「二人妻/夫」説話の系譜をたどって
前平畠藩の紅花問屋「紅屋」の御当主喜左衛門」と間違われた
みなもと ごろう
井上ひさしの『雨』と井原西鶴の「俤の似せ男」と
―
一 九 九 七 年 の 夏、 ロ ン ド ン の ソ ー ホ ー 地 域 の 一 角 に あ る プ リ ン
ことが契機となり、喜左衛門の平畠一美しいと思われる女房・
まで真似が出来ない徳は、周囲からは偽者ではないかと疑われ
衛門の振りをして潜り込む。当然、容姿が似ているだけで中身
おたかを一目見たさに江戸から北上し、当主不在の紅屋に喜左
』を観ていた。
Guerre
一五六〇年のことである。カソリック軍の一員のマルタン・ゲー
るが、都合が悪くなると「天狗隠しで言葉も脳味噌も抜かれた」
Martin
ルが、友人のアルノ・ドュ・ティールに、自分の生い立ちを語って
ス・エドワード劇場で、ミュージカル『マルタン・ゲール いるところに、プロテスタント軍が、突然襲撃してくる、アルノを
とに成功する。
0
の中で、アルノはやむなくマルタンと別れる結果となり、友人は死
しかし、徳に〈天狗隠し〉では取り繕いきれない危機が次々
と起こる。突如現れた江戸の乞食仲間の釜六に、正体を暴露す
0
んだと思う。その後、アルノは、マルタンの最期を告げに妻を訪ね
ると強請られたことで彼を殺害し、喜左衛門の愛人で、その出
0
と誤魔化し、また平畠弁の習得に励み喜左衛門になりすますこ
る。ところが、彼が村に着くや否や、あたりは突然の沛然たる雨に
奔の真相を知る芸者の花虫を殺し、本物の喜左衛門を見つけ出
0
助けようとしてマルタンはかえって自分が重傷を負う。戦場の混乱
見舞われる。それまで干天の災害に苦しんでいた村はそれによって
間をこの世から消してしまう。だが、これらはすべて平畠藩と
救われる。マルタンの家族や村人は挙って「放蕩息子の帰還」とば
紅屋が仕組んだ罠であり、そこに嵌ってしまった徳は、喜左衛
して彼に毒を盛ったことで、徳が徳であることを証明できる人
舞台の出来事が進行するうちに、この物語は、井上ひさしの戯曲
かり、身分を明かす間もなく、彼を迎え入れる。
『 雨 』( 一 九 七 六 年 七 月「 野 性 時 代 」)に 似 て い る と 漠 然 と 思 う よ う に
挺 身 と い う 悲 劇 に つ い て 」、 近 代 演 劇 史 研 究 会 編『 井 上 ひ さ し の 演 劇 』
門の身代わりとして自害させられてしまう。(鴨川都美「雨
―
なっていた。私の恣意を避けるために、最新の第三者に手になる梗
翰林書房 二〇一二年一二月一日刊)
概を次にあげる。
…拾い屋の徳は、両国橋の橋下でかなり年輩の親孝行屋に「羽
― 25 ―
では、なぜ「罠」が仕掛けられたのか? 喜左衛門の工夫と実験
とに拠る紅花栽培に藩の財政を全面的に依存する平畠藩では、幕府
の酷税に対する抜け道として、紅花の不作を偽る。ところが、強欲
な巡察人にそれを発見され、見逃す代償に、毎年千両の生活費を添
一九九八年のツアーリングカンパニーのキャストによるCD『
Mar-
世 紀 フ ラ ン ス の 偽 亭 主 事 件 』( ナ タ
』によって改めて物語の確認をした)。
tin Guerre
さて、帰国して、早速、この物語についての文献を探してみると、
『 マ ル タ ン・ ゲ ー ル の 帰 還 リー・Z・デーヴィス著 成瀬駒男訳 平凡社 一九八五年一一月一五日初
版発行)に行き当った。この書の帯が簡潔に内容をまとめているの
えておたかを妾にすることを要求される。それに我慢できず、喜左
衛門は彼を切り殺してしまう。改易を免れる唯一の方法は、喜左衛
で、取り敢えずそれを引くことにする。
を吹き返し、喜左衛門の弟助左衛門として、おたかの夫に納まるこ
「罠」であるから、当然、喜左衛門は番頭の金七に助けられて息
証言は真っ二つ、時あたかもその裁判のさ中に片脚を失くした
詐欺師だと訴えられる。〈妻〉は〈夫〉だと言い張り、村人の
に舞もどり再び〈妻〉と暮らすが、三年を経て、男は偽せ者、
近世初頭フランスの片田舎、失踪した農夫〈マルタン〉は、村
門一人に全責任を負わせることであるが、そうしては藩の財政は立
とになる。花虫について言えば、彼女は喜左衛門の生殺与奪の鍵に
た野心の世界を、迫真の物語として描き切り、〈事実〉と〈可
〈本物〉が帰還する。……。無名の農民の奥深い感情と隠され
ち行かない。
なる「紅花栽培秘法」を預かるというプロット上の役割があり、彼
能性〉の複雑に交錯する〈歴史〉を鮮やかによみがえらせて、
夫マルタンが姿を現すが、幼い頃の政略結婚で、肉体的にも精神的
あいだにはいつしか真実の恋が芽生えてゆく。やがて、生きていた
せっかくの幸運が逃げないようにと、村人にさえぎられる。二人の
は事実をマルタンの妻ベルトランドに語って、村を去ろうとするが、
性の高いスタイルとして今後も大いに用いられるのではなかろう
といった辺境の微小部分に依拠して全体を撃つという戦略は、生産
のモンティアレと並んで『マルタン・ゲールの帰還』のアルティガ
めざましい成果をあげてきてい」て、具体的には「『チーズと蛆虫』
時間枠を用いて、性格の明確な社会部分に考察を限定する歴史学が
訳者の解説によれば、「ここ十数年の間に、短期的または中期的
欧米の歴史学に深い衝撃を与えた問題作。
にも関係を持てなかった夫に、今は何の思いもないとベルトランド
か」と、「新しい歴史学」におけるこの書の特質が述べられている。
アルノ
女の喜左衛門への思いはともかく、彼の方は、色と実益を兼ねた二
股の便法であったかどうかは、わからない。
―
は告白する。恋敵の陰謀もあって、一家は村人たちの暴動に襲われ
そこで、ミュージカルの方のその後の展開はというと
るが、今度は、マルタンをかばってアルノが深手を負う。マルタン
〈ほんもの〉か〈にせもの〉かの判断にある種の身体的特徴の相
今はその「新しい歴史学」には、立ち入らないことにする。
似が語られるのは避けられず、疣だの傷などに触れられるのは当然
は、友情の名のもとに彼が、今はプロテスタントに秘かに改宗した
のレーベルで出ている
FIRST NIGHT RECORDS
ベルトランドの腕の中で息を引き取ることを許す(このミュージカ
ル に つ い て は、
― 26 ―
16
を話せない』ことなど考えられないという理由から、それは、彼が
を知らなかったことについては『生まれつきのバスク人がバスク語
記録に出て来ていることである。「被告がほとんど完全にバスク語
として、私が、興味を持ったのは、方言をめぐっての記述が裁判の
とにした映画も作られて公開されているというが今は触れない)。
訳は翌年の英語版によっている。また、フランスではこの研究をも
の Edition Robert Laffont
の初版ですら、一九八二年の発行という
のだから、どう考えても、そこに直接の影響関係はあり得ない(翻
だが、翻訳はともかくフランス語版の『 Le Retour Martin Guerre
』
も習ったことがないというふうにも解された」という、第一言語と
いて述べることがあるとすれば、いうところの「二人妻/夫」説話
とのあいだの類似点は、直接にはありえず、将来何かこの作品につ
結局、一九九七年の時点では、この歴史書と、『雨』という戯曲
マルタン・ゲールではないことを意味するとも取れたが、ただ単に、
しての方言を話すことが出来なかったという指摘である。因みに、
の世界的な伝播というフィールドの中で考えてみるしかないだろう
ごく幼いころラブール地方を離れたので、先祖の言語は実際上一度
ゲール一家は彼が幼い頃バスク語を話すラブール地方を離れ、ガス
ついて、いくつか例を挙げておくことにする。まず、あまりにも有
その「二人妻/夫」説話を私がどのようにイメージしているかに
なという印象を持つ程度で終わった。
名なアルフレッド・テニソンの﹃イノック・アーデン﹄がある。さ
さらには、ベルトランド・ド・ロールという名の妻に関して「彼
コーニュ地方のアルティガで農家として産を成している。
女は『操正しく、立派に』生きてきた女性であり、司教戒告状によっ
(これらをもとに森鷗外は戯曲「生田川」を書いている)
、『伊勢物
らに『万葉集』の、高橋虫麻呂や大伴家持らが歌った「菟原娘子」
ゲールではなかったら、こんなに長期間、前記ド・ロールが、彼を
語 』 の「 筒 井 筒 」 の 章 な ど 挙 げ て い た ら き り が な い。『 雨 』 で は、
て示された情報もそれを裏付けていた。彼女は三年以上もの間、こ
別人だと気づかぬはずがなかった』。彼女は、義父と彼女の母に盾
こ と に な り、 喜 左 衛 門 に 注 目 す れ ば、 お た か と 花 虫 と い う 二 人 の
おたかの立場に注目すれば、喜左衛門と徳との二人の〈夫〉を持つ
の未決囚とベッドを共にしており、「もし被告が本当にマルタン・
ついて何ヵ月も彼は自分の夫だと言いとおしたし、体を張って彼を
わゆる私生児で、それはまた財産の継承の問題をも引き起こすこと
彼女は姦通の罪を犯したことになり、それによって生じた子供はい
決囚」との間にも子供ができており、彼が〈にせもの〉となれば、
宅の孫娘のお梅を妻に迎える。話の進んだ「深川三角屋敷の場」で
道四谷怪談』では、田宮伊右衛門はお岩を見捨てて、隣家伊藤喜平
持つと言えるかも知れない)。よく知られている鶴屋南北の『東海
〈妻〉を持つことになる(花虫もまた喜左衛門と徳の二人〈夫〉を
つま
危害から守りさえした」という記述もある。事実として、彼女は「未
になる。つまり、カトリック社会にあっては将来にわたって一家は
の助けを得るために、言い寄る直助権兵衛と表向き夫婦になってい
は、お岩の妹のお袖は、父左門、姉お岩、夫与茂七の仇を討つため
一読して、この書物の偽のマルタンすなわちアルノと『雨』の主
る。父と夫の百か日の喪が明けた日に、決心して床入りをすること
呪われることになる。
人公「拾い屋の徳」とは、その行動や情況に似通ったことがあるの
― 27 ―
合は、言わば二人〈妻〉と二人〈夫〉との複合形の先蹤ともいえる
て断末魔の虫の息で、それを告白する。つまり、「四谷怪談」の場
は兄と妹だとわかる。畜生道に落ちたことを知った直助も、自害し
計画を立て、また実際そうなるが、いまわの際に、直助とお袖が実
茂七が帰ってくる。お袖は身を恥じて、二人の男に同時に殺される
にする。丁度二人が枕を交わし終えたところに、死んだと思った与
である。
を贖い、女は、自らの意志によって将来にわたる贖罪を果たすわけ
に葬られる。結果的には、男は死刑によってこの世のこれまでの罪
とベルトランと子供の三人の遺体は火によって清められた土にとも
と の 間 に で き た 子 供 と お 腹 の 中 の 子 供 と と も に 死 ぬ。〈 に せ も の 〉
ンの家の前で絞首され火刑になる。と同時に、ベルトランドは、彼
現で、〈にせもの〉と断定されたアルノは、判決に従ってとマルタ
の悩みが克明に描かれているところである。結末は、マルタンの出
The Wife of
のである(二人妻伝承については、檜谷昭彦氏の『未練の文学 二
ジ ャ ネ ッ ト・ ル イ ス の﹃ マ ル タ ン・ ゲ ー ル の 妻 /
人妻伝承考』
(NHKブックス 昭和五五年一二月二〇日第一刷発行)が、
通時的にその広がりを記述している)。
﹄という小説が一九四一年に出版されていて、日本
Martin Guerre
では一九九三年一月に森道子訳 (英宝社)同二月に杉浦悦子訳(水
読んだが、これは幼い子供たちの結婚の儀式から始まり、一人の女
声社)の二種の翻訳が出ている。私は後者の新装版 (同年六月)で
*
『雨』については、二〇一二年になっていささか「牛にひかれて
係などを聞き出して、結局は、彼は死ぬのだからとそのまま遺棄し
一方の男の重傷を看病するかによそおい、彼の生い立ちから家族関
版の英訳で読んでみた(この書には刊記がなく、原作
Dodo Press
の詳しい書誌については dumaspere. com
を参照されたい)。
戦場でスペインとフランスに分かれたよく似た二人の男が出逢う。
ン・ゲール」という物語があることを知った。日本語訳はないので、
うと、文献を探したところ、アレアクサンドル・デュマに「マルタ
らの声を発することのできない「妻」という地位のありようが、明
ルの歴史的な経緯の何処に注目し何をくみ出すかという点では、自
く姦淫の罪に対する意識が克明にたどられている。マルタン・ゲー
に追い込まれるのである。そうした情況の中で日増しに膨らんでゆ
もの〉である何よりの証拠という、言わばダブル・バインドの情況
れる。これは、聖職者を始め周囲の誰もが、失踪中の人生体験によ
この物語では〈にせもの〉のほうがずっと好ましい人物として現
性の成長の様子が地方色豊かな環境の中で描かれている。
善光寺参り」風ではあったが、考えねばならない機会が偶々あった
て去ってしまうのが、物語の発端である。この出会いはミュージカ
確に意識されている。
ので、もう一度〈マルタン・ゲール〉をめぐる物語を確認しておこ
ルに踏襲されて、ミュージカルの種本としてはこのデュマの物語も
そこで、始めに触れたデーヴィスの歴史書を、今度は、『帰って
ドにとってもそれは喜ぶべきことであるが、実はそれこそが〈にせ
る成長と受け止めて、彼をマルタンと信じて疑わない。ベルトラン
参照されているかも知れない。
物語のポイントは、夫が〈にせもの〉と知ったベルトランドの心
― 28 ―
きたマルタン・ゲール 世紀フランスのにせ亭主騒動』と改題さ
れ た 平 凡 社 ラ イ ブ ラ リ ー 版 (一九九三年一二月一五日初版)で 改 め て
いたので、彼にその依頼がいくが、小平太は字が書けない。目
旱魃の時にも祈願してご利益があった。その願書は与太夫が書
で、青田の早苗は枯れ芝と化す。住吉大明神の御本所は、前の
読み直した(翻訳がより洗練されているので、先に引用した本文も
はしの利く男がいて、前回には書けた人が、今度は駄目という
銘々の好き好きだ、というところに落着し、別にかまうものも
のは妙な話で、これは与太夫ではないと見抜くが、女房は夫が
いなくなる。ここでは、天狗の話が、男が相手の所に押しかけ
この版によっている)。ところが、そこで、思いもかけない記述に
……訳者と同じ大学で日本文学を講じる秋葉直樹教授よりご教
ずとも効果的に女房の気を引く手段として、また無筆をごまか
無筆になったのは天狗の一件で気が抜けたせいと言い、やがて
示いただいたことだが、マルタン・ゲール事件に似た筋書の話
す煙幕として使われる。が、本物の夫の帰還がないために、二
出会うことになった。なんと、新しく書かれた解説の冒頭に訳者の
が西鶴の『懐硯』にあるということだ。「案内知ってのむかし
人の対決といった緊迫した事態はなく、結末はもうひとつ盛り
成瀬氏はこう書いている。
の寝所」と「俤の似せ男」がそれだが、その中で展開される、
の類似が見られると、その梗概を紹介している。そちらの方にも少
さらに、成瀬氏は、先に挙げた『イノック・アーデン』にも多少
マ
前夫の離村、妻の長年の待ちわび、新夫の登場と嬉し涙は、共
上がりを欠く。
下のようなものである。日向のとある村の与太夫という有徳の
マ
通した要素だ。とくに似ている「俤の似せ男」のあらすじは以
大百姓が、裂けた茶小紋の羽織を残して消息を絶つ。女房は子
ことを事細かに話す。と、相手は、横着な考えを起こし、与太
伝介は顔かたち、打ち傷まで同じであるのに驚き、彼の失踪の
わしは与太夫ではない。小平太といい、大隅の国の者だと言う。
伝介が与太夫よ、と呼びかけ、互いの身の因果を嘆くと、男は、
堂で同じお国言葉を使う男に出会う。見ると与太夫そっくりだ。
まず妻を刺殺し、次に木工兵衛を打ちすて、最後に自身もその刀で
脇に木工兵衛が寝ていた。久六は落ち着いてこれまでの経緯を語り、
六が帰ってきて、おもわず添臥をする。朝になって判ってみれば、
衛とやむなく再婚する。その夜、床入りも済んで寝込んだ後に、久
ぎ、周囲の勧めに逆らいきれず、同じ浦のやはり漁師小磯の木工兵
れずになる。夫婦仲はよかったのだが、音信の絶えたまま一年が過
淡路の家島の漁師北岸久六は、ある年、嵐に遭ったまま行き方知
し脱線してみる。これはむしろ「案内知つて昔の寝所」と同類型の
夫の妻をたぶらかし、楽に世を渡る計略を思いつき、わざと阿
自刃する。先に触れた「三角屋敷の場」と全くの同類で、ここでも
話と思われる
呆づらをして「天狗にさらわれた者」と触れ歩く。それを伝え
を育てて、九年待つ。その頃村続きの百姓伝介が、凶作に嫌気
聞いた与太夫の妻は相手のもとを訪ね、嬉し泣きし、男を家に
よく知られた先例を挙げれば、「伊勢物語」の二十四段の「あらた
がさして離村し、乞食をして歩いていたところ、安芸の国のお
連れかえり、添い寝の枕を交わす。が、その夏は格別の日照り
― 29 ―
16
まの年の三年を待ちわびてただこよひこそ新枕すれ」の歌にちなむ
説話がある(余談の余談で恐縮だが、久しぶりに開けてみた所蔵の
『伊勢物語』に「イノック・アーデンの説話、東海道四谷怪談」と
いう私自身のメモを見付けた)。
そうな気がするのである。
*
もとより、『雨』にも、既に一九七三年七月に「新劇」に発表さ
れた『藪原検校』にみられるような、バフチンのカーニバル論の影
ル〉という視点だったわけで、遠回りではあったが、そうなれば、
視点であり、秋葉直樹氏は西鶴の「俤の似せ男」と〈マルタン・ゲー
何のことはない、わたしは『雨』と〈マルタン・ゲール〉という
る(この点に関しては、新潮文庫版「雨」(昭和五八年九月二五日刊)
て、バーナード・ショーの『ピグマリオン』との類似を指摘してい
言語を通してアイデンティティの喪失が描かれていることとを挙げ
発端の突然の雨に降りこめられて主要な登場人物が集まることと、
い。ただ、材原ということであれば、扇田昭彦氏が様々な解説で、
が射していることは確かで、そのことはまず踏まえなければならな
『 雨 』 と「 俤 の 似 せ 男 」 と い う 視 点 が 当 然 の こ と と し て 結 び つ く。
*
(『雨』の冒頭に登場して、徳を誘惑する親孝行屋が、「杢兵衛」と
のものが、一番詳しい)。確かに蓋然性の高い指摘だと思われる。
そ う し た レ べ ル で の 材 原 と い う こ と で あ れ ば、 私 は、 ベ ル ト ル
名乗っているのは、『懐硯』によっていることの、井上ひさし一流
につかまれしもの」ということを方便とすることや、雨乞いの願書
を成瀬氏がまとめた梗概を一読すれば、繰り返しになるが、「狗品
ではないかということを言えばこの稿の用は足りる。秋葉氏の指摘
仕立て上げる。彼は、欲望と命惜しさにすっかり彼らの罠に嵌り、
を買いに出たアイルランド出身のゲーリー・ゲイという男を代理に
点呼の時には四人が揃わなくてはいけない。そのために、夕食の魚
四人の兵士は、略奪の証拠を湮滅するために仲間の一人を隠す。が、
二十世紀初頭。インドに戦闘を展開するイギリス軍の機関銃隊の
ト・ブレヒトの『男は男だ』(一九二六年初演)を挙げておきたい。
について、女房が「物書きたまわぬは天狗につかまれて氣のぬけた
仲間の一人ジェライア・ジップに仕立て上げられる。妻でさえ「ほ
私としては、﹃雨﹄の材原の一つとして、「俤の似せ男」があるの
の種明かしだったのかもしれない)。
ゆ へ 」( 引 用 は﹃ 決定版対 訳 西 鶴 全 集 五 ﹄ に よ る ) と か ば う 点 だ け
んとに、この人をよく見ますと荷揚げ人夫の私の夫のゲーリー・ゲ
にも思いもかけないクレバスがあって、そこに見事に嵌った自分の
むしろ、高度にそして精密に専門化したと言われる近代文学研究
「ゲーリー・ゲイ一家の者はアイルランドじゃどこにいっても釘の
言 え ま せ ん け ど 何 か 違 い ま す 」 と 言 わ せ る ほ ど で あ る。 因 み に
イとはちょっと違ってるようですわ。どこが違っているかはっきり
ママ
でも、貸借関係は瞭然で、事細かく喋々する必要はないだろう。関
情けなさを素直に告白したい。学生時代に謦咳に接したかつての碩
打ち方を心得ている奴だって何度も何度も言われますよ」と語るが、
ママ
心のある人に細かな研究は譲りたい。
学からの、そんなことも知らなかったのかという叱声が聞こえて来
― 30 ―
拾い屋の徳が、目の前に釘を置かれると本性を発揮してしまうよう
こ の 作 品 は「 人 間 は い つ で も 取 り 替 え ら れ る が、 証 明 書 が な く
に彼の場合も「釘」が、アイデンティティとかかわる。
なったら、もうあがったりだ」というセリフにあるように、人間の
アイデンティティが如何に脆いかを描いたものである(これに倣え
その出来事とは、おたかの、徳の「鈴口の疣」が喜左衛門と同じ
だ と い う 証 言 だ と、 私 に は 思 わ れ る。 い さ さ か 言 葉 遊 び を す れ ば
が、
を保証するという逆説が一篇の
private parts
public
relations
趣 向 な の で あ る( 様 式 的 に 言 え ば、 艶 笑 劇( erotic farce
)の見か
とになる。
このおたかの、閨の出来事をめぐっての確信犯としての嘘というこ
)ということになる)。
high comedy
つまり、徳を徳たらしめ、喜左衛門を喜左衛門たらしめているのは、
けをとった思想性の高い喜劇(
る)。「証明書」通りのジップになりきったゲイは、姿を現わした、
ば『雨』は、江戸弁という証明書を失った徳の物語ということにな
「証明書」を持たない本物を否定し、他の三人以上に兵士として見
せると思うか?」と、四人の兵士が員数揃えの際に最も恐れる軍曹
雨で、例えば「お前は今晩、雨の夜でもこの後家の肉体なしで過ご
『 男 は 男 』 で は、 暗 に 明 に プ ロ ッ ト の 進 行 に 関 わ っ て い る の が、
る。おたかは、「あんだとはじめて肌ばあわせだどぎ」の浴衣だと
る。このあたりの展開については、既に触れた鴨川論文に指摘があ
もなくこれは白無垢を思わせ、花嫁衣装や死に装束の礼服を意味す
手拭をさげ白い影のように現れる」と、ト書きにはある。言うまで
めて枕を交わす際の衣装で、それは、「白っぽい浴衣のおたかが白
そうした役割を担うおたかの核心的な形象は、〈にせもの〉と初
は、自らに言い聞かせる。(以上は、岩淵達治訳『ブレヒト戯曲全
事な殺人鬼に成長する。
集2』
の作品はすでに一九六五年に河出書房の『グリーン版世界文学全集
りは、衣装の異様さに目を向けさせるセリフである。そこで、いよ
語るが、読むのではなく舞台としてみるときは、この言葉の真偽よ
0
(未来社 一九九八年五月三〇日刊初版第一刷発行)によるが、こ
17巻』に収められている)。岩淵氏は、注で「雨の日は色欲が高
に
いよ床入りというところで、この場は終わるのだが、その瞬間は次
か
まるというイメージはブレヒトにしばしば出てくる」と指摘してい
やえ……
に瓦屋根を激しく叩く雨の音が加わる。
暗くなる。杵の音が再び聞こえて来、さらにその上
おたか(どこかへ向かって祈るように)清三様、堪忍しておご
さ
のごとくである。
0
る。この軍曹は、その色欲ゆえに失敗して自峙心を失い、自ら去勢
する。この場合は、ある意味で雨は、人間の欲望とそれによる自己
喪失とに根源的にかかわっていると言える。
*
0
この場面は、当然、終幕の場の、御公儀巡見使との対面の場のト
0
これまで、井上ひさしの『雨』をめぐって、ほとんどは無用と思
0
書き「何気ない会話を交わしながら、おたかは徳に着物を着せて行
0
われる論議を重ねてきたのだが、それは『雨』のプロット上の根幹
く。ただし、おたかが着せるものはすべて白ずくめ」(傍点本文通
やりとり
をなす出来事は何かという私なりの問題意識とかかわるからである。
― 31 ―
つまり一つの象徴的な「死」を以てもう一つの現実の「死」を購
り)という設定と一対になっている。
うというのが「雨」全編を貫くプロットということが出来る。もち
ろん、喜左衛門には「鈴口の疣」などなかったという本当の秘密を
知る花虫の犠牲も、その変奏であることは言うまでもない。材原論
という観点からは、全く無駄だと思われる︿マルタン・ゲール﹀や
「二人妻/夫」説話に悪くこだわったのは、このプロットの意味を
考えてみたからであって、まさに「妻」であること「夫」であるこ
とからくる苦悩にあれほどこだわった伝承の人物たちの持つエネル
ギーが、「雨」の言わば、平畠藩の政治的な陰謀事件の顛末の表相
からは殆んど姿を消しているからである。
こうした煉獄の現実をもたらすことこそが、まさに政治だとも言え
るのである。
0
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付記 この論は、いわゆるアカデミックな学術論文の書き方を意図的にし
ていない。私の思い付きを捨てて、何食わぬ顔で自分の発見のように、
も知れない。でもそうしなかった。嘗て、そして近年読んだ書物の次
『雨』と『懐硯』との関係を論ずる方が、ある意味で効果的だったか
のような個所が心に残っていたからである。
Science is a procedure for testing and rejecting hypotheses, not a
compendium of certain knowledge. Claims that can be proved incor-
rect lie within its domain (as false statements that meet the primary
methodological criterion of testability). But theories that cannot be
しかし、それは、あくまでも表相から消えたかに見えるだけで、
プロットから見れば、真のの犠牲者は、拾い屋の徳ではなくて喜左
tested in principle are not part of science. Science is doing, not clev-
this I hope I have not fallen prey to narcissism. My wish is always
turn of phrase does more to obstruct lucidity than improve it. In all
cism practised in the sciences, and indeed that an artificially dry
that historical enterprise has little to gain from the stylishic ascefi-
the boundaries of good academic practice, or so I hope – believing
ing the point. I have taken other small stylistic liberties – all within
gular when this seemed the clearest and most honest way of phras-
Stylistically I have taken the liberty of using the first person sin-
(London 1995) p.12
Stephen Jay Gould, ADAM’S NAVEL AND OTHER ESSAYS
er cogitation; we reject Omphalos as useless, not wrong.
衛門の女房であり、次いで花虫だということになる。物語は、確か
に徳が身代わりになった喜左衛門の切腹で、男たちの世界である政
治の上での決着はつく。が、おたかと、今度は、喜左衛門が成り済
ました、彼の弟助左衛門との新しい夫婦には、それぞれ、徳との関
係、花虫との関係が、自己を責めるにも相手を責めるにも、おそら
くトラウマのように残るわけである。建前を果たした二人に本音の
日常がどう展開するのか、プロットがもたらした現実が彼らを待っ
ていることになる。つまり、古今東西の「二人妻/夫」説話が抱え
てきた、男女の問題が目の前に広がることになる。
この、言語化されず、何処にも行き場のない、夫婦のあいだに孕
まれたエネルギーこそが、この作品の潜在的なテーマと言えはしな
いか。もし、『雨』が政治を描いたというなら、相思相愛の夫婦に
― 32 ―
Daniel M. Vyleta, Crime, Jews
simply to communicate.
York 2007) p.11
and
News
Vienna 1895 - 1914 (New
もとより、最近の精緻な文学研究の動向に、能力的について行けな
いことも事実であるが、講義や演習での試行錯誤や脱線を含めた学生
との対話の延長のつもりで、この文章を書いた。したがって注なども
なお、マルタン・ゲールの話は、モンテーヌが『エセー』第三巻第
付けない体裁を採った。
十一章「びっこについて」で取り上げていて、原二郎訳の岩波文庫(昭
和四二年一〇月一六日第一刷発行)では、注としてはやや詳しく「マ
ルタン・ゲール事件」としてその大体の推移がまとめられている。井
上ひさしが、おぼろげながらでも、あらかじめマルタン・ゲールの基
本的な経緯を知り得た可能性は、全く無ではない。
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井上ひさしの『雨』と井原西鶴の「俤の似せ男」と