言語と道具
寺田寅彦
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あるいはそれの連続であったものが、だんだんに複雑に
ものとは思われない。おそらく初めはただ単純な叫び声
言語といえども、ある時代に急に一時に出来上がった
う。
始原と結び付けて考えてみるのも一種の興味があると思
科学というものあるいは一般に﹁学﹂と名づけるものの
つのものを、人間の始原と結び付けると同様に、これを
ちらが宜いか分らない。しかしこの言語と道具という二
用の有無を準拠とするのが適当だろうという。私にはど
いだろうと云い、またある人は道具あるいは器具の使
宜 言語の有無をもって人間と動物との区別の標識としたら
づけてよいか、これも 六 かしい問題であろう。ある人は
らしい。しかしその進化の如何なる段階以後を人間と名
猿のような動物からだんだんに変化して来たものである
頃であったか分らないが、進化論に従えば、ともかくも
人間というものが始めてこの世界に現出したのはいつ
中からそれを掘り出しまたは拾い出しさえすれば宜いも
念は自然その物に内存していて、われわれはただ自然の
一体これらの言葉あるいはそれに相当する抽象的な概
こういう事が出来るというのが、大きな不思議である。
なっている。
や箇々の物件を離れて、それぞれ一つの﹁学﹂の種子に
いうような形容詞が生れる。これらの言葉の内容はもは
﹁切る﹂ という動詞が出来、 また同様にして ﹁堅い﹂ と
な雑多な動作の中から共通なものが抽象されて、そこに
た事を意味する。同様に石を切る、木を切るというよう
され抽象されて、一つのいわゆる﹁類概念﹂が構成され
る。これは既に自然界の万象の中からあるものが選び出
人 が今日云う意味での﹁石﹂という言葉が出来たとす
吾
﹁学﹂というものの芽生えが出来た事を意味する。例えば
た声が﹁言葉﹂として成立したという事は、もうそこに
あろう。いずれにしても、こういう風にしてある定まっ
て自然に発する音声をもってその動作を代表させた事も
ごじん
なって来たものに相違ない。あるいは自然界の雑多な音
のであろうか。それともまたこのようなものを作りあげ
むつ
響を真似てそれをもってその発音源を代表させる符号と
るに必要な秩序や理法が人間の方に備わっているので、
よ
して使ったり、あるいはある動作に伴う努力の結果とし
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に積み上げられたような状態にある。それが少数である
このような知識は、それだけでは云わばただ物置の中
数の共有財産となる。そうして学問の資料が蓄積される。
共通な言葉によって知識が交換され 伝播 されそれが多
ても世界は癲
狂院 かバベルの塔のようなものである。
ばならない。そうでなければ、人々は口々に 饒舌 ってい
る。そしてそれがある程度の普遍性をもつものでなけれ
ともかくも言語があるという事は知識の存在を予定す
問題に立入ろうというのではない。
えてみなければならない問題である。しかしここでこの
は六かしい問題である。そして科学者にとっても深く考
いて自己以外と称するものを認めるのであろうか。これ
われわれはただ自己の内にある理法の鏡に映る限りにお
て地面をつき堅めるのがそれだという。しかしそれは智
ある。 蜘蛛 が網を張ったり、ある種の 土蜂 が小石をもっ
道具を使うという事が、人間以外にもあるという人が
る言語を煎じ詰めたエキスであると云われる。
珞 ﹂であるとも云える。また﹁方則﹂はつまりあらゆ
瓔
出来上がったものは結局﹁言語の糸で綴られた知識の
からである。
い。何となればそれは一つの整然たる有機的体系となる
る。隔壁が除かれてももはや最初の混乱状態には帰らな
とごとく破ってしまうのが、物理科学の究極の目的であ
れる。かようにしてすべての戸棚や引出しの仕切りをこ
係な知識の間の隔壁が破れて二つのものが一つに包括さ
迷理を救うものは﹁方則﹂である。皮相的には全く無関
しないと同様になるべきはずのものである。しかしこの
しゃべ
うちはそれでもよい。しかし数と量が増すにつれて整理
恵でするのではなくて本能であると云って反対する人が
てんきょういん
が必要になる。その整理の第一歩は﹁分類﹂である。適
ある。それはいずれにしても、器具というものの使用が
ようらく
当に仕切られた戸棚や引出しの中に選り分けられて、必
人類の目立った標識の一つとなる事は疑いない事である。
でんぱ
要な場合に取り出しやすいようにされる。このようにし
そして科学の発達の歴史はある意味においてこの道具
つちばち
て記載的博物学の系統が芽を出し始める。
の発達の歴史である。
く も
分類は精細にすればするほど多岐になって、結局分類
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古い昔の天測器械や、ドルイドの石垣などは別として、
本当の意味での物質科学の開け始めたのはフロレンスの
アカデミーで寒暖計や晴雨計などが作られて以後と云っ
て宜い。そして単に野生の木の実を拾うような﹁観測﹂の
縄張りを破って、
﹁実験﹂の広い田野をそういう道具で耕
し始めてからの事である。ただの﹁人間の言語﹂だけで
あった昔の自然哲学は、これらの道具の掘り出した﹁自
然自身の言語﹂によって内容の普遍性を増して行った。質
だけを表わす言語に代って数を表わす言語の数が次第に
増して行った。そうして今日の数理的な精密科学の方へ
進んで来たのである。
言語と道具が人間にとって車の二つの輪のようなもの
であれば、科学にとってもやはりそうである。理論と実
︵大正十二年五月﹃理学界﹄︶
験︱︱
︱これが科学の言語と道具である。
底本:
「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店
1997(平成 9)年 4 月 4 日発行
入力:Nana ohbe
校正:浅原庸子
2005 年 5 月 7 日作成
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