ベルツ博士の北海道歴訪
山上医院
山上勝久
【嘱望/▽属望】
[名](スル)人の前途・将来に望みをかけること。期待す
ること。
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ベルツ博士の森鴎外評価
• ベルツ博士は森鴎外を高く評価していた。
• 1899(明治32年)7月28日小倉で再会
「今一ツ余の忘れことのできぬ日本人が一人
ある。その物言ひから、動作までドイツ人そっ
くりだよ。森と云ふ男は実に智慧の満ち満ち
た立派な頭を持ってゐる。どうしても只の日
本人ではないネ」
(軍医森鴎外)
•
ベルツは親日派だったようだが
当時の日本は、特に日清戦争後は反独だったようで。
日本だけでなく、英・米も、ドイツに対し風当たりが強く
ベルツにとっては複雑な心境だったかもしれないが
母国に対しても、批判はきっちりと書き残してある。
日本では、医師として皇室と付き合いがあり
伊藤博文など有名どころの高官とも交際があったようだ。
外国人ならではの情報網を持っていて、海外事情にも通じていたよう。
そこにベルツの視野の広さや洞察力の鋭さも加わって
当時の日本・日本人について、いいところ、よくないところを含め、書いてある。
戦争を主に取り上げて書いてあるというよりはむしろ
たまたまベルツは日清・日露戦争を肌で感じられる時代に日本にいたから
戦争のことが頻繁に書いてあるように思う。
医師ならではの目線で書き残されている部分も、とても面白い。
みたまま、感じたままを書いてあるともいえ、とても貴重な記録だと思われる。
韓国への旅行
• 1903年(明治37年)4月27日
• 長崎から釜山へ
• 人種学的調査が目的 地理人情をも精査す
る予定
• 1897年(明治30年)
日高支庁管内 平取
江別市 対雁(ツイシカリ)
石狩市 札来
北海道歴訪は
ベルツの日記には
記載されていない
北海道歴訪は
「ベルツの日記」には
記載されていない
ベルツの日記、年間別ページ数
ウ
タ
失
う
ページ数
北
海
道
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27 12 35 58 99 56
52 28 48 24 295 129
ベルツ博士の混血説
•
■エルヴィン・ベルツの混血説 この日本人の起源に関する「混血説」を唱えたエルヴィン・
ベル ツを紹介しておきたい。明治初期に医学を教えたベルツは、アイヌ 人が北部日本を中
心に分布した先住民族であるとしながら、アイヌ 人と沖縄人の共通性も指摘している。 ベ
ルツが指摘したアイヌ沖縄同系論は最近のDNA分析でも実証 されつつあり、斉藤成也は
アイヌ沖縄同系論を支持しつつ、遅くと も縄文時代が始まった1万年以上前には大陸と縄
文人としての日本 列島集団との間に遺伝的な分化が始まり、縄文時代が終わる300 0年
前頃には、北海道集団は本州以南の集団と遺伝的に少しずつ離 れていく。そして、弥生時
代の朝鮮半島あるいは中国からの渡来人 による遺伝子流入によって、北海道と本州以南
の集団の遺伝的近縁 性が減少し、沖縄を中心とする日本列島南方集団が遺伝的に分化
す る。日本列島本土では弥生時代から奈良時代までは朝鮮半島南部を 含む周辺集団と
混血しながら、平安時代以後は大規模な混血を経ず、 今日に至っているとの見方を示して
いる。 おそらく、神宿る森と共生した縄文人は渡来人の圧倒的なパワー に屈しながらも
その信仰を鎮守の森にそっと隠したのだろう。また、 融合できなかった一部の民は熊野や
四国、九州南部、そして東北の 山奥へと逃げ込んでいった。アイヌ人と沖縄人は日本列島
の周縁に あたることからその影響を逃れた。渡来人に次いで、後に仏教、さ らにはキリスト
教をも受け入れた寛容性は縄文の伝統が生きていた 証だったのかもしれない。縄文人は
負けながらもその信仰を八百万 の神々として弥生的な神道に植え付けていく。どうやら、太
古から 続く主体的な伝承者としての縄文末裔一族のネットワークも今なお 存在しているよ
うだ。 この負けて勝つ縄文人を支え続けてきた八百万の神々は、自らも 国家的な死に直
面しながらも、日本人の根っ子に生き続け、敗戦後 の日本を救うことになる。
•
先に紹介したエルヴィン・ベルツは日本人を
長州型と薩摩型とに 分け、それらが異なる二
系統の先住民に由来するとしながら、支配 階
級に見られる長州型は満州や朝鮮半島など
の東アジア北部から、 薩摩型はマレーなどの
東南アジアから移住した先住民の血を色濃く
残していると考えていた。このベルツの分類
は現在の靖国参拝問題 を読み解く上で示唆
に富んでいる
「石狩遊記」
人類学上遊記
北海病院、関場不二彦
自筆
明治30年6月
宮下舜一 氏 発見
関場不二彦氏
• 当院の創立者である関場不二彦氏は、慶応元年
(1865年)福島県北会津若松市に生まれ、明治22
年(1889年)12月東京帝国大学医科大学を卒業後、
母校のスクリバ外科医局で外科学を専攻、明治25
年(1892年)4月に帝国大学の命により北海道庁に
出向、同年9月に区立札幌病院(現市立札幌病院)
第5代院長に就任しています。1年余の勤務の後、
明治26年(1893年)10月退職し、「関場医院」を開
業しましたが、翌年7月1日関場医院を「北海病院」
と改称し、さらに4年後の明治31年(1898年)に「北
辰病院」と改称しています。
石狩遊記
•
石狩遊記
人類学上遊記
明治30年6月
師教授ベルツ先生と石狩河ロ
来札村の樺太アイヌを訪ふの記
発端
今茲六月三十日午後二時頃なりけむ
我師 ドクトル・エルウィン・ベルツ先生は
友人「ヲイゲンウルフ」なる者を提げ
札幌なる我病院を訪ひ玉ひき。
其不図なる訪問は我を驚かしぬ。
四五年来
握手禮終て久闊を叙し
健康を祝し其歓其喜言語の尽し
得べき可な
余は余が書斎に導き招じ「ビール」を
饗せしも辞したるを似て更に茶を煎じ
四方山の話となれり。師が来遊の目的といふを聴く
• 1)我は四日前東京を去里氏ウォルフなる
者と北海道に来たり、大に人類学上の
研究をなさんとする、殊に「アイヌ」種属の
容貌を目撃せんは専務の研究点と
定めたリ
2)君は健全に見受けぬ児幾人
ありや
余答ふ二人あ里
長は女にして今脊椎後弯と
圧迫脊髄炎に罹れる。
次は男にして健康なり
長女の病いいとも不憫なリー
大切な(玉かね
•
3)余の示したる頭蓋骨を貝て頭蓋の
研究殊に計測は小金井君尤も勉めぬ。
至美尽矣と言ふの他なかるベレ
余は故にアイヌの顔貌を調査せしを
似て甘んずべし
4)師は「コロボックル」に就き何如に
考えし給うやと問ひしに答
余は末だ「コロボックル」の事 ず
「小金井君の論文を見て始めて之を
知りき
此辺にて「コロボックル」穴というは
探りう得べきや 竪穴の誤り
余は答う
之は去る一二里ばかり
琴似に於て見るを得べしとて
友人高畑・子に物せる地図を示す
然らば必ず案内の伝手を君に
依頼せむ
余は承諾したり
• 是より二氏辞し去り余は導きて知人、アイヌローグ」
ジョンバチェラー氏を訪問しアイヌレストハウス訪
ふ。、
一応の挨拶
七月一日正午氏を旅亭豊平館に訪へ午後四時
汽車を似て軽川光風館に浴し
翌朝未明軽川をし石狩来札に赴うと
約す。
午後四時共々汽車に乗じ軽川に至り歩
光風館に上、晩餐一浴、 痕なレ
ウォルフなる者善く
ベルツへの疑惑
BAELZ, Erwin von
Die körperlichen Eigenschaften der Japaner
Yokohama, 1883
ベルツ 『日本人の身体的特性』
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小金井良精
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銅像
東京大学蔵
小金井 良精(こがねい よしきよ、男性、1859年1月17日(安政5年12月14日) -1944年(昭和19年)10月
16日)は、明治から昭和にかけて活躍した解剖学者・人類学者。
生涯 [編集]
越後長岡藩士の子として生まれる。1880年に東京大学医学部(の前身)を卒業するとドイツへ留学、解
剖学と組織学を学ぶ。1885年に帰国、翌年東京帝国大学医学部教授となり、日本人では初めて解剖学
の講義を行った。
1888年とその翌年の夏、北海道でアイヌの骨格を調査して以来、人類学を専攻。アイヌ研究に基づいて、
日本石器時代人はアイヌであるとし、坪井正五郎の唱えたコロボックル説を激しく批判した(コロボックル
論争)。1893年から1896年には帝国大学医科大学学長をつとめた。また、1893年に日本解剖学会を創
設した。
1921年に定年を迎え、教授職を退いたが、精力的に研究活動を続けた。
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妻は森鴎外の妹
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1903年(明治37年)4月16日
長崎から釜山へ
人種学的調査が目的 地理人情をも精査する
予定
• 1904
02/9 日露戦争開戦
開戦 第一報、
• 2月7日1904
• 03/02
スパイ嫌疑 今日は、とんでもない全く夢にも思
わなかったことが自分の身に降りかかってい
る.
Heute ist mir etwas zugestossen, was
ichi mir wirklich nicht haette traeumen.
• 1904
03/03 スパイ嫌疑 長崎氏宮相の依頼にて来
訪する。彼によりやまと新聞が余を スパイの一人として数
えていることを知る。 当局は記事取り消しを命じている由
である。
• 1904
10/09 皇室の子供 両親にとって、その子供を
ずっと手元にとどめておくことができない。
• 1904
10/28 女子学習院の運動会
午後女子学
習院(当時は華族女学校)の運動会へ。これは年二回開催さ
れる。
ダウンロード

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