Echo
いかれ帽子屋
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︻小説タイトル︼
Echo
︻Nコード︼
N9053Y
︻作者名︼
いかれ帽子屋
︻あらすじ︼
ラジオネーム﹁優柔不断なこうもり﹂を名乗る青年は逃げるよう
に家出をし、ひょんなことから沢渡藤花に拾われた。一週間を彼女
の家でオセロをして過ごすことになる。七人の小人がひとり足りな
い喫茶店の女主人、火葬場で妻の焼けた骨を掴んだ老人、キョクア
ジサシを語る彼女、脚の悪いピアノ教室の先生と付き添う男性との
出会いを経てこうもりは一つの決意と、おにぎりが美味しい理由を
知る。﹃マリアノイズ﹄﹃ボーダレス・レイン﹄﹃ブレイヴ・ダー
ク﹄のちょっとした後日談。フリマに出す再録本に前述の三作が載
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るということで、無料配布の小冊子に書いた小説です
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Echo?
十九歳、最後の一週間。
オセロの準備はすでに出来ていた。部屋にはラジオもかかってい
る。二人分のおにぎりを乗せた皿を傍らに降ろし、沢渡藤花の前に
座る。彼女は石をおもむろに掴んで差し出す。
﹁上の面は白黒どっち?﹂
しばらく悩んでから、こうもりは白と答えた。藤花が指を開く。
黒だった。満面の笑みを浮かべ﹁あたしが先攻ね﹂と間髪入れず盤
に白い石を置き、間にはさまれた黒い石をひっくり返す。まだ一列
が白くなっただけだというのに彼女は誇らしげだ。
中盤に差し掛かる頃、藤花が軽食に手を付ける。
﹁ご飯をただ握っただけなのに、おにぎりってなんか美味しいのよ
ね。人が握ってくれると尚のこと﹂
満足してもらえたようだ。こうもりは安堵した。
どちらがコーヒー豆を買いに行くかを決める戦いは最後まで白が優
勢に進んだ。
﹁喫茶店までの緻密な地図を書いてください﹂
こうもりは潔く負けを認めた。
藤花に拾われた日、彼はなるべく遠くへ行こうとしていた。知り
合いとすれ違うことのない、そんな場所を目指してバスに揺られる。
車内で見かけた青年が持っている本を以前、自分も読んだことがあ
って何度も声をかけたいと思った。けれど見ず知らずの自分がいき
なり話しかけたら、不快感を示されるのではと考えるとためらわれ
た。降車する彼の背を見送って肩を落とす。
乗客は女性と二人になった。イヤホンを耳に付けてラジオのチュ
3
ーニングをし、オーシャン・レディオに周波数を合わせる。
交差点で停車する。物憂げに車窓から外を眺めていた。バスの前
を悠々と人が横切っていく。次第にまばらになり、最後に老婆が覚
束ない足取りで横断歩道に踏み出した。半ばで帽子が飛ばされた。
歩行者用の信号機が点滅を始め、彼女は帽子を一瞥して渡り切る。
走り出したバスが老婆を横切る。彼女は車道の際に立って、惜し
げに帽子の行く末を見守っていた。どうしようもないけれど胸が痛
んだ。せめて踏まれていないようにと祈りながら振り返る。
後続車の前に、男性が飛び出すところだった。彼はガードレール
をまたぎ、立ち止まることなく帽子を拾い上げて渡り切る。埃をは
らって老婆に手渡した時、心臓が高鳴り自分のことのように歓喜し
た。わが身を顧みず自動車の前に躍り出るなんて真似出来ないと思
った。
興奮が冷めきらない震える指先で携帯電話のキーを押す。上手く言
い表せないかも知れないけれど、誰かと共有したい。その一心でラ
ジオ番組に投稿した。
しばらくして﹃次のお便りは千葉市にお住まいのラジオネーム、
優柔不断なこうもりさんからで﹄と聴こえてきて、主張が受け入れ
られたようで嬉しかった。けれど自称したにも関わらず、立ち位置
を決められないこうもりの寓話を思い浮かべて確かに自分にぴった
りだと自嘲した。萎むように気分がいっきに落ち込む。
終点で降りた。一グラムの重みもない筈の感情が足取りを重くす
る。携帯電話の電池パックを抜いて、電源を落とした。
ベンチに腰掛けてうなだれる。これからどうしようか思い悩んで
いると、バスに同乗していた女性が声をかけてきた。向かい合って
みると意志の強そうな眉根が印象的な、端整な顔立ちをしている。
﹁優柔不断なこうもりって、あんたでしょ﹂
どうしてみな、自分に出来ないことを平然とやれるのか。彼は不
思議でならない。
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Echo?
喫茶店は隣街にあった。
花壇に陶器でできた七人の小人の置物がある。ひとり少ない。作
中でおとぼけと呼ばれていた小人が見当たらなかった。
開けると扉に下がったベルが鳴り、﹃Open﹄の札が左右に揺
れる。しなやかな尾を持つ黒猫が、我が物顔で店内を闊歩している。
カウンターから顔をのぞかせた女性がいらっしゃいと微笑んだ。念
の為に野村智世さんですかと確認し、﹁藤花さんの使いで来ました﹂
と伝えた。
智世は不思議そうな顔をする。
﹁沢渡さんの彼氏にしてはちょっと若いような﹂
居候の身であるが、説明するのは面倒で親戚ということにしてお
いた。得心がいったようだ。
彼女が奥の棚から袋を取り出してきたコーヒー豆を量っているあい
だ、こうもりは店内を見渡した。壁のコルクボードに写真が貼って
あるのが目につく。
異国と思しき街並みに、おとぼけの姿があった。
﹁ベルリンのフリードリヒ通りなんだって﹂
﹁ドイツですよね﹂
そう、と言い智世はカウンターに湯気の立つカップを置く。ココ
アだった。﹁一杯、サービスしてあげる﹂。席につき礼を述べてか
ら口をつけた。しつこくない甘さが広がる。
﹁それを撮ったのは大学の友達なの。もう十年近い付き合いになる
わ。でもある日突然、傘以外ほとんど何も持たずに旅立ってしまっ
たの﹂
﹁無謀ですね﹂
無謀でしょ。頬杖をつきながら智世はため息を吐く。きれいな輪郭
だと思って、すこし見惚れる。
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﹁ペーター・フェヒターに逢いに行くってきかなかった。だから仕
方なく送り出したわ﹂
外国の友人に会いに行ったのだろうか。ココアを飲みほし、静か
にソーサーに戻した。そのまま割れてしまいそうで、陶器同士が触
れ合う音は苦手だった。
﹁気付いたら小人が一ついなくなっていて、最初は盗まれたのかと
思っていたの。そしたら彼から旅先で撮った小人の写真が届くよう
になった﹂
昔からそう、きざっていうか妙に演出にこだわる人なのよ。話し
ている彼女は、どこか少女の面影を残しているように見えた。
帰り際に、傘を手渡された。
﹁今度来た時に持って来てくれたらいいわ。木曜日以外なら開いて
いるから﹂
﹁雨が降るんですか?﹂
﹁﹃雨は降る。ハットフィールドに誓っていい﹄。うちの猫を見て
るとなんとなくわかるの﹂
紙袋の重みが腕にのしかかる。コーヒー豆が重いことを初めて知
った。傘が少しだけ恨めしい。
バス停にたどり着き、赤くさび付いたベンチに荷を降ろすと腕が軽
くなった。隣で老紳士が本に視線を落としている。かたわらには花
束があった。
きりがよいところで彼はしおりを取り出した。しかし挟まれること
はなく、しおりは風に舞って茂みに消える。立ち上がるとこうもり
は草にひっかかっていたしおりを拾いに行く。手を引き上げるとき
に細い葉が中指の皮膚を裂いて肉を鋭く滑るような感覚があった。
深く切ったと思っていたら案の定、指の節に血がにじむ。
しおりを受け取ると老人は礼を言い、胸ポケットから絆創膏を取り
出した。﹁使ってください﹂
﹁孫がやんちゃな盛りでよく傷を作るので、普段からこうして持ち
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歩いているのです。本当に困ったものです﹂
目尻に鴉の爪痕のような皺を浮かべて老人は笑う。絆創膏を受け
取る。しおりの一枚も満足に拾えない、そう思うと情けなくなった。
老人がしおりを挿んだ本を持ちかえ、左の手首に巻かれた腕時計
を見た。古い火傷の痕が目につく。
﹁ひどいものでしょう﹂
視線に気付いた老人が言う。少し迷ったが、うなずいた。すると
老人はトランプでもひっくり返すように左の手のひらを表にする。
思っていた以上にただれていた。ケロイド、という症状なのかもし
れない。波打った、つややかな皮膚が余計に左手の異様さを際立た
せている。
﹁焼いたばかりの、妻の遺骨を掴んだときのものです﹂
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Echo?
﹁どうしてそんなことをしたんですか?﹂
老人は愛おしそうに、ただれた皮膚に右手の親指を這わせる。
﹁火葬場で妻の遺骨を目の当たりにしたとき、気付けばわたしは焼
いたばかりの、まだ熱い妻の亡骸を掴んでいました。妻が死んだこ
とが信じられなかったのかも知れません。参列者や係員に止められ
たたことさえも覚えていないのです。当然、すぐに我にかえり、火
傷の痛みをそこでせき止めようとするかのように右手で手首を必死
で押さえました。病院に運ばれて手当を受け、親族はなぜあんなこ
とをしたのかと口ぐちにわたしをせめぎ立てましたが、本当に茫然
自失での出来事でした﹂
ここを、と老人が指さす先を注視する。白い欠片が皮膚の下から
半分ほど顔をのぞかせていた。遺骨だろうとすぐに察しがついた。
﹁わたしはあのとき、妻に呼ばれたのかも知れない。今ではそう思
っています。けれど、こうも考えているのです﹂
雨が降り始めた。
﹁なぜ利き手が焼けなかったのだろうと﹂
次第に雨足が強くなり、道路の渇いたアスファルトの面積が減って
いく。老人は爪の先で欠片をいじりながら続けた。
﹁もしかするとわたしはいたって冷静で、妻を喪った憐れな夫を演
じ、場の雰囲気に流されていただけなのではないかと思うと胸が痛
みます﹂
花束を抱えて老人が乗り込み、バスが発車するとベンチにこうも
りだけが取り残された。
無性に彼女に逢いたくなった。
﹁君はいつもつまらなそうな顔をしているね﹂。
大学の図書館で、彼女はそう声をかけてきた。サークルの先輩だ
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と認識するまでに少し時間がかかった。
﹁暇なら連絡してよ﹂
蔵書の検索結果をプリントアウトした紙の裏に携帯電話の連絡先を
書いて手渡すと、彼女はさっさと行ってしまった。﹃100万回い
きたねこ﹄と表側に印字されている。
﹁こういう本を読むのか﹂
なんとなく興味を持ち探そうかと思ったけれど、用紙をよく見れば
貸出中になっていた。無いとわかった途端に無性に気になって帰り
に本屋に寄り、立ち読む。
すぐにレジに持って行った。
翌日たまたま構内で会った彼女はそれを聞くなり声をあげて笑い、
﹁読んだんだ﹂と間延びした声で言った。
﹁はい。店頭で涙ぐみました﹂
﹁猫の﹃そばにいてもいいかい。﹄ってあの台詞がすごく胸に響か
ない?﹂
﹁今でもエコーがかかってます﹂
﹁そりゃあ、エコーもかかるよ﹂
付き合ってしばらくしてからキョクアジサシの話を聞いた。月が
のぼるたびに絶望する鳥の話だった。
紙袋をキッチンに置く。リビングから顔をのぞかせた藤花が折り
たたんだタオルを投げる。乾燥機から出した直後なのか温かい。
﹁濡れなった?﹂
﹁野村さんが傘を貸してくれたので﹂
すると藤花は唇を尖らせる。
﹁あんたじゃなくてコーヒー豆﹂
はい。無機質な返事をこうもりはした。
﹁冗談よ。ご苦労様、ありがとう﹂
役に立ててよかった。そう思える笑顔だった。
買って来たばかりの袋を開けると、彼女はコーヒーをさっそく淹
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れ始めた。雨のにおいを追いやっていくように部屋が芳ばしい香り
で満たされる。
﹁智世さんに、ひとり欠けた七人の小人の話は聞いた?﹂
﹁外国の友人に逢いに行ったって聞きました﹂
藤花は手を止めて首を傾げて、ああペーター・フェヒターのこと
ねと再び手を動かし始めた。
﹁友達じゃないんですか﹂
﹁ベルリンの壁があったころ、検問所を突破しようとして撃たれた
青年のことよ。東西の兵士が互いに牽制し合ったせいで処置ができ
なくて失血死したらしいわ。近付き過ぎるのは互いに怖いって話﹂
それでも人は誰かと繋がっていたいから厄介よね。藤花の声が遠
くから聞こえた気がした。
ふたつのカップを持って彼女はリビングに戻る。こうもりはひとつ
を受け取った。容器は熱かったけれど、左手のただれた老人のこと
を思えば何ともない気がした。彼の火傷も、時々痛むのだろうか。
絆創膏の端が少しめくれている。
どちらが言い出したわけでもなく、オセロの準備を始める。
﹁戦争なんてさ、勝つ自信がある方がふっかけてくるんだよ。フェ
アじゃないのよ最初から。どうせ勝つか負けるかならオセロで決め
たらいいのに﹂
﹁それじゃあ誰も納得しませんよ﹂
﹁誰もが納得する戦争なんて一度も無かったわ﹂
言葉に詰まってコーヒーをすする。先手の白い石を手に取り盤上
に置いた。
﹁実は僕、逃げて来たんです﹂
﹁何から?﹂
﹁彼女から﹂
黒に端をひとつ取られた。しまったと思った。
﹁どうして?﹂
﹁子どもが出来たかも知れないって﹂
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あたしの周りってそんな話ばっかり。そう呟いて藤花が頭を抱え
る。何のことか聞いたけれど﹁気にしないで良いわ。個人的なこと
だから﹂と一蹴される。何となく触れちゃいけないことを察し、そ
れ以上の言及はしなかった。
﹁流石にそれはまずいよ、あんた﹂
傷がずきずきと痛む。直後に二つ目の角が陥落し、白の形勢が一
気に不利になった。
交互に石を置き合う。
﹁恐かったんです。父親になる覚悟なんて無いし、経済的に自立し
てるわけでもないから﹂
﹁でも一番、不安なのは彼女でしょ﹂
﹁わかってます。だけど、どうしたらいいかわからないんです﹂
﹁あんたはどうしたいの﹂
わかりません。瞬く間に盤上が真っ黒になる。もう打つ手がない。
藤花はボードをひっくり返してゲームを始めるときの状態にする。
﹁じゃあこうしよう﹂
﹁あたしが勝ったら子どもはおろす。あんたが勝ったら産む﹂
﹁そんなんで決められるわけないじゃないですか﹂
こうもりが声を振り絞って言う。それが精いっぱいだった。逃げ
て来たところで何にもならないことはわかっていた。答えを先延ば
しにしているだけに過ぎないのだから。ゲームを続けることは出来
なかった。
いつまで経っても僕は白夜の街には辿り着けない。膝に据えた腕が、
情けなく小刻みに震える。
﹁なら、自分の意思で決めなさい。やるしかないなら、やるっきゃ
ないじゃない﹂
夜中から未明かけて土砂降りになった。雨粒が屋根ではじける音
を聞いていたら、オセロが降って来ているのではないかと思えた。
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Echo?
朝が来ても、雨は降り続いている。水たまりを打つ波紋が幾重に
も重なるのを、ぼんやりと眺めていた。
﹁ピアノ教室に行くからあんたも着いて来て﹂
﹁習ってるんですか。そんな繊細なものを藤花さんが﹂
失礼ね、と彼女は眉をひそめた。
﹁週一で通っているのよ。知らなかった?﹂
出会ってからまだ五日しか経っていないのを覚えていないのだろう
か。けれど、言われてみれば、長いこといるような気もする。
﹁この雨の中、外に出るって考えただけで滅入りますよね﹂
﹁雨は、外出しない理由にはならないのよ﹂
名前のわからない鳥を見かけると、彼女はとりあえずキョクアジ
サシと口にする。なんのことか尋ねると彼女は宝石箱のふたを開け
るように答えた。
﹁百グラム余りのちいさな体で、白夜を追い求めて世界で一番長い
距離を移動する渡り鳥の名前﹂
日本はルートに入ってないんだけどね、と彼女は結ぶ。世界を横
断するというのがどういうことか、想像することも出来ない。こう
もりは、それはすごいという月並みな感想を述べた。けれど彼女は
大きくうなずく。
﹁生涯で月と地球を三往復分に相当する距離を、太平洋と大西洋の
二手に分かれて飛ぶって図鑑に書いてあった﹂
﹁それはどうしても飛ばないといけないの?﹂
しばらく黙ってから彼女は﹁生れて来たからには﹂と言って言葉
を続けた。
﹁キョクアジサシは月がのぼるたびに、うんざりするんだろうな。
まだ白夜の街には着かないのか、再会できないのかって﹂
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何か言わないといけない。思い浮かんだ言葉をそのまま口にする。
﹁少し距離を置いた方が相手を思いやれるって鳥もわかっているん
だよ。だから再会の喜びも一入なんじゃないかな。それに夜が無い
と起きている時間が長い分、豊富な話題が必要なんだよ﹂
﹁それでキョクアジサシは二手に別れるって言うの?﹂
彼女はおかしそうに笑う。﹁きっとそうだ﹂
見上げた空に鳥はもういなかった。
藤花の演奏が終わり、こうもりは彼女を侮っていたに気付く。予想
以上に上手かった。人は見かけによらないものだと感心してしまう。
ピアノを教えている女性は藤花よりも少し若いように見える。彼
女は妊婦だった。脚が悪いらしく、男性がそばに付き添っている。
藤花の意図が見えて、少し居心地が悪い。最初はそう思っていた。
けれど彼女が男性に支えられて席に着き、か細い指先が鍵盤に触れ
てから場の空気が変わる。
最初の一音が消え止まぬうちに、次の和音が途切れることなく響く。
圧倒された。旋律というものが何か、わかったような気がする。音
の中にいるという心地良い錯覚。室内がピアノの音色で満たされて
いくのを肌で感じて次第に落ち着いてくる。
男性がそばにやってきた。伊藤と言った。穏やかな印象を受ける。
こうもりも本名を名乗った。
﹁上手いですね。すごく﹂
ああ、そうだねと伊藤は自分のことのように頬を緩ませる。音楽
がふたりを撫でるように漂う。
﹁胎教もかねてピアノ教室を続けるって言い出したときはどうしよ
うかと思ったよ。今の社会は本当に便利だ。育児休暇なんてのを俺
でも取れるんだから﹂
曲調が変わった。テンポがすこし早くなる。
﹁子どもがいると、やっぱり責任とか感じますか?﹂
﹁感じるよ。二人分支えているから、とても重い。つぶれそうなく
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らいね﹂
でも、自分の存在意義も強く感じる。伊藤の言葉には濁りがない。
こうもりはそう思った。彼のようになれたらどんなに良いかと羨ん
だ。
﹁彼女を支えるとき、腕にかかる重みを俺は幸福だと思っている。
頼ってくれているからこそ心置きなく体重をかけてもらえる。自分
が誰かに必要とされていると感じられる、そういう重さなんだ﹂
コーヒー豆の袋を担いできた時のことを思い出す。藤花に言われ
た、ありがとうの一言で重たい思いをして歩いて来た道のりが全部、
報われるような気持ちになった。
伊藤に聞いてもらいたくて、こうもりは言った。
﹁彼女の家から家出して来たんです﹂
﹁それは刺激的だ﹂
﹁伊藤さんの話を聞いて、考えたことがあるんです﹂
﹁ぜひ聞きたいな﹂
Have
Bravery?﹄。勇気はあるか
﹁家出は、帰るべき場所を確かめるためにするのかもしれない﹂
You
一拍置いて伊藤は言った。
﹁﹃Do
い﹂
﹁まだありません﹂
曲が終わり、雨の音だけが残った。
14
最終話
拾われたその日の夜にも、おにぎりを結んだ。朝起きたとき、自
分が食べるためだった。しょっぱい方が好みなので塩を手のひらに
満遍なく付けて、何も考えずにご飯を固める。機械的な作業と言っ
ても良かった。
キッチンにやってきた藤花がおにぎりをひとつ摘んで眉をしかめ
た。﹁ちょっと辛いわね﹂それ以来、彼女の分を用意するときは塩
を控えめにするようにしている。
早朝に雨がやんだので、野村智世の喫茶店に傘を返しに行ってき
た。
帰ってきたこうもりはキッチンに向かう。ボウルに水を張り、手を
濡らした。炊き立ての熱いご飯を手に取って形を整える。ふたつ握
り終えたところで、目尻に涙をためた藤花が顔をのぞかせた。彼女
はあくび混じりに言う。
﹁あたしの分もよろしく﹂
そのつもりだった。藤花の分を握るのに、めくれて粘着部にほこ
りの付着した絆創膏を剥がす。他人が口にするものを作るのだから、
当然の配慮だった。切り傷が薄っすらと口を開く。血は出なかった。
塩加減を考えて彼女のおにぎりを結び始める。塩水がすこしだけ傷
口にしみたけれど、我慢できないことはない。
おにぎりをただ握るだけなのにも関わらず、色々なことを気にか
けていることに気付いた。
相手のことを考えて作っている。だから、おにぎりは美味しいん
だ。藤花にも伝えたいと思った。けれど、ただ言うのではつまらな
い。そこで敢えて問いかけてみた。どうしておにぎりが美味しいか、
知っていますかと。
彼女は、さも当然のことのように答えた。
﹁誰かが手を真っ赤にしてまで作ったおにぎりが不味いわけがない
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でしょ﹂
両手を見ると確かに真っ赤に染まっている。熱い思いをしてまで
握ったんだから、不味い筈ないよな。逆に納得させられた。
孫がやんちゃな盛りでという老人の言葉を思い出す。彼は妻の葬
儀のとき、利き手には何か別の大切なものを握りしめていたのかも
しれない。ピアノの旋律に震えたときのように胸が沸く。老人は悲
劇を演じてなんていなかったんだ。赤い手が誇らしく見えた。
﹁きっとそうだ﹂
じゃあ僕は一体、誰の手を握らなければいけないのだろう。こう
もりの脳裏に思い浮かぶのは彼女のことだけだった。
おにぎりを乗せた皿をリビングに運ぶ。ラジオから音楽が流れて
いて、オセロの準備が出来ていた。
﹁今日こそ白黒つけようか﹂
﹁その必要は、なくなりました。僕は彼女のところに帰ります。帰
って謝って、許してもらえるかわからないけれど、ちゃんと伝える
ことにしました。﹃そばにいてもいいかい﹄って﹂
﹁そっか﹂
藤花が手を差し出す。何も握られてはいない。
﹁握手。昔、友達になった奴とは結局、別れ際まで触れ合えなかっ
たのよ。そいつとはそれっきり。だから握手しよう﹂
一週間。寝食を共にして一度も見たことがない、どこか陰りのあ
る笑みだった。それは深いところで悲しみと繋がっているように見
えた。
こうもりは藤花の手を握り返す。
﹃次のお便りは、千葉市にお住まいのラジオネーム、優柔不断なこ
うもりさんからで、あれ、これだけ? まあ渡されたからには読む
しかないんだけどさ﹄
パーソナリティは、いつも以上に感情を込めて読み上げた。それ
は胸に響く、一言だった。
﹃﹁はやく帰ってこい﹂﹄
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傘を届けに行ったとき、喫茶店のドアの前で足を止めた。札が﹃
Closed﹄となっている。木曜日じゃないのにどうしてだろう
と思って、ふと花壇を見た。小人の置物を数えていく。
見間違いではなく、七つ揃っていた。
﹁そうか、今日は貸切なのか﹂
鈍色に光るドアノブに傘をかける。帰ろう。例え百万回、太陽が
沈もうとも彼女がいる街に。そう心に決めて、ゆっくりと立ち去る。
彼女に話したいことがたくさんあった。歩調がすこしずつ早まって
いく。
名前のわからない鳥が、つがいで青空を横切った。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n9053y/
Echo
2015年5月17日03時14分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
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