『アジア太平洋討究』No. 22(March 2014
「満洲国」下柞蚕工業政策と合作社
)
「満洲国」下柞蚕工業政策と合作社
―奉天・安東を中心に―
田 中 隆 一†
The Sericultural Industry and Agricultural Associations in
Northeast China in 1930 s
Ryuichi Tanaka
The article studies the policy of sericultural industries and the actual situation of local societies in
Northeast China-Feng Tian and An Dong in-in 1930 s.
First, the sericultural industry had prospered at Feng Tian and Andong districts in Northeast China
since WW I. Especially the silk industry had placed a weight on the export for Japan since the late 1920 s.
However the yield had decreased since the Mukuden incident on 1931.
Second, Japanese imperialism had put emphasis on the improvement of silkworms and on implementing a plan for increasing the product of cocoons for Manchukuo era. The Manchurian Sericultural
Corporation was established in 1939 in order to carry out the revision of‘The Manchurian five year s
plan for an industrial development. But this company brought about serious conflicts against local agricultural associations(合作社).
Third, the Manchukuo government had accelerated increasing the product of cocoons since
Sino‒Japanese War. On the other hand, the peasantry changed from the sericultural industry to food
production. Moreover they diverted cocoons for rationing onto the black market. As a result of that,
although the product of cocoons had a temporary rise, it could not recover the level of 1920 s.
はじめに
本稿の目的は,1930 年代,中国東北地区(旧満洲)における柞蚕工業について,「満洲国」(以下,
「 」を省略)中央・地方政府の政策と現地社会の動向を,奉天・安東地域を中心に検討することで
ある。
屋外で放蚕する中国東北の柞蚕業は,第一次世界大戦を機に飛躍的に成長し,安東や奉天を中心と
する南満地域の特産品の一つとなった。今日でも,蓋州や海城では主要農産物とされている。柞蚕工
業は一般に柞蚕繭より製糸する柞蚕製糸工業,製糸副産屑物を紡績する柞蚕紡績工業,柞蚕糸を機織
する絹紬工業,蛹搾油工業などからなるが,戦前の中国東北地区における柞蚕業,特に 1930 年代,
満洲国時期については,研究が緒に就いた段階である。
清川雪彦(1981)が先駆的な研究を開始し,それは製糸技術面に比重を置く形で単行本において
整理された(2009)。また大島栄子(1984)は日清戦後に満洲柞蚕糸の採用を契機として在来綿織物
†
同志社大学非常勤講師,Part-time Lecturer in Doshisha University
̶ 249 ̶
田中隆一
から絹綿交織物へと転換する経緯を明らかにした。藤井光男(1987)は 1920 年代,日系柞蚕糸廠に
ついて検討している 1。一方,これまで満洲国における合作社運動については,大豆に焦点を当て,
合作社と糧棧の関係や,農事合作社と金融合作社の対立に注目した研究が進められてきた(風間秀
人・1993,浜口裕子・1996)。
そこで本稿の課題は,第 1 に 1930 年代全般にわたる中国東北の柞蚕工業の統計上の趨勢について
概観する。第 2 に 1930 年代前半,満鉄経済調査会,および満洲国中央・地方政府レベルでの柞蚕工
業に関する政策を検討する。第 3 に 1930 年代後半の修正「満洲産業開発五ヶ年計画」にみられる柞
蚕工業政策を検討する。特に農事合作社の活動と各地の具体的な事例について明らかにする。第 4 に
満洲柞蚕株式会社,および合作社による東北農村の掌握政策とその限界について検討する。以上の検
討を通じて,1930 年代,中国東北における柞蚕業の全般的な状況を概観した上で,満洲国中央・地
方政府レベルの政策,特に農事合作社と興農合作社,満洲柞蚕株式会社の活動とその矛盾の所在を現
地社会の動向を踏まえて明らかにしようとするものである。
1. 1930 年代前半の柞蚕工業の趨勢と政策
(1)満鉄経済調査会による政策立案
1933 年 3 月,満鉄経済調査会第二部工業班は柞蚕工業対策に関する調査に着手し,34 年 9 月,
「柞
蚕工業対策案」を作成した(翌 35 年 2 月,原案可決)。この「柞蚕工業対策案」は柞蚕工業政策の基
本方針を「満洲に於て柞蚕糸を増産し,以て本邦に於ける絹紬原料として,之を潤沢,円滑,低廉に
供給し,本邦絹紬工業の発達に資」するものと定めた。具体的には①柞蚕製糸工業を重視する政策を
とり,「(柞蚕製糸工業は……田中)満洲人に委ねて奨励助長し,益発展せしむること。而して柞蚕繭
八〇億粒以上を対象とし,第一次的には既存工場の年中無休操業より始め,第二次的に新起業に移る
を可とす」とした。②柞蚕紡績工業は奨励し「本繭屑量三三万貫(約一千二百瓲)を対象とし,リン
グ一八〇〇〇錘,ミュール三六〇〇錘程度とし,既存安東富士瓦斯紡績工場の拡張を適当」2 として
いる。③絹紬工業は「自由放任主義を可とし,特に奨励助長せざる」こと,④柞蚕蛹搾油工業は奨励
助長し,既存の安東日華製油公司の拡張を図ること,⑤「柞蚕繭,同屑繭の輸出は満洲に於ける斯業
発展の為可成之を為さしめざること」,⑥柞蚕糸検査所,柞蚕取引機関を設置すること,その他,各
種税軽減,免除を提唱している。
ここで(図 1)1930 年代中国東北輸出総額に占める柞蚕繊維の割合(上)と推移(下)をみれば,
全般的傾向として満洲事変以前と比較すれば衰退しており,日中戦争後の増産により上昇するが,全
輸出に占める割合は漸減していることがわかる。
こうした 1930 年代,中国東北における柞蚕業の衰退の原因は,アメリカにおける人絹需要の増加,
人絹糸価の低下による柞蚕糸価の崩落が主たるものとして考えられる。さらに南満地域では,抗日運
動弾圧のため,関東軍による農村焦土化が行われたこと,さらに農民用の銃器までも没収され,鳥虫
被害が深刻化し,柞蚕業自体が経営できない状況に追い込まれていたことを指摘しうる。有数の柞蚕
地帯である安東県での「東辺道治安粛正工作」による農村荒廃については,以下のような記録が残さ
れている。
̶ 250 ̶
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単位は%。
推移は 1927∼31 年の 5 年間を 100 とした数字。
出典:安東商工公会調査科編『柞蚕に関する研究』(1941 年)125 頁。
図 1 1930 年代中国東北輸出総額に占める柞蚕繊維の割合(上)と推移(下)
飢餓線上を彷徨する安東県下窮乏農民に対しては県公署に於て諸救済策を講じつつあるが,全県
下に亘つてこれを徹底する事が出来ず,一方窮乏は日と共に加はり,悲報は続々と齎さるる……
過般の施米に漏れた第二区東安村では最早草根,木皮を食ひつくし,今では飼犬を殺して食ひ,
或は子女を売つては飢餓から逃れやうとする者続出するといふ有様だといふ,十五,六歳の小孩
一人二十五円也,年頃の娘は七,八十円から百円でどしどし売られて行くといふのである 3
次に,中国東北の柞蚕糸貿易は 1920 年代より対日取引に比重を置くものであったが,(図 2)安東
発仕向地別柞蚕糸輸出高にみるように,日中戦争以後はむしろ対日供給も減少していたことを確認し
ておく。そして日本に輸出された柞蚕糸は主に,福井(73%),岐阜(15%)の絹紬業において製織
され,多くが対米輸出される(約 75%)。上海に輸出されるものも,欧米へ再輸出された。一部は日
本国内で消費され,30 年代中盤以降「従来の仕向地たる福井,岐阜方面の販路は最近稍減退し,絹
織物生産地たる前橋,伊勢崎,桐生,足利,大阪,京都方面に仕向けられるものが,漸次増加」4 し
ている趨勢であった。(図 4)にみるように,柞蚕繭は大連,安東,営口より芝罘へ輸出されたが,
満洲国政府が製糸業を重視する政策を採ったため,「輸出量の増減傾向は上表より明瞭ではないが,
̶ 251 ̶
田中隆一
安東商工公会調査科『柞蚕に関する研究』(1941 年)125 頁。
図 2 安東発仕向地別柞蚕糸輸出高
出典:安東商工会議所『安東柞蚕事情』(1937 年)99 頁。
図 3 1930 年代安東発日本仕向地別柞蚕糸輸出数量(瓩)
安東商工公会調査科『柞蚕に関する研究』(1941 年)123 頁。
図 4 柞蚕繭輸出高統計
漸減の傾向にあることは否定できない」5 とされる。総じて,柞蚕糸は日本絹紬工業を通じてアメリ
カ奢侈市場に依存しつつ,生糸の代用品であったため,生糸相場の変動と人絹市価の低下により,柞
蚕糸相場は「その脆弱性と動揺性」6 を免れえない状況にあった。
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「満洲国」下柞蚕工業政策と合作社
(2)1930 年代前半の柞蚕工業政策
満鉄経調の立案を受けて,1934 年 11 月,満洲国政府実業部は柞蚕糸業振興のため全満糸業公会連
合会を組織,柞蚕糸検査所の設置を決定した 7。翌 35 年 6 月には安東に柞蚕糸検査所が開設され,
それまで中国側糸業公会に委ねられてきた品質検査を同検査所において実施することになった。この
ため,海城,蓋平,西豊,本溪,撫松,寛甸,鳳城,荘河,岫巌,遼陽,復,開原,清原,安東の各
県から産出された柞蚕糸はすべて安東検査所で検査を受けることとされた。さらに海城,蓋平にも分
所が設立された 8。福井,岐阜の日本絹紬工業組合連合会は奉天・安東両県省長・満洲国政府実業
部・全満糸業公会連合会に宛てて,次のような陳情書を送付している。
輸出絹紬は大正五年頃より本邦において試織され,漸次製品の向上を促した結果,遂に製品の統
一と均斉とは海外の需要を喚起し,累年海外の需要を増進し,近時生産数量毎年六,七十万疋を
算し,価格八百万円乃至一千万円に達し,将来益々発展性に富む国家重要産業となつたが,これ
が原料たる柞蚕糸は最近不作の為か著しく払底をつげ,需要の均衡を失し,漸次原料豊富な人絹
織物に転換せんとする機運にあり,絹紬機業家は現在の情勢を以てしては操業を続けることは至
難の窮状に立至り,本会は原料払底を緩和する為め,三割の生産制限を決議実行することとなつ
た。満洲国政府が柞蚕糸業公会連合会経営の柞蚕検査所を設置し,品位の向上増産の指導に努力
せられつつあるは,誠に慶賀に堪へざるところで,尚ほ一層貴省の御指導御援助により柞蚕糸の
増産増収を企図し,以て柞蚕絹織物の益々進展を期し特別の配慮を相煩はし度い 9。
一方,1935 年 8 月,満洲国政府実業部農務司では「模範村建設方針」を策定し,柞蚕村としては
安東省寛甸,岫巌が選定された 10。この模範村というのは,①「模範村ノ人的基礎工作(特ニ建国精
神ノ結成)並物的基礎施設ニ力ムルコト」②「時機ニ適シ兼ネテ速効ノアル行事ニ関シ指導ヲ行ヒ,
以テ村民心理ヲ収攬スルコト」を基本方針とし,戸口調査,経済調査,道路橋梁補修,村落清掃・清
潔検査,衛生医療,品評会・表彰,共同娯楽会など「建国理想ニ基ク協和楽土建設方針顕揚」するこ
とにあった 11。
他方,地方政府においても安東省公署は「産業開発方策」において「柞蚕モ本省重要特産物ニシテ
之カ品種改良及病害ノ駆除ヲ行フト共ニ,柞蚕飼育組合ヲ設立シ,以テ統制アル指導ヲナサント
ス」12 とし,柞蚕飼育組合助成費 6,000 円,柞蚕優良種配布所設立費 16,510 円を中央政府に要求して
いる。また奉天省公署においても柞蚕奨励のため「柞蚕種繭検査及柞蚕飼育法ノ改善並ニ品種改良ニ
関スル施設,製糸法ノ改善ニ関スル研究指導」13 の必要性を強調した。こうして満洲国政府実業部で
は「特産物奨励ニ関スル件」として,柞蚕業については以下のような措置を講じることとしている。
柞蚕業ハ奉天,安東両省ノ山岳地帯百万農民ノ主業又ハ唯一ノ副業ナルヲ以テ,其ノ重要性ニ鑑
ミ,大体左ノ方針ニ基キ柞蚕ノ奨励ヲ計ラントス
一,従来優良種繭ノ生産地トシテ著名ナル西豊ニ国立柞蚕改良場ヲ設置シ,柞蚕ノ改良増殖ニ関
スル試験場及調査ヲ為サシムルト共ニ,柞蚕種ノ検査並優良種繭ノ育成ニ当ラシム
二,差当リ西豊,東豊,西安,清原県内ニテ種繭生産者タルノ資格アル者ヲ選ヒ,右育成原種ノ
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田中隆一
安東省各県柞蚕糸業統計表(1935 年 12 月末現在)
工廠数
職工数
(名)
3
104
安東県
安東市内
荘河県
岫巌県
寛甸県
鳳城県
総計
29
21
70
20
8
151
4694
1149
3049
455
193
9644
繰糸器数
全年糸生産量
全年廃糸生産量
全年蛹生産量
(支) (箱)及価格(元)(斤)及価格(元)(斤)及価格(元)
106
5716
1800
6500
41250
1080
5032
400836
2263400
2314720
228477
49794
698
43558
421730
1112
2739
403
230340
26134
6030
60276
598825
346170
36166
8563
223
13750
55620
66900
4125
224
4590
23400
193
93
1049
10269
125
795
73920
2754
7351
524810
3369475
334
3073300
298736
65609
出典:満洲国国務院総務庁情報処編『省政彙覧 安東省篇』P131(龍溪書舎,1987 年復刻版)
配布ヲ為ス外,種繭業者対シ蚕種ノ検査ヲ行フ
三,一般柞蚕生産地ニ対スル蚕種検査ハ第二期トス
四,右一般柞蚕生産地ニハ柞蚕組合ヲ組織セシメ,一層指導徹底ヲ計ルト共ニ,金融,種繭購入,
生産繭ノ共同販売等ノ便ヲ与ヘ,且蚕場林ノ改良ニ関スル指導ヲ為シ,以テ柞蚕業ノ確立ヲ
計ラントス 14
また 30 年代前半には柞蚕糸工に関する問題が浮上していた。柞蚕糸の繰糸には山東からの中国人
季節労働者(安東の中国人繰糸工は約 3 万人で全糸工の 9 割)によって担われていたが,賃金未払い
問題等が原因で労働争議が多発しており,
「また安東の柞蚕職工,動揺し巡警を殴打」15 などの新聞記
事がみられる。満洲国では 1934 年 3 月より「労働許可票」をはじめとする諸制度を通じて「入満華
工」の制限と統制を実施していたが,糸工数は 3000 人にまで減少し,安東の柞蚕業者は中国人糸工
の入国制限緩和などを要求するも,未解決のままであった 16。
2. 農事合作社の設立と柞蚕業
(1)安東地方の柞蚕業経営形態
吉竹博愛(安東商工公会常務理事)は「柞蚕振興対策を論ず」との一文のなかで,次のように柞蚕
業の問題点を指摘している。すなわち「我満洲国に於ける柞蚕業三十余年の歴史を顧みるに起伏誠に
常ならざるものあり」,「『柞蚕は見通しのつかぬ危険なもの』との観念は飼育農民と言はず製糸業者
と言はず将又日本に於ける絹紬業者間の通有観念となり,従つて新満洲国の為政者間にも其の危きよ
り避けんとする傾向ありし」と述べる。そして飼育農民側の理由としては「1.飼育技術の貧困ー単
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「満洲国」下柞蚕工業政策と合作社
位当り収穫の僅少と秋繭中心の飼育。2.生産品の保管技術の未発達。3.販売上に於て(イ)融資者
による高利貸的搾取,(ロ)農村貧困より来る売急ぎ,(ハ)繭棧其他よりの搾取(青田売買的取引と
繭棧の雑貨兼業による二重搾取)」があり,製糸業者側の理由としては「製糸技術の貧困,季節的工
業なる点,小資本工場の乱立,製品取引の複雑と中間的搾取の加重」17 を挙げている。
ここで,安東地方を中心とする柞蚕繭の 3 つの取引形態を図式的に見れば,下図のようになる。す
なわち,(1)生産者より繭房子(地方仲買人),および棧房(地方問屋)を経て安東の繭棧に,繭棧
から製糸工場に売り込まれるもの,(2)生産者から直接製糸工場に持ち込まれるもの(製糸家が柞蚕
飼育者に資金を貸し付け,蚕場より生産する繭を仲買人の手を経ず直接製糸家に売込),(3)生産者
より繭棧に持ち込まれるものがある 18。こうした取引形態は各地でみられ,「地方農民の疲弊甚しき
関係上,収穫後売却するよりも,飼育開始前に養蚕資金として製糸家或は繭棧より前借の上,経営す
るもの方が多い模様である。之れは地方農民唯一の金融方法として致し方ない現状で金利も頗る高率
でもあり,直時唱道されている農民の特殊金融機関の設置が最も緊急なる所以」19 と指摘されている
ように,農業金融の改善が焦眉の課題とされていた。
より具体的に安東省荘河県の事例を見れば,該県では 1880 年頃に柞蚕業が開始され,1900 年頃よ
り盛んとなり,1913∼19 年頃が最盛期であった。以後は病虫害による収穫高減少と満洲事変以後の
繭価下落により衰退し,1930 年代前半には「柞樹を伐採して薪炭材として販売」20 するほどであった
という。荘河県では春蚕の飼育は極めて少なく,秋蚕が一般的であった。蚕場の借入は春蚕の場合,
前年の秋冬頃,秋蚕の場合は春から放蚕前に借入契約をした。貸借期間は飼育時期に限られ,蚕場は
地主の管理に属し,小作人は柞樹の手入管理などには関与しない慣習であった。小作契約の多くは口
頭契約であり,分益小作(分放),物納定額,金納のうち,分放が一般的であった。この分放という
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田中隆一
のは,地主が蚕場を提供し,小作人が種繭,蚕把頭(技術人員・労力),食糧など生産に必要な部門
を担当した場合には,収穫高の 2 割を地主が取得し,8 割を放蚕者が取得する形態である。放蚕面積
の単位(一把剪子)は蚕把頭一人で放蚕管理しうる面積であり,春蚕は 4000 個,秋蚕は 5000 個程
度の種繭を放蚕する。春蚕の種繭購入先は鳳城で,当初は各自出かけ,蚕児生育状況を見て種繭を予
約し,結繭後代金を支払って持ち帰る形態であったが,次第に種繭購入者に依頼して購入するか,ま
たは販売者より購入する形態になったという。秋蚕の場合は春に岫巖に行き,必要な種繭数を予約
し,夏に種繭を持ち帰った。柞蚕繭の販売は,近隣の糸房(製糸工場)の収買人が買付に来た時に,
売却するのが通例である。半分程結繭した時点で収買人が来て,1 万個収繭見込みの蚕場であれば
5000 個と見積もり,その範囲内で売主の必要とする現銀を先払いし,収繭後にその収繭人の商店・
糸房に繭を持ち込んで,その時点の相場で取引し決済する「定収繭」も広く見られた。
(2)日中戦争と農事合作社の設立
1937 年 7 月,日中戦争勃発を契機に柞蚕需要は激減し,相場も暴落した 21。同年 2 月,奉天省で
は「柞蚕業振興計画」を樹立し,「一,輸出柞蚕糸の検査。現在安東同業組合連合会所属の検査場を
国営とする。二,種繭の検査。三,柞蚕種試験所の設置。四,柞蚕糸試験所の設立。蚕種の改良繰糸
法改善,需給関係の調節を図る。五,柞蚕飼育組合の設立」22 ことを定めていた。これは「満洲産業
開発五ヶ年計画」において当初,柞蚕業が除外されたため,奉天省において独自に樹立された計画で
ある。その結果,蓋平,海城,復,西安,西豊各県に柞蚕糸同業公会が設立され,「一,養蚕資金並
に工場操業資金の融通,一,販路拡張,一,殺蛆方法並に製糸法の技術的改良,一,検糸制確立,そ
の他養蚕並に蚕糸業全般に亘る業者の福利を図」ることとされた。そして県保証の下に公会を通じて
満洲興業銀行より 350 万円を借出すことなどを定めた 23。
しかし,奉天省内でも有数の柞蚕地帯である蓋平県を例にとっても,農村荒廃は深刻であった。蓋
平県は県全面積の 31%が蚕場であり,柞蚕に従事する農民は 11 万人,県全人口の 18%を占めてい
た。荘河,岫巌など近隣地域の生産物も蓋平を経由して輸出された 24。しかし満洲事変後の窮乏は甚
だしく「治安工作のため村民の労役及材料提供並に有給自衛団の雇用等,農民の負担漸次加重」によ
り「柞蚕業者の窮状,蓋平県下で炊き出し,県当局救済に奔走」25 という有様であった。「同地方にお
ける本年中の食糧は五万石の不足と見られ,速かに之れが救済方法を講ずるに非らざれば近き将来に
於て必ず是等農民の死活問題惹起する虞あるべく」26 と報道されている。そこで満洲中央銀行より 4
万円の融資を受け,1935 年には柞蚕組合も創設されていたが,「柞蚕業全盛時代にありては比較的規
模の大なる製糸工場は二十余個所があり,又各地に散在せる小製糸工場も三四十個所があつたのであ
る。一年間に於ける製作品は一万余箱(一箱の重量は百斤なり)に及び,爾来年々漸次に工場が停止
し,満洲事変勃発以来,時局の関係で一層深刻なる不景気に見舞はれ,現在にありては製糸工場が僅
かに十数個所のみ存続し年産額は略二千箱」
,「輸出先は只友邦日本の福井,岐阜各地のみであつて,
輸出額は僅か壱百萬元位に過ぎ」27 ない状況であった。
そこで満洲国政府では農事合作社を設立することを決定した。農事合作社は直接生産指導に重点を
置き,信用,購買,販売にも利用されるもので 28,柞蚕事業では(1)種繭改良:春蚕用種繭消毒蚕
種の共同購入・秋蚕用病毒検査,優良種繭の購入配給,(2)鳥虫病害の防除,洋炮の貸付,火薬,薬
̶ 256 ̶
「満洲国」下柞蚕工業政策と合作社
品の配給・防除指導,(3)荒廃蚕場の整理・改植,(4)技術指導網の拡充強化,(5)産繭取引の改善,
産繭は全部交易場にて取引,闇取引・不正売買防止などが主たる事業であった 29。
そして下表のように,1937 年下半期から 38 年初めにかけて,奉天省内各県に農事合作社が設立さ
れた。
奉天省農事合作社
設立
柞蚕関連事業内容
38 年 2 月
「本県に於ける柞蚕業は産額五千万粒に達し柞蚕地帯三箇所に臨時交易場
を開設して収買に力めた」「康徳六年度作物栽培面積は…柞蚕にありては
面積九二七把,収量五二四八万粒に達し」
本溪県農事合作社
38 年 2 月
「柞蚕業は建国後治安確立と共に長足の発展を見,康徳六年度に於ては種
繭貸付一〇〇万粒を実施し,春期一三五〇万粒秋期一億三〇〇〇万粒を目
標としては満洲種子配給協会と協力の上現地の実態を行ひ,又微粒子病の
予防駆除,春虫害の駆除,飼育資金の貸付,蚕場の整備等を行つた」
遼陽県農事合作社
37 年 10 月
「柞蚕は収繭数一億粒に達し,専任技術員の設置,種繭の配布,洋鉋火薬
の配給,飼育状況の調査等を行つた」
海城県農事合作社
37 年 9 月
「本県の柞蚕は康徳六年度約三億粒を産し飼育戸数二八四四戸,産額
七三二五九〇円に達し県内製糸工場は二〇戸を数へ,別に合作社に於て柞
蚕加工場を経営し靴下,絹紬織物,絨毯,手芸編物等の製造を行つた」
蓋平県農事合作社
37 年 7 月
「柞蚕は本県柞蚕地帯に古くより飼育され蚕場面積一六〇万畝にして県全
面積の三一%を占め之に携はる農民は一一万人を数へ全人口の一八%を占
め年々約五億粒の繭を産する…柞蚕交易場は本場を蓋平街に支場を九塞村
外十一箇所に設け之が収買に当つた」
復県農事合作社
37 年 9 月
「柞蚕は本県に於ても古来より飼育され山岳地帯農民は柞蚕業を以て第一
となし飼育農家戸数三五〇〇戸を占め,康徳五年度に於ける交易総額は
三三七七七五円を示した」
東豊県農事合作社
37 年 10 月
柞蚕七六四三六三八粒,二四一一六円
清原県農事合作社
37 年 12 月
柞蚕飼育資金貸付金二四三円
撫順県農事合作社
出典)奉天省興農合作社聯合会『奉天省農事合作社誌』(1942 年)
さらに 1938 年 8 月,柞蚕事業も「満洲産業開発五ヶ年計画」に編入されることが決まると 30,そ
れに基づいて奉天省では「柞蚕増産対策」を策定した。その内容は①飼育増産の助成,②蚕の標準価
格算定,③産蚕の自由流通,④購繭資金借入の斡旋,⑤柞蚕の配給統制機構確立,⑥柞蚕糸業の安定
方策樹立,⑦国内産羊毛製品の柞蚕繊維混用,⑧繰糸法改良と試験機関設置,柞蚕糸肉眼検査の同業
公会委託,⑩柞蚕糸輸出統制などである 31。
同 38 年 9 月には奉天省次長より遼陽,海城,蓋平,復,西安,西豊各農事合作社董事長宛て通牒
「本年度柞蚕繭収買に関する件」が発出されている。その内容を見れば「一,柞蚕繭の取引は総て農
産物交易場に於て之を行ふこと,二,農産物交易場に於ける取引人は柞蚕製糸同業公会又は該同業公
会々員及農事合作社董事長の認めたる者とす,三,柞蚕繭の収買は他県の交易場に於て出張収買をな
すことを認むること,但し此の場合は現住地県長の資格証明書を携帯せしむること,四,取引人柞蚕
繭収買に当りては農事合作社農産物交易場業務規程に準じ保証金を収むるを原則とするも,収買資金
の一部を合作社に供託せしむるの方法を講ずるをも妨げず」32 とある。
ここで,奉天省内各県農事合作社の柞蚕事業に関する具体的な活動内容を検討すれば,まず西豊県
の場合 1937 年時点で飼育戸数 2108 戸,飼育従業員 2805 人,飼育家族人員 1 万 8935 人で全農民の
8%を占めていた。開原県境から清原県に接した山岳地帯を主要産地とし,生産粒数十億粒を計上さ
̶ 257 ̶
田中隆一
れるほど,盛んであった。柞蚕飼育資金借入先は満洲興業銀行であり,借入契約高 5 万 3640 円,貸
付額 3 万 2364 円 50 銭,貸付件数 309 件,貸付人員 1655 人,全県 38ヶ村中無貸町村 6ヶ村,資金利
用は雇農が最多で 7∼7.5%を占めた。貸付資金は種繭の購入および飼育管理に充てられ,利率は日歩
2 銭 5 厘であるが,地方金利は當舖,粮棧を最高とし,その貸付形式も入担保,または穀物の先物取
引が多く,日歩銭を最低とした。5 人以上の連帯債務を負い,償還期限は 1939 年 3 月末,償還財源
については生産繭は販売代金を充てる,査定は品性,能力,資力を基礎とし,人的要素(素行,勤怠,
技量,家庭,節倹,健康・履歴),物的要素(純財産,資産と純財産の割合,事業の分量,土地建物,
債証券貯金)を勘案して,村・屯長立会の上,査定することとされた 33。
海城県の場合,1938 年時点で飼育戸数は 2844 戸(春 869,秋 1975),飼育面積は 81,108 ha(3302
把),年間生産量は 2 億 5000 万粒,販売額約 70 万円であった。県内製糸工場数は 20 戸,機械は
2079 台で,「柞蚕増産計画」により,同県割り当て増産量は 1939 年度 3 億粒,40 年度 6 億粒,41
年度 15 億粒であり,「柞蚕農民の救済」を第一の課題としていた。そこで農事合作社では「柞蚕農民
の福利を増進せんが為め柞樹利用」を図るとして「一,薪炭の製造方法の技術的指導,二,椎茸の栽
培講習をなし不用柞樹利用に供し,福利の増進を計らんとす,三,樹皮は之を分離しタンニン製造の
原料として販売する様努力せんとす」などの活動を行ったほか,柞蚕糸水繰事業,靴下製造,絹紬織
物の製造,絨毯の製造,柞蚕糸の手芸織物,柞蚕蛹搾油の充実を図ることに努めたとされる 34。
3. 満洲柞蚕株式会社と戦時下の柞蚕業
(1)満洲柞蚕株式会社の設立とその批判
満洲国政府は修正「満洲産業開発五ヶ年計画」において柞蚕繭生産量を 1939 年度は 80 億粒,40
年度は 120 億粒,41 年度は 200 億粒,42 年度は 250 億粒,43 年度は 300 億粒とする増産目標を掲
げた。初年度の各省別の割当は安東省 50 億粒,奉天省 25 億粒とされていた 35。そこで安東・奉天両
省では「品種改良による優良種繭の育成増殖配/微粒子病毒率五%以内の検査配給の斡旋並に補助/
洋種の緩和/試験研究機関の整備拡充/柞蚕飼育実行合作社の設置/飼育技術の指導徹底/春繭飼育
の奨励/低利資金の融通斡旋/種繭鉄道運賃の低減交渉/種繭検配給の法制化/技術員の養成/品評
会,講習会の開催/ポスター,パンフレットによる普及宣伝/柞蚕林地の整理造林/柞蚕繭及副産物
利用加工の研究並指導」36 を事業計画として策定した。
そして柞蚕絹糸が輸出統制品目に追加されたことにともない,柞蚕絹糸収買,配給,製品買上の統
制会社を設立する方針が定められた。すなわち「一,柞蚕繭,柞蚕糸,柞蚕綿及び挽手買入販売並び
に輸出を満洲柞蚕株式会社(仮称)を設立して一元的に取扱はしむる。一,右会社の柞蚕繭,柞蚕糸,
柞蚕綿及び挽手買入価格販売価格並びに輸出価格は政府の認可を受けしむ。一,右会社の柞蚕繭,柞
蚕糸,柞蚕綿及び挽手の用途別,配給割当は政府の認可を受けしむ。一,政府は該会社に対して公益
上又は統制上必要なる命令をなすことを得るものとす」37 とされた。こうした統制会社設立の必要性
は既存の農事合作社による経営に不備な点が多かったことに原因があった。つまり「合作社が非常に
熱心であるにも拘らず,事業部門は余りに多いし,それに資金人が伴はない。柞蚕にしても合作社の
漠然たるやり方ではどうも深く入れない。其所で国家の現実的要請に適応すべく特殊会社を設立して
生産蒐荷方面迄にも手を伸ばす」38 ことになったのである。
̶ 258 ̶
「満洲国」下柞蚕工業政策と合作社
1939 年度省県別出廻状況
奉天省
出廻数量
安東省
出廻数量
復
108484 安東
260721
蓋平
209375 荘河
238815
海城
90396 岫厳
378524
遼陽
86408 鳳城
449108
西豊
121796 寛甸
269780
本溪
15161 桓仁
4198
撫順
42743 通化省
2914
清原
11845 合計
1604060
西安
21525
東豊
7538
単位は千粒
(池田正五郎「東北満に於ける柞蚕開発方法に
関する私見」『興農』第 2 巻 8 号,1941 年 8 月)
しかしながら,こうした統制会社設立案に対しては「統制会社案では繭価を抑制して柞蚕業を委縮
させるだけで増産目的を達成できない。むしろ既存の糸業公会を強化し,連合会を新設して安東省連
合会との連携強化を図る一方,増産資金貸付,種繭の配給,洋砲の貸与,山場の改良を優先すべ
き」39 など,当初から反対が存在した。
結局,1939 年 8 月,満洲柞蚕株式会社が設立された 40。会社は普通法人とし,柞蚕綿,挽手の一
元的取扱機関とする,資本金五百万円(四分の一払込)で,出資割当は政府,ならびに農事合作社,
および製糸業者の折半出資とする,本社は新京(長春)に置き,必要な地に支店・出張所を置く,会
社の業務は柞蚕繭の買入加工販売並びに輸出,柞蚕製品の買入加工販売及び輸出,柞蚕に関する調査
研究などであった。
しかしながら,出奔早々,柞蚕会社に対する批判が続出した。『満洲日日新聞』に掲載された「柞
蚕統制会社を現地から批判す」という論説では次の三点から柞蚕会社を批判している。第一は柞蚕会
社の専門的人材の欠如である。すなわち「会社の陣容を眺めて真の柞蚕技術者として自他共に首肯さ
れ得る人が何人あるだらうか」,「柞蚕の専門家として自負し得る重役は満人を除いては僅かに二名に
過ぎない,而も会社の枢軸としてその総てを掌握する常務に至つては柞蚕には殆ど門外漢であつて,
現地に於てはこれは安東も奉天も全く同様であるが,これに期待するところが全然ない」と述べてい
る。第二に,既存販売輸出業者との軋轢である。「在来の柞蚕貿易商なるものの存在がある,この輸
出業者は日本人側においては柞蚕輸出業者があり,満洲国側には糸棧がある,会社の業務方針通り進
めば一切の柞蚕加工品は会社においてなし得るところであるが若しこれを断行すれば右輸出業者は一
瞬にしてその生業を失ふに至る」と批判する。第三は手数料の高さであり,「各部門毎に多額の手数
料が徴収され,会社の収入部門となるものと仮定したならば,現状にては想像も及ばないやうな多額
の手数料が徴収されることとなり,会社は柞蚕の一強力な搾取機関としてのみしか考へられ得ない場
合が起つて来ないと保証し得ようか,万一斯くなつたならばわざわざ柞蚕の一元的統制を行つた為に
廉くなる筈だつた柞蚕の価格は却って逆に頗る高くなり,何を好んで会社を造らねばならなかつた
か,その意義が実に曖昧のものとなつて来る,会社は少くとも,柞蚕を聞き齧つた民間人と行詰り官
̶ 259 ̶
田中隆一
吏を高給で召抱へる救済機関ではなかつた筈である」とする。以上から「柞蚕会社に対する柞蚕界の
非難は静波より激波せんとしつつある,極言すれば現在の会社を以てしては,重要なる柞蚕業に対し
終止符を附したものであるとさへ云へる,斯くの如き見地から政府当局も英断を以て至急人事の更新
を行ふと共に柞蚕通を網羅し,少くとも幹部にある者の現地の信頼を得ざるものは排除し,以て明朗
なる柞蚕業界の現出に努力すべきではなからうか」41 と柞蚕会社の大幅な経営再検討を提起してい
る。
こうして 1939 年の生産実績は,下にみるように,出廻柞蚕繭 40 億粒予測が 33 億粒程度にとどま
り,特に奉天省では予想の 18 億粒が 12 億程度に止まるという不振に終わった。その原因は「柞蚕農
民の一部は農事合作社交易場に搬出せず,手機で絹紬となし,これを哈爾浜,海拉爾,蒙古方面と闇
取引をなし,而もこの製品は柞蚕会社の最上品 820 円の糸(灰糸)を七百四,五十円の糸を使用して,
一千二,三百円で売捌き,なほ昂騰の気配をみせている(中略:原因は)綿花の不足と高値のため綿
の代用品として繭から綿となし,自家用若しくは密販売することと,各統制会社が現実に当該生産物
が出廻らざるため,奨励金の交付或は公定価格の引上げ等の実情があるので,この政策を期待して出
渋つている事に原因がある」42 と指摘されているように,「闇流通」と農事合作社の収買能力の欠如,
柞蚕会社による政策の不備などにあった。そこで当初政府割当の奉天省(全満収買数量の 44.8%),
安東省(55.2%)を変更して,奉天省不足量 9 億粒を安東省より賄うこととされたが,安東省におい
ても闇取引が深刻で実現は困難であった 43。
(2)興農合作社の設立とその矛盾
1940 年度の収買成績の不良のため開城,蓋平の柞蚕繭製糸業者は現操業の 3 割を維持することも
困難な情況であった 44。こうした柞蚕収買機構を経由せず,絹紬業者方面に直接流出する量は約 1 億
1000 粒程度(絹紬にして約 7 万反)ともみられたため,満洲国政府産業部では絹紬も柞蚕会社にお
いて取扱うこととした 45。一方,絹紬価格の暴騰による闇取引の盛行という現実の前に,奉天省・安
東省では,絹紬製織業者を柞蚕工業組合に加入させ,原料糸の配給および製品の取扱は組合を通じて
一元的に取扱うこととし,6 月には次のような「絹紬組合法」が制定された 46。
一,絹紬製織業者は凡て柞蚕工業組合に加入するを原則とする
二,絹紬製織業者は満洲柞蚕会社(以下,単に会社と略称す)より柞蚕工業組合を通じて柞蚕糸
の配給を受け,該会社の指定する規格に依り製織するものとす
三,前項により配給を受けたる柞蚕糸は絹紬製織以外の目的を以て使用するを得ず,また製織し
たる絹紬は凡てこれを会社に納入するものとす
四,絹紬の販売を営む者をして市または県単位に組合を結成せしめ,該組合の取扱ふべき絹紬は
凡て会社より配給を受けしむるものとす
五,絹紬の輸出をなさんとする者は凡て会社よりの配給を受けるものとす 47
そして,資材の入手難に加えて,奉天,安東の食糧難による柞蚕農民の飼育忌避傾向を是正するた
め,柞蚕会社では収買価格の適正化,検査格付の公平化,主食物並びに生必品の配給,資材並びに薬
̶ 260 ̶
「満洲国」下柞蚕工業政策と合作社
品の配給を骨子とする増産対策を講究している 48。そこで 1940 年春期の収買では「農村における生
活必需品不足を奇貨とする一部製糸業者及び中間商人が農民の換物思想を利用し,物々交換にする繭
の不正買入」を防止すべく,出荷奨励と柞蚕農民の生活安定を計る目的から物々交換制(生必品との
バーター制)が採用された 49。
さらに,奉天省では省内 370 の製糸工場,453 の絹紬工場(動力機械 395,手織機械 2346 台)の
大部分が零細な家内工業的生産方式であることから,柞蚕繭加工業者の整理統合が断行されてい
る 50。
一方,同 1940 年 4 月,これまでの農事合作社と金融合作社が統合されて,新しく興農合作社が発
足した。そこで,柞蚕会社では生活必需品の昂騰事情を勘案して収買価格を 1000 粒 3 円から 30 銭
引上げ 3 円 30 銭とし,出荷奨励金として 20 銭を付して,事実上 50 銭の収買価格引上げを決定する
一方,柞蚕繭収買を興農合作社に委託することとした(「柞蚕繭収買要綱」)51。
しかし,同 40 年 11 月,柞蚕会社奉天支店では突然,奉天省下西安,撫順,法庫各県における柞
蚕繭の収買を中止した 52。その理由は有利な下級繭(等外品)のみが大量出荷され,上級繭の出荷が
1940 年度柞蚕交易事業実績出廻高
省別
奉天省
安東省
県別
数量
金額
遼陽県
587,466
262,876.55
蓋平県
964,218
271,745.71
小計
1,551,684
534,622.26
荘河県
1,517,262
606,339.26
岫岩県
1,503,929
750,214.14
寛甸県
28,230,834
1,153,508.95
5,842,025
2,509,062.35
7,393,709
3,043,684.61
小計
合計
1940 年柞蚕販売事業実績・代理買付納入高
省別
社名
数量・粒
撫順県
本溪県
奉天省
安東省
17,844,151
62,297.31
400,753
101,340.79
西豊県
316,544,292
896,425.84
清原県
1,894,000
3,379.70
336,683,196
1,063,443.64
通化県
3,005,393
9,881.05
小計
小計
通化省
金額
3,005,393
9,881.05
安東県
210,046,195
544,982.30
荘河県
252,877,423
605,339.26
岫岩県
299,987,182
750,214.14
鳳城県
小計
合計
832,264,179
2,120,970.53
1,595,174,979
4,022,506.23
1,934,863,568
5,95,830.92
(興農合作社中央会調査課『康徳 7 年度 興農合作社統計年報』)
̶ 261 ̶
田中隆一
不振であるためであった。等外繭の収買価格が上級繭に比し有利であるだけでなく,等外繭に格差規
定がないため,従来収買されなかった各種粗悪繭が等外繭として出荷されたのである 53。その結果,
満洲国政府経済部では奉天・安東両省に対し,一時,等外繭の収買中止命令を発出したが 54,収買量
の激減が見込まれたため,等外柞蚕繭公定価が決定されるにいたった 55。結局,奉天省における柞蚕
会社収買数量は 3 億 7838 万 1000 粒で収買予想数量 11 億 8000 万粒の約 3 分の 1 という惨憺たる結
果に終わった 56。
(3)決戦下の増産と破綻
1941 年,満洲国政府は満洲柞蚕株式会社の強化と業務拡充を骨子とする「柞蚕増産対策要綱」を
策定した。すなわち,柞蚕会社の払込資本を拡充し,新に生産部門をも担当して原種の育成より配給
まで一元的に会社が運営する,会社が柞蚕繭の直接収買を行い,興農合作社の下部組織たる興農会柞
蚕飼育実行班との間に契約飼育を行う,鳥獣害防除・虫害駆除・蚕場整備・興農会柞蚕原種生産実行
班助成・模範蚕場設置・各種調査研究に関する助成を行うなどとした 57。その結果,250 万円の増資
により,資本金 750 万円となり,満洲柞蚕会社は生産部面にも進出することとなった。そして満洲柞
蚕会社全株主 593 名中,満洲紡績 10400 株・安東柞蚕加工(三井系)9400 株・満蒙毛織 9400 株・
東洋人織 5400 株・康徳毛織 5400 株で上位 5 名が 80%を占めることとなった。さらに本店では産繭,
原料,製品の三課を設置,四平支店,通化支店の新設,各地出張所の増設を図った 58。柞蚕飼育農家
に対する家計調査を実施し,経営台帳を作成させ,飼育農家には「柞蚕牌」を配布して,柞蚕飼育業
経営に必要なる資料,資金を斡旋配給することとなった 59。
しかし,その結果,柞蚕会社と合作社との関係について混乱が生じることになった。「柞蚕増産対
策要綱」に関する奉天省での説明会では「合作社は会社と共同して生産指導を続けるとあるも,本要
綱においてそれを可能ならしむる諸条件が合作社に与へられていない。特に手数料率において著し
い」,「会社と合作社による増産の二元的指導は甚しく困難なるものにして,何れかに一元化する必要
あり,この場合省としてはむしろ会社側の一元的指導を望む」60 との意見が提出された。一方,安
東省興農合作社連合会側では柞蚕繭の直接収買等の合作社業務の柞蚕会社への移管につき反発が生じ
た 61。たとえば,
興農合作社としては将来,柞蚕,棉花等の特用作物を如何に取扱ふかが問題で,一般作物の同合
作社への要請が大なるに比し,数量的には特用作物が少い現状にあるに拘らず,安東省では交易
場の手数料の過半が柞蚕収買手数料であり,従って柞蚕会社の一元的取扱ひは交易場経営に影響
する所大なるもの 62
一,金融は飽くまで農事に従属すべきものであるが,統合以来動もすれば農事は金融に従属せし
められている。
二,農民の組織化,農業生産力増大なる合作社本来の使命たるべき事業は蒐荷万全を追ふのあま
り,殆ど掛声のみに終り,収買代理機関の如き印象を農民に与へて農民把握を困難ならしめ
つつある。
̶ 262 ̶
「満洲国」下柞蚕工業政策と合作社
三,合作社諸事業(共販,共購,共利)の政治的意義に対する中央の認識貧困を極める,これが
現れとして人的,物的に該事業運営を実質的に制約し,棉花を始めとする特用作物増産指導,
蒐荷業務を各関係特殊会社に割譲せしめ,またせしめんとしつつある。増産技術指導と雖も
単に科学的技術指導に限らるべき性質のものでなく,経済的,政治的に組織運動と関連して
総合的指導の一翼たるべきであり,特用作物技術指導のかかる機械的分離は究局において甚
だしい限界に逢着せざるを得ぬ上に農民に対する合作社の一元的指導を困難とする。
四,前項合作社本来の事業の政治的意義認識についての中央の貧困は現地の一部合作社理事長に
も反映し合作社を半身不随に陥らしめている 63。
などの意見が出された。
そこで奉天省では「合作社は増産割当をなし,生産事業の一般的指導を担当」すること,「柞蚕会
社は合作社の増産方針に基き現在の機構を変更することなく,合作社生産事業の指導に協力し,主と
して現地指導の実践に当る」こと,「合作社は柞蚕繭(原繭,種繭,出殻繭)を交易場上場品目とし
て取扱ふ」こと,具体的処置としては「1.柞蚕繭の検査格付は合作社に於て行ふものとす,2.柞蚕
繭収買は可及的合作社の収買施設を使用し,整備を要する場合は柞蚕会社において之が経費を支出す
るものとす,3.柞蚕会社は交易手数料として従価の百分の二を合作社に支払ふものとす,4.出荷督
励に関しては県監督の下に合作社,会社これに当るものとす,5.柞蚕種繭の蒐荷配給に関しては合
作社の増産方針に基き柞蚕会社これに当る」64(「柞蚕増産要綱」)ことを決定した。
しかし,撫順県では「放蚕期における計画,柞蚕事業に対する農民の補導等は勿論,病害,鳥害の
予防収買に至るまで悉くを県実業科並びに興農合作社に任せ切りとなし,単に中間搾取的存在の地元
柞蚕会社は今や無必要な不経済極まる」65 といった柞蚕会社無用論も提起された。
そのほか,奉天省では「柞蚕業加工業者整理要綱省令」(1941 年 10 月)が公布され,省下製糸業
者 130 余軒は 84 軒に,絹紬業 390 軒は 57 軒に許可業者に登録制が実施された。その結果,未登録
業者は繭の配給を受けられないことになった 66。また 1939 年より 2 年間実施された種子配給協会に
よる種繭配給方法は農民の反発により従来の「蚕匠」による方法に変更された 67。安東省,奉天省で
は密売取締の省令も公布されている 68。
そこで満洲国政府では 1941 年度の収繭予想額を約 42 億粒(前年収買実績 30 億粒)に設定し,そ
の内訳を安東 3052,奉天 802,四平 376,通化 20,計 4250(単位百万粒)とした 69。そして同年秋
繭収買以降には,従来,現地合作社により実施されてきた柞蚕繭委託収買を柞蚕会社が直接収買する
ことになり,各地に収買所が新設された 70。
しかしこうした増産措置にもかかわらず,1941 年度生産高は激減し,安東でも 15 億粒にとどまっ
た。鎌倉巌「満洲柞蚕統制の指標」という論文では「生産蒐荷の実績は逐年低下の傾向をすら示し,
康徳八年度(1941 年)の如きは最も惨敗を喫して秋繭の収買量僅かに×億粒に過ぎず」71 と評してい
る。
こうした生産量激減の理由について,安東商工公会調査科編『柞蚕に関する研究』(1941 年)は「農
産品と生活必需品との跛行的懸隔は柞蚕農民として生産繭を綿布代用としての自家消費に多量振向け
させる結果」となっており,「飼育農民に対する指導奨励の欠如と,日本市場に於ける絹,絹紬の相
̶ 263 ̶
田中隆一
1941 年度柞蚕飼育資金貸付金使途類別
省別
県別
本期中貸付高
金額
吉林省
浜江省
通化省
奉天省
四平省
金額
900
%
蛟河県
900
15
磐石県
1,260.00
63
1,260.00
0
小計
2,160.00
78
2,160.00
0
賓県
1,500.00
小計
1,500.00
通化県
9,770.00
251
柳河県
5,210.00
188
6,174.95
輝南県
930
輯安県
23
7567
930
0.1
0.8
1.1
0.2
1,767.00
44
1,736.11
0.7
小計
17,677.00
506
16,408.06
0.6
撫順県
13,450.00
179
9,700.00
3
本溪県
45,560.00
104
5,980.00
0.5
遼陽県
23,180.00
334
1,3920.00
0.8
海城県
23,780.00
158
7,915.43
16,350.00
322
10,160.00
清原県
10,705.00
172
6,353.00
0.6
興京県
1,010.00
51
1,00.00
0.1
小計
144,035.00
0
1.32
泙寧県
185
7
185
185
蓋平県
復県
熱河省
本期末現在高
口数
106 ママ
1.6
0.6
0.1
小計
185
7
西豊県
121,620.00
290
12,870.00
0.0 ママ
5.5
西安県
9,280.00
54
1,800.00
0.3
東豊県
6,580.00
58
4,780.00
0.9
小計
137,480.00
402
19,450.00
0.6
(興農合作社中央会調査課『康徳 7 年度 興農合作社統計年報』)
場に左右せらる所の柞蚕糸価格が更に繭価を支配するため,常に低廉に失するか,或ひは変動常なき
不安定なものとして農民の飼育熱を減殺する二大要素に基因するもの」であるため,「日本に於ける
絹紬材料としての輸出は満洲柞蚕発展の為めにも寧ろ放棄すべきであり,厖大なる国内需要に転換す
べき岐路に逢着」72 と展望している。
そこで満洲国政府では 1942 年度重点政策として「指導責任を全面的に合作社が負荷し,会社側指
導員は合作社の指示に基き農家に対し合作社の名において一元的に指導を強化する方針」を強調し,
「昨年柞蚕増産指導体系樹立以来,兎角明確を欠いた合作社,会社の協力体制を明瞭に規定」73 したも
のとされた。
具体的には「一,合作社は興農会内に柞蚕飼育実行班を組織し,柞蚕会社はこれが事業運営に関し
積極的努力をなす,柞蚕の改良増殖を図ると共に興農会の自興運動に寄与せしむるものとす。一,重
点地域へ柞蚕篤農家を選定,合理的経営の指導拠点として経営改善を馴致すると共に,柞蚕業改善に
̶ 264 ̶
「満洲国」下柞蚕工業政策と合作社
関する諸調査を行ふものとす。一,飼育資金は合作社中央会をして調達せしめ貸付を行ふ,貸付に当
りては会社職員も積極的に協力せしめる。一,重点地域を択び労力の調整と閑繭場の利用を図るこ
と,荒廃せる繭場を復活せしむるため可苗圃を育成し,或は種の補殖補給をなす。一,飼育改善管理
方法としては,(イ)結蚕歩合三〇パーセントを目標として改善す。(ロ)繭場の下草刈取りを励行。
(ハ)稚繭の集約的管理の実施。(ニ)害虫害蝶の防除の徹底を期する。△蒐荷関係 一,物価物資統
制法に基き部会を制定,柞蚕統制の強化を図る。一,出荷契約合作社と柞蚕地域の飼育実行班との間
に結ばしめる。一,出荷の指導督励に要する経費は合作社中央会を通じ関係合作社に対し総額十万円
を交付する。なほ原種増殖に関しては西豊,鳳城柞蚕増殖場において原種百五十万粒を生産,生産実
行班に配給増殖せしむる」74 とした。
しかしこうした省公署,柞蚕会社,興農合作社等関係機関の猛烈な増産蒐荷工作にもかかわらず,
1942 年度も減産であり,蒐荷(生産)目標 23 億粒に対して実際蒐荷量は 10 億粒に留まった。その
理由としては「一,価格安による柞蚕農業の放棄,二,食糧の配給規正による食糧農産物への転換,
三,闇による省外への流出,四,省内における絹紬織の密造等」が指摘されている。安東省公署・柞
蚕会社安東支店では収買価格引上げ,繭の出荷契約,絹紬加工業者の統合,絹布の特配などの措置を
講じたが,「現在の柞蚕農民の大部分は食糧生産に重点を置き,柞蚕を副業化している」75 と見てい
た。
おわりに
以上の議論を要約すれば,以下のようである。
第一に,中国東北地方,特に安東・奉天を中心とする南満地域の特産物である柞蚕業は,柞蚕製糸
として 1930 年代以降,対日供給の比重が飛躍的に高まっていたが,満洲事変後の農村荒廃が原因で
生産高を減少させていた。
第二に,満洲国時期,日本側では品種改良などの技術向上に力点を置く一方,日中戦争以降は増産
のため農事合作社を通じた直接生産指導に重点を置き,信用,購買,販売事業の展開を試みた。修正
「満洲産業開発五ヶ年計画」に柞蚕が含まれると満洲柞蚕株式会社が設立されたが,農事合作社と満
洲柞蚕株式会社の間には業務の重複や,摩擦が生じていた。
第三に戦時体制下,満洲国政府は興農合作社を通じた柞蚕の増産に拍車を掛けたが,柞蚕農民は食
糧生産へと転換し,柞蚕業を放棄する傾向にあったこと,また「闇」流通も盛んに行われたことなど
から,柞蚕繭・柞蚕糸生産は一時的な増産を見ることはあっても,政府の期待する増産目標には到底,
及びえず,満洲事変以前の水準に回復することもなかった。
註
1
清川雪彦「満州における柞蚕製糸業の展開をめぐって」(『アジア経済』22 巻 1 号,1981 年 1 月),同『近代製糸技術とアジ
ア』(名古屋大学出版会,2009 年),藤井光男『戦間期日本繊維産業海外進出史の研究』(ミネルヴァ書房,1987 年),大島
栄子「絹綿交織物産地の形成過程―満洲柞蚕糸と賃機による後進機業地見附の産地形成」(『社会経済史学』第 50 巻 5 号,
1984 年),風間秀人『満州民族資本の研究』(緑蔭書房,1993 年),浜口裕子『日本統治と東アジア社会』(勁草書房,1996 年)
2
富士瓦斯紡績安東工場において生産される柞蚕紡績糸については,満洲内で消費される数量は極めて少なく,大半は英領イ
ンド・日本・中華民国に輸出され,このうち日本輸出品はさらにインドに向けて再輸出された。柞蚕紡績糸の製造者が当該
工場のみであったため,満洲事変以前には排日関税を賦課され,満洲国政府ではその税率逓減が政策課題となった。そこで
̶ 265 ̶
田中隆一
満洲国における関税改正においては,安東商工会議所より「満洲国輸出税に関する意見書」
(1932 年 12 月 20 日)が提出され,
「将来原則的には(柞蚕紡績糸の……田中)輸出税を撤廃」することが要求された。また富士瓦斯紡績会社でも以下の「陳
情書」(1933 年 1 月 11 日)を関東軍に対して提出している。「柞蚕紡績糸の現行輸出税率は一担に付十海関両にして輸出税
率表第四類紡織繊維中最高率に属し,之が負担は弊工場の最も苦痛とする所なるのみならず,現行税率表は元々中華民国よ
り其の儘継承せられたる関係上,左記が如き不合理有之候。一,柞蚕糸(一八二号)は輸出税免税なるに拘らず柞蚕糸の副
産屑より製造せられ,品質,価格遥かに低位に在る柞蚕紡績糸(一九九号)のみ高率関税を賦課せらる。一,柞蚕紡績糸は
右の如く有税品なるに拘らず其の原料たる副産屑(一八四号)は免税なり。右の如しく柞蚕部門に属する他の貨物が輸出税
を免除せられ居るに拘らず,独り柞蚕紡績糸のみ高率関税を課せらるるは其の意を得ざる所のみならず,原料無税にして其
の 製 品 有 税 な る が 如 き は 国 内 産 業 保 護 の 方 針 と 全 く 相 反 す る も の と 存 じ 候。 目 下, 当 方 の 生 産 能 力 を 基 礎 と
すれば,輸出税率年額約二万海関両にして,工場生産経常費の約二〇%に相当し,之が負担は経営上甚だ苦痛と致す所に有
之……国内産業保護助長の見地より右現行税率の不合理を改正し,柞蚕紡績糸に対する輸出税を免除若しくは軽減被成下様,
満洲国当局に御交渉被成下,本業を御助成方,特に御高配願度,此段奉懇願候」
(南満洲鉄道株式会社経済調査会『昭和十
年七月 立案調査書類第二三編第一巻続 満洲国関税改正及日満関税協定方策』92 頁,285∼6 頁)この結果,1934 年の満
洲国関税改正により,175 番/屑綿(落綿を含む)/担に付 0.45/無税,186 番/真綿/従価 50%/無税,199 番/絹織糸
及絹糸/担に付 15.60/無税(税番/品目/旧税/新税)となった。このため「輸出税は従来同社だけで三万円乃至四万円
かかつていたから,今後はそれだけ免除されるわけで,同社の立場は著るしく有利となつた」と評価された(「新関税はど
う響く⑦」『満日』1934 年 11 月 23 日)。
3
「飢餓線上に喘ぐ安東県下の農民」(『満日』1935 年 2 月 4 日)
4
「昭和十一年に於ける安東経済概況(二)」(『安東経済時報』197 号,1937 年 4 月)
5
6
7
安東商工公会調査科『柞蚕に関する研究』(1941 年)124 頁
安東商工公会調査科『柞蚕に関する研究』(1941 年)164 頁
「柞蚕糸組合ニ関スル件:柞蚕糸ノ品質改良,輸出ノ統制上柞蚕糸組合ノ強化ニ依ル斯業ノ発展ヲ企図シ左ノ対策ヲ行フ。
一,糸業公会ノ設立アルモノハ其ノ強化ヲ図リ,設立ナキモノハ之ヲ設立セシメ(暫ク工商同業公会規則ニ依ル)更ニ連合
会ヲ結成セシム。二,連合会ハ柞蚕糸品位ノ向上ヲ謀リ,輸出柞蚕糸検査ノ普及励行ニ努ムルモノトス。三,連合会ハ安東
ニ置くク。連合会ニ関スル法規規定ハ将来ノ問題トシテ保留シ,暫時自治的ナル組織トス」「柞蚕糸業公会ノ強化策:一,
工商同業公会規則第三条ニ依リ作成シ,地方最高行政長官ニ呈出シテ許可ヲ受クル公会ノ規約ニ組合員ノ義務規定及過怠者
ニ対スル制裁方法ヲ明定セシメ,政府ハ其ノ実行ヲ指導ス。義務規定ニハ左ノ内容ヲ含マシム。1,輸出柞蚕糸品位向上ノ
為行フ検査ヲ受クルコトヲ要スルモノトス。2,組合ニ於テ公益又ハ組合員ノ取引信用ヲ害スル虞アリト認メタル行為ヲ為
スコトヲ得サルモノトス(中略),四,連合会ハ政府ト協力シ輸出柞蚕糸ノ品位向上ヲ謀リ,検査及各組合ノ規約違反者処
分ノ励行ニ当ルモノトス」(一橋大学経済研究所所蔵美濃部洋次満州文書「柞蚕糸組合ニ関スル件」I-32)1935 年度には連
合会補助費 3 万 7000 円,検査費 4800 円が計上されている「柞蚕糸業振興費,満洲国,二年度も計上」(『満日』1935 年 7
月 2 日)。
8
「柞蚕検査所分所,海城,蓋平に設立」(『満日』1935 年 6 月 1 日)1937 年には安東柞蚕検査所の奉天移転論が浮上した。移
転理由は「一昨年来奉天省下蓋平,海城,復県,西豊等の柞蚕糸の生産高は奉天省並に県当局の積極的奨励策により増産又
増産の状態であるに拘らず,一方,安東省方面は鳳城,寛甸等の各県の治安関係により産額減少の数字のみ示すため」(「柞
蚕糸検査所奉天移転問題」『満日』1937 年 9 月 26 日)であるとされたが,安東では激しい反対運動が展開され(「柞蚕糸検
査所の奉天移転説,安東で反対運動」(『満日』1937 年 9 月 17 日),『満洲日日新聞』紙上でも「地方の分立的利害を無視し
た離合存廃を,統制の名のみ拘泥して強要すべきでな」く,「満洲全土の総体的開発は先づその地方地方に現存する産業の
奨励復活を図り,それ等を綜合して全般に繁栄素を普及」することが肝要であり,「奉天省繁栄の為に俄かに他省の地方的
利害を除外する」ような「既設の安東検査所を撤廃して奉天に移転するといふ理由にはなり兼ねる」(「社説柞蚕検査所の問
題」『満日』1937 年 9 月 22 日)との記事が掲載され,結局,安東に据え置かれることになった(「安東柞蚕糸検査所,存続
に正式決定」『満日』1937 年 10 月 19 日)。なお「柞蚕糸ノ品質改良,輸出ノ統制上柞蚕糸組合ノ強化ニ依ル斯業ノ発展ヲ
企図シ左ノ対策ヲ行フ」として「一,糸業公会ノ設立アルモノハ其ノ強化ヲ図リ,設立ナキモノ之ヲ設立セシメ(暫ク工商
同業公会規則ニ依ル)更ニ連合会ヲ結成セシム,二,連合会ハ柞蚕糸品位ノ向上ヲ謀リ輸出柞蚕糸検査ノ普及励行ニ努ムル
モノトス,三,連合会ハ安東ニ置ク。連合会ニ関スル法規制定ハ将来ノ問題トシテ保留シ,暫時自治的ナル組織トス」るこ
とが決定されている(「柞蚕糸組合ニ関スル件」前掲「美濃部洋次満洲関係文書」I-32)。
9
「日本絹紬工業家から柞蚕糸増産を陳情」(『満日』1935 年 7 月 4 日)日本絹紬工業組合連合会は 1934 年 12 月,福井県内の
南北 2 組合と岐阜県の絹紬工業組合が連合して創設されたものである(「柞蚕凶作で極端な生産制限」『満日』1936 年 8 月
19 日)。
10
「模範村」の選定基準は①「交通治安良ク,能フヘクハ県城ニ近ク指導ニ便ナルコト。但シ運営主目標ノ如何ニヨリ其ノ他
適当場所ヲ選フコトヲ得」,②「適当ナル中心人物又ハ篤農家存在シ,将来模範村建設ノ指導者タリ得ル人物ヲ有スルコト」,
③「村治ノ成績良ク道路ノ補修,共同防衛等ニ実績ヲ示シアルカ又ハ其ノ可能性アルコト」,④「其ノ他農業上其ノ他ニ於
テ何等カノ特徴アルコト。場合ニ依リテハ疲弊甚シキモノヲ選フモ可ナレ共,一般ニハ村民ノ協力カ明カニシテ模範村建設
̶ 266 ̶
「満洲国」下柞蚕工業政策と合作社
ニ対シ理解シ易キコトヲ要ス」,⑤「農牧林地ノ適正ナル配合アルコト,若ハ其ノ可能性アルコト」であった(「康徳二年十
月三,四日,総務庁長会議諮問指示事項及関係書類」(前掲「美濃部洋次満洲関係文書」A-1)。
11
「康徳二年十月三,四日,総務庁長会議諮問指示事項及関係書類」(前掲「美濃部洋次満洲関係文書」A-1)
12
「各省ノ産業開発方策如何実業部」(前掲「美濃部洋次満洲関係文書」A-1)
13
「特ニ柞蚕ノ奨励ニ関シテハ本省管内ノ柞蚕業ニ依存スル人口約百万柞蚕繭ノ産額約七〇億粒(全満ノ約九割,全世界ノ約
六割五分),柞蚕糸ノ輸出ノミニテモ年約一五〇〇∼一六〇〇万円ニ達スル最重要産業ナリ。而シテ柞蚕糸ニ対スル日本ノ
需要ハ近次非常ナル増加ノ趨勢ニアルニ対シ,満洲ニ於ケル柞蚕ノ飼育ハ種繭ノ不良ナルト飼育法ノ拙劣ナル為,柞蚕飼育
業者ハ収支均衡ヲ失シ,増産之ニ伴ハス,製糸業者ハ常ニ原料不足ニ悩ミツツアル現状ナリ。従テ之ヲ此儘放置スルトキハ
此ノ重要産業ハ滅亡ノ危機ニ瀕シ,之ニ依存スル百万農家ノ死活問題トモナルコト必然ナリ。依テ本省ニ於テハ特ニ此ノ点
ヲ緊急重要視シ,先ツ柞蚕原々種検定所ヲ設置シテ種繭ノ検査ヲ行ヒテ微粒子病ノ予防ヲ為スト共ニ,優良多糸量繭ノ普及
ヲナシ,併セテ柞蚕試験所ヲ設ケテ飼育法ノ改善,原種改良ヲナサムトス。此ノ種施設ノ実現並ニ製糸法ノ改善ニヨリテ当
業者ノ利益ヲ数倍ニナシ得ヘキ事ハ技術的ニ見ルモ一点ノ疑フ余地ナキモノナリ。特ニ深甚ナル御配慮ヲ要望ス」(同上「康
徳二年十月三,四日,総務庁長会議諮問指示事項及関係書類」)なお,熱河省公署でも中央政府に対して省内興隆県,承徳県,
青龍県において柞蚕飼育奨励を行うことを要望し,「本柞蚕ノ飼育ハ当地方ノ特産トモ云フ可ク,阿片ニ次ク有利事業ニシ
テ,現今其ノ飼育熱旺ナレト,指導機関ナキタメ何等ノ改良ナク之レカ指導奨励ノ急務ナルヲ痛感ス」として,2748 円の奨
励費を計上している。あわせて奉天省実業庁では指導機関ナキタメ何等ノ改良ナク之レカ指導奨励ノ急務ナルヲ痛感ス」と
して,2748 円の奨励費を計上している。あわせて,奉天省実業庁では柞蚕糸に関する「指導計画」を作成し,「現在,奉天
省に於て行はれているのは海城,蓋平,西豊,東豊の四県で全満産額の大半を占めているが,之が指導改善の機関なき為,
最初飼育の中病虫害(微粒子濃病)四割,鳥虫害三割,その他一割,合計八割は収穫不能となり,僅かに二割が成長するの
みにして,又柞樹も適当な改良を加へざる為め供給充分ならず,これ亦生産額を余儀なくされている現状にあり,病害に対
しては種子検査試験所を設置,又柞樹の栽培についても充分考究する一方,代用品の研究を行ふこととなつた。又組合制度
を設け,飼育組合,販売組合を結成せしめんとするもので,右指導改良を加へるに於ては二千万円程度の増産は容易にして
最近日本よりの注文殺到し,現在福井,岐阜等の製造業者は調査員を態々渡満せしめ当局に改良増収法を要求し来りいる有
様で柞蚕の前途洋々たるものがある」「柞蚕の改良を全国農務科長会議に提出,奉天実業庁指導計画」(『満日』1935 年 8 月
13 日)と報道されている。
14
15
同上「康徳二年十月三,四日,総務庁長会議諮問指示事項及関係書類」
「また安東の柞蚕職工動揺し巡警を殴打」(『満日』1931 年 6 月 25 日)には「中国街の山林支庁の職工が今月分の賃銀即時
支払を要求したが,支庁側は月末払ひの慣例であるからと,月末払ひを主張したるに,一部職工は嚇怒し,直に待遇改善要
求を提出して,形勢頗る不穏なるものがあつたため,巡警が出張仲裁に入らんとした処,何を生意気なと許り,滅茶苦茶に
殴打し,あわや大事に至らんとした処を公安局員出動,一時鎮撫したが,只ならぬ空気ただよつてをり,何時一大示威運動
に出るやも知れずと大いに警戒」したとある。
16
「苦力の不足に悩む柞蚕業者,満洲国の苦力取締緩和を要求」(『満日』1934 年 11 月 11 日)こうした労働力不足は日中戦争
時期には一層,深刻となり,満洲国政府産業部では日本海軍(旅順要港部)に対して柞蚕業に限り中国人労働者の入満制限
緩和することを要求したり(「職人入満杜絶で柞蚕収繭に危機」『満日』1937 年 10 月 2 日),安東総商会では省下各県より
募集した中国人を短期間で訓練し,速成職工とすることなどを試みている「柞蚕糸植民を速成」(『満日』1937 年 10 月 5 日)。
また長野県有明村からは荘河に「柞蚕移民」が試みられている(「柞蚕移民の計画,長野県有明村にて」『満日』1932 年 6 月
18 日)。
17
吉竹博愛「柞蚕振興対策を論ず」(『安東経済月報』8 号,1938 年 11 月)
18
満洲事情案内所『日満貿易事情』(1936 年)34∼36 頁
19
安東商工会議所『安東柞蚕事情』(1937 年)64 頁
20
21
満洲国政府実業部臨時産業調査局『荘河県に於ける柞蚕事情』(1936 年)
「需要激減の直接原因は従来日本の絹袖業者が無力で柞蚕製品の海外輸出は全部上海,天津,香港方面の支那商人の手を通
じて行はれていたため,事変により海外市場への販路を断たれた」(「事変に悩む柞蚕業を救済,奉天省当局が苦心」『満日』
1937 年 12 月 5 日)
22
「五ケ年計画と併行,柞蚕業発展を期す,奉天省,具体案を練る」(『満日』1937 年 2 月 5 日)
23
「柞蚕糸同業公会を創立」(『満日』1937 年 9 月 15 日)
24
満洲帝国地方事情大系刊行会『奉天省蓋平県事情』(大同学院同窓会出版部,1936 年)74∼75 頁
25
『満日』1932 年 7 月 5 日
26
「柞蚕と畑作の減収で蓋平農民の苦境」(『満日』1932 年 3 月 7 日)
27
前掲『奉天省蓋平県事情』74∼76 頁
28
「蓋平県之巻」(『奉天農事合作月刊』第 2 巻 11 号,1939 年 11 月)
29
「蓋平県之巻」(『奉天農事合作月刊』2 巻 11 号,1939 年 11 月)
30
産業部内に柞蚕対策研究委員会を設置,一,柞蚕繭の標準価格決定,一,柞蚕業に対する一貫的安定策の樹立を審議・決定
̶ 267 ̶
田中隆一
し,その実行機関として柞蚕飼育組合,柞蚕糸輸出商組合その他の関係同業組合で構成される柞蚕中央会(仮称)を設立し,
その下に価格調整委員会,統制配給委員会,産繭処理委員会を置き,柞蚕業振興を企図した(「柞蚕中央会設立,産業五ケ
年計画に編入,柞蚕開発積極化」『満日』1938 年 8 月 16 日)同様の記事,『安東経済月報』5 号(1938 年 8 月)。
31
「産業五年計画に編入,柞蚕増産の大綱決す」(『満日』1938 年 8 月 14 日)同時期,安東省公署においても柞蚕協議会が開
催され,柞蚕繭の取引標準価格などについて議論されている(「柞蚕繭糸標準価格,安東省提出原案を審議」『満日』1938 年
8 月 31 日)。
32
『奉天農事合作月刊』第 1 巻 3 号,50∼51 頁(1939 年 11 月)
33
「西豊県に於ける柞蚕飼育資金貸出概況」(『奉天農事合作月刊』第 1 巻 2 号,1938 年 10 月)
34
『奉天農事合作月刊』3 巻 1 号,33∼35 頁(1940 年 1 月)
35
「柞蚕増殖計画成る」(『満洲評論』第 16 巻 25 号,1939 年 6 月)
36
「柞蚕増殖五ケ年計画」(『安東経済月報』10 号,1939 年 1 月号)
37
「柞蚕統制会社,新京に設立と決定」(『満日』1939 年 5 月 27 日)
38
「農事合作社を語る座談会記録」(奉天省興農合作社連合会『奉天省農事合作社誌』1942 年)ここでも鈴木辰雄(奉天省農林
39
「柞蚕統制案は奉天省案成らず,統制会社の設立不可避」(『満日』1939 年 4 月 21 日)
科長)から「合作社と特殊会社との事業分野がはっきりしない」との批判が提起されている。
40
奉天省側では統制会社の事業範囲を柞蚕製品の収買に止め,販売輸出は既存業者に一任するなどの対案を提示している(「安
東省包含の連合会制度案,奉天省柞蚕統制案成る」『満日』1939 年 4 月 19 日)。鈴木邦夫編『満州企業史研究』(日本経済
評論社,2007 年)571 頁。
41
「柞蚕統制会社を現地より批判す上・下」(『満日』1939 年 9 月 15・16 日)
42
「柞蚕繭の出廻渋滞,打開対策に腐心」(『満日』1940 年 1 月 28 日)
43
「柞蚕繭需給調査,増産対策要旨決定」(『満日』1940 年 3 月 8 日)
44
「繭の配給不足で三割操業も困難」(『満日』1940 年 4 月 9 日)
45
「絹紬の収買,今後柞蚕会社で,近く産業部訓令公布」(『満日』1940 年 4 月 23 日)
46
「絹紬組合法を制定,柞蚕繭の流出防止」(『満日』1940 年 6 月 29 日)
47
「柞蚕工業組合結成,原料糸配給一元化,示達原案にもとづき各省実施案樹立」(『満日』1940 年 5 月 25 日)
48
「柞蚕増産対策成る,収買価格引上げを考慮」(『満日』1940 年 5 月 26 日)
49
「綿布と交換で春繭の出廻促進,奉天省下十県に実施」(『満日』1940 年 6 月 18 日)
50
「柞蚕繭加工業者の整理統合愈々断行,奉天省振興対策に本腰」(『満日』1940 年 8 月 1 日)
51
「柞蚕繭の収買実施,当分興農合作社に委託」(『満日』1940 年 10 月 25 日)「一,収買は満洲柞蚕株式会社(以下,単に会
社と称す)之を県興農合作社に委託し県興農合作社之を行ふものとす。二,収買に関し会社と県興農合作社とは収買委託契
約を締結するものとす。三,会社は収買手数料として従価の一〇〇分の二を県興農合作社に支払ふものとす。四,繭検査は
県興農合作社之を行ふものとす。五,繭検査員は興農合作社省連合会所定の講習を終了したるものを以て之に充て合作社は
之を常置職員とするものとす。六,格付は別紙格付要領に依り検査員之を為すものとす。七,収買は農産物交易場其他所定
の場所に於て行ふものとす。八,収買価格は政府の認可せる価格に依るものとす。九,収買単位は一〇〇〇粒建とす。
一〇,収買繭は収買現地に於て会社之を引取るものとす。一一,購繭資金は其の都度会社之を県興農合作社に前渡するもの
とす。一二,蒐貨並びに出廻促進に関しては合作社は会社と密接なる連絡を取ると共に必要に応じ次の措置を採るものとす
(1)出廻督励員の設置,
(2)出荷奨励金の交付,
(3)宣伝工作,
(4)生活必需品の配給・斡旋」(「柞蚕収買要綱決定」(『満日』
1940 年 10 月 27 日)
52
「柞蚕繭の収買を中止す,奉天省下三県」(『満日』1940 年 11 月 8 日)
53
「等外繭収買に格差」(『満日』1940 年 11 月 12 日)
54
「等外繭の収買を中止す」(『満日』1940 年 11 月 19 日)
55
「等外柞蚕繭公定価決定」(『満日』1940 年 11 月 29 日)
56
「柞蚕繭の収買,年度内予想量困難,奉天省鋭意対策考究」(『満日』1940 年 12 月 11 日)翌 41 年 1 月,「柞蚕業統制に関す
る件」(奉天省カ)が公布され,「柞蚕繭の生産又は小作料として柞蚕繭を取得したる者は農産物交易場又は市県長の指定し
たる場所意外の場所において柞蚕繭の売渡をなすを得ず」(第二条),「農産物交易場又は市県長の指定したる場所以外の場
所において柞蚕繭の買入をなすことを得ず」(第三条),「柞蚕繭の収買は省長の指定したる者にあらざれば之をなすことを
得ず,但し秋繭用種繭に付ては当分の間之を適用せず」(第四条)などが規定された(「柞蚕加工収買統制,柞蚕統制令二四
日公布実施」『満日』1941 年 1 月 29 日)。
57
「柞蚕増産対策要綱決定」(『満日』1941 年 6 月 17 日)
58
「満洲柞蚕人事異動」(『満日』1941 年 6 月 27 日)
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「経営台帳決定,柞蚕飼育農家調査五月上旬実施」(『満日』1941 年 4 月 25 日)
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「時期既に遅く,技術的に甚だ困難,柞蚕増産対策要綱奉天省説明会」(『満日』1941 年 7 月 4 日)
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「柞蚕増産対策による業務移譲に異論」(『満日』1941 年 7 月 5 日)
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「満洲国」下柞蚕工業政策と合作社
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「柞蚕会社の一元扱ひに安東興農連は反対表明」(『満日』1941 年 7 月 8 日)
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「興農再検論表面化,柞蚕増産対策に現地側断乎反対」(『満日』1941 年 7 月 11 日)
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「柞蚕増産対策,奉天省運用方策決定」(『満日』1941 年 8 月 7 日)
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「撫順柞蚕非難の声高し,県当局等が直営計画」(『満日』1941 年 8 月 14 日)
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「登録制度を採用,柞蚕加工業者の整理愈々実施」(『満日』1941 年 10 月 4 日)
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「蚕匠を活用 新機軸の柞蚕種配給法」(『満日』1941 年 10 月 10 日)その方法は「一,検査と蚕匠の仕事,蚕匠は十月二十
日までに入山,第二次蛹体検査より従事する。即ち蚕匠は検査班の指示を受け,飼育人,同道総荷口を検査所に持参する。
二,配給に関する蚕匠の仕事,イ,第二次検査所に於て検査終了後繭蚕匠に渡し,蚕匠はこれを現地より搬出配給する,ロ,
蚕匠に対する監査所を設置すると共に監査の方法は左記に依り行ふ……三,需要地配給と蚕匠,蚕匠は会社出張所の責任に
おいて合作社と協力,需要地までに届ける蚕匠が種繭を持参せば,村公署立会の上,農民に配給する。種繭の領収書は村(村
長)において取纏める,出張(所)は種繭の保護責任に任ずると共に蚕匠に対しては鞘金をとらぬやう注意する」などとなっ
ている。具体的に遼陽県の事例では,柞蚕は楢や槲(かしわ)に放蚕するため種繭の良否が収繭量に大きく関係する。ここ
で微粒子病という伝染性の病毒を持つ種繭を使用すると,全山全滅に近い被害が生じるため,柞蚕飼育業者,種繭販売業者
は種繭に適している蚕場の蚕児成育状況を見た上で購入することが慣例であった。しかしこれを満洲種子配給協会が病毒検
査を実施し,無毒のものを合作社を通じて配布・貸与することに決定したところ,申請が殺到し,その結果,配布ができな
い状態に陥った。これは種子配給協会が種繭の独占的購入を行ったため,種繭業者や飼育者が種繭を直接購入できなくなっ
たことに起因していた(「遼陽県概況」『奉天農事合作社月刊』第 3 巻 3 号,1940 年 3 月)。
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「第一条:本令は柞蚕繭の収買及び配給の円滑を期すると共に,柞蚕業の健全なる発達を図るを以て目的とす。第二条:柞
蚕繭の生産者又は小作料として柞蚕繭を取得したる者よりの収買は省長の指定したる者及び指定したる場所に非ざれば之を
為す事を得ず。但し秋繭用種繭に就ては当分の間これを適用せず。第三条:前条の指定を受けたる者柞蚕繭を買入れたる場
合は遅滞なく省長に報告すべし。第四条:柞蚕加工業を営まんとする者は省長の定むる所により,省長の許可を受くべし。
第五条:柞蚕加工業とは柞蚕糸,柞蚕挽手,絹紬及び柞蚕実綿を製造するといふ」
(「柞蚕業統制,奉天省省令を布告」『満日』
1941 年 2 月 5 日)
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「収繭四十二億粒,柞蚕秋繭の出回り予想」(『満日』1941 年 10 月 22 日)
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「秋繭から収買直営,柞蚕会社増産促進態勢」(『満日』1941 年 9 月 2 日)
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鎌倉巌「満洲柞蚕統制の指標」(『満洲経済』1944 年 3 月号)
安東商工公会調査科編『柞蚕に関する研究』(1941 年)128∼29 頁
「合作社が一元的に指導,奉天省下柞蚕増産打合会開催」(『満日』1942 年 4 月 16 日)「柞蚕は満洲柞蚕株式会社の技術員を
合作社の嘱託としてその指導協力を俟ち,飼育者の指導・便宜供与等を合作社が主体となつて行」うこととしている(横浜
正金銀行調査部『興農合作社に就て』1943 年 6 月,大阪市立大学学術情報センター所蔵)。
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「七十億粒柞蚕増産計画樹立」(『満洲評論』第 22 巻 15 号,1942 年 4 月)
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「柞蚕減産の根本原因」(『満日』1943 年 5 月 31 日)1943 年 1 月末時点の加工工場は株式 2(日系 1,中国系 1),合名 11(全
部中国系),個人経営 52(全部中国系)の合計 75 で,投下資本金額は日系資本 48 万円余,中国系 132 万円余,年産額は柞
蚕糸 75 万円,挽手 197 万円,絹綢 572 万円余,蛹子 20 万円余となっている(「繊維界の寵児,柞蚕」『満日』1942 年 11 月
30 日,「伸び行く地場産業現地報告:安東省の巻」(『満日』1943 年 3 月 17 日)。
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