cf. 移川ほか 1935;台湾総督府警
務局理蕃課 1986(1938)]。
15
やビウンの話ではあと半時間もこの急斜面を下れば今日の目的地であるタキ・ヴァフラス
旧集落に到着するという。再び小規模の土砂崩れ後を渡ろうとした時、心のそこから「生
きて帰りたい」と思った。
杉造林の中をジグザグに歩を進めた。しかし、なかなかタキ・ヴァフラスには辿り着か
ない。杉造林を下るにしたがって傾斜も次第にきつくなって来た。足の疲労も重なりちょ
っと脚を滑らせただけで急斜面を転げ落ちそうになる。右手に持っていた杖だけが頼りだ
った。先頭を行くタマ・ダホの姿はとうの昔に見えなくなった。日が落ちてきたこともあ
り、恐らく先に行ってキャンプの準備をするのだろう。わたしは前方を行くホソンを追い
かけた。しかし、杉の落穂が厚く積み重なった路を進むうちホソンはタマ・ダホの足跡を
見失ってしまったらしい。それまで最後尾を歩いていたビウンの指示に従いながら杉造林
の急斜面を下った。
16 時 36 分、かなり遠回りした後にタキ・ヴァフラス旧集落に辿り着いた。さっそく皆で
薪の切り出し、水汲みやテント設営に奔走し、19 時過ぎに遅い夕食をとった。おかずは山
菜と乾燥豚肉のスープ。この〈尋根〉が始まってすでに 6 日目。この味にもかなり飽きて
しまった。ホソンから貰ったお茶をご飯にかけて胃に流し込んだ。味がないのが最高の味
付けだった。20 時過ぎ、ビウンとタマ・ダホが今晩も猟に出かけた。残ったわたしたちは
ショウガ湯を飲んで身体を温め、21 時過ぎには荷を整理して眠りについた。
午前 0 時過ぎ、皆のザワつく声で目が覚めた。ビウンとタマ・ダホが二匹の山羌を仕留
めて帰ってきたらしく、焚き火のそばでは肉の処理が始まっていた。ホソンの指示に従い、
わたしとビサドは毛を焼かれた体長 60cm ほどの二匹の山羌を河原で丸洗いした。内臓はス
ープに、四足や肋など残りの部分は炉の上に組まれた高さ 60cm ほどの櫓の上で燻された。
ビウンらに言われ、脳味噌はわたしと淑恵がスープンで穿り出して食べた。白子のような
食感だった。タマ・ダホが、「獣の肉は皮から焼く。始めに皮を焼き、次に肉側を焼く、そ
して最後にもう一度皮側を焼いて水分を飛ばせば OK。一晩で 3 面を焼いて水分を抜けば完
成だ」と熱心に説明してくれた。談笑は深夜 3 時過ぎまで続いたが、猟人の二人以外はす
でに睡魔と闘うのが精一杯だった。
◆12 月 1 日(月)、晴れ。
遅い朝食をとった後、わたしたちは 10 時過ぎにホソン、ビウン、タマ・ダホらの案内で
集落内の散策に出かけた。〈ヴァフラスvahlas〉(河)という名が示すように、二の河に挟
まれたこの土地は、標高 1,300mほどの場所に位置している。日本人にはブヌン語の発音が
16
難しかったせいか、植民地期には「ワハラシ」と呼ばれた。タマ・ダホ、ビウン、ホソン
らタキシ・ホソンガンの祖先が生活していたマイ・アサンである16。ホソンが「この家は祖
父の兄の家。あの家は…」と説明してくれた。しかし彼らは、内本鹿での生活を経験して
いる古老たちが移住当時まだ幼かったこともあり、どの屋敷が誰の家であるかを確定でき
ている訳ではないとも付け加えた。
しばらく集落内を散策した後、タマ・ダホやホソンの祖父の家(と想定される場所)を
捜し出し、屋敷内に埋葬されているであろう祖先に対して米酒、山羌の肉、タバコなどの
供物を捧げた。先頭を切って祖先に祈りを捧げたタマ・ダホは、「祖先よ、われわれは今日
ここにあなたたちの土地を訪れました。ここに獸肉・リンゴ・飲み物・タバコなどがあり
ます。どうぞ召し上がってください。今後もわれわれ子孫のことを加護してください」と
ブヌン語で語りかけた。続いてホソンがブヌン語と中国語を混ぜながら「祖先たちよ、わ
れわれは今日ここにマイ・アサンを訪れました。早いもので、前回に訪れた時から約 1 年
が経ちました。今回は日本人やアメリカ人も一緒です。彼らはこの地を訪れ、現代のブヌ
ンが抱えている問題、土地の歴史(i-sai-tan tu likisi)などを学ぼうとしています。わたし
たちの母語は失われつつありますが、ブヌンの心が依然として残されていることを感謝し
ています。(内本鹿を離れてから)65 年が経過したいま、われわれはかつての家を再建し、
平地に住む内本鹿の末裔たちにそれを知らしめようと思います」と祈りを捧げた。またビ
ウンは「この土地の祖先よ、わたしたちは今回この地を訪れました。この土地からブヌン
の心(is-ang)、力(tamasaz)をわたしたちにお与え下さい」と祈った。ビサド、タハイ、
淑恵、ジャックがそれに続き、この土地の祖先に語りかけてコップの米酒を口にした。最
後となったわたしは、「中国語は解さないでしょうから日本語でお話します。わたしは日本
人です。60 年以上前にブヌンと日本人の間に何があったのか、現代のブヌンが自分たちの
過去・現在・未来とどのように向きあっているのかを学びたいと考えています。わたした
ちの旅の加護して下さい」と語りかけた。
祖先への祈りが終った後に、ホソンがゆっくりと語りだした。「一番辛いのは自身の母た
ちだ。彼女は昨年の 12 月(2002 年 12 月 10 日)
、ピスパダンまではヘリコプターに乗って
きたものの老いもあり生まれ故郷のタキ・ヴァフラスを訪れることは出来なかった。しか
『系統所属』に依れば、調査が行われた 1931 年 10 月当時この集落には、
〈イシ・タンダ〉
クラン 13 戸、
〈イシ・リトアンIsi-litoan〉クラン 7 戸、そしてブヌン化したルカイ 1 戸の計
21 戸が存在したとされる[移川ほか 1935]。
16
17
し彼女は、60 数年という時間の流れもあり、ピスパダン内を歩いても、どこがどこなのか
判然としないようだった。しかし、かつて彼女の通学路であったピスパダンへの入口(北
側入口)に脚を踏み入れた時、母は生家のタキ・ヴァフラスがどの方向にあるのかを思い
出し、その場で泣き崩れた。その隘い入口に立ち両側の切り立った岩を眺めた瞬間、母の
中には、幼い日に日本の教育所に通った頃の思い出、その母がこの入口まで弁当を届けに
来てくれたことなどが溢れ出てきたんだ」と語った。
その後わたしたちは、この土地の祖先に捧げた供物を囲んで語り合った。ジャックが不
意に「タマ・ダホ。獲物が取れたときには、運が良かったと考える、それとも自分の腕、
はたまた祖先のおかげ?」と質問した。タマ・ダホは「もちろん祖先がくれたもの」と即答
した。彼いわく、昨晩もなかなか獲物を仕留めることが出来ず困っていた時、「あ、俺たち
はすでに祖先の土地に脚を踏み入れたのだ」と気付きタバコに火をつけて土地の祖先に捧
げたら難なく獲物が獲れた、という。そして彼は、「この土地は環境に恵まれていたから、
祖先はここを離れたくなかったんだ。もし平地に移住せずに内本鹿に留まっていたとした
ら最初に発展したのはこの集落だろう。人口も多かったし、土地もあったから。そしたら
今頃は各家に自家用ヘリコプターがあっただろうな」と言って笑った。(写真 3 タキ・ヴ
ァフラス旧集落のマイ・ルマにて)
昼食後、13 時 50 分にタキ・ヴァフラス旧集落を離れ、今回の〈尋根〉の最終目的地であ
るピスパダンを目指した。タキ・ヴァフラス西方を流れる河に沿って南に進む。タマ・ダ
ホが、「俺たちが歩いているのは、当時タキ・ヴァフラスに住むブヌンの子供たちがピスパ
ダンにあった教育所に通った通学路であると同時に、鹿の道でもある。鹿は山羊とは違い
安全な路を選ぶから山を歩く時は鹿の路に沿って歩くのが一番!」と言う。何度か河を渡
り、進行方向が南から陽が差している西南に変わった。しばらく行くとタマ・ダホが〈ハ
ンヴァン hanvan〉(鹿)の気配に気付き、追いかけた。ビウンとビサドが続く。しばらく
して一発の銃声が聞こえた。1 時間近く経った後、彼らがようやく帰って来た。
「オス鹿を
見つけて撃った。腹の脂肪にあたり多量の出血はあったが、メス鹿がきて連れて帰った…。
でも、まだどこかにいるはずだ。クソッ!」と語るタマ・ダホの表情にはかなりの悔しさ
が滲み出ていた。
タマ・ダホが途中何度か鹿の気配に気付き、後方のわたしたちが待機する時間が何度も
あった。日もかなり落ちてきた。「この河を渡って崖を登れば目的地だ」とタマ・ダホが声
をかけた。皆それぞれに雨靴や登山靴を脱いで河を渡った。水かさは膝下ほどまでしかな
18
かったが、12 月の河水はかなり冷たかった。靴を履きなおし河に沿ってさらに南に進んだ。
「ピスパダンはこのすぐ上だ」という話だったが、あたりにはすでに夜の帳が落ち始めて
いて足元すらよく見えない。タマ・ダホ、タハイ、ジャックに続いてぬかるんでいる急斜
面を攀じ登った。17 時 49 分、その急斜面を登りきりピスパダンの北側入口に付いた頃、あ
たりはすでに漆黒に包まれていた。後続のメンバーを待ち、暗闇のなか歩を進め今日の宿
泊地に辿り着いた。時計はすでに 18 時を回っていた。さっそくテント設営と薪集めをし、
それが一段落すると、ホソンが入れてくれたショウガ湯を飲み一服した。携帯用ガスコン
ロを利用したランプが燈されたが、タマ・ダホの口から出てくるのは依然として昼間逃し
たオス鹿のことだった。
「すでに多量の出血をしているのに…。あのメス鹿さえ助けに来な
ければ仕留められたのに…。まったく!」。
このピスパダンという地名は、「〈パズ paz〉(脱穀した穀物≒稲)を最初に植えた場所」
を意味し、日本時代この内本鹿地域の行政中心だった。日本時代から残る小屋を現代のブ
ヌンが倉庫として使っていたが、その中に置いてあったポリバケツの中で死んでいるハク
ビシンをタマ・ダホが見つけてきた。保管されている食料を食べようとポリバケツの中に
入ったが出られなくなり死んだらしい。死後数日が経過しているようでかなりやせ細って
いた。タマ・ダホは、それも丸焼きにしてわたしたちに食べさせてくれたが、尿臭さが鼻
につき、すんなりとは咽喉を通らなかった。
しばらくして夕食の準備が始まった。今晩の夕食は、昼に続いてのインスタント麺だっ
た。携帯用カップ一杯の麺とスープを食したが、疲労にも関らず食欲はない。贅沢なこと
だが、塩と唐辛子だけの味付けに飽きていた。夕食後タマ・ダホは一人、今晩の狩猟の準
備を始めていた。彼の口から出たのは、依然として、昼間逃したオス鹿のことだった。20
時過ぎ、タマ・ダホ、ビウン、ビサドの 3 人が猟に出かけた。連日の疲労もあり、わたし
は彼らの誘いを断って、全身をシュラフの中に押し込んで眠りについた。
◆12 月 2 日(火)、快晴。
今日は移動がないということもあり、いつもより遅く 7 時過ぎに目が覚めた。ホソンの
嬉しそうな声が聞こえる。タマ・ダホらがオス鹿を仕留めたらしい。焚き火のそばには 1
匹の山羌が転がっているだけだったが、それは昨夜 23 時過ぎに仕留めたもので、鹿はその
後深夜 3 時過ぎに獲たらしい。しばらくすると、ビサドやビウンが鹿の後足を担いで来た。
その大きさから推測するに全長 1.5mサイズだろう。それでもタマ・ダホは、
「申し訳ない、
大きい奴を仕留めることが出来なかった。
〈ヴァハvaha〉
(角)も立派なものじゃないし…」
19
と言って謙遜した。しかし、彼の表情からはそれなりの満足感が伺われた。山羌の時と同
様、鹿の肝臓も生で食した。現代のブヌンはこうした「山の刺身」をワサビ醤油で食べる
のを好む17。しかし、醤油を持参してなかったこともあり、今回はタマ・ダホが食塩水・ワ
サビ・生姜・唐辛子で作った即席の調味料につけて肝臓を食した。その鹿の肝臓は山羌の
それよりずっと臭味がなく美味かった。以前に日本の温泉地で食した鹿刺を思い出した。
10 時過ぎ、ホソンが、ビサド、淑恵、ジャック、わたし、そして最年少のタハイを連れ
ことぶき
て日本植民地期、同地域の行政中心であっ 壽 ――〈ピスパダン〉――を案内してくれた。
この地は二の河に挟まれた標高 1,050mほどの台地にある。河面から駐在所のあった台地ま
ではかなりの高低差があり水の補給には不便であるが、日本時代は遠くの水源から樋型の
用水路を使って水を引いていたらしい。
「われわれが現在キャンプを張っているところは日
本時代の医療所跡だ」、とホソンが説明した。次に紅葉方面(東南方向)からこの壽駐在所
を経て内本鹿奥地、さらには高雄・六亀方面へと延びる古道との接点である南側の吊橋(南
南東の方向)を見に行った。対岸まで延びる錆びた鉄線とコンクリート製の礎石だけが残
っていたが、それはまさしく大自然の中に出現した「植民地帝国の残像」だった。ホソン
の説明によると、道の起伏を軽減するため、この古道は標高 1,100mほどの高さに合わせて
整備されたらしい。続いて駐在所の石垣の外に位置する倉庫を見に行った。昨晩ハクビシ
ンが見付かった倉庫である。ホソンは、20cmの厚さがあるコンクリートの壁を指し、
「年寄
りたちは『銃器貸出所』だというが、監獄だった可能性も十分にある」と語った18。
(写真 4
銃器貸出所)
その後、日本時代の国旗掲揚台を見に行った。基金会の人々が 2002 年 12 月に掲揚した
〈内本鹿元年〉旗が翻っていた。その後、駐在所の西方にある同プロジェクトでヘリコプ
ターが離着陸した場所、日本の警察などが使ったという風呂および貯水タンク、昨晩通っ
やしろ
たピスパダンの北側入口、日本時代の 社 跡などを見て回った。ホソンが、「あれが日本時代
の神社跡だよ。日本を離れた日本人にとってそれは精神的な支柱だったんだな。スバリ、
彼らは、〈訂婚〉(婚約)などの際に屠られる豚――現在では近隣の養豚場で 1 匹 8,000
元ほどで購入――の広背筋を〈村幹事〉と呼び、それもワサビ醤油で食する。その部位を
〈村幹事sonkanji〉と呼ぶのは、戦後豚を屠殺するには郷公所から各村に派遣された村幹事
の許可が必要であり、豚肉でも最も美味なこの部位をお礼として村幹事に贈ったからだと
いう。
18 日本植民地期、先住民の狩猟活動は制限された。しかし、申請さえすれば猟銃の借用が
認められていた。
17
20
お前は日本人なんだから参拝してもいいんだぞ(笑)!」とわたしに声をかけた。小高い丘
の中腹にある社にはコンクリートの台座だけが残っていた。(写真 5 掲揚台の〈内本鹿元
年〉旗)
12 時 20 分、タマ・ダホらが用意してくれた昼食をとった。ご飯、鹿の骨と血のスープ、
倉庫に置いてあったサラダ油と唐辛子を利用しての内臓のピリ辛炒めが並んだ。食後、タ
マ・ダホとビウンが、焚き火の上に建てた「乾し肉櫓」の上で鹿肉と山羌肉を燻り始めた。
ビウンは、「これは息子へのお土産にする」といって角のある山羌の額部分を切り取り、焚
き火のそばで乾かしていた。
午後は、明日朝に予定されている〈内本鹿貮年〉旗の掲揚式典の準備として、掲揚台の
周辺の清掃をホソンとビサドそしてわたしの 3 人で行った。方位磁針で掲揚台の向きを調
べてみると、真東――若干南に寄り――を向いていることに気付いた。その後、ピスパダ
ンに生い茂る楓の葉で淑恵が入れてくれたお茶を飲みながら談笑した。わたしは 15 時過ぎ
からピスパダン一帯の概略図作成のために一人で散策に出かけた。(図 1 ピスパダン・壽
駐在所概略図)19 (写真 6 ピスパダン北側入口)
18 時、夕食が始まった。ご飯と、昼も食した鹿骨のスープである。ただし、夕食のスー
プにはあたりで採れた〈サングラヴ sanglav〉(野草)も入っており、味のアクセントにな
った。夕食後、ここ数日来の疲れのせいだろうかビウンやタマ・ダホはすぐに寝てしまっ
た――実際、彼らはここ数日ほとんど寝ていなかった。その後最年少のタハイも床に就い
たが、残ったホソン 、ジャック、淑恵、ビサド、わたしの 5 人は(背負って下山しなけれ
ばならない獣肉をより軽くするために)熱心に鹿肉と山羌肉を燻しつつ語り合った。その
最中、ホソンがわたしに「開催を予定しているシンポジウムで今回の尋根に関して人類学的
な視点から発表して欲しい」と言った。わたしは「プライベートなことも書いてあるので多
少手を加えてから…」と応じた。その後は、淑恵が転倒し誰もが「死」を強烈に思い浮か
べた瞬間の話などが話題に上った。わたしが「だから当面の目標は、論文を書き上げるこ
とよりも何よりも、生きて平地に、そして日本に戻ることかな」と言うと皆が笑った。
その後ホソンが、一連の〈尋根〉活動について彼なりの意見を語り始めた。「もちろん理
想は土地を取り戻すこと。でも、実際に土地を取り返すこと自体が重要なんじゃない。自
19
ことぶき
この概略図からは、 壽 駐在所の各施設が東西南北に従って建設されていること、国旗
やしろ
掲揚台がほぼ真東を向いていること、 社 が駐在所脇の南北に走る道の真北に位置している
こと、駐在所の東北の隅が削られていること――恐らく「鬼門除け」――などが解かる。
21
分たちの歴史を回復することが重要」と彼は言った。「マイ・アサンを捜し出すだけなら、
それなりの準備と多少の土地勘さえあれば誰でもできる。しかし、祖先たちの生活とわれ
われの現代の生活を連結することにこそ意義がある。だからタマ・ダホやビウンのように、
若い頃から上の世代に付いてこの土地を経験して来た者の媒介、土地の歴史と現代のブヌ
ンとを連結する媒介が必要だ。たとえブヌンであっても、山の生活をあまり理解していな
い者であれば、彼がブヌンの子供たちを連れてこの土地を訪れることと、スバリのような
外部の研究者が子供たちを連れてくることとほとんど同じことだ。科学ではこうした連結
役は出来ないし、われわれが編集したドキュメンタリー映像を観るだけでも不十分だ。自
らの身体を使って、汗を、涙を、そして時には血を流して実際にこの地を訪れることが重
要だ」、彼はそう語った。
◆12 月 3 日(水)、晴天⇒晴天。
6 時 15 分、隊の中で最初に目覚めた。この旅の最終目的地について安心しているせいか、
皆ぐっすりと眠り込んでいた。わたしは、しばらくの間シュラフの中で寒さを凌いでいた
が耐え切れなくなり、焚き火の残火を集めて火を起こした。そのうちタマ・ダホ、ビウン
も起きてきた。二人が燻した鹿肉と山羌肉の分配を始めたのでわたしと淑恵が朝食の準備
を始めた。その後、各自が分配された獣肉を受け取り朝食が始まった。鹿骨スープの底に
溜まった血塊を頬張ると、むかし故郷で食べた山羊汁を想い出した。
10 時 25 分ごろ、掲揚台まで移動して〈内本鹿貮年〉旗の掲揚式が始まった。各自が〈内
本鹿貮年〉旗に署名した後、ジャックとわたしが竹竿を差し込んだ〈内本鹿貮年〉旗を掲
揚した。その後各自が今回の〈尋根〉の感想を述べた。ビサドは、「また内本鹿に帰ってく
る!内本鹿 3 年、内本鹿 4 年…といわず「内本鹿 65 年」まで!」と叫んだ。わたしは、今
回内本鹿への訪問・内本鹿の土地・内本鹿の生活を理解する機会を与えてくれた人々に感
謝していること、そして「まだまだ危険な旅は続くが、生きて平地に戻り、そして生きて
再び内本鹿の地を訪れたい」と語った。続いてタマ・ダホが、「この土地は永遠にわれわれ
のものだ。今後もブヌンの子供たちを連れてきて、この地がどういう土地なのか、ここに
住んでいた人々がどのような生活を送っていたのか、そしてこの土地が誰のものであるの
かを教えてゆきたい。この土地をブヌンの手に取り返すために何度もこの地を訪れたい」
と述べた。ビウンは、次に来る時は自分の子供も連れてきたい、そして彼らにここが父が
歩いて来た道だと教えたい、と語った。最後にホソンが、
「こうした活動を通じてわれわれ
とこの土地、この土地の自然とを連結したい。この土地を歴史の連結点にしたい。そして
22
今後も毎年この地を訪れたい。目標は 65 年だ!」、と叫んだ。
10 時 50 分、ピスパダンを出発した。一昨日、この目的地に到着した際は陽も落ち足元も
ぬかるみ歩き辛かったが、今日は問題なく路を下った。しばらく河に沿って進み往路と同
様に靴を脱いで河を渡った。同様に水は冷たかったが、渡りきった後は足元から身体が温
まってきし、痛みを堪えながらも岩の上を素足で歩くのが心地よかった。
タキ・ヴァフラス方面から流れてくる河に沿って北上した。途中、タマ・ダホが何度か
鹿の気配を察知し、後方のわたしたちは待機を余儀なくされた。しかし、すでにリュック
が獲物で満たされていたこともあり、往路のように 1 時間近く待たされることはなかった。
途中から右手の支流に沿って進み、そこで昼の休憩と昼食をとった。タマ・ダホが河下正
面(南西方面)を指さし「あの山の中腹の台地にも旧集落がある。住んでいた人々に因ん
で〈タキ・サヤン Taki-sayan〉と呼ばれている」と教えてくれた。午後も河沿いに北上し
た。河沿いの岩や草むらを進むうち、タキ・ヴァフラス―ピスパダン間の道程が全体的に
緩やかな下り坂であったことに気付いた。ホソンの話では、ピスパダンの方がタキ・ヴァ
フラスよりも 300m 近く低い地点にある、とのことだった。
15 時 24 分、今日の目的地であるタキ・ヴァフラスに到着した。さっそく分担して水汲み、
薪集めを始めた。各自、河で水浴びをしたり洗濯をしたりして時間を過ごした。17 時 40
分、夕食。ご飯、酸菜と昨日燻した鹿肉のスープが今晩のメニューである。夕食後には、
炉の周りは各自が洗濯した衣服や靴下で一杯になった。皆で火にあたっているとタマ・ダ
ホが 10 数年前に台北の工事現場で一緒に働いていた「かわいそうなネパール人」の話を始
めた。以前、工事現場で一緒に仕事をした数人のネパール人の〈外労〉20が箸を使えず食事
もろくに出来なかったので、彼が現場監督に掛け合って、特別にスープンを出して下れる
よう頼んだという話だ。
「次からはスプーンが出たが、奴等は数日後には配置換えでいなく
なっちまった。国に帰されたのかも。ほんとかわいそうな奴等だ」、とタマ・ダホは言った。
するとビウンが別の〈外労〉の話をした。台湾の一般の人々は、いまや台湾各地に溢れて
いる東南アジア諸国からの〈外労〉と台湾先住民との区別がつかないという話である。彼
はまた次のような話もした。あるとき台東市内にあるコンビニエンス・ストアーの前で妹
と共に腰掛けていると、
〈外労〉らしき集団が近づいてきた。彼らはビウンたちを自分たち
20
「外国人労働者」の意。台湾では近年、アジア諸国(特に東南アジア諸国)からの〈外
労〉が急増しており、その総人口は台湾先住民のそれ(約 40 万人)を陵駕している。
23
と同じフィリピン人だと勘違いしたらしく、何度も「フィリピン?
フィリピン?」と聴い
てきた、という。ビウンが何度も否定しても、二人をフィリピン人だと思い込んでいる彼
らは、「隠したって分かるぜ!」くらいの調子で、「フィリピン? フィリピン?」を繰り返
したらしい。この話にわたしたちはお腹を抱えて笑った。
20 時前、タマ・ダホとビウン、ビサドの 3 人は今晩も猟に出かけた。ホソンとタハイは
すでに寝息を立てている。残ったジャック、淑恵、わたしの 3 人は焚き火を囲み談笑した。
ジャックがわたしに「どうして猟に同行しないのか?」と訊ねてきた。わたしは「疲れている
から…」と応えたが、彼が期待していたのは別の答えだった。ジャックは「台湾の先住民に
狩をするな!とは言えない。でも、生態保護も考えなくちゃならない」と言い、伝統的な文
化と現代的な文化とのバランスを保つ必要性を強調した。
◆12 月 4 日(木)、晴れ。
6 時 18 分に起床。昨晩の猟で山羊と山羌を 1 匹ずつ仕留めたらしく、タマ・ダホとビウ
ンは寝ずに肉の処理(捌き・燻製)をしていたようだ。乾燥豚肉の入ったインスタント麺
を朝食にとり、その後はタマ・ダホたちが昨晩獲ってきた山羌と山羊の乾し肉を各自が平
等になるように分配した。わたしは正直、タマ・ダホが次なる獲物に出会うことがないよ
うに、これ以上各自が背負う獣肉が増えないように祈った。
9 時 08 分、タキ・ヴァフラス旧集落を出発。集落内の平坦な土地を抜け、往路と同様に
ジグザグに杉造林の急斜面を登った。上り坂でも杖が予想以上に力を発揮してくれてた。
途中、大規模な土砂崩れ跡に遭遇したが、杖があるだけでかなり安心できた。そこを渡り
終えたところでタマ・ダホが高雄方面および内本鹿奥地の地理を皆に説明してくれた。「手
前の山の方が高く見えるが実際はそうじゃない。奥の高雄方面に伸びている山脈の方がず
っと高くて 3,000m 級の山々が続いている」。「前方にある 5 つの河は全てピスパダン方面に
注いでいる。そして、それは最終的に紅葉温泉方面に流れて行く」。そして彼は、「見てみ
ろ、内本鹿の山々にはこんなにたくさんの〈ブクダヴ bukdav〉(平坦な土地)がある。住
み良いところだ」と呟いた。
11 時 20 分、往路の際にも休憩した小川のそばで今回も昼食をとった。昼食が出来上がる
までの間、淑恵がビデオカメラを回し、ホソンが今回の旅で考えたことなどを語り始めた。
彼はジャックがピスパダンで提案した「壽への常駐施設の建設と高山ガイドの長期滞在」構
想をぜひ実現させたい、と語った。
「水や資材の問題を解決しこうした常駐施設を建設でき
れば内本鹿はわれわれによってより身近なものとなる」。わたしが、
「しかし国有地だから、
24
常駐施設の建設には政府の承認や煩雑な手続きが必要になってくるんじゃない…?」と言
うと、ホソンはこう応えた。「だからこそ政府の言うニュー・パートナーシップ21が重要に
なってくる。もし林務局がダメだといっても「でも政府は先住民とのニュー・パートナー
シップを認めてるじゃないか!」と言ってやるさ」、と。
午後も杉造林の急な斜面を登った。13 時 30 分には往路の際にも通ったタケシ・チヴァナ
ン旧集落付近で休憩をとった。10 分ほどの休憩の後に出発し、14 時過ぎに茅草と岩が散在
する場所を抜けたところで東方向の視界が開けた。「正面(河の対岸、東方面)に見えるの
がバチングル山の側面。そして、その稜線を南西に辿って行った先、その河の対岸がピス
パダンだ」とタマ・ダホが説明してくれた。その後 15 時 50 分、上りきるのに 1 時間近く
かかった巨大な崖崩跡の上方に到着した。対岸(東方面)には明日登らなければならない
バチングル山西側の急斜面が聳え立っている。タマ・ダホが、「バリ、あの白く見える木々
が桧木の巨木が生い茂る森だ。以前に話した〈ラクバニル Laku-banil〉
(巨大な空洞をもつ
桧木)もその中にある」と教えてくれた。
しばらくの休憩のあと 16 時 05 分にこの崖崩跡を下り始めた。登る時とは大違いで随分
と楽に下ることが出来た。踵に重心を乗せ、スキーの要領で降った。この崖を下る行程を
ホソンとわたしのビデオカメラ 2 台を使って撮影した。撮影時間を含めても 30 分ほどでこ
の崖崩跡を降り切った。その後河を渡り、往路と同じ河岸で一泊することになった。18 時
過ぎには、ご飯、豚肉乾と山羌のスープの夕食をとった。タマ・ダホやビウンも疲れてい
るらしく今晩は猟には出ないという。皆 20 時過ぎには就寝した。ただし、わたしはあまり
の寒さとタハイの寝相の悪さで深夜に何度か起こされた。
◆12 月 5 日(金)、晴れ。
6 時 17 分起床。6 時 40 分、インスタント麺スープの雑炊を食べた後に出発した。行く手
にはバチングル山西側の急斜面が聳え立っている。路がかなり悪いため、タマ・ダホとビ
ウンが先に登って路を開き、その後にわたしたちが続くこととなった。1 時間ほどの待機し
21
中国語では〈原住民族與台湾政府新的夥伴関係〉。1999 年の総統選挙の際に当時民進党
候補であった陳水扁が打ち出した公約で、先住民と政府との新たな協力関係(e.g. 先住民
の自然自主権の承認、先住民自治の推進、土地条約の締結、伝統的な地名の回復、集落お
よび伝統領域の回復、資源使用の回復と民族自治の促進、国会への民族代表の選出、etc.)
を謳っている。cf. 行政院原住民族委員會HP<http://www.apc.gov.tw>。 なお、2002 年
10 月には陳水扁が総統の身分としてはじめて同公約の実現に向けて努力することを確約し、
翌 2003 年 6 月 3 日には〈原住民自治区法草案〉が行政院を通過した。なお、同方案は、現
在、立法院(日本の国会に相当)での審議を待っている。
25
た後、彼らが開いてくれた路に従って急斜面を登った。30 分後には〈咬人猫〉の急斜面を
登りきった。その後の敵は 2m 以上にまで延びた茅草であった。身長 198cm のジャックで
すらこの茅草には苦労しているようだった。20 分ほど進んだ後の 10 時 34 分、休憩をとっ
た。斜面の対面(西方)には、昨日下った巨大な崖崩跡が見えた。
30 分ほど急斜面と茅草からなる行程を進み、バチングルの森に入った。往路の際にも休
憩をとった〈麺店〉を目指す。12 時 54 分、ようやく目的地の〈麺店〉に到着した。そばの
小川で水を補給し昼食の準備が始まった。メニューはいつもの乾燥豚肉入のインスタント
麺である。昼食をとっている間、わたしはタマ・ダホにどうやってこうした複雑な道程を
把握するのか、と訊ねてみた。すると彼は、「俺たち高山ガイドは、一度歩けばその道をだ
いたい覚えている。巨木があったとか、真っ直な高木があったとか、岩が並んでいたとか。
そうした情景が頭の中に残っていて、次に通った時には『ん、以前に来たことがあるぞ…』
と気付き、それがいつ・どの場所だったのかを思い出すんだ」と教えてくれた。
14 時 18 分、出発。バチングルの森を北に向って進んだ。急斜面ではないが、なだらかな
上り坂が延々と続いた。標高 2,000m を越えるあたりまで来ると、休憩して 10 分足らずで
身体が冷え切ってしまう。ビンロウを噛んで身体を温め、飴を舐めて体力の回復を待った。
途中休憩した際に、ビウンが持参したペットボトル入の栄養ドリンクを取り出した。疲労
のたまっている皆から「オー!」と歓声があがる。無口だが仕事は着実にこなすビウンら
しい激励の仕方だった。わたしたちはそのドリンクを少しずつ回し飲んだ。
15 時 53 分、往路でも通った延平林道 52km の最終地点に到着した。後続のメンバーの
到着を待って休憩した後、16 時 09 分、48km 地点の山小屋に向けて出発した。茅草が生い
茂った路を進む。久々の平坦な道に皆の足取りも軽かった。17 時 03 分、携帯が通じる崖に
到着した頃、あたりはすっかり霧で覆われていた。ホソンが平地と連絡をとった。ビウン
も実家の母に電話をかけた。17 時 22 分、目の前の大きな崖を渡って進んだ。こうした崖に
も随分と慣れたが、「油断こそ禁物。慎重に、慎重に…」と心の中で念じながらわたしは歩
を進めた。今度は茅草の林が続く。今日の目的地である 47.5km 地点の山小屋までの距離は
もうそんなにはないはずだが、あたりがすっかり暗くなってしまったこともあり、林道へ
降りる獣道がなかなか見付からない。タマ・ダホやビウンも少し焦り始めているようだっ
たが、木々の合間から覗ける月だけが煌煌と輝いていた。
18 時 27 分、ようやく目的地の山小屋〈バトゥ・ダイガズ〉に到着した。途中で拾ってき
た薪で火を起こし夕食の準備が始まった。今日のメニューも乾燥豚肉入りのインスタント
26
麺である。夕食後しばらく焚き火のそばで温まった後、21 時 30 分頃には就寝した。しかし、
コンクリートの床に薄いテント用シーツを敷いただけなので、薄いアウトドア用マットと
シュラフだけでは寒さを凌ぐことが出来ず、夜中に何度か目が覚めた。寒がっていたのは
わたしだけではないらしく、午前 3 時過ぎ炉に薪をくべているタマ・ダホの姿があった。
◆12 月 6 日(土)、晴天⇒曇り。
6 時起床。インスタント麺の軽い朝食をとった。7 時半には出発しパンディアンの比較的
緩やかな路を進んだ。途中、往路の際に休憩した場所をいくつか通ったが、なんだか遠い
昔のことのように感じられた。8 時 19 分には 41km 地点の山小屋に到着した。先を行って
いたタマ・ダホが、往路の際に埋めておいた米を掘り出してすでに炊飯の準備を始めた。
かなり早い昼食である。ビサドとタハイがこの山小屋から少し行ったところにある災害慰
霊碑から「拝借」してきた米酒を皆で飲んだ。朝の日差しを浴びながら山で飲む米酒の味
は格別で、甘さすら感じられた。タマ・ダホが、昔ブヌンが遭遇したという〈サドゥス
Sadusu〉(小人)の話をし、「フィリピンにはいまでも小人がいるらしい」という話になっ
た。するとビウンが、「蘭嶼のヤミの人々とフィリピンの何とかいう民族の言葉はかなり通
じるらしい」と言った。ホソンが「俺たちはみな〈南島族系〉(オーストロネシア語族)だ
からな」と応じた。この旅で何度も「俺たち中華民国の国民は…」と語っていたタマ・ダ
ホとはかなり対照的だった。
その後は緩やかな上り坂が続く。10 時 49 分、
〈ミンナタズ〉山の登山口に到着し休憩し
た。タマ・ダホが「(鹿野溪沿いに延びる)日本時代の古道が修復されればこんなしんどい
路を通る必要はない。そしたら紅葉からピスパダンまではゆっくり進んでも 2 日だろう」
と言った。11 時 46 分、往路でもパンディアンを眺めた地点――延平林道 39km 地点――
に到着した。すでに霧が出始め、再度パンディアン方面を撮影することは叶わなかった。
その代わりに、わたしたちはその峠にある小山に上って記念撮影した。ホソンたちが携帯
電話で平地に連絡をとり、
「今晩は 31km の山小屋で宿泊するから、ご馳走と酒を携えた迎
えを出してくれ」と伝えた。
12 時 23 分、出発。先頭を行くわたしとタハイの同行二人が続く。後方には猟銃を片手に
大またで進むジャックの姿が見えた。タハイが「バリはどんな外国に行ったことがある?」、
「日本はどんな国?」、「日本のどこに住んでいる?」、「南投のブヌンは台東のブヌンより
色が白いのか?」などと矢継ぎ早に質問してきた。質問に答えるので精一杯だったが、ふ
と「タハイのような子供がブヌンの将来を背負うだろうな」と思った。
27
15 時 16 分、今日の目的地である 31km 地点の山小屋に到着した。30 分ほど休憩した後、
皆で薪集めを始めた。17 時過ぎにはインスタント麺の夕食をとった。持参した酒はとっく
に切れおり、タマ・ダホが入れてくれた野草のお茶を飲みながら「ご馳走の到着」を待っ
た。帰宅が近づいたせいか、タマ・ダホが「俺たち一緒に山を訪れた者は、そいつがどの
国の出身であろうと、〈タシュ・ト・ルマ tasj-tu-luma’h〉(ひとつの家族)だ! その関係
は山を下りた後も永遠に続く!」と言った。わたしはこの言葉を聞き、先達の研究者たち
が語ってきた「ブヌンの平等主義」が、こうした山地生活、各成員の知力・体力の程度さ
らには連帯意識が集団の総力に直結しているような山地生活に根ざしたものなのだと、体
得できたような気がした。
20 時を過ぎても「ご馳走」を携えた迎えは現れず、皆は 20 時半には就寝した。「迎えが
到着するまで待つ!」と豪語していたビサドも数分後には高いびきで寝入ってしまった。
◆12 月 7 日(日)、晴れときどき小雨。
6 時 20 分、起床。昨晩、
「ご馳走」を携えた迎えは結局現れなかった。7 時過ぎから、ご
飯、山羌と酸菜のスープの朝食をとった。食後、タマ・ダホ、ホソン、ビサド の 3 人はホ
ソンが持参した EU 産の煙草をわたしのフィールド・ノートで巻いて喫い始めた。
8 時 40 分、31km 地点の山小屋を出発した。出発前から小雨が降り始めていたが、緩や
かな下り坂を進むうちに雨も上がった。しばらくすると「ゴー」という機械音が聞こえた。
「林道の修復工事をしている土木機械が稼動する音だろ。もうすぐだ!」、とタマ・ダホが
言う。比較的整備された林道を抜けさらに進む。10 時 38 分、緩やかな坂を登り進むと、途
中何度も途切れていた機械音が急に大きくなった。左に曲がるカーブを進むと、崖の向こ
うで路を開いているパワーショベル、そして少し離れたところで手を振っている迎えのハ
イスルとナブの姿が見えた。わたしたちは「ウゥー」という声を揚げ彼らに応えた。崖を
渡り切ると彼らが「お疲れ!」といって迎えてくれた。旅の途中でタマ・ダホに言われた
とおり、〈尋根〉に参加した各自が荷から一塊の肉を取り出し、迎えに来てくれた彼らに差
し出した。その獸肉で炊いたスープが出来上がると、ハイスルらが持参した米酒で宴が始
まった。内本鹿の状況や〈尋根〉中に起きた出来事について談笑した。宴が 2 時間近く続
いた後、わたしたちはナブの運転する車に乗って山を下りた。酒が入っていることもあり、
皆は車中でブヌンの歌、台湾の歌、日本の歌を歌いだした。窓の外はいつしか霧雨となっ
ていたが、車中の高揚は止むことがなかった。
28
四
〈尋根〉の人類学にむけて
――記憶、場所、アイデンティティ、もつれ合い――
これまで〈尋根〉の具体的な内容を詳述してきたが、以下ではこうした事象を人類学は
どのように読み解くことが出来るのかを、いくつかのキーワードをもとに考えてみたい。
記憶
人類学的な視点から上述の活動を考察する上でわたしがまず注意したいのは、記憶とい
う問題である。わたしたちは記憶を、何らかの知的な貯蔵庫に蓄積され、折に触れて検索
されるものと考えがちである。事実、早くからこの問題に着目してきた哲学や心理学にお
いてもかつてはそうした見方が支配的だった22。しかし、この種の記憶理解に対しては、人々
の記憶をめぐる現実を正確に捉えきれていないなどの批判が相次ぎ、現在では人々の記憶
を、現在的な状況の中で社会的に編成・再編成あるいは社会的に媒介されたものと捉える
見方が主流となってきた[cf. 港 1996;Olick & Robbins 1998;Fukushima 2002]。こうし
た記憶理解に基づけば、この〈尋根〉という活動を通じて彼らが想起(remembering)す
る内本鹿の記憶とは、彼ら個々人の知能データベースから機械的に検索される何ものかで
はなく、現在という時間・空間において社会的に再想像され再構成されるものだと考える
ことが出来る。
人類学者の楊淑媛は 1998 年 12 月に台東県海端郷で行われた〈尋根〉活動への同行調査
を通じて、同じく記憶という問題に着目している[Yang 2001: Ch.3]。楊が〈尋根〉を通じ
て検討しようとしたのは参加者らの想起の仕方であった。彼女はP. コナートンらの議論に
依りながら[cf. Connerton 1989]、ブヌンが実際の経験すなわち身体的な実践を通じて「山
のやり方、祖先のやり方」を想起していることを強調した[Yang 2001: 94]。わたしが 2002
年夏に行った調査でもこうした「実践を通じた想起」という側面は明らかであり、楊の指
摘は大いに参考にすべきであろう23。しかし、わたしがすでに別の論文の中で指摘したよう
に、〈尋根〉をめぐって「祖先のやり方」や「祖先の生活」を想起するのは実際の参加者だけ
22
思想家たちは記憶の不可思議さを説明するメタファーとして、「蝋板」(プラトン)、「ア
イディアの貯蔵庫」
(J. ロック)、
「神秘的なメモ帳」
(G. フロイト)などを提出したきた[cf.
Misztal 2003: 3]。
23 最新の論文において彼女は、政治的側面を強調する傾向にあったこれまでの記憶研究を
批判しつつ、現象学的な記憶研究との統合の必要性を主張している[cf. 楊 2003]。
29
ではない。〈尋根〉に参加していない人々ですら、基金会が調査報告会で公開した地図・ジ
オラマ・ドキュメンタリー映像を通じて「かつての祖先の生活」や「祖先の文化」を想起
している[cf. 石垣 2003: 98-9]。実際の〈尋根〉を取り巻く多種多様な動き――〈尋根〉動
機、実施までのプロセス、実際の〈尋根〉活動の詳細、調査結果の発表、それが人々の記
憶に与える影響、個々人が想起する記憶の相互作用、etc.――を網羅的に記述・分析してい
くことこそが〈尋根〉の人類学に必要な作業だとわたしは考える24。
場所
〈尋根〉活動に対する第二の切り口は、記憶と場所の関係性という問題である。現象学
的地理学に倣って、人々が主体的に意味付けた空間(space)を「場所(place)」と呼ぶな
らば[cf. トゥアン 1988]、基金会の人々が実施している〈尋根〉は、現代のブヌンが失われ
た空間(space)としての内本鹿を、主体的に意味付けられ価値付けられた場所(place)へ
と転換するプロセス25であると言うことができる[cf. 石垣 2003]。
フランスの歴史学者P.ノラが主導した研究プロジェクト「記憶の場(lieux de memoire)」
が発表されて以降[e.g. ノラ 2002-3]、人類学でもこの種のテーマが盛に議論されるように
なってきた[e.g. Mageo (ed.) 2001;Climo & Cattell (eds.) 2002;Stewart & Strathern
(eds.) 2003]。それは、聖地、戦場、共同墓地(戦没者記念碑)、博物館(公文書館)、儀
コ メ モ レ イ シ ョ ン
礼(記念・顕彰行為)、収容所、公園、校舎、工場、道路、農地、田舎、家、森林、海(浜)、
回想録、雑誌といった有形無形の場が人々の記憶といかに結びついているのかを検討する
ものである。たとえば、M. カッテルは、フィラデルフィア郊外の街オルニー(Olney)で
生活する人々の老い(aging)を題材に、1990 年代以降に世界各地からの移民によってオ
ルニーがかなり様変わりしてしまったのにも関らず、老人たちはかつてのオルニーという
コミュニティの記憶を「再メンバー化(re-membering)」26することを通じて安らぎの感覚
24
様々なメディア――媒介物、もちろんマス・メディアも含めて――が人々の表象に与え
る影響および齟齬を考える上では、L.アブ=ルゴットが上エジプトの農村を題材に行ったテ
レビと文化の解釈学をめぐる論考が参考になるかも知れない[cf. Abu-Lughod 1999]。
25 「空間/場所」の関係あるいは「風景」
(landscape)をプロセスとして捉えようとする
視点に関してはE. ハーシュやA. ストラザーンらの研究[Hirsch & O'Hanlon (eds.)
1995;Stewart & Strathern (eds.) 2003] を参照。
26 カッテルの言う「再メンバー化」とは、
「ある強力な様式の想起であり、…(中略)…話
者と聞き手、現在の自己と過去の自己たち、現在の自己と過去における重要な人々との結
び付きを創出すること」である[Cattell 2002: 84]。
30
を得ていると主張する[Cattell 2002]。また、C. クラムリーは、ブルゴーニュ地方に遍在す
る菜園が、EU統合や環境意識の高揚という潮流の中で、世代から世代へ記憶を伝達する場
所、農業のグローバル化に抗する象徴となっていると指摘する[Crumley 2002]。
わたしは本稿の第 3 節において、日常的な現実とはかけ離れた存在となってしまった内
本鹿を自分たちの手に取り戻そうとするブヌンたちの具体的な実践を描いた。この問題は、
単に場所にまつわる記憶という視点からだけでなく、それまで強く意識されることのなか
った空間が場所化されるプロセスとしても詳細に検討していく必要があるだろう27。
アイデンティティ
「記憶の場」という問題は、第三のトピックであるアイデンティティと深く関っている。
「アイデンティティ」という概念は、狭義には青年期に固有の社会・心理的な発達課題と
して E.エリクソンが用いたもので、その後は人々の心理的発達を記述する概念として使用
されて来た。しかし、「ナラティヴ的転回」を経た現在、種々の社会的な相互行為を通じた
間断なきプロセスとしてのアイデンティティ形成という考え方が一般化している[cf. Olick
& Robbins 1998: 122]。他方で、記憶や場所に関する人類学的研究においては、こうした広
義のアイデンティティと記憶との密接な関連性が指摘されてきた[cf. Olick & Robbins
1998: 122-6;Climo & Cattell 2002: 1;Misztal 2003: 155-6]。
本稿のエピグラフに掲げた M.アルヴァックスの言葉が示すように[1989: 167、172]、場
所と人々との関係は分かち難いものだと言える。しかし、こうした関係はなぜに分かち難
いものなのであろうか。わたしはそれを、場所と人々とが本来的に結びついているからと
いうよりも、逆に人々が場所を必要としているからだと考える。アルヴァックスも言うよ
うに、人々は自分たちの永続性を主張するとき、不動の場所を、場所の象徴的イメージを、
その永続性を必要とする[1989: 207]。また先に紹介した M.カッテルの論考が示すように、
あるコミュニティの記憶を「再メンバー化」することが、人々に連続性の感覚を与えるこ
ともあろう。翻って本稿が紹介した〈尋根〉という事象を考えるならば、それは 400 年以
上にわたる外来勢力による支配の中でマイノリティへと転落した先住民たちが、激動の台
湾社会の中で自己のあるいは自己が属するエスニック・グループのアイデンティティを主
27
また、現代的な機器(ビデオカメラ、GPS、GIS、etc.)を手にして空間を場所化するプ
ロセスが、かつてのブヌンの空間理解[cf. 馬淵 1974b;黄 1995]にどのような影響をもたら
すのかという問題も看過出来ない。
31
張する動き、彼らがブヌンとしてのアイデンティティを形成・構築する一つの契機だと考
えることができる。彼らは、自己のそして祖先の存在が刻印されているであろう「記憶の
場所」を必要としているのである。
しかし、単に「アイデンティティ形成(=アイデンティティ化)の契機」と言うだけで
は不十分であり、いつ、いかなる状況で、どのようにしてアイデンティティ形成が行われ
るのかという「アイデンティティ化(identification)のプロセス」の詳細は依然として明
らかになっていない。だからこそ、
〈尋根〉が具体的にどういった状況で行われ、彼らが何
を経験し、何を考え、何を発言したのか(あるいは発言しなかったのか)を詳細に記述し
ようと努めることが不可欠となる。本稿第 3 節の記述はそうした契機を描写するにはあま
りに粗い記述ではあったが、その文章の各所には参加者らの「アイデンティティ化のプロ
セス」28の断片が散りばめられている筈である。
もつれ合い
そして最後に、台湾先住民社会における〈尋根〉活動を読み解く上で看過できないのが
「もつれ合い(entanglement)」29である。
アルヴァックスは、記憶が集合的あるいは社会的な存在であることを主張したが[e.g.
1989: 41-2]、同時に彼は、集合的記憶の複数性・多様性も指摘している[1989: 93]。こうし
た記憶の複数性・多様性という問題、複数の集合的記憶の競合関係という問題をいま一歩
進んで論じようとした試みのひとつが、J.マゲオの編著であろう。編者であるマゲオは、複
数の記憶がもつれ合う状況を読み解くために「集団内記憶(intragroup memory)
」/「集
団間記憶(intergroup memory)」という分析枠組みを導入した[Mageo 2001]。自集団の内
部で間テクスト的に共有されるのが集団内記憶で、他集団との関係性を顕在化させるのが
集団間記憶という訳である[Mageo 2001: 12-26]。もちろん、集団の単位をどのレベルに設
定するかによって、集団内記憶と集団間記憶の境界線は変動する。
わたしが、台湾先住民社会における〈尋根〉を読み解く上でこうした議論を参考にした
28
ここで言う「アイデンティティ化のプロセス」の記述・分析方法としては、田辺繁治ら
が展開する実践コミュニティ論などが参考になるだろう[cf. 田辺・松田 2002]。
29 この概念は、N.トーマスの言う「歴史的もつれあい(historical entanglement)
」に倣っ
たものである[e.g. Thomas 1991]。ただし、わたしは、西洋vs.非西洋といった二項対立を
前提としたものでなく、さまざまな個人あるいは集団間での過去・現在・未来をめぐる社
会的な相互行為の複雑な様相をも射程に入れた概念として「もつれ合い」を用いたい。
32
いのは、彼らの多くが頻繁なる移住という歴史を持っているからである。第 2 節で述べた
ように、内本鹿はブヌンにとって最も新しい入植地であり、そこはかつて台湾南部の先住
民諸族(ルカイ、プユマ、パイワン)の活動領域であった30。また、ブヌンのかつての本拠
地とされる台湾中部山地、なかでも台湾の最高峰である玉山(日本植民地期の「新高山」)
一帯は、ブヌンに西接する先住民ツォウの神話において彼らの発祥地として語られる場所
でもある[移川ほか 1935: 183]。台湾先住民社会の各地で〈尋根〉が行われていることから
も明らかなように、ブヌンが「記憶の場所」を必要とするのと同様に、隣接する諸集団も
「記憶の場所」を必要としている。こうした「記憶の場所」をめぐるもつれ合いが「記憶の
場所をめぐるコンフリクト」へと転化する可能性は十分にある31。
そしてまた、こうした「もつれ合い」は現代台湾社会を取り巻くアイデンティティ・ポ
リティクスとも連動している[cf. 石垣 2003]。たとえば第 3 節で紹介した「ニュー・パート
ナーシップ」に関するホソンの語りは、2004 年 3 月 20 日の総統選挙での再選のために先
住民票を獲得したい民進党陳水扁政権の思惑、中国大陸の共産党政府に対して台湾の独自
性を主張し、かつ環太平洋諸国との紐帯を強調するために国内におけるオーストロネシア
語族系先住民の存在を軽視出来ないという台湾の状況、さらにはそうした民進党政権の動
きを見据えてマイ・アサンの奪還という理想を実現しようとするブヌンの思惑とが、内本
鹿という「記憶の場所」をめぐってもつれ合っている在り様として理解できる。
〈尋根〉に
関する人類学的研究は、先住民社会におけるこの種の活動が、様々なレベルにおいてもつ
れ合っていることを明らかにするだろう32。
以上、本稿では、2003 年冬に行われた〈尋根〉活動への実際の同行調査に基づいて〈尋
根〉の具体的な内容を詳述するとともに、それを人類学はいかに読み解いて行くのかとい
う問題について考察した。本稿はあくまでも試論に過ぎないが、こうした試みが現代の台
30
馬淵によれば、ブヌンは武力行使や先住者への猟銃や豚の贈答などを通じて内本鹿一帯
での勢力を拡大したとされる。ただし、ブヌンの一部が内本鹿の土地を「購入」したと考
えていたのに対し、先住者側は「居住の許可」を与えたに過ぎないと考えていたようであ
る。したがって、ブヌンには、収穫物や獲物の一部を先住者の集落に租として納入するこ
とが義務付けられていたが、当時でもこの義務は忠実には実行されていなかったようであ
る[cf. 移川ほか 1935: 167-8]。
31 現在台湾では、行政院原住民族委員會の主導によりGPSやGISを用いた「伝統的土地お
よび伝統領域に関する調査研究」が進められている[cf. 行政院原住民族委員會 2002]。なお、
この種の〈部落地図〉作成運動の現状と課題については別稿を予定している。
32 「記憶」の項で述べた「個々人が想起する記憶の相互作用」は、よりミクロなレベルに
おける記憶をめぐる「もつれ合い」と言い換えることも出来よう。
33
い
ま
湾先住民社会における〈尋根〉の人類学的研究、さらには「現在を生きる台湾先住民」の
人類学的研究への一助となれば幸いである。
≪謝辞≫
本稿のもととなった現地調査(滞在期間: 2003 年 4 月末∼2004 年 3 月末)は、財団法人
交流協会日台交流センター「歴史研究者交流事業(2003 年度)」、および富士ゼロックス小
林節太郎紀念基金「2003 年度小林フェローシップ」からの研究助成により可能となった。
また財團法人布農文教基金會の方々の協力がなければ、〈尋根〉への同行調査はもとより本
稿完成もあり得なかった。末筆ながら記して深く感謝申し上げたい。
34
≪参考文献≫
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店(LES LIEUX DE MEMOIRE, sous la direction de Pierre Nora, editions
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台湾総督府警務局理蕃課(編)1993[1932−1943]『理蕃の友』3 巻 台北: 緑蔭書房
田辺繁治・松田素二(編)2002『日常的実践のエスノグラフィ――語り・コミュニティ・ア
イデンティティ』京都: 世界思想社
移川子之蔵・宮本延人・馬淵東一 1935『台湾高砂族系統所属の研究』1・2 巻
東京: 刀江
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非刊行
黄
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北: 中央研究院民族學研究所
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財団法人布農文教基金會 2003『回到埋葬肚臍的地土』(ドキュメンタリー映像)
財団法人布農文教基金會ホームページ<http://www.bunun.org.tw/>
行政院原住民族委員會ホームページ<http://www.apc.gov.tw>
37
ダウンロード

内本鹿への旅 ――〈尋根〉の人類学にむけて――