特集 日本旧石器時代の始まりと古さ
立川ローム「下底部」の年代と自然環境
Dating, chrono-stratigraphy and environment of Tachikawa Loam
formation in Musashino upland
Profile
1999年明治大学大学院文学
研究科博士後期過程退学
2003年より現職
の ぐ ち
あつし
野口
淳
(明治大学校地内遺跡調査団)
Atsushi Noguchi ● Meiji University Archaeological Investigation Unit
関東平野南部に分布し武蔵野台地を模式地とし,世
田谷区岡本2丁目の現・静嘉堂公園内にあった切り
はじめに
通しを模式露頭とする。層序・岩相・鉱物組成(お
まずはじめに,立川ローム層「下底部」をめぐる
もに輝石・カンラン石)から4つの部層に区分され,
理解の前提について指摘をしておく。
「関東ローム
または上部(第1・2部層)
,下部(第3・4部層)に2分
層」の最上部に位置づけられる立川ローム層は,そ
される。武蔵野ローム層との不整合面直下にはクラ
れ自体はきわめて地域的な岩相層序単元にすぎな
ック帯が発達し時間的間隙が想定される。多摩川諸
い。しかし後期更新世の最終段階,最新氷期最寒冷
段丘の最表層を覆い,低位の立川面では立川礫層の
期(Last Glacial Maximum)を含む地質年代上の位置
上位を立川ローム層のみが覆うが,段丘形成期の堆
づけから。後期旧石器時代の時間的範囲の示標とさ
積物である立川ローム層下部を欠く。立川面は氷期
れてきた。考古学では,立川ローム層の分布範囲外
の海面低下による河谷の下刻により形成されたと考
の地域でも「立川ローム○層段階」のように編年・
えられ,ヨーロッパ・アルプス氷期区分のうちビュ
年代の代理示標として用いることがある。さらに立
ルム氷期の中ごろに対比される。多くの旧石器時代
川ローム層の下限が年代層序の上で後期旧石器時代
遺跡を包含する。
の初源を示すとの主張も見受けられる。しかし本来
その後,東京都野川遺跡ではⅢ∼Ⅹ層が区分さ
ならば,両者は地質学,考古学の方法において独立
れ 21),今日に至るまで武蔵野台地における考古遺跡
して定義され検証されるべきであり,立川ローム層
の標準層序となり,また考古編年の基準とされてき
の「下底部」から出土したから後期旧石器時代の初
た。立川ローム層それ自体が日本における第四紀研
源であるとか,立川ローム層より下位の層序単元か
究の初期より上部更新統の最上部(表層部)を代表す
ら出土したから後期旧石器時代以前であるという言
るものとされてきた経緯もあり,立川ローム○層段
説は,現状では論をなさない。後期旧石器時代の考
階という用語が今日でもしばしば用いられる。しか
古学的示標と年代,あるいは「後期旧石器時代以前」
しそれが考古編年の段階対比のみを示すのか,地質
の示標と年代が明らかにされた上で,はじめて地質
層序年代も含意するのかはあいまいなことが多い。
層序・年代との対比が可能になるからである。
2.立川ローム層の下限はどこなのか?
1.立川ローム層とはなにか?
立川/武蔵野ローム層の境界は不整合であり,
立川ローム層の当初の定義は以下の通りである 。
16)
直下にクラック帯が発達するとされたが,同様な
関東ローム層の最上部にあたり下位の武蔵野ローム
クラック帯は層厚の大きい相模野台地では複数の
層を不整合に切ってのる。下位の武蔵野ローム層と
層準に確認されていた。対比の手がかりは黒色帯
同様,富士・箱根系の火山灰をおもな母材とする。
のみでほかに鍵層が乏しかったため,近接する地域
12
考古学ジャーナル 618, 2011
立川ローム「下底部」の年代と自然環境 ● 野 口 淳
土壌学的見地からは,アロフェ
ン・非晶質成分含量とハロイサイトの
量的変化 22,23),風化指数(CIW,MWPI
など 29),永塚 らによる分析も風化指
数に関連する元素に差異を指摘して
いる30))などの示標にもとづき,武蔵
野BB2下位1mほどの層準に,土壌生
成環境の差異・風化層準=時間的間
隙が指摘されている。クラック帯が
目視できなくても,潜在的な埋没古
土壌面として捉え得る。とは言え,
これらの示標は同一時間面を保証す
るものではないので,鍵層となるテ
フラおよび数値年代とセットで把握
することが重要となる。
相模野台地∼武蔵野台地の範囲で
鍵層候補のひとつとなるのが相模野
図1
立川・武蔵野ローム層の標準層序
第2スコリア(S2S)37)である。相模
文献16)図3-2に加筆
野L5∼武蔵野Ⅹ層の対比の基準とさ
れているが,現状では肉眼レベルで
間でも層序対比は困難をきわめ,月見野遺跡群と野
の検討にとどまり同定の確度は低いと言わざるを
川遺跡の層序・編年対比をめぐって議論が交わさ
得ない。顕微鏡下での発泡形態の検討 13,14)による
れたこともある
同定が期待されるが,武蔵野台地東部∼北部では
。
21,37,38)
その後,
ATの層準が第3部層下部
(考古層序Ⅵ層)
に確認されたことにより,相模野B2=武蔵野Ⅴ層
(BB1)
,B3∼B4=Ⅶ∼Ⅸ層(BB2)という対比が成立
痕跡的に赤色スコリアが捉えられる程度であり,有
効性は地域的に限定されるだろう。
もう一つは,CCP-5(またはBCVA)である。東京
する。ただし,さらに下位の層序対比については,
都多聞寺前遺跡では立川ロームⅩ層より下位,
「上
いまだに不確かさが残る。立川ローム層の下限−
下の層準より若干暗い」ⅩⅡ層の下に包含されてい
武蔵野ローム層との境界層序は,実は今日において
た 28)。一方,神奈川県早川天神森遺跡では相模野
も明確に定義されていない。立川ローム層中の考
L6層(S2Sを含む)の下位,約1mのクラックの発
古編年と層序区分が確立された野川遺跡は立川面
達する暗色帯の下にBCVAと考えられる青色岩片が
上にあり,Ⅹ層以下は河川性堆積と考えられる砂質
報告されている 11)。BCVAと考えられる青色岩片は
層に移行するため立川ローム層の「下限」は捉えら
野川流域でも確認されるので 9),地域的な鍵層とし
れていない。その後,武蔵野面上の多くの遺跡で立
て有効であろう。ただし現状では,発掘調査におい
川ローム層の「下限」が示されたが,明確な鍵層や
て同層準まで掘削されることが少なく対比が難し
岩相の変化として定義されたものはない。とくに
いところである。
当初の模式露頭で示された「クラック帯」が再現性
なお東海東部∼関東平野南西縁の中部ローム上
をもって捉えられないことが問題のひとつである。
部ないし武蔵野ローム相当層上部で検出される含
考古学ジャーナル 618, 2011
13
特集 日本旧石器時代の始まりと古さ
立川ローム下底部石器群の成り立ち
The structure of stone tool industry
in the lowest Tachikawa Loam formation
Profile
2008年明治大学大学院
文学研究科博士前期課程修了
2008年明治大学大学院
文学研究科博士後期課程入学
おおつか
よしあき
大塚
宜明 (明治大学大学院)
Yoshiaki Otsuka ● Graduate School of Arts and Literature,
Meiji University
まとめて記載する。
Ⅹ・Ⅸ層段階の石器作りは,剥片石器と礫核石器
はじめに
からなり,その組成はナイフ形石器・楔形石器・石
日本旧石器時代の研究,なかでも編年研究は1970
錐・削器(剥片石器)と,打製石斧・磨製石斧(剥片石
年代の大規模開発に伴う発掘調査に起因する多数
器,礫核石器の両方),そしてそれらを製作する敲
の遺跡の検出と,それが含まれる安定した良好な地
石・砥石(礫塊石器)が加わる。出土石器の種類と
層の堆積を編年の基準とし関東地方西部に位置す
数量は遺跡ごとに異なる傾向があるが,Ⅸ層段階に
る武蔵野台地を中心に進められてきた。武蔵野台
特徴的な環状ブロックと石斧には強い結びつきが指
地の地層は,古い方から多摩・下末吉・武蔵野・立川
摘されている 2)。
ローム層の順に堆積している。上部に位置する立川
Ⅶ層段階では,石斧がなくなり,剥片石器作りの
ロームはⅩ∼Ⅲ層という7層の異なる地層の重な
みになる。石器組成は,ナイフ形石器・楔形石器・
りからなり,連綿と旧石器時代の遺物が出土する。
石錐・彫器・削器(剥片石器)と敲石(礫塊石器)に
本稿で対象とする立川ローム下底部石器群はⅩ∼
よって構成される。また,当該期の特に下総台地に
Ⅶ層にあたり,それより下位からの遺物の出土はな
特徴的な「下総型石刃再生技法」3)関連資料は,石核
いことから,武蔵野台地最古の石器群といえる。
とみるか,彫器や楔形石器とするか,または石核・
本稿の目的は,立川ローム下底部石器群の石器組
成と石材を整理し,それらの関係を検討することで
立川ローム下底部石器群の成り立ちを捉えることに
彫器・楔形石器三者のまとまりとみるかの判断は難
しいが,本段階を特徴付ける石器である。
立川ローム下底部石器群の組成から,Ⅹ・Ⅸ層段
ある。立川ローム下底部石器群と共通する石器製作
階は主にナイフ形石器と石斧
(剥片石器・礫核石器)
技術的特徴をもつ石器群(立川ローム下底部相当期
作り,Ⅶ層段階はナイフ形石器(剥片石器)作りと
石器群)は,北海道を除き九州から東北地方まで広
いう石器作りの移り変わりをみてとれる。
範にみられるが,本稿では当該期資料が豊富な関東
地方を対象にみていくことにする。時間軸を,立川
2.石器と石材の結びつき
ロームⅩ∼Ⅶ層から出土するナイフ形石器の形態と
調整加工を基準として設定した3つの段階(Ⅹ層段
階,Ⅸ層段階,Ⅶ層段階) にすえ検討していく。
1)
立川ローム下底部石器群の代表的な石器として,
ナイフ形石器と石斧があげられたが,無秩序に旧石
器時代人は石器石材を選んでいたのだろうか。石器
と石材の結びつき,
そして機能との関連を整理する。
1.石器組成
立川ローム下底部石器群にみられるナイフ形石
立川ローム下底部石器群の石器組成をまとめる。
器の石材の特徴として,遠隔地産石材の重用がみと
なお,Ⅹ層段階とⅨ層段階では共通点が多いため,
められる。しかし,各時期ごとの内容をみると,Ⅹ
18
考古学ジャーナル 618, 2011
立川ローム下底部石器群の成り立ち ● 大塚 宜明
層段階では流紋岩,珪質頁岩,安山岩,Ⅸ層段階で
こでは,代表的な説を取り上げ,立川ローム層下底
は黒耀石等,Ⅶ層段階では黒色頁岩というように一
部石器群の位置付けに対する問題点を抽出する。
定していない。このような利用石材の時間的な変
なお,諸説の内容から,立川ローム下底部石器群の
化に対し,ナイフ形石器の石材には一貫して緻密な
理解においては,連続性を重視するものと,非連続
石質と鋭利に割れる物性の岩石を選択する共通点
性を重視するものがある。それぞれ連続説,非連続
を指摘できる。
説とし以下に整理する。
次に,Ⅹ・Ⅸ層段階に特徴的な石斧の石材をみて
いく。石斧は,野口 4)が武蔵野台地南部を事例に指
摘するように,付近の河川等で採取可能な近在地産
・連続説
安蒜政雄 10)は,ナイフ形石器の体系的な形態分類
石材を利用していることがわかる。対して,近年,
を行なった上で,資料が豊富で編年の示準的な地域
中村 5)が注目する超苦鉄質岩という房総半島産石材
であった南関東地方を対象に,ナイフ形石器の形態
製の石斧が武蔵野台地で確認されたことから,石斧
組成を検討した。安蒜は,五段階(段階Ⅰ∼Ⅴ)を設
についても近在地産石材の利用と異なる動きも想定
定し段階ごとの形態組成の推移から,段階Ⅰ・Ⅲ−二
される。これらの点を考えると,近在地産と遠隔地
側縁加工(切出形)
・基部加工,段階Ⅱ・Ⅳ・Ⅴ−二
産石材の利用が考えられるわけではあるが,いずれ
側縁加工(茂呂系)
・部分加工という二つの異なる形
にせよ粗粒な岩石を選択していることがわかる。
態組成の移り変わりを指摘した。さらに,安蒜 11)は,
ナイフ形石器と石斧における利用石材の特徴は,
第Ⅰ期(前論文の段階Ⅰと同じくⅩ∼Ⅶ層段階)に
ナイフ形石器−緻密石材,石斧−粗粒石材の結びつ
ついて論を進める。第Ⅰ期を,形状保持的な技術に
きであった。使用痕分析の成果
よって製作される基部加工(杉久保系)ナイフ形石
6∼9)
を参照すると,
当該期のナイフ形石器の機能は,刺突具や鋭利な縁
器が主体となる時期とし,より古い高井戸東Ⅹ層石
辺を刃部とした骨・角を対象とした切断・鋸引き
器群からより新しい打越Ⅶ層石器群へという細部加
の作業の可能性が,石斧については木材の伐採や皮
工度の高まりや石核整形度の弱まりといった技術的
なめし等の作業の可能性が指摘されている。先に
な変異を捉え,第Ⅱ期(Ⅵ層段階)の形状修正的な茂
述べた岩石の物性と石器の結びつきや使用痕研究
呂系ナイフ形石器への移り変わりを捉えた。
の成果から,石器の機能に基づいた石材の使い分け
が立川ローム下底部石器群に行なわれていたこと
・非連続説
白石浩之 12)は,二側縁加工ナイフ形石器に注目
を読みとることができる。
する。白石は二側縁加工ナイフ形石器の登場を,
定型的な素材剥片の量産化・「折(切)断や刃潰し
3.立川ローム下底部石器群の
位置付けに関する見解と問題点
加工によって基部装着の際の打面除去や裏面調整
技術」・「剥片剥離技術の石核構成のシステム化」
立川ローム下底部石器群における石器と石材,
により,ナイフ形石器群として技術的に開花した段
さらに両者の関係をみてきたが,日本旧石器時代の
階と考え,B3層(Ⅶ層)をナイフ形石器文化(後期旧
中で,立川ローム下底部石器群はどのような位置付
石器文化)のはじまりとした。そして,B3層以前の
けができるのだろうか。従来の見解を振り返る。
B5∼B4層(Ⅹ∼Ⅸ層)を「台形様石器群」とし,中期
立川ローム下底部石器群の位置付けについては,
∼後期旧石器時代への移行期として位置づけた。
日本列島における後期旧石器時代のはじまりと関
鈴木美保 13)は,石器製作技術の「動作連鎖」を観
連することから,様々な仮説が提示されてきた。こ
点として,Ⅹ∼Ⅵ層段階の石器群を検討するにあた
考古学ジャーナル 618, 2011
19
遺 跡 速 報
福岡県
首羅山遺跡
― 福岡平野周縁の山岳寺院 ―
Syurasan-Ruins in Fukuoka Prefecture
えがみ
ともえ
江上
智恵(久山町教育委員会)
Tomoe Egami ● Hisayama Town Board of Education
近世の地誌類が記すとおり,調査前の首羅山遺
はじめに
跡は藪に覆われ,僅かな文献と伝承のみが残ってい
首羅山遺跡は福岡県糟屋郡久山町大字久原の白
山(標高288.9m)に所在する中世山岳寺院跡である。
福岡平野の東端に位置し,低山でありながら,
山頂付近からは博多湾をはじめ福岡平野周縁の
山々を見渡すことができる。
(図1)
るだけであった。地元の要望もあり,平成17年度か
ら調査を開始し,平成20年度からは九州歴史資料館
との共同調査を開始,調査を継続している。
1.遺構の分布の概要
山の北には猪野川,南に久原川が流れ,福岡市
遺構は山の東側に集中し,本谷地区・西谷地
内で多々良川に合流し,博多湾に注ぐ。多々良川
区・山王(日吉)地区・山頂部を中心に分布してい
の河口はかつて大きく内陸に入り組んでおり,香椎
る。山裾から中腹にかけては,坊跡と思われる平坦
宮周辺や多々良川流域の遺跡の調査によって古来
地があり,中腹に堂宇や礎石建物,墓地と想定され
より対外交渉のひとつの拠点として重要な地域だ
る集石群,池状遺構を伴う平坦地などがある。山頂
ったと考えられている。首羅山遺跡はその上流に
部に祠や礎石建物,経塚がつくられている。山の中
位置し,かつては今より
も海に近い山であった。
開山伝承によると,天
平年間に白山権現が百済
から虎に乗って来山,聖
武天皇の詔により僧源通
が開山したなどの伝承が
残る。近世の地誌類には
最盛期には350坊があった
が,天正年間に薩摩勢に
よって焼き払われ,すで
に「棘深し」と荒廃した状
況が書かれている。近世
には宝満山の春の峰入り
の重要な行場となるが,
山内の大きな改変は行な
われていない。
32
図1
首羅山遺跡遺構分布図(S=1/10,000)
考古学ジャーナル 618, 2011
ダウンロード

立川ローム - Book Stack