【研究ノート】
古墳研究の精神史―1970年代名古屋から眺める
Intellectual History of Kofun Studies: Viewing from the 1970’s Nagoya
犬塚康博
INUDZUKA Yasuhiro
要旨 考古学研究は、この半世紀を見渡しただけでも、発掘調査の件数、出土遺物の件点
数、関連図書の出版点数など、その物質性において増長していることは、あらためて言う
を俟たない。それは、国家独占資本主義の反映であり、主体的には、職業考古学研究者人
口の増加がこれを物語っている。では、その精神性はどうか。本稿は、名古屋の考古学に
おける、吉田富夫、伊藤禎樹、三渡俊一郎らの古墳研究を対象にして、赤松啓介やV.G.チャ
イルドらの理論を参照しながら、1970年代と現代とを観望してみた。その結果、近代的
地域研究から封建的郷土研究への再帰的到達が仮説されるところとなった。それは、
「ブ
ルジョア科学の観念化、神秘化、反動化の傾向」
(赤松啓介)と言うことができる。グロー
バリズムのもとでおこなわれる、「お国自慢」と歴史修正主義とを特徴とする現状は、
1930年代の再来のようである。
1 . はじめに
先ごろ筆者は、機会を得て、次のように書くことがあった。
伊藤禎樹氏の「尾張の大型古墳」は、愛知県西部ではじめておこなわれた構造的古
墳時代社会論である。この成果は、それまでの個別古墳・古墳群の発掘調査と、その
成果に関する歴史学的術語、唯物史観風術語の無媒介的援用による解説に終始してき
たこの地域の古墳時代研究が、そこから自立してゆく大きな転換点となった1)。
ここでは、名古屋を含む愛知県西部の古墳研究の画期を、1972年に見ている。これを受
けて本稿は、当時当地域の古墳研究の一端を概観する。地表で観察された古墳や発掘され
た古墳を通じて、世人、いかにこれらを抽象化しかつ叙述し得てきたか。1970年代の精神
は、2010年代ただいまの古墳研究とどう切断し、どう接続するのか。本稿は、これを探ろ
うとするものである。
「尾張の大型古墳2)」が世に問われた1972年の直前、古墳時代の名古屋を概観し得てい
た人のひとりに吉田富夫がいる。吉田の考古学研究は、1945年以前、東京考古学会に籍を
置いておこなった弥生時代、縄文時代のそれにピークがあった。戦後は、健康上の理由か
ら発掘調査など戸外の活動は控えられて、考古学上の遺跡・遺構・遺物誌、民芸等にかか
る執筆活動に、その中心を移してゆく。古墳の発掘調査をおこなうことはあったが、決し
て多くはなく3)、またその成果が、じしんの古墳時代叙述に及んでゆくような直接的関係
も希薄であった。あくまで吉田の古墳時代叙述は、遺跡誌の延長における抽象化であった
176
古墳研究の精神史―1970 年代名古屋から眺める(犬塚)
と言える。それは、専門書ではない普及啓蒙の書で、吉田の執筆が多くおこなわれたこと
も関係していた。
本稿は、方法的に吉田の言説を第一に検討し、その意味を還元してゆく。そして、そこ
から得られた成果を、吉田の前後、周辺の古墳研究に及ぼして、それらの意味をも考察す
る。さらに、吉田後40余年の現在、卑近に喧しい「志段味古墳群」-「歴史の里」界隈の
意味をも詮索するであろう。
遺跡誌、すなわち遺跡情報の聚成(コルプス)が多かった吉田の作品の中で、まとまっ
(以下、
た叙述としてあったのが『名古屋のおいたち─見てまわろう名古屋の文化史─4)』
『名古屋のおいたち』と称する。
)である。同書の古墳時代の章を軸に据え、遺跡や遺構、
遺物など考古学の中心的事項の周辺で何が想念されているかを眺めてゆく。同書以外の作
品も、必要に応じて参照したい。
2 .歌謡と古墳研究
1 )吉田富夫の場合
吉田富夫は、名古屋の古墳を概観し、時代の概説をおこなったのち、次のように書いて
いた。
ただここにおもしろいのは、庄内川を挾んで東谷山と、これに相対する高蔵山の西
麓に群集墳がつくられていることが、三河における豊川下流を挾んで、西岸では本宮
山、東岸では吉祥山がそれぞれ山上山麓一帯に同じく群集墳を持っているのと変らな
いことである。そうした場所が霊魂の集まる場所と考えられていたのは、また古来大
和において初瀬山がそうみなされていたのと同じことで、
「こもりくの」の枕詞をそ
のままに、それより奥は霊界の仙境であり、その隠れがの入口こそは、まさしくうつ
しみの棄てどころと考えられたのであろう5)。
ここでは、古墳時代の精神文化に言い及んでいる。吉田は、東谷山と吉祥山で古墳を発
掘調査しており、自らおこなった調査の成果と印象を、著述に援用している数少ない例で
ある。その考古学的知見を前段に置き、後段に万葉集の解釈を配しているが、両者の間に
は論理的な不連続がある。考古学上特徴的な「場所が霊魂の集まる場所と考えられていた」
とみなす考古学的な証拠は示されず、万葉集が動員されてその欠を埋めている。考古学的
に省略された、この手続きは妥当や否や。
初瀬は墳墓の地であり、それとして当時において歌われていた。東谷山、高座山、本宮
山、吉祥山は墳墓の地であるが、かく歌われたことはない。墳墓の地が、かならず山間の
こもりくであるかと問えば、そうでないケースは枚挙に暇がない。逆に、こもりくとみな
せる山間の地形が、かならず墳墓の地であるということでもない。東谷山と高座山、本宮
山と吉祥山、初瀬の 3 ヶ所における、墳墓と地形の形態的類似が仮に首肯し得ても――こ
れすらも論証されていないのであるが――、その理由を歌謡におけるこもりくに定位する
ことは論理的に難しい。なぜなら、それは「考古学的記録から逃れ去ってしまったもの6)」
だからである。
177
人文社会科学研究 第 29 号
世人、
「考古学的記録から逃れ去ってしまったもの」をよく求める。求めて、考古学を
逸脱し、外部へと越境する。吉田のケースはそれであったと言えるだろう。考古学だけで
ない。国文学もまた、物質文化をみずからの外部たる考古学に求める。松田好夫の『東海
の万葉地理尾張篇7)』を通覧すると、考古学的情報が各章に見られた。それらは決まって、
遺跡名を列記し、特殊な遺構・遺物を示して、たとえば「この台地には古くから多数の人
が住み続け、万葉時代にも中央に知られた要地だったのである8)」のごとく結ぶ。ステレ
オタイプであるが、このようにしてしか考古学の情報を利用できないリテラシーを知ると
同時に、その程度の利用でよい関係でもある。吉田から国文学に向けたアプローチも同然
で、双方の関係は皮相的であり、それゆえに安定していたと言いうる。
2 )伊藤禎樹の場合
以上は、いまから半世紀近く前の状況である。近年では、伊藤禎樹の所論が知られてい
る9)。伊藤の専門は考古学研究だが、歌謡に造詣の深いことはあまり知られていない。
1990年代後半、伊藤が主宰した名古屋歴史研究会の会報では、毎号巻頭に伊藤の歌謡論が
おこなわれていた10)。
さて伊藤は、吉田富夫も触れていた東谷山について、「志段味地域周辺の諸地域の東谷
山に対する信仰こそ、この時期に志段味地域の支配権力が、春日井、守山および、さらに
広い地域の上にそびえ立って白鳥塚古墳を築造しえた理由であろう11)」と、その精神性を
「尾張の大型古墳」で予察していた。そしてその30余年後に、
「年来の疑問を解明12)」す
べく世に問うたのが「東谷山をめぐって―庄内川流域における古墳時代の開始―」である。
万葉集巻 8 の尾張連歌二首を、菜摘み歌(1421)と国見歌の変奏たる花見歌(1422)とみ
なし、万葉集巻頭に配された雄略天皇の菜摘み歌と舒明天皇の国見歌という、首長による
予祝の構造を踏襲するものと評した。そして、その国見の場所を「東谷山が最もふさわし
い13)」とし、その理由を、弥生時代終末から古墳時代前期の遺跡分布状況から想定される
政治状況と、濃尾平野の前期古墳に認められる「聖なる山・霊山に対する崇拝14)」の一般
性に求めたのである。
吉田による歌謡の利用にくらべれば、伊藤は、いわゆる史料批判を通じて歌謡に内在す
る構造を析出し、歌謡の意味の把握に成功している。また、考古学的記録が主体的かつ複
数的に解釈される点も、松田による挿絵的利用とは雲泥の差がある。そして何よりも、一
個の研究者における、考古学と国文学との統一の企図が、吉田や松田との違いを決定的な
ものにしている。
しかし、尾張の国見の場所が、なぜ墳墓の地なのか。また、なぜ自然地理的地域の東端
なのか。高地性集落の出現と廃絶の背景に想定される政治情勢を考慮しているが、これは
他の高地性集落のあった場所が国見の地に選ばれなかった理由を説明するものではない。
舒明の国見は畝傍山であり、墳墓のみならず都城のある地域の中央に存していた。この特
徴から演繹すれば、比高差は小さいものの、名古屋台地の西北端、名古屋城のある場所こ
そ、名古屋の中央部も周縁部も含めた四周を見渡すことができ、地政学的にもふさわしい。
それはともかくとして、
「東谷山に対する信仰」
「聖なる山・霊山に対する崇拝」と伊藤
が言うとき、
「考古学的記録から逃れ去ってしまったもの」を追い求める空虚を筆者は感
じるのである。チャイルドの問いに、耳を傾けてみよう。
178
古墳研究の精神史―1970 年代名古屋から眺める(犬塚)
私たちは、たとえば巨石墳について、その設計と建造に応用された実用科学、社会
的余剰の蓄積と富の分布に際してのその経済的役割、社会的連帯の強化と表現に当っ
てのその価値を評価することができるし、またそうしなければならない。宗教儀式に
まつわるこのような面のうちどれ一つとして、建築者や築造者の意識――「誤った意
識」――に存在していたとはとても思えない。彼らの「動機」は、その心情と同じよ
うに、まさにそれが幻想であったがゆえに、永久に失われてしまったのである。しか
し、それは果して重要なことだろうか15)。
東谷山に対する神聖視は、国見の畝傍山の麓に橿原神宮を設け、神武天皇陵を造営した
際の根拠、すなわち畝傍山の物象化と、構造的に通じている。東谷山麓のアミューズメン
トテーマパーク「歴史の里」と「志段味古墳群」は、畝傍山麓の橿原神宮―橿原公苑と神
武天皇陵の21世紀的再演なのではないか。そこに伊藤の東谷山論が動員されたのも16)、故
なきことではなかったと思えるのである。それは、マルクス主義史学の系譜が、歴史修正
主義に略された瞬間でもあった。
3 .神話と古墳研究
1 )吉田富夫の場合
さて、次に神話と古墳研究の状況を見てみよう。吉田富夫は、断夫山古墳、白鳥古墳に
ついて次のように書いた。
断夫山古墳は、古来日本武尊と宮簀媛との故事にちなみ、宮簀媛の墓と伝え、これ
に対して白鳥古墳を、正史には見えぬが、熱田では日本武尊の陵とする伝承がある。
天保八年(一八三七)白鳥古墳の竪穴式石室が、台風による倒木のためにあばかれ
たとき、刀・鉾・六鈴鏡・馬具・須恵器(子持台付壷その他)などを出したことがあっ
たが、とり出したのは古墳を境内に持つ法持寺側であったけれども、おさめるときに
は、神宮側ではいとも丁重に日本武尊陵としての取扱いをした記録が残されていて興
味深いが、今日の学問では古墳の主を特定の人物に当てることは大変むつかしい17)。
日本武尊と宮簀媛である。吉田だけでなく、吉田と同時代あるいは以前の人が、熱田の
古墳について書くときには、かならず登場する物語であった。断夫山古墳は「古来宮簀媛
命の御墓として大宮司千秋家の奉仕するところであつたが、明治九年(一八七六)以後熱
田神宮において管理している18)」とされ、上記の白鳥古墳とともに、社寺を中心とする地
域社会において信仰の対象として受容され、その結果保存されてきた。
しかし、吉田が明記していたように、古墳の被葬者に特定人物の比定は困難であり、特
定氏族の比定も厳密には難しいため、考古学的記録にとっては話題の域を出るものではな
い。これらもまた、
「考古学的記録から逃れ去ってしまったもの」なのである。
彼は考古学者として抽象の世界にとじこめられているし、彼の研究対象たるデータ
もまた抽象たらざるをえない。にもかかわらず、考古学者が思想と目的の具体化とし
179
人文社会科学研究 第 29 号
ての人間行動の産物を扱うということは主張されるべきである。では誰の行動である
か。役者は誰なのか。いうまでもなく「社会」
、つまり共通の目標と必要によっては
げまされ共通の伝統に安んじて導かれている諸個人の集合としての社会である19)。
もちろん、墓誌が出土して、特定の個人が指示された場合は、考古学的記録から逃れ去
らなかったものとして重要だが、それでも、比定には史料批判の手続きを経なければなら
ない。
吉田の作法は、記紀由来の日本武尊と宮簀媛を挿入することで、抽象たる考古学のデー
タに対する、世人の興味を喚起し、理解を促進するという、普及啓蒙的効果への期待から
来したものであろう。ここで言われた日本武尊と宮簀媛は、考古学の原則から単純化すれ
ば、社会Aの被葬者a、社会Bの被葬者bであり、そのうえで社会Aと社会Bとの関係の如何、
aとbの関係の如何、などとして課題が展開してゆく。これを、日本武尊と宮簀媛と名指せ
ば回答済みとなり、わかりやすさのうちに思考停止がもたらされる。しかし、これは考古
学ではない。
「今日の学問では古墳の主を特定の人物に当てることは大変むつかしい」と、
吉田が書いた意味はここにある。吉田は、正しい考古学者であった。
2 )三渡俊一郎の場合
ところで、日本武尊と宮簀媛は、吉田富夫においては相対的なあつかいだったが、三渡
俊一郎はこれを実体視し、物象化した。三渡の論文「S字口縁台付甕形土器出土の遺跡分
布について20)」は、当該土器を集成し、その分布地点を任意に結んだ線と日本武尊の東征
コースとを重ねた上で、「尾張氏一族(伊福部、海部、石作部)は一宮地方に 5 世紀初頭
を前後するころ居住していて、日本武東征に従軍したという想定に達する21)」とした。考
古学的記録と神話との結合が、前章で見た松田好夫ほどに無媒介ではないが、考古資料の
あつかいに瑕疵がある。一例をあげれば、S字口縁台付甕形土器だけを抽出する方法は、
考古学の「繁雑な手続き22)」すなわち「存在状況・共存関係・組み合わせ・文化23)」の明
白な欠落であった。なお、この土器に対する特別視は、赤塚次郎に引きつがれて、いわゆ
るキャラ萌え化してゆく。
この論文発表に際して三渡は、
「考古学的研究が日本書紀や古事記にどれだけ関連づけ
られるかということが筆者の永年の夢でしたが、その一端を示す野心的な発表です24)」と
書いていたが、これは三渡だけにとどまらない、世人に易く出来する欲望である。考古学
的記録は、逆説的には「考古学的記録から逃れ去ってしまったもの」によって支えられて
おり、世人の関心も「考古学的記録から逃れ去ってしまったもの」に向く。
「考古学的記
録から逃れ去ってしまったもの」はそれゆえに抽象的であり、それを理解するための「繁
雑な手続き」を、水低きに流れるごとく人易きに流れてサボタージュするとき、手っ取り
早くかつ一見合理的でしかもよく流通している手段を選ぶ。すなわち、記紀神話が召還さ
れるのである。
3 )行政―職業考古学研究者の場合
さて、1980年ごろから、日本武尊や宮簀媛と入れ替わるようにして、尾張氏が前景化し
てゆく25)。むろん尾張氏といえども、神話世界の所産、作者の観念を通過した創作物であ
180
古墳研究の精神史―1970 年代名古屋から眺める(犬塚)
る。尾張氏を動員する意味は、日本武尊や宮簀媛のそれと変わりはない。にもかかわらず、
尾張氏がおこなわれてゆくのは、この時期以降、人口増加の始まる職業考古学研究者が、
意識するしないにかかわらず、
空想性の強い日本武尊や宮簀媛を忌避したためと思われる。
「いささか憶測を重ねすぎた嫌いはあるが、
そして、
新井喜久夫の研究26)も無視できない。
摂社にこのような関係を想定することが出来るとすれば、初期尾張氏は瑞穂台地に発生し
た連合国家の中で次第に有力となって五世紀末には尾張南部の支配者に成長したのであろ
う27)」と、多層的に慎重を表明したにもかかわらず、三渡の批判がそうであったように、
これに続く研究が新井の所説を物象化、実体視していった。それは、後続にそれを可能と
させる質から新井じしん自由でなかったからなのかもしれない。
さて、尾張氏が頻出する「志段味古墳群」―「歴史の里」の問題は別稿で批判した
が28)、この徴候は、名古屋市教育委員会では、1990年代後半にはあらわれていた29)。そこ
では、参考文献提示なきままに引用行為が繰りかえされて尾張氏が言挙げされ、主体的に
考えないことで貫かれていた。これは、名古屋市教育委員会と名古屋市上志段味特定土地
区画整理組合との、何か知られざる関係の反映だったのか。現在のようすからは、そのよ
うに問い返すこともできる。
古墳群と尾張戸神社を擁する東谷山一帯には、尾張氏や熱田神宮に関連すると思わせる
事項が複数存在する。それらは、文献や伝承を介す形式で、そのように演出されたものと
して現前しているのであり、事実の存否を原理的に説いているわけではない。すなわちこ
れは、フィクショナルな世界に関する作法なのである。
ところが、フィクションであるにもかかわらず、熱田神宮と断夫山古墳、白鳥古墳の関
係に見られたような、尾張戸神社と近傍の古墳との祭祀の関係は、聞くことがなかった。
演出がもともとなかったのか、あった演出が失われたのか。いずれにしても、脚本それじ
しんの構造的欠陥が予測されるところだが、それらの検証を抜きにして、不在の関係が名
古屋市教育委員会-職業考古学研究者によって振興されようとしているのである。もちろ
ん、そこは神道と親縁な世界であり、政教分離の原則からの逸脱が危惧される。神話と古
墳研究さらに考古学に横たわる、
「この神話を基礎として「天皇制」が如何に民衆を蒙昧
ならしめたか、また所謂軍閥や反動主義者達が如何に暴虐をたくましくしたか30)」という
歴史的社会的な問題群が顧慮される気配もない。集客のためには神話を容易に動員するか
「考古学が記・紀の助けを借り、その記事を参照しようとする場合に、
のごとき詭弁は31)、
特別の注意と慎重さが必要となるのである32)」という、反マルクス主義史学の警句すら踏
みにじっている。
なお、序でながら陳べると、名古屋の古墳時代を概観した筆者の「古墳時代33)」には、
尾張氏が登場しない。排除したつもりはなく、筆者じしんも気づかなかったが、本稿の作
業の途上、この事実を確認するところとなった。これは、通常の「わかりやすさ」のこと
わりからは逸脱している。自治体史という普及的書き物であったから、尾張氏も日本武尊
も宮簀媛も登場してよかったが、考古学が筆者を制動したのだろうか。
4 .おわりにかえて――「お国自慢」と封建的郷土研究
赤松啓介の言うところを聞こう。
181
人文社会科学研究 第 29 号
例へば一基の古墳を発見したとすれば、その古墳の考古学的な研究をするよりも、
まづ某天皇の御陵ではなからうか、史上著名な英雄や人物の墳墓ではなからうか――
などといふ愚劣な問題に研究を集中し、これがためにインチキな文献記録に欺瞞され
たり、甚だしいのになるとさうしたインチキを自らやる者さへあつた34)。
赤松独特のドラスチックな物言いは、
「考古学的記録から逃れ去ってしまったもの」を
万葉集や記紀に求める行為が、このインチキに通じる事態を看破している。これは、
「郷
土研究も多分に封建的な色彩を持つてゐたのであつて、悪くいへば「お国自慢」を目的と
してゐるやうなものであつた」という「封建的郷土研究者」に対する警句であった35)。
1 )吉田富夫の反「お国自慢」
ところで吉田富夫は、今回検討した『名古屋のおいたち』で、名古屋の古墳時代を次の
ように評価していた。
古墳から見た名古屋地方は弥生時代と異り、すでに東国への前進基地ではなく、明
らかに畿内政権の範囲内にあって、ただ単なる通過地帯にすぎなかったと思われる。
それは日本武尊の伝承でも証明できると考えられるが、遠江には尾張と同等あるいは
それ以上に規模も立派で、すぐれた副葬品多数をおさめた古式古墳が見られるのであ
り、尾張は弥生時代におけるほどの高さも、また従って重要性もほとんどなくなりつ
つあったのではあるまいか。ようやく中期以後、壮大な前方後円墳も目立つけれど、
後期も末になれば、全く平均的な群集墳となっていて、何の特色もない36)。
なんと冷淡なことか。愛郷の精神、立場でなくとも、世人、吉田の否定形を疑問視する
だろうし、批判に必要な材料もたやすく整えられよう。
しかし、これより前に吉田は、正反対のことを述べていた。
「古墳時代も日本武尊(や
まとたけるのみこと)の伝説に見られるように、東国経営の為の一つの重要な基点となっ
ていることは、宮簀媛(みやずひめ)たちの事蹟で代表せられるように余りにもよく知ら
れた事柄である37)」と、同じ題材を用いて名古屋の古墳時代を肯定的に評価していたので
ある。
ふたつの評価のあいだの10余年に、何があったのか。定かではないが、内藤晃による「東
海地方の古墳文化を大観すれば、われわれは前・Ⅱ期において美濃と遠江地方が有力であ
り、前・Ⅲ期においては各地方もひとしく躍進をとげながらとくに尾張地方が優勢となっ
ている事実を指摘することができるであろう38)」という所説の前半部分が影響しているの
ではないかと思われる。吉田の文章に、
「遠江」と「古式古墳」の語が登場する点は示唆
的である。
しかし、群集墳の時代まで「何の特色もない」と、吉田が膠もないことは変わりない。
この時期に吉田は、同じ主旨のことを繰り返し述べていた39)。弥生時代の「東国への前進
基地」と古墳時代の「単なる通過地帯」との差は微妙だが、吉田が、その30年前の1930年
代に書いた「此の場合広く大局より観れば、東海地方が西日本の一地域として其の東の最
尖端にあるのは甚だ興味あることであり、常に西日本的文化東方進出の一基地としてラデ
182
古墳研究の精神史―1970 年代名古屋から眺める(犬塚)
イカルに動いた点に、東海地方先史時代及び以降の文化の意義を認めなければなるまいと
思ふ40)」という、この地方の先史時代に対する高い評価が、他方で原史時代への低い評価
をもたらしたと考えることもできる。
ひらたく言えば、吉田は、古墳時代の名古屋を自慢していないのである。吉田の目的は
不明だが、個別の事情を超えて、自慢したりしなかったり、自慢していたとしてもいたっ
て考古学的な吉田のありようは、赤松啓介の言う「
「お国自慢」の種を探したり41)」する
郷土研究ではなかったと言える。すなわち、地域研究である。
それは当然のことと、言われるだろうか。浜田青陵のもとで 3 年間学んだ吉田が、封建
的な「お国自慢」をするはずはない、と。もちろん、名古屋城下の商家の嫡男たる吉田の
ブルジョア性も考慮されてよい。しかし、わが国において封建的なるものの存否は、日本
資本主義論争の主題のひとつでもあったように、さらに革命の方針をも左右する重要課題
であったように、等閑に付すことはできない。遺跡、遺物を論じる際、封建的なるものが
容易に憑依するのはしばしば見るところである。ここは、吉田がそれに陥っていないよう
すを確認できればよい。
2 )現在の「お国自慢」
近年では、グローバリズムのもとでの地域振興政策が、
「お国自慢」の駆動力となって
いるが、歴史的社会的にこの関係と傾向は、
古くは江戸中期以降封建的領主の産業ブルジョ
ア的欲望にもとづく生産と流通の拡大の際に見られた42)。1930年代にはじまるという保勝
「志段味古墳群」―「歴史の里」における、神話世界
会43)は、その最たるものであろう。
への考古学的記録の阿諛追従も、経済効果への期待を抱き込んだ一般行政44)たる「お国自
慢」であった。
封建的郷土研究の「お国自慢」を否定することによって獲得されたのが、近代的地域研
究である。吉田富夫の「お国自慢」ならざる態勢は、その地平にあった。そして、後吉田
すなわち後近代となるただいまの「お国自慢」に、近代を否定する歴史修正主義も加えな
ければならない。国指定史跡の青塚古墳(犬山市)に寄せて、当時の犬山市市長は、
「私
は最近「国民の歴史」という話題の書物を読みました。著者の西尾幹二さんのわが国の歴
史教科書は文字の発明を持って始まっているが実は文字の使用以前から豊かな古代史があ
るのだ、という指摘に大きなサジッションを受けました45)」と書いていた。後近代と、近
代の直裁な否定がもたらすものは何か。前近代なるものが、まずもって予感されるのであ
る。
3 )封建的郷土研究
私たちは、郷土研究の地平に、再帰的に到達したのかもしれない。それは、赤松啓介が
言った、帝国主義段階におけるプロレタリアート抑圧のためのブルジョア考古学と封建的
研究との結合、すなわち「ブルジョア科学の観念化、神秘化、反動化の傾向46)」である。
赤松が批評をよくおこなっていた1930年代が47)、2010年代のこんにちにまでせり出してき
たかのようだ。それはまた、1972年に私たちが見透した、テクノクラット養成機関化する
アカデミー=「職人の考古学」と、解体されテクノクラシーに集約されゆく在野研究団体
=「趣味の考古学」という二項への分解と、ふたつながらの国家への統合、そして「大衆
183
人文社会科学研究 第 29 号
の考古学」の抑圧という、国家独占資本主義段階の考古学の現在形でもある48)。
封建、半封建は、前近代の遺制のみならず、近現代において生成していることに、私た
ちは気づかないわけにはいかない。郷土研究の中心は、古文書の読める村の古老から、土
器型式のわかる職業考古学研究者へと移ったのだ。
注
1 )犬塚康博「
「大衆の考古学」を記念する」伊藤禎樹『伊勢湾地域古代世界の形成』
、株式会社アット
ワークス、2014年、389頁。
2 )伊藤禎樹「尾張の大型古墳」
『考古学研究』
(第19巻第 2 号)通巻74号、考古学研究会、1972年、
64-79頁。
3 )吉祥E第 3 号墳(豊橋市、1964年度)、照山古墳(同市、1965年度または1966年度)
、念仏塚第 4 号
墳(豊川市、1966年度)
、東禅寺第 3 号墳・第 5 号墳(名古屋市、1967年)
、東谷第16号墳・第26号
墳(同市、同年)
、など。ほかに、日本考古学協会員であることに因む、調査主任の名義貸しのよ
うな調査がある。
4 )吉田富夫著・名古屋市経済局観光課編『名古屋のおいたち─見てまわろう名古屋の文化史─』
、名
古屋市、1969年。
5 )同書、30-31頁。
6 )V. G. Childe
『考古学の方法』
、近藤義郎訳、河出書房新社、1964年、218頁。
7 )松田好夫『東海の万葉地理尾張篇』
、名古屋鉄道株式会社、1964年。
8 )同書、27頁。
9 )伊藤禎樹「東谷山をめぐって―庄内川流域における古墳時代の開始―」『美濃の考古学』第 8 号、
美濃の考古学刊行会、2005年、23-44頁、同「庄内川流域の古墳時代の展開―わが通ふ道―」
『美濃
の考古学』第11号、美濃の考古学刊行会、2010年、21-34頁、同「船木山と24・27号墳の鏡につい
て―鳥総立て船木伐るといふ能登の島山―」『三河考古』第22号、三河考古刊行会、2012年、53-75頁。
10)名古屋歴史研究会事務局編『名古屋歴史研究会会報 那古野』第 1 号、名古屋歴史研究会事務局、
1997年、以降を参照されたい。
11)伊藤禎樹「尾張の大型古墳」
、前掲書、70頁。
12)同「東谷山をめぐって―庄内川流域における古墳時代の開始―」、前掲書、23頁。
13)同論文、42頁。
14)同論文、43頁。
15)V. G. Childe、前掲書、218頁。
16)名古屋市見晴台考古資料館編『志段味古墳群〔本文編〕』(名古屋市文化財調査報告79、埋蔵文化財
調査報告書62)
、名古屋市教育委員会、2011年、383頁、参照。
17)吉田富夫著・名古屋市経済局観光課編、前掲書、37-38頁。
18)岡田鎮太「断夫山古墳群」名古屋市文化財調査保存委員会『改訂増補版/名古屋史蹟名勝紀要』
、
株式会社名古屋泰文堂、1963年(初版/1951年)
、 8 頁。
19)V. G. Childe、前掲書、18-19頁。
20)三渡俊一郎「S字口縁台付甕形土器出土の遺跡分布について」
『古代人』第30号、名古屋考古学会、
1974年、1-21頁。
21)同論文、14頁。
22)V. G. Childe、前掲書、 2 頁。
23)同書、50-55頁。
24)三渡俊一郎「事務局だより」
『古代人』第30号、前掲書、34頁。
25)同『熱田・瑞穂区の考古遺跡』
(文化財叢書第81号)、名古屋市教育委員会、1981年、40頁。なお、
これ以前に岡田鎮太が、白鳥古墳について日本武尊伝説を紹介せずに、「尾張氏の如き豪族の古墳
と見るべきものであろう」
(岡田鎮太「白鳥古墳」名古屋市文化財調査保存委員会、前掲書、 7 頁)
と書いていた。これを参照して、
『熱田・瑞穂区の考古遺跡』の白鳥古墳の記述がおこなわれた印
象を受ける。
26)新井喜久夫「古代の尾張氏について(上)
」信濃史学会編『信濃』第21巻第 1 号、信濃史学会、
1969年、10-21頁、同「古代の尾張氏について(下)」信濃史学会編『信濃』第21巻第 2 号、信濃史
学会、1969年、16-28頁。
27)同「古代の尾張氏について(上)
」
、前掲書、20頁。
28)犬塚康博「経験と歴史の断絶――『志段味古墳群』の検討」『千葉大学人文社会科学研究』第28号、
184
古墳研究の精神史―1970 年代名古屋から眺める(犬塚)
千葉大学大学院人文社会科学研究科、2014年、228-236頁、参照。
29)名古屋市上志段味特定土地区画整理組合編・名古屋市教育委員会小島一夫監修『上志段味誌』
、名
古屋市上志段味特定土地区画整理組合、1997年、参照。
30)赤松啓介『古代社会研究概説』
、私家版、 2 頁。
31)
「古墳という一般市民の方がなかなかとっつきにくいテーマに対して、興味をもっていただくため
のきっかけ・工夫として、地域に残る神話や伝説なども活かしながら、古墳の説明をおこなってい
きたいと考えております」
(
『歴史の里基本計画(案)に対する市民意見の内容及び市の考え方』、
教育委員会事務局生涯学習部文化財保護室文化財係、2014年 3 月24日、http://www.city.nagoya.jp/
kyoiku/cmsfiles/contents/0000058/58237/pabukome1ran.pdf、 5 頁(2014年 4 月 1 日)
)
。市民と古墳の
関係について、調査・分析せずに「古墳という一般市民の方がなかなかとっつきにくいテーマ」と
独善的に決めつけ、過去の社会教育の経験と成果を無に帰した上で、自己を正当化する詭弁は、あ
きらかに歴史修正主義である。
32)関晃「
『古事記』と『日本書紀』
」後藤守一編『日本考古学講座』第五巻(古墳時代)
、株式会社河
出書房、1955年、254頁。
33)犬塚康博「古墳時代」新修名古屋市史編集委員会編『新修名古屋市史』第 1 巻、名古屋市、1997年、
327-461頁。
34)赤松啓介、前掲書、 4 頁。
35)同書、 4 頁。
36)吉田富夫著・名古屋市経済局観光課編、前掲書、30頁。
37)吉田富夫・名古屋市文化財調査保存委員会『名古屋考古ガイド』(文化財叢書第 7 号)、名古屋市経
済局観光貿易課、1957年、32頁。
38)内藤晃「東海」近藤義郎・藤沢長治編『日本の考古学』Ⅳ(古墳時代(上))、河出書房、1966年、
406頁。
39)吉田富夫「古代のくらし」名古屋市教育委員会編『目で見る名古屋の文化史展』
、名古屋市教育委
員会、1969年、5-6頁、同「古代の遺産/東西文化の橋渡し/古墳時代後半から窯業の一大産地に」
(なごやの歩み/文化史展に寄せて①)『中日新聞』第9827号、1969年10月 9 日朝刊、 8 面、参照。
40)吉田富夫・杉原荘介「東海地方先史時代土器の研究」『人類学・先史学講座』第13巻、株式会社雄
山閣、1939年、44頁。
41)赤松啓介、前掲書、 4 頁。
42)この問題については、
「地産地消」のテーマに寄せて、「「地産地消」の考え方それ自体は、ナイー
ブかつ極端に言えば旧藩体制のなかで完結するようなローカリズムに親しい」
(犬塚康博「農業振
興に関する条例の調査報告書―地産地消推進条例について―」、私家版、2012年、 6 頁)と、触れ
たことがある。
43)
「保勝会とは地方小都市商工業者の参加によつて所謂遊覧客招致乃至案内が主目的になつているも
のだ。その活動は全く恣意的であり少しの計画性も持つてゐない。ひたすら郷土の保存であり郷土
の価値の発見である」
(赤松啓介「郷土研究状勢の展望」『歴史科学』第 4 巻第 1 号、白揚社、1935
年、76頁)
。
44)犬塚康博「経験と歴史の断絶――『志段味古墳群』の検討」、前掲書、229頁。
45)石田芳弘「あいさつ」犬山市教育委員会編『史跡 青塚古墳発掘調査報告書』(犬山市埋蔵文化財
調査報告書第 1 集)
、犬山市教育委員会、2001年、 1 頁。
46)赤松啓介『民俗学の基礎的諸問題について』、兵庫県郷土研究会、1975年、15頁。
47)同「郷土研究状勢の展望」
『歴史科学』第 4 巻第 1 号、白揚社、1935年、73-79頁、同「機関及び機
関誌」
、同書、80-83頁、同「兵庫県地方研究状勢の展望」
『歴史科学』第 5 巻第 1 号、白揚社、
1936年、103-112頁、同「兵庫県地域研究状勢の展望(二)」
『歴史科学』第 5 巻第 3 号、白揚社、
1936年、121-125頁、同「郷土研究の二つの方法に就て―「郷土史料研究の手引」を読む―」『歴史』
第15号、白揚社、1938年、122-127頁、同「民俗学最近の研究情勢と動向」『唯物論研究』第64号、
唯物論研究会、1938年、292-303頁、同「郷土研究雑誌最近の動向」『学芸』第71号、学芸発行所、
1938年、164-172頁、栗山一夫「地域研究のすすめ」民主主義科学者協会編『歴史評論』第 3 巻第
4 号、歴史評論社、1948年、39-45頁、参照。
48)
「見晴台発掘と僕達の考古学―「職人の考古学」
「趣味の考古学」を止揚し、「大衆の考古学」を
創造しよう!―」伊藤禎樹・犬塚康博・岡本俊朗・小原博樹・斎藤宏・桜井隆司・村越博茂・安田
利之『見晴台と名考会に関する問題提起-その 2 』
、1972年、4-13頁。
185
ダウンロード

古墳研究の精神史―1970年代名古屋から眺める