沖縄戦体験者の証言(大城春子)
【沖縄 IDN=ラメシュ・ジャウラ】
「私の青春時代には戦争という地獄がありました。二度と
戦争が起きないよう、命ある限り、平和の尊さ、教育の大
切さを語っていきたいです。」と大城春子さん(88歳)
は、第二次世界大戦末の沖縄戦の体験者として当時の悲惨
な実情を証言する中で語った。
大城春子さん
資料:Hruko Oshiro
米軍の沖縄侵攻では沖縄島民の4人に一人が犠牲となった。
「鉄の暴風」とも呼ばれる激烈
な沖縄戦は琉球諸島を舞台に1945年(昭和20)年4月上旬から6月中旬まで日米両
軍の間で行われた戦いである。沖縄戦終結から約2か月後、米国は広島、長崎に原子爆弾
を投下し、日本は間もなく無条件降伏を受諾した。
目撃者証言:
太平洋戦争中、本土防衛の捨て石となり悲惨な地上戦が展開された沖縄では、住民の多く
が戦火の犠牲になりました。私も大切な婚約者と妹、妹の娘を戦争で亡くしました。地獄
のような戦争を二度と起こしてならない。終戦から60年以上たった今も、私はそのこと
を心に決意しています。
私の青春時代は戦争に染まった日々でした。日本は「神
の国」と教育された私は、日本の勝利を信じて疑いませ
んでした。敵が来たときにはいつでも迎え撃てるように
と、もんぺ姿で戦に備えていました。竹槍訓練などにも
率先して参加しました。皆は竹を火で炙って先端を磨き
武器にするのですが、私はそれでは心もとなく、竹槍の
先に釜をくくりつけて、万が一に備えていたほどです。
1940(昭和15)年夏、私は青年団で知り合った人
と婚約しました。半年後には戦地に出征するのはわかっ
ていましたが、国のため、安心して戦地に行かせるため、
そして何よりも生きて帰るという希望になればと思い、
米軍の沖縄上陸作戦計画
資料:Wikimedia Commons
「生きて帰ってきたら結婚しよう」と誓い合いました。
忘れもしません。1944(昭和19)年11月5日、婚約者
がビルマで戦死した知らせを受けました。ショックで体中が震
えました。軍人の妻は夫が戦死しても泣いてはいけないと教え
られた時代なので、人前で泣くこともできません。悲しみがこ
み上げると血が出るほど唇を噛み締めて耐えました。彼の戦死
を受け入れられない私は、夜中にお墓をあけ、遺骨が納まって
いる白木の箱をあけました。中には白い石が3個あるだけ、あ
まりのことに呆然としました。その頃、伊江島では東洋一とい
われた飛行場を建設していました。
大半の男性は出征しているので、私も多くの女性たちと建設作
戦後間もない頃の大城さん
資料:Haruko Oshiro
業に向かいました。
「日本は必ず勝つ」と信じ、どんなきつい仕事も厭いませんでした。し
かし、巨大な飛行場は米軍の最大の標的になりました。1944(昭和19)年10月1
0日、那覇市の約90%が消失した「十十空襲」を境に、沖縄に対する米軍の空爆や艦砲
射撃は日に日に激しくなりました。米軍が伊江島に上陸して飛行場を利用すると大変危険
な戦況になるとの日本軍の判断に、今度は命がけで建設した飛行場を壊し、米軍の戦車を
落とす穴を掘ることになりました。
沖には無数の敵の軍艦、魚雷が海を走り、空からは、戦闘機が低空飛行で大地を揺るがし
ています。「どうせ死ぬのなら家族のもとで死にたい」。私は4人の女性と島を脱出し、小
さなくり船で沖縄本島を目指しました。
浜にたどり着き、ソテツの陰や藪に隠れて空爆を避け、3日がかりで故郷にたどり着きま
したが、家は焼けてありませんでした。何とか家族と出会い、壕に入って4~5日たった
頃、米軍が山からどんどん下りてくるのが見えました。当時米兵は鬼畜と言われ、女性に
は脅威そのものでした。私は髪を切り、顔には
鍋底のススを塗ってわざと汚い格好をし、身を
潜めていましたがすぐに捕虜になりました。
捕虜になる数日前、妹が壕を出ていきました。
1歳になる娘がよく泣くので、ここにいては家
族が敵に見つかってしまうと言って、近くの墓
に向かったのです。ところがその墓が攻撃され
たという話が聞こえ、胸騒ぎがして妹を探しに
いきました。
洞窟を破壊する米海兵隊(1945 年 4 月)
資料:Wikimedia Commons
「姉さん。来てくれたの。ありがとう。」か細い声に振
り向くと、血と泥が混ざり合って顔がどす黒く腫れ上
がり、内臓が着物の上に飛び出ている人がいました。
顔の見分けもつかないその人の着物の柄が目に入りま
した。その着物は私が妹に渡したものでした。
妹だと確信した私は「さっちゃん(娘)はどうしたの?」
と聞きました。もうろうとした意識の中で、
「お墓の中
で殺された」と言っていました。攻撃を受けた時、妹
は赤ちゃんにお乳を飲ませようとしていたようで、胸
元がお乳で白く汚れていました。妹を連れて帰ろうと
モッコを取って引き返したときには、米兵がトラック
にのせて走り去っていきました。それが妹に会った最
沖縄南部を占領した米軍
資料:Wikimedia Commons
後になりました。消息不明になった妹は、戦後隣村の壕で遺骨となって発見されました。
その時も着物の柄で分かったのです。さっちゃんの遺骨はついに見つかりませんでした。
捕虜になった私たち家族は村の人たちと一緒に捕虜収容所に連行されました。バラック小
屋に家族10人で住み、ハブの多い危険な谷底まで食料を探し回りました。
ある日、谷で食料を探していると、若い7人の日本兵を発見しました。米軍が追ってきて
命からがら逃げ惑っていると言うのです。幼い顔立ちの兵士たちの話を聞いていると、何
とかして助けたいと思いました。沖縄は6月23日に米軍に占領され沖縄戦は終結してい
ましたが、私たちは、まだ戦争が終わっていないと思い込んでいました。いずれこの日本
兵たちが活躍する時が訪れると信じ、彼らを匿いました。しかし10日後には米軍に発見
され、7人は強制送還され、匿った私たちも軍事裁判を受けることになったのです。
私は極刑を受ける覚悟はできていました。婚約者も戦死し、将来に夢も希望もなく、怖い
ものは何もありません。銃殺されても彼は「お国のためによく頑張った」と迎えてくれる
に違いないと、心は愛国心で満たされていました。
私が本当に戦争が終わったと思ったのは、1945(昭和20)年8月15日、裁判の結
審の日です。審理の途中で天皇の玉音放送を聴きました。
日本は「神の国」ではなく、愚かな戦争をしていたのだと思いました。終戦の日、懲役1
年の刑が言い渡されました。
収容所は、周りを二重の金網で囲われ、その中にテント
を張った粗末なものです。久志、宜野座など二カ月ごと
に場所を移動し、さらし者にされました。
刑期を終え故郷に戻り、その後は米軍基地で軍雇用員と
して働きました。基地には食べ物などの物資が何でも揃
っていました。自分たちはこんな裕福な国と戦争をして
いたのか、何も知らない井の中の蛙だったと気がつきま
した。
沖縄における収容所
資料:Wikimedia Commons
基地で働いているときに知り合った男性と結婚。病気がちな夫を支え、7人の子どもを育
てるのに必死でした。戦争が終わっても、私の心の傷はずっと癒えずにいました。戦争で
亡くなった人々や日本兵を助けるために一緒の行動をした人たちのことが心に引っかかっ
ていたのです。その人たちの供養のため、ユタ(霊媒師)に通ってはお金をつぎ込んでい
ました。1961年に創価学会とめぐり合いました。この信仰は自分で回向ができると教
えられ、以来、亡くなった方々の冥福を毎日祈っています。
日本で唯一の地上戦が行われた沖縄では、県民の4人に1人が犠牲になったと言われてい
ます。その沖縄に対し、池田名誉会長は「戦争ゆえに、どこよりも苦しみ抜かれた、この
沖縄こそが、どこよりも幸せな『平和島』になることなくして、日本の将来はない。アジ
ア、ひいては世界の真の平和もやってくることはない」と語っています。その言葉に私は
使命を見いだし、歯を食いしばって生きてきました。子や孫たちを創価学会の平和の心を
受け継ぐ人にと育ててきました。
私の青春時代には戦争という地獄がありました。二度と戦争が起きないよう、命ある限り、
平和の尊さ、教育の大切さを語っていきたいです。(IDN-InDepthNews/09.29.2010)
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