71 「蒙疆政権」初期の獣毛統制政策と蒙疆羊毛同業会
じ
め
に
田
「蒙疆政権」初期の獣毛統制政策と蒙疆羊毛同業会
は
中
剛
一九三七年に七・七事変が勃発すると、内モンゴル西部とその周辺を素早く占領した関東軍は、ここに「察南自治政
府」「晋北自治政府」「蒙古聯盟自治政府」の三自治政府、いわゆる「蒙疆政権」を樹立した。その「蒙疆政権」の支配
下にあった内モンゴルとその周辺は、事変以前から中国における畜産業の拠点であった。「蒙疆政権」管内に出回る畜
産物、とりわけ羊毛をはじめとする獣毛類は天津を経て海外に輸出され、国際収支で重要な役割を果たしていた。また、
戦時にあって獣毛類は、軍装、軍用毛布等に使用される重要な軍事物資でもあり、そのため日本側にとって獣毛資源の
(1)
確保は、緊急を要する問題であった。つまり、羊毛統制政策は「蒙疆政権」にとって戦時経済上、極めて重要な政策で
あったと言える。
(2)
先行研究についてみれば、Chi
nが一九三七年以前の中国産羊毛について輸出港であった天津との関係から分析を加
えている。また、斯日古楞は「蒙疆政権」の畜産政策について制度史からアプローチする。獣毛類が産出・集荷される
内モンゴル地域とその輸出港であった天津との関連を押さえつつ、
「蒙疆政権」の政策実態を把握する必要があろう。
かかる状況にあって本稿では、日中全面戦争の勃発直後、日本側が獣毛類、とりわけ羊毛の集荷買付・販売・輸出を
いかにおこなったのか、その実態を解明する。具体的には、①「蒙疆政権」の獣毛統制政策とその背景、②獣毛取引の
単位:kg
表 1 天津港・上海港からの獣毛輸出量(1936年)
実態、③獣毛統制をめぐるイギリスとの対立、以上について検討する。
(3)
ロックを強化し、日本の綿製品輸出を阻止しようとした。三六年五月にはオーストラリア政府
でになっていた。この情況に対抗して、イギリスは英連邦各国とオタワ協定を結んで英連邦ブ
日本の綿工業は大正から昭和のはじめにかけて急速に発展し、イギリスの海外市場を脅かすま
であった。当時、日本はイギリスや英連邦諸国とのあいだで貿易摩擦を抱えていたからである。
このように豊富な「蒙疆政権」管内の獣毛資源は、日本の紡績業界にとっても魅力あるもの
た。
物類の三〇〇〇万円、鉱物の約九〇〇万円に劣らず、管内最大の輸出資源に位置づけられてい
移出される畜産物の総額は約四四四〇万円と見られていた。これは、阿片の二二〇〇万円、穀
基礎として三八年初に日本側が作成した「蒙疆政権」管内の物資移出額概算(表2)によれば、
いた。この獣毛資源が「蒙疆政権」でどれだけの位置にあったかといえば、事変以前の状態を
(4)
羊毛の実に八割が平綏線から搬出されており、残り二割が山西・山東・河北省から搬出されて
と駱駝絨にしても大部分が天津港から輸出されていたことが分かる。その天津から輸出される
毛総輸出量一万六〇六七トンの八九・四%にあたる。また、羊毛だけでなく山羊絨(カシミア)
表1にあるように天津港から輸出される羊毛は一万四三五九トンであった。これは、中国の羊
羊毛など中国産獣毛は七・七事変以前、その八割前後が天津港から輸出されていた。例えば、
一九三六年当時、中国産出の羊毛は年間約五万トンを計上し、世界第八位の産出量であった。
一 「蒙疆政権」の獣毛統制政策とその背景
.
72
〈出所〉船橋甚兵衛『事変後に於ける支那羊毛市況概略』1938年 6月、24 25頁
より作成。なお、総輸出量に「満洲国」産は含まれていない。
73 「蒙疆政権」初期の獣毛統制政策と蒙疆羊毛同業会
表 2「蒙疆政権」管内移出概算表
〈出所〉細谷清「蒙疆政権の特異性(1)」『蒙古』第 88号、1939年 9
月、30 31頁より作成。
に、日本綿布に対する禁止的関税と
輸入許可制を断行させるまでになっ
ていた。このようなイギリスの対応
に、日本はオーストラリア羊毛の不
買をもって対抗したが、オーストラ
リアは三五年当時で輸出羊毛の二八
%を日本に送り、日本も輸入羊毛の
九四%をオーストラリアに依存して
(5)
いたので、この状態はながく続かな
かった。結局、日豪双方は通商交渉
で妥結し、羊毛輸入も三七年に再開
されることになった。しかし、日英
の経済関係が悪化したことによって、
日本は従来のように羊毛輸入をオー
ストラリアに依存する体制を改めて、
分散買付に転換する必要に迫られて
いた。
加えて、七・七事変の勃発が日英
関係をさらに悪化させた。日中全面
戦争への対抗措置として中国に莫大
74
な権益をもつイギリスが、日本との通商を断絶するのではないかと日本側は懸念していた。かりに通商断絶に至った場
合、羊毛の受ける打撃は極めて大きいと見られていた。外務省の見通しによれば、事変の影響でオーストラリア・ニュー
ジーランド・南アフリカの英連邦諸国と、イギリスの影響力が強いアルゼンチン・ウルグアイなどの羊毛生産国が、イ
ギリスの工作で一斉に日本への不売を断行する可能性は、一大消費市場を失うことになるので現実にはありえないとし
ながらも、重大局面によってはありうるだろうと指摘している。万が一、不売が断行されれば、①羊毛工業の衰退と、
(6)
これにともなう失業者の増加、②約七〇〇〇万円に達する羊毛製品の輸出喪失、③戦地の軍隊に対する被服給与への支
障が予想された。そのため、日本としては英連邦以外から羊毛を輸入する必要があり、平綏線沿線の羊毛に興味を持つ
一九三七年、日中全面戦争の勃発に素早く反応した関東軍は察哈爾作戦を展開し、平綏線に沿って張家口に「察南自
ことにもなった。
治政府」
(九月四日)、大同に「晋北自治政府」(一〇月一五日)、綏遠(のちに厚和豪特、略称して厚和と改称)に「蒙
古聯盟自治政府」
(一〇月二八日)を樹立した。張家口特務機関は一一月二日、「蒙疆地区綿羊、羊毛及羊毛皮配給統制
要綱(案)」を作成した。その内容は、羊毛原料確保という国防・産業上の要請から、綿羊・羊毛・羊毛皮の配給(集
荷と販売)を一元統制して、日・満・華北ブロック経済の強化と羊毛工業政策の確立に役立てることを方針とする。そ
(7)
の要領は、①鐘紡・満蒙毛織・大蒙公司・満洲畜産会社による共同配給、②指定業者による組合結成と数量・価格・販
路の「自治的統制」、③組合に対する蒙疆聯合委員会の指導、④組合と管内の同業会との緊密連絡、以上をあげる。平
綏線沿線の占領地域に独自の集荷機構をもたなかった日本は、従来の集荷機構を踏襲するという前提に立ち、日系業者
(8)
による組合に在地機構を管理統制させて畜産資源を買収しようと計画した。この要綱案は、一一月一五日付で関東軍の
承認を受けた。
関東軍が同要綱案を承認するのを待たず、張家口特務機関は一一月一一日に「蒙疆地域獣毛配給統制要綱」を決定し
て畜産資源の統制に取りかかった。この統制要綱は一一月二日作成の要綱案を基本に作成されたものであった。配給統
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制の方針として第一に、羊毛・山羊毛・駱駝毛類の配給(集荷・販売・輸出など)を一元統制し、日・満・華北ブロッ
ク経済の強化と羊毛工業政策の確立に役立てる。第二に、第三国商人の商権を「可及的駆逐」する。さらに要領の部分
では、①蒙疆聯合委員会が組合に獣毛類の独占輸出を行なわせる。②組合は鐘紡・満蒙毛織・大蒙公司・満洲畜産・三
井物産・三菱商事・兼松・日本毛織で結成し、獣毛類の配給統制にあたらせる、③組合は事業計画・役員人事・決算な
(9)
どの重要事項について蒙疆聯合委員会の「内面指導」を受ける、④組合は各獣毛同業会と緊密な連絡を保つ、⑤蒙疆委
員会は各同業会を整備し、これと組合との連絡を斡旋する、とした。
ここで注目すべきは、統制方針に第三国の商権を排除することが掲げられたことである。事変勃発前まで、中国産獣
毛の市場はイギリスとアメリカの二国が占め、日本は出遅れていた。表3(次頁)にある通り、日本は中国産カシミア
の輸出量で過半数を占めていたものの、羊毛・駱駝毛では一%未満に過ぎなかった。羊毛・駱駝毛輸出量のほとんどが
アメリカとイギリス向けであった。かかる情況にあって、日本が平綏線沿線から出まわる獣毛を押さえようとすれば、
中国産獣毛の大部分を押さえることにもなり、それはアメリカ・イギリスが従来もっていた商権を排除しなければ達成
また、関東軍が日系業者に対して統制組合を結成させようとした目的は、軍需用獣毛を調達するためでもあった。関
できるものでなかった。
(
)
東軍参謀長は、三七年度軍需用の羊毛約四五トンを軍の調弁班に直接買収させ、三八年度分約六〇万トンを組合に調達
(
)
その都度、軍側の関係機関に連絡することに留意して蒙疆聯合委員会と組合を指導するようにと、張家口特務機関に指
②軍の購買する羊毛価格は蒙疆聯合委員会と協議して決定する、③組合の集荷数量・価格などを決定・変更する場合は
させるよう、張家口特務機関へ伝えた。さらに一九三七年一二月九日には、①組合は羊毛を軍側に優先的に供給する、
問題を解消するため、関東軍は綏遠占領で接収した綏遠毛織廠を満蒙毛織に委託して、軍用毛布の生産にあたらせよう
関東軍が軍需用羊毛の確保を急いだ背景には、厳冬期を目前にしながら軍用毛布が不足していた事情があった。この
示していた。
76
表 3 中国の獣毛輸出(相手国別)
〈出所〉上海総税務司署統計科『中華民国二十六年 海関中外貿易統計年刊』1938年、183 1
85頁。同『中華民国二十九年
中外貿易統計年刊』1941年、207 209頁より作成。
海関
77 「蒙疆政権」初期の獣毛統制政策と蒙疆羊毛同業会
(
)
)
)
)
)
は命令・指示に違反したとき、蒙疆連合委員会が同業会役員の解任、同業会の解散を命じることができる、③各地の獣
設立を認可した。すなわち、①蒙疆連合委員会が同業会に対して必要な命令・指示を与える、②同業会の規約、あるい
と協力して畜産資源の利用発展をはかることを謳った。一二月二五日、蒙疆聯合委員会は以下の条件付で羊毛同業会の
疆羊毛同業会が蒙疆聯合委員会の監督指導を受けて獣毛取引の自主的統制を行ない、蒙疆聯合委員会および各自治政府
に兼松・日本毛織が加わって計八社は、蒙疆聯合委員会に蒙疆羊毛同業会の設立認可を申請した。「申請書」には、蒙
社の持ち株とする)で蒙疆聯合委員会の援助を得て西北方面の獣毛の買付にあたるとした。一二月一二日、前述の六社
(
ことで合意した。新たに設けられる組合の名称を「蒙疆羊毛同業会」とし、資本金三〇〇万円(一口一〇万円として各
井物産・三菱商事・大蒙公司・満洲畜産の六社代表が集まり協議した結果、獣毛の買収・配給を行なう組合を結成する
合委員会」を関東軍が組織した。つづいて一一月二五日から二七日の間、蒙疆聯合委員会の主宰で鐘紡・満蒙毛織・三
一一月二二日、三自治政府(「察南自治政府」「晋北自治政府」「蒙古聯盟自治政府」)の統制指導機関として「蒙疆聯
京工場(年産毛布一一万二〇〇〇枚)とあわせて「満洲」の需要を満たすことができるだろう、と見られていた。
(
〇万円をかけて年産ラシャ一〇万メートルの生産能力をもつ工場の建設を決定した。この工場が完成すれば、同社の北
流れを受け、天津でも生産工場の建設を予定した。天津では三八年度中に完成して生産を開始する予定で、総工費一五
に取りかかり、工場の全設備を使用して軍需品の製造にあたるとしていた。なお、満蒙毛織は日本側による獣毛独占の
(
〇〇ヤードに加工する能力を持っていた。関東軍の委託を受けた満蒙毛織は、三八年一月中の操業再開を目指して準備
(
一〇〇馬力ボイラー)を有し、一年間で原羊毛一五〇トンを毛糸一四万ポンド、毛布一万五〇〇〇枚、毛織物一万五〇
万元)の毛織工場で、原動力の二〇キロサイクル三相交流発電機と発電機用のスチームエンジン(一二馬力エンジン、
あった。綏遠毛織廠は三三年一二月に綏遠省政府の主導で設立された資本金三〇万元(綏遠省政府二〇万元、民間一〇
政府などに納入しており、関東軍との関係が極めて強かった。その点を考慮されて、綏遠毛織廠の運営を任されたので
とした。満蒙毛織は日本の毛織原料を確保する目的で一九一八年に設立され、その後は製品を陸軍省・満鉄・「満洲国」
78
表 4 1936年度西北貿易額表
〈出所〉満鉄北支経済調査所「蒙疆に於ける阿片」1
941年 5月 15日、江口圭一
編著『資料日中戦争期阿片政策』岩波書店、1985年 7月、215 216頁。
毛類同業公会との連絡を保ち、在来業者に脅威を与えないよう厳重に留意する、
④回教徒およびそのほかの「辺境民」を懐柔するように務め、彼らの生業に急激
な衝動を与えないように注意する、⑤軍用羊毛類は優先的に軍に供給する、以上
蒙疆羊毛同業会が蒙疆連合委員会の強力な指導下に置かれていたことは言うま
とした。
でもないが、回民など西北ムスリムを工作対象に入れていたことは注目に値する。
確かに、「蒙疆政権」管内に出まわる獣毛の大部分は西北から搬入されたもので
あった。平綏線を経て天津に運ばれる獣毛のうち、八〇%が寧夏・甘粛・青海・
(
)
新疆省といった西北の産出で、残り二〇%が内モンゴル産であったので、より多
生産額が年間一〇〇〇万両に対して西北からの移入が一〇〇〇万両とも、管内生
て取引高が大きかった。阿片の生産・移入規模については、「蒙疆政権」管内の
(四〇%)と並び、「蒙疆政権」管内に移入される西北貿易の物産のなかでも極め
あった。事実、表4に見られるように阿片(三六年度移入総額の四四%)は獣毛
京津から移入した綿糸布類・茶・煙草などを西北へ再移出する西北貿易が活発で
厚和と包頭では、西北から獣毛・阿片などを移入して京津方面に再移出し、逆に
「蒙疆政権」の財源を確保するためであった。事変以前の平綏線沿線、とりわけ
それは第一に、獣毛と阿片に支えられた西北貿易を活性化させることによって、
を求めていただけではなかった。
羊毛同業会が西北への施策を志向していたのは、需要を満たすために豊富な獣毛
くの獣毛類を確保するためには西北への働きかけが欠かせなかった。だが、蒙疆
79 「蒙疆政権」初期の獣毛統制政策と蒙疆羊毛同業会
(
)
産高六五〇万両に対して西北から九五〇万両とも言われおり、管内生産量と同等あるいはそれ以上の阿片が西北から流
(
)
阿片税と西北貿易通貨税によって支えられていたことから、当然、「蒙古聯盟自治政府」でも西北貿易の活性化が求め
額の約四三%)、西北貿易通貨税収から八〇万元(約二六%)の支弁を受けていた。このように綏遠省の財政と軍費が
三九〇万元(約四五%)を計上していた。さらに傅作義軍の軍費総額三一〇万元も、阿片税収から一三三万元(軍費総
れ込んでいた。このように活発な西北貿易を背景に、事変前の綏遠省では財政収入総額八六二万元のうち、阿片税収は
)
)
民であり、駱駝隊商の八〇%も回民が運営していた。つまり、回民は西北貿易と緊密な関係にあった。この点は日本側
(
ども回民が占めていた。黄河を利用した運搬のひとつであった牛羊皮筏はすべて回民で営まれ、民船の船員も大半が回
人問屋は内モンゴルとの取引が多く、回民問屋は西北との取引が多かった。なおかつ、西北貿易での輸送機関のほとん
永恒西・清順恒・宝順公・徳蔚隆の八軒に過ぎないが、取引額は二〇余軒の漢人皮毛問屋を上回るといわれていた。漢
んでいたことになる。包頭にある回民の皮毛問屋について見ると、その主要なものは大恒永・三義棧・徳順公・衆盛公・
商一一一戸、農業一〇戸、船員一〇戸を数えた。つまり、包頭の回民の多くが西北貿易と何らかの関係をもつ職業を営
れ、その職業は皮毛業三九戸、料理店二三戸、茶菓子業二五戸、食肉業一五七戸、養駝業四八戸、小商一三二戸、仲買
た。日本側が活性化をはかろうとした西北貿易の担い手は回民であった。例えば、包頭の回民は当時五〇〇〇名と見ら
第二に、西北回民を日本側に誘導することによって「赤色ルート」を遮断し、華北の「赤化」を防止するためであっ
れに付随して阿片取引も再開しようと目論んだのであった。
に移入するのは難しかった。このため、羊毛をはじめとする獣毛類の取引を再開することで西北貿易を活性化させ、こ
条約によって禁制品とされ、なおかつ国民政府も禁煙法を制定して禁絶しようとしている阿片を、公然と「蒙疆政権」
政府財源を確保するため、再び西北貿易を活発にして阿片と獣毛を「蒙疆政権」に移入する必要があった。だが、国際
政府の輸出禁止政策によって激減し、少量が密貿易によって日用雑貨類と交換で移入されるに過ぎなかった。そこで、
(
られていた。ところが実際、事変勃発の影響を受けて西北貿易が滞ったために、阿片は全く出回らず、獣毛皮類も国民
も注目し、駐蒙軍司令部が策定した『暫行回教工作要領』の工作目標に、「目下実施ある経済工作を継承し、回教徒の
(
)
奥地より搬出し来れる商品は、相当価格を以て購入し、出回りを促進すると共に、その代償には努めて日本商品を供給
重要性が認識されることになる。西北ルートを遮断するためにも、西北回民を日本側へ誘導する必要があった。
北援蒋ルートを通じて中国を援助し、これが国民政府の抗戦を支えていたことが明らかになったことで、より一層その
うとしたのであった。日本にとって西北ムスリムの位置づけは、三七年八月二一日に中ソ不可侵条約を結んだソ連が西
西北貿易を通じてムスリムを親日に向わせ、西北に「親日政権」を樹立させることによって「赤色ルート」を遮断しよ
道のりを「赤色ルート」と見なして警戒し、華北の「赤化防止」に必死であった。そこで、「蒙疆政権」の日本軍部は、
主導するゲリラ戦と日中戦争での中国共産党の抵抗とに悩まされており、ソ連から新疆・甘粛を通過して陝西にいたる
その目的とするところは、西北のムスリムを日本側に誘導することにあった。日本側は、「満洲国」内で共産主義者の
する如くし、経済的相互依存の関係を保持」することによって、寧夏・甘粛方面への連絡を促進することをあげていた。
に付帯事業の一切を営むものとして(第四条)
、管内の獣毛を会員に供給することになっていた(第一七条)
。これによっ
立てることであった(第二条)。蒙疆羊毛同業会は羊毛・山羊毛・カシミア・駱駝毛の売買(物々交換を含む)、ならび
によって、畜産資源の利用の進展をはかるとともに、蒙疆聯合委員会や各自治政府の施策に協力して畜産業の発展に役
その設立の目的は蒙疆聯合委員会の監督指導を受けて「蒙疆政権」管内の羊毛など獣毛取引を「自治的統制」すること
事(二〇万円)・満洲畜産(一〇万円)・大蒙公司(一〇万円)がそれぞれ出資した。「蒙疆羊毛同業会規約」によれば、
の鐘紡(六五万円)・日本毛織(五〇万円)・満蒙毛織(五〇万円)・三井物産(五〇万円)・兼松(四五万円)・三菱商
かくして三七年一二月二五日、蒙疆羊毛同業会が張家口に設立された。蒙疆羊毛同業会の資本金は三〇〇万円、会員
二 蒙疆羊毛同業会の成立と獣毛買付の開始
.
80
81 「蒙疆政権」初期の獣毛統制政策と蒙疆羊毛同業会
て「蒙疆政権」管内の獣毛は蒙疆羊毛同業会の統制を受けることになり、各会員は直接買付を認められず、蒙疆羊毛同
業会を通さねばならなかった。蒙疆羊毛同業会の活動は張家口の本部と包頭の営業所、大同・厚和の出張所によって
「蒙疆政権」を網羅し、華北や日本との連絡のために天津・東京・大阪に支部を設置した。組織について見ると、会長
以下、副会長・顧問・理事・委員で構成されていた。会長と副会長は蒙疆聯合委員会が会員から選出し、名誉職に位置
づけられた。会長に鐘紡取締役の倉知四郎、副会長に三井物産天津支店長の加藤尚三が就任した。実際上の最高責任者
は理事で、張家口本部に常駐して業務を統括した(第五条)。この理事に、満洲鉱業の営業部長であった神谷信利が招
致された。神谷の登用は、特殊法人として「満洲国」で鉱産物の開発統制にあたっていた満洲鉱業での経験を買われた
ものと思われる。また、蒙疆羊毛同業会は蒙疆聯合委員会と各自治政府の官吏から若干名を顧問として置くことになっ
ており(第六条)、行政の「内面指導」を受けることになっていた。ほかに委員一六名が置かれ、各会員の従業員二名
までが就任することになっていた(第七条)。以下の事項は総会の決議を必要とした。①事業計画書の作成と変更、②
規約・細則の制定と変更、③委員の任免、④決算報告と利益金の処分、⑤会員の新規加入・脱退・除名、⑥組合の解散
などについてである。総会の決議後は蒙疆聯合委員会の承認を必要とした(第一一条)。総会の決議はすべて全会一致
で決定することになっており(第一三条)、各会員の発言権は出資額に関係なく平等とした。だが、これで各会員の意
見が均しく尊重されているというのでなく、あくまでも最終的な決定権は、顧問を派遣して同業会の運営を監視指導す
る蒙疆聯合委員会にあったと言わねばならない。なお、各会員はその出資額に応じて蒙疆羊毛同業会の純益の一部から
蒙疆羊毛同業会の設立を受け、「蒙疆政権」は根本的な畜産政策を決定することになった。三八年二月一一日から一
配当を受けることになっていた(第二一条)。
三日までの間、張家口で蒙疆畜産会議が開催された。この会議に参加したのは、企画院鵜崎調査官・農林省三宅技師・
「満洲国」産業部坪井技正・同西島技佐・同軽部技師・蒙疆聯合委員会金井最高顧問・同野田顧問・各自治政府代表・
民間会社代表で日本人が中心であった。会議の第一日は鐘紡・大蒙公司・善隣協会それぞれの意見陳述と、それに対す
82
(
)
る当局の応答があり、第二日は管内の畜産情況にかんする調査報告を聞き、第三日は生産・消費・分配の各部門の代表
)
(
)
馬をアラブ種、羊をメリノかコリーデル種を目標に改良することであった。管内牲畜の斃死による減耗率は、綿羊一〇・
(
良に着手する、③放牧の習慣には急激な変化を加えない、④冬季積雪時の牲畜死亡を防ぐために冬営地を設置する、⑤
この会議であがった議題は、①満日蒙経済ブロックを強化する、②畜産対策のため減耗防止を第一に、増殖・品種改
意見を聞いた上で、会社あるいは組合の設立方針を協議した。
八%、山羊八・四%と推定され、斃死原因の多くが雪害と伝染病の流行であった。一般にモンゴル在来種は寒さに強い
)
( )
④西北接合地域の家畜と畜産物を「蒙疆政権」側に誘致し、いっそう西北貿易を活発にする、⑤輸出を統制する、⑥旧
旗民への雑貨の配給を考慮する、③政府は、旗で共同販売する馬と綿羊を一手に買い付け、畜産物を販売・斡旋する、
ために、①家畜の減耗防止と増殖に重点を置き、あわせて品種改良する、②家畜と畜産物は旗で共同販売し、その際、
くに馬と綿羊の増殖・改良をはかることによって、軍事上の要請に対応し、民政の向上に役立てることだという。その
三八年七月には「蒙疆畜産政策要綱」が発表され、「蒙疆政権」の畜産政策が明らかになった。政策方針は畜産、と
とであった。
あった。よって、日本側の「蒙疆政権」に対する希望は、品質のよい羊毛を増産して経済ブロック内の需要を満たすこ
の羊毛を産出するという具合に、生産効率からみても改良の必要が
kg
といわれていたが、羊毛に粗毛・死毛が多く混在して品質に問題があった。また、在来種が一頭あたり〇・六~一・三
(
を産出するのに対して、メリノ種が約七・七
kg
統制を加えて民需を満たすところにあった。ところが、今回の要綱で「軍事上の要請」を掲げたということは、畜産開
の畜産を開発することになっていた。そこには民間側からの要求が多分にあった。蒙疆羊毛同業会の設立も獣毛取引に
の方針に加えられたことである。これまでの政府と民間の協議では、日満蒙経済ブロックの需要に応えて「蒙疆政権」
要綱には、これまでの経緯が反映されたと言えよう。だが、注目すべきは、「軍事上の要請」という表現が畜産政策
来の習慣に急激な変化を与えず、蒙地の形態を尊重することであった。
83 「蒙疆政権」初期の獣毛統制政策と蒙疆羊毛同業会
発の第一目的が軍需のためということである。確かに蒙疆聯合委員会は、蒙疆羊毛同業会の設立を認める条件に軍需の
優先をあげたが、今回の要綱では軍需目的であることをより鮮明に打ち出し、「蒙疆政権」の獣毛資源を確実に戦時体
制へ動員しようとしたのであった。
では、蒙疆羊毛同業会による獣毛など畜産品取引の実態を見ておこう。一大牧畜地帯を占領下においたことから、陸
軍中央は「蒙疆政権」に獣毛類の調達を指示した。大本営の兵站総監部参謀長(参謀本部第一部長の兼任)は、綿羊毛
皮二五万枚、小綿羊毛皮一五万枚、犬毛皮三万枚、牛原皮三万枚、馬皮二万枚を調達するよう駐蒙兵団へ指示した。こ
れら各種皮毛類は、陸軍被服廠が日中戦争への補給用に必要としていた被服原料であった。また、兵站総監部の指示は、
(
)
各種皮毛を三八年八月末(牛・馬皮は年度末)までに調達し、日本へ帰航する便の船腹を利用して広島陸軍被服支廠に
)
)
)
合委員会では三六年の出回り数量を基本におき、三八年に六割、三九年に八割まで回復するだろうと考えていた。この
(
次頁)。この計画は、張家口・大同・厚和・包頭に出回るであろう毛皮の七割を移出できる前提で試算された。蒙疆聯
かくして三月一七日、蒙疆聯合委員会の算出によって「蒙疆政権」が移出できる毛皮の数量が明らかになった(表5・
ならなかった。
のすべてを吸収するように務める、と。駐蒙兵団と「蒙疆政権」は、関東軍と陸軍中央それぞれの要求に応えなければ
(
出来そうである。さらに関東軍からも羊皮毛六〇万枚の調達依頼があるので、兵団は「蒙疆政権」と協力して出回り量
羊皮一六万枚、綿羊皮七万枚、小羊皮一五万枚、牛皮七〇〇〇枚、馬皮一〇〇〇枚、小動物皮若干枚を調達することは
ように報告した。すなわち、八月末までに依頼のあった獣毛皮を調達することは事変の影響から困難である。およそ、
の関係などがあって困難だが、蒙疆聯合委員会に調査させている、と返答した。さらに三月一六日、陸軍省へは次ぎの
(
り、このなかには商人を利用してすでに買付けを終えているものもある。今後の調達見込みを明らかにすることは治安
これに対して駐蒙兵団は、現在市場に羊皮二万枚、小羊皮一三万枚、犬猫など小動物皮三万枚、牛皮一〇〇〇枚があ
送付することを要求した。
84
単位:枚
表 5 毛皮の移出可能数量
〈出所〉蓮沼兵団参謀長石本寅三「蒙疆地域主要物資対日輸出可能見込額調書送
付ノ件」1938年 3月 22日、防衛研究図書館所蔵、陸軍省・陸支密大日
記・S1310『陸支密大日記』より作成。
単位:kg
表 6「蒙疆政権」管内出回り獣毛の内訳
原資料は、斤で表示。1斤=0.
5kgで換算。
〈出所〉蓮沼兵団参謀長石本寅三「蒙疆地域主要物資対日輸出可能見込額調書送付
ノ件」1938年 3月 22日、防衛研究図書館所蔵、陸軍省・陸支密大日記・
S1310『陸支密大日記』より作成。
表によれば、羊皮については陸軍中央の要求量を上
回っていたものの、犬皮・牛皮・馬皮はいずれも要
求量を下回っていた。また、陸軍中央の要求量を満
たしていた羊皮も、関東軍の要求までも聞き入れる
と、供給できるほどの数量ではなかった。つまり、
陸軍中央と関東軍の要求が現状を超えた過重なもの
であって、毛皮類は計画当初から民需にまわせるだ
さらに蒙疆聯合委員会は、獣毛についても移出数
けの余裕がなかったといえる。
量を試算した。管内に出回るであろう獣毛は表6の
ように見られていた。それによれば、域外からの流
入量を、三八年で事変前の五割減、三九年で二割減
になると予想していた。
獣毛の対外輸送計画が表7(次頁)である。事変
の影響が予想されながら、それでも管内に出回る獣
毛の五割前後は域外からの流入に期待していた。つ
まり、この対外輸送計画が達成できるかどうかは、
西北からの移入に左右される面が大きかった。軍需
品生産のために接収された綏遠毛織廠には、三八年
に五〇トン、三九年に七五トンの獣毛を供給するこ
85 「蒙疆政権」初期の獣毛統制政策と蒙疆羊毛同業会
単位:円
表 8 包頭における買付け価格
とになっていた。この数量は、前述した綏遠毛織廠のもつ加工能
力一五〇トンの三分の一から二分の一にあたり、現地での加工は
あまり重視されていなかったようだ。逆に、域外への輸送数量は、
三八年に一万二二〇〇トン(総出回り量の九九・六%)、三九年
に一万五三二五トン(九九・五%)と計画した。域外輸送量に北
平・天津地区での消費量は含まれていないので、管内に出回る獣
毛のほとんどが対日供給に充てられた。このように、「蒙疆政権」
での獣毛買付は「現地自活主義」のためでなく、日本の獣毛資源
確保を目的に開始された。
蒙疆羊毛同業会は、二月中旬から買付交渉を開始し、四月に大
同と厚和、五月に包頭、六月に張家口で現地毛店からの受け取り
を完了した。蒙疆羊毛同業会が現地の羊毛問屋から買付けた基準
価格は、「業務執行細則」によれば、世界主要市場での売買価格
(
)
と品質を参考に蒙疆羊毛同業会が月一回以上の頻度で決定すると
い取ることを方針とした。そのため、蒙疆羊毛同業会の行なった
化をはかるため、ムスリムが西北から搬出する商品を優遇して買
買付けられた獣毛の価格である。「蒙疆政権」は西北方面の親日
北ムスリム工作の側面も有していたためである。表8は、包頭で
要があった。獣毛の買付は、単に資源調達のためだけでなく、西
定めていた。その買付価格は、蒙疆聯合委員会の承認を受ける必
単位:kg
表 7 獣毛の対外輸送可能数量
原資料は、斤で表示。1斤=0.
5kgで換算。
〈出所〉蓮沼兵団参謀長石本寅三「蒙疆地域主要物資対日輸出可能見込額調書送付
ノ件」1938年 3月 22日、防衛研究図書館所蔵、陸軍省・陸支密大日記・
S1310『陸支密大日記』より作成。
〈出所〉満鉄調査部『蒙疆政権管内羊毛資源調査報告』1939年 6月、138頁より作
成。
86
今回の買付でも、漢人よりも回民が優遇された。一般に、漢人があつかう獣毛
に比べて、回民があつかう獣毛は土砂を多く含んでいると言われていた。にも
かかわらず、回民から買い取る獣毛は、漢人のものよりも高額で買い取られた
蒙疆羊毛同業会が各地で買付けた獣毛は、表9のとおりである。平綏線沿線
のであった。
の主要都市のうち、最も多くの獣毛が取引されたのは包頭の約一五〇〇トン、
買付け総量の約六三%にあたる。また、包頭で買付けられた羊毛は、おもに青
海省西寧、甘粛省甘州・凉州、寧夏省で産出された套毛であった。カシミアに
ついては、白山羊絨よりも紫山羊絨を多く買付けた。白山羊絨は狼山・固陽・
サラチなど「蒙疆政権」管内の産出であったのに対して、紫山羊絨は楡林・神
木・五原・臨河・寧夏など「蒙疆政権」の非支配地域であったオルドス周辺で
産出された。このように蒙疆羊毛同業会が包頭で買付けた獣毛は、西北やオル
ドスといった日本の非支配地域から産出されたにもかかわらず、事変の影響を
受けていないように見える。これは、包頭で買付けられた獣毛の多くが前年度
のうちに包頭に出回っていたもので、事変のために輸送できずストックされて
いたためであった。また厚和では従来、新疆方面との取引が盛んであったが、
(
)
事変が勃発して三八年五月末までには、二〇トンほどの新疆産羊毛が一度移入
こうして蒙疆羊毛同業会が買付けた獣毛は、一五一二トンとなった。しかし、
産であった。
されただけだった。そのため、厚和で買付けられた羊毛の大部分は内モンゴル
単位:kg
表 9 蒙疆羊毛同業会の第一回獣毛買付数量
〈出所〉満鉄調査部『蒙疆政権管内羊毛資源調査報告』1939年 6月、135頁より作
成。
87 「蒙疆政権」初期の獣毛統制政策と蒙疆羊毛同業会
買付けられた獣毛のすべてが日本側で円滑に利用されたわけでなかった。駐蒙兵団は、陸軍次官に次ぎのように報告し
ていた。すなわち、蒙疆羊毛同業会が今回買付けた獣毛は、日本の羊毛割当制度と為替管理に妨げられて日本に輸出で
きない状態にある。当地方の羊毛は、豪州産に比べると品質は劣るが年産約二万トンにもなり、将来改良がすすめば質・
量ともに改善されるのは明らかで、日本の羊毛国策にとって重要な価値を持っている。陸軍省には、大蔵省・商工省な
(
)
どの関係方面を指導して、「蒙疆」羊毛に対して割当制の撤廃と為替管理の緩和、および他繊維との混用制の適用を除
(
)
)
布四〇枚を生産していた。操業開始から九七日間で職員延べ一四七七名、工員延べ四七九〇名を動員して生産にあたっ
(
厚和毛織廠と改称し、三八年一月から操業を開始した。同工廠は、織機約二〇台、職工七〇〇名を有し、一日に軍用毛
かでは満蒙毛織と鐘紡だけが実際に獣毛を処理することができた。満蒙毛織は、駐蒙兵団から委託された綏遠毛織廠を
さらに、蒙疆羊毛同業会から供給を受けた民間企業も、加工できるだけの設備を十分に備えていなかった。会員のな
買付けられた獣毛の日本輸出を困難にしていた。
プルファイバー等混用規則」が施行され、民需用の毛製品にフスの混用が強制された。これらの法規が「蒙疆政権」で
七年一〇月に「臨時輸入許可規則」を公布して、綿花と羊毛の輸入を許可制にした。さらに、同年一一月には「ステー
外していただきたい、と。日本政府は、当時輸入総額の四〇%以上を占めていた繊維原料の輸入量を削減するため、三
)
)
統括して経営するために「鐘淵事業株式会社」の新設を企図し、「満洲国」内にも新たに二社の創設を予定していた。
(
国大陸進出を積極的に進めた。例えば、資本を従来の二倍にあたる一億二〇〇〇万円に増資し、紡織以外の外郭会社を
また鐘紡は、日本軍の華北分離工作と歩調を合わせ、一九三六年に華北に工場を新設し、七・七事変をきっかけに中
獣毛を処理することができたと思われる。
合った加工設備を備え、関東軍の指示を受けて軍用毛布を生産していたために、満蒙毛織は蒙疆羊毛同業会の買付けた
どの便宜が与えられていたので、満蒙毛織が調達に苦労することはなかった。加えて、厚和毛織廠が現地獣毛の品質に
(
ていた。「蒙疆政権」管内に工場をもつ同業会員は、「蒙疆羊毛同業会規約」によって優先的に獣毛の供給を得られるな
(
)
(
)
ても、日本の設備で中国産羊毛を加工することは難しかった。中国産羊毛は日本が被服用に輸入していた豪州産よりも
ければならなかったが、前述したように日本国内の法規によって輸送が制限されていた。かりに日本へ輸送できたとし
ところが、そのほかの会員企業は、中国に十分な生産工場をもっていなかった。獣毛を加工するには日本へ輸送しな
によって中国各地に設立された会社を利用して、買付けた獣毛を加工することができたようだ。
建設に取り掛かっていた撰毛工場があり、一〇台ほどの織機で絨毯を試織していた。このように、鐘紡は大規模な投資
包頭でも、一日に一万五〇〇〇ポンドの原毛を水洗できる自家用洗毛工場の建設を進めていた。張家口には事変前から
(
)
太く、カーペット向きであったためである。こうしたことから、自力で処理できない会員企業は結局のところ、天津で
第三国の企業に売却するような状態であった。
)
ン、包頭で九四一トンの合計約一五〇〇トンの獣毛をすでに確保済みで、最終的には一五〇〇~二〇〇〇トンの獣毛を
一方、蒙疆羊毛同業会は六月一九日までに第二回買付として張北で一二四トン、大同で一三一トン、厚和で三一一ト
廠には加工能力の二倍の羊毛を供給し、軍用毛布の生産拡大をも計画していた。
い「蒙疆政権」管内の羊毛を、おもに毛布・フェルトの生産に利用することを駐蒙兵団は考えていた。また、厚和毛織
数量を指定していただきたい。なお、厚和毛織廠の消費見込みは、毛布用汚毛三〇〇トンである、と。被服用に適さな
(
として買付けるならば、新毛の出回り期(初期八月)までに買付の手配を準備する必要があるので、速やかに調弁予定
すれば、被服用(豪州羊毛との混用が必要)二〇%、毛布用四〇%、フェルト用二〇%、使用不能二〇%となる。軍需
以下のように報告している。すなわち、三八年産羊毛の出回り見込み量は、汚毛一万トンと思われる。これを軍需利用
「蒙疆政権」の獣毛統制は問題を残しながらも、駐蒙兵団は新毛買付に動き出した。駐蒙兵団は兵站総監部参謀長に
三 獣毛統制政策の頓挫と蒙疆羊毛同業会の解散
.
88
89 「蒙疆政権」初期の獣毛統制政策と蒙疆羊毛同業会
(
)
)
(
)
の行為に回民側は、天津の羊毛相場が高騰しているのにもかかわらず、第一回買付時よりも低廉な価格で取引されるの
羊毛同業会が第一回の買付け価格より五~一〇%割安で、獣毛を買付けようとしたためであった。この蒙疆羊毛同業会
ようやく九月二三日になって取引が成立し、受け渡しが行なわれるような状況であった。交渉が難航した原因は、蒙疆
(
同業会は六月頃から包頭で回民の羊毛問屋と交渉を続けていたが、値段の折り合いが合わず、取引が大きく遅れていた。
買付ける予定であった。ところが、現地の羊毛問屋は、蒙疆羊毛同業会の第二回買付に反発した。たとえば、蒙疆羊毛
(
)
につき一三〇円程度、第一回買付価格の二倍以上にもなった。
悟し、第三国への対応策を駐天津日本領事に問い合わせた。これに対して駐天津領事も外務省に対応策を求めるしかな
日回答すると答えてその場を逃げるしかなかった。加藤は、次回開催される二月例会で厳しく問い詰められることを覚
出席した三井物産天津支店長の加藤尚三(蒙疆羊毛同業会副会長)は、各国からの質問攻めに遭い、取り調べた上で後
案から、日本商社が張家口で獣毛市場を独占している実態を調査することが決議された。この例会に日本側代表として
方、イギリス外務省に対策を考えるよう電報で要請した。さらに、天津万国商業会議所の一月例会では、イギリスの発
また、天津のイギリス商業会議所では「秘密会議」を開催し、上海ほか中国各地のイギリス商業会議所に檄を飛ばす一
発表した事変での外国利益尊重の原則を無視するものであると、外国商が憤慨して天津の日本領事官に詰めかけてきた。
報告によれば、天津では次ぎのような事態が起きていた。すなわち、蒙疆羊毛同業会による獣毛の独占は、日本政府が
蒙疆羊毛同業会の独占的買付に対し、イギリスなどから批判の声も上がった。三八年一月三一日の駐天津日本領事の
発足からほどなく、破綻の兆しが見えはじめていた。
畜産資源確保のみならず、西北工作(ムスリム工作)のためからも開始された取引統制であったが、蒙疆羊毛同業会の
付資金三〇万円を融資して行なわれた。相場は五〇
kg
同業会が前もって買付資金を渡すよう変更された。三八年産秋毛の買付は、蒙疆羊毛同業会があらかじめ回民問屋に買
スリム工作のために高値で買付けてもメリットがなかったのである。その後、包頭の回民問屋からの買付は、蒙疆羊毛
は不当であると反発した。しかし、蒙疆羊毛同業会としても、満毛毛織と鐘紡以外では処理できないような羊毛を、ム
90
かった。さらに加藤は、領事館だけでなく、北支那方面軍にも対応策を求めて次ぎの指示を受けた。すなわち、現在は
戦時中であるので日本商人以外に羊毛を売らないのは、外国商の抗議する筋合いのものでない。軍側が必要と認めた軍
政地帯で、羊毛を統制するのは当然である。これまで張家口で外国商人の買付を禁止したことはなく、天津での買付と
(
)
輸出は内外商人ともに自由に行なわれているので文句ないはずである、と。また、北支那方面軍は張家口での買付にド
(
)
が、新たに赴任した駐張家口総領事が蒙疆聯合委員会にドイツ商社への許可を確かめたところ、金井章次最高顧問は蒙
ドイツ商社の取引参加については、駐張家口総領事も特例を設けて認可することを外務大臣に報告していた。ところ
イツだけなら参加させても構わないようなことを漏らしていた。
(
)
対するアメリカ政府の抗議が成功した例もあるので、この際、イギリス政府も日本商社の行為に対して厳重に抗議する、
むなき状態にある。これは、在華外国人の権益を擁護すると謳った日本政府の声明に反する行為である。石油専売案に
強制的に買占めを始めている。そのため、長年にわたって羊毛・皮革取引に従事していた数軒の英国商社は、廃業のや
よれば、日本商社八社は華北・内モンゴル産の羊毛や皮革の独占買付の目的で羊毛輸出組合を組織し、天津と張家口で
前経済連盟会長フランシス・ジョセフの寄稿を掲載した。その内容は以下のとおり。天津イギリス商業会議所の報告に
羊毛市場の独占をめぐる日本とイギリス商社の対立は、イギリス本国にも波及した。五月一八日付『タイムス』紙は、
がらも、蒙疆聯合委員会は蒙疆羊毛同業会による統制を維持しようとした。
疆羊毛同業会の八社以外に取引許可を与えないと答えた。このように、市場の独占を第三国商社から激しく非難されな
〇万元のうち、日本で消化できるのは一〇〇〇万元ほどで、残りは天津で外国商人に売却するほかないと指摘した。そ
策上の必要というよりも、絨毯業者の運動によるものだという。蒙疆羊毛同業会員の専門家も、買付の予想総額二〇〇
らによれば、日本で不必要品として製造を制限されている絨毯などにしか用途のない中国羊毛を独占しているのは、国
さらに第三国だけでなく、北支那方面軍特務部の財政担当者なども、蒙疆羊毛同業会による独占を批判していた。彼
と。このように、蒙疆羊毛同業会による独占買付は、イギリス本国でも非難の対象になっていた。
91 「蒙疆政権」初期の獣毛統制政策と蒙疆羊毛同業会
(
)
のため、特務部の財政担当者たちは、蒙疆羊毛同業会による市場の独占を、幣制を維持するために絶対必要な第三国輸
(
)
機関を指定し、これが輸出を行なはしむ」とあった条文を、「その輸出を統制す」と改め、さらに同第二条は「獣毛類
蒙疆聯合委員会は「獣毛類輸出取締令」の改正を発表した。同取締令第一条に「右獣毛類の輸出を統制するため一定の
こうした内外の批判を受けて、蒙疆聯合委員会は畜産物統制を見なおす必要に迫られた。一九三八年一〇月一二日、
出を減少させるだけであると見なし、北支那方面軍を通して駐蒙兵団に改善を求める意見を送付しようとしていた。
(
)
蒙疆聯合委員会としては、しばらく日本軍部が大量の綿羊毛などを必要とするため、羊毛の輸出を許可せず、山羊毛・
許可が必要であり、なおかつ為替決済を張家口の蒙疆銀行ですることを条件に、「自由取引」が認められた。しかし、
とはいえ、第三国の「自由取引」は、完全に認められた訳ではなかった。獣毛を取引するものは、蒙疆聯合委員会の
ができるようになった。
疆羊毛同業会は独占権を喪失し、蒙疆聯合委員会の許可を受けたものであれば同業会であることを問わず獣毛類の輸出
を蒙疆地域外に搬出せんとする者は、蒙疆聯合委員会の許可を受くることを要す」と改正した。この改正によって、蒙
)
。この談話に見られるよう、今後の対策は本社側の意向次第であっ
うし、まだまだ具体化するまでには至っていません」
(
式会社制とするか否かということについても、現地側よりもむしろ本社側の意向が如何なるものであるかが問題でしょ
言い切れないが、この際、何らかの積極的な対策を立てる必要はあろうと思います。現在の加盟八社を基礎として、株
の『蒙疆新聞』紙上で、次ぎのように語っていた。「今後、蒙疆羊毛同業会が現在のような組織でやって行けないとは
式会社」のようなものを設立するのか、その動向が注目された。今後の対策について、蒙疆羊毛同業会は一一月二日付
蒙疆羊毛同業会は、今後とも存続するのか、それとも解散するのか、あるいは全く別の新機構として「羊毛収買輸出株
独占買付体制が崩れたことにより、蒙疆聯合委員会と蒙疆羊毛同業会は、新たな対策が求められた。独占権を失った
りなく、依然として第三国の獣毛取引は困難であった。
駱駝毛に限って許可する予定であった。このように法律こそ改めたものの、蒙疆聯合委員会の統制下にあることに変わ
92
た。それは、財政上・戦略上での獣毛取引の価値を重視し、本社側が損益を無視して日本の繊維業界では処理し切れな
い中国産獣毛の輸入を継続できるかということであった。
今後の蒙疆羊毛同業会の対応を決めるため、加盟八社の本社側は現地側を日本に呼んで意見を聞くことにした。そこ
で、現地側の神谷理事ほか委員三名が、一一月二四日に張家口を出発して日本へ向った。日本では倉知会長以下、各社
(
)
代表と現地側各委員が出席して、東京と大阪で協議会を開催した。現地側のあいだでは、蒙疆羊毛同業会の組織機構を
わ
り
に
第二に、「蒙疆政権」の獣毛取引の実態は、関東軍と陸軍中央の過重な獣毛調達要求に答えなければならず、集荷獣
化させることによって「蒙疆政権」の財源を確保するためであった。
回民を利用して中国西北の獣毛買付を志向していた。これは、獣毛取引を梃子に阿片取引も引き出し、西北貿易を活発
の調達のためでもあったので、集められた獣毛は軍側へ優先的に供給されることとされた。集荷にあたって同業会は、
同業会を組織させ、獣毛集荷・配給の一元的統制を行った。関東軍が蒙疆羊毛同業会を結成させた目的は、軍需用獣毛
ンゴル地域の獣毛資源に魅力を感じた。そこで七・七事変勃発後、関東軍は平綏線を占領すると、日系商社に蒙疆羊毛
第一に、日英関係の悪化によって英連邦からの羊毛輸入に不安があった日本の紡績業界は、中国国内でも有数の内モ
以上の考察から、以下の点が明らかになった。
お
わずか一年で解散することになった。
開いた。臨時総会は、同日限りで蒙疆羊毛同業会を解散することを決定した。こうして、蒙疆羊毛同業会は、設立から
日本での協議会を終えた蒙疆羊毛同業会は一二月二八日、張家口に倉知会長を招いて、各委員出席の下に臨時総会を
基礎に改組して、株式会社のような新機構を設けて積極的経営に乗り出すという意向が有力であった。
93 「蒙疆政権」初期の獣毛統制政策と蒙疆羊毛同業会
毛を民需にまわせるだけの余裕がなかった。わずかに民需へまわされた獣毛も、民間企業は加工しきれる十分な加工工
場を備えておらず、結局は天津で第三国の企業に売却せざるを得ない状態で、早くから「蒙疆政権」の獣毛統制は破綻
を来していた。また、蒙疆羊毛同業会の設立にあたり、アメリカやイギリスなど第三国の「蒙疆政権」管内での獣毛取
引を排除することが要点に掲げられた。そのため、蒙疆羊毛同業会の独占的買付に対して、イギリスから激しい非難を
受け、日英関係をより一層悪化させることにもなった。このように対内・外で問題を抱えていた蒙疆羊毛同業会は、設
立から僅か一年の三八年末に解散することになった。
(註)
(1)Chi
nChi
e
nYi
n.Wooli
ndus
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r
yandt
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adei
nChi
na,Haut
e
st
ude
s
,1937.
(2)斯日古楞「日本支配下の蒙疆畜産政策」
、『現代社会文化研究』第二七号、二〇〇三年七月、一八七―二〇二頁。
(3)日本羊毛工業会『羊毛工業統計年表』昭和一一年度、一九三七年六月、四二―四三頁。
(4)和加竹城・林田勲『蒙疆の資源と経済』冨山房、一九三八年八月、一九二頁。
(5)日本羊毛紡績会編『日本羊毛産業略史』日本羊毛紡績会、一九八七年五月、二九―三一頁。
(6)「対英帝国通商関係断絶の我国に及ぼす影響考察の為の参考資料」作成機関・年月日不明(おそらく、一九三七年九月頃に外
務省通商局第三課が作成したと思われる)、外交史料館所蔵、外務省記録 E.
0.
0.
0.
321『大東亜戦争の経済、貿易、産業に及
ぼせる影響関係雑件 帝国貿易政策関係』。
(7)関東軍司令官植田謙吉あて張家口特務機関長松井太久郎「蒙疆地区綿羊、羊毛及羊毛皮配給統制要綱に関する件申請」一九三
七年一一月二日、『現代史資料』九日中戦争二、みすず書房、一九六四年九月、一五八―一五九頁。
(8)張家口特務機関長あて関東軍参謀部「蒙疆地区綿羊、羊毛及羊毛皮配給統制要綱に関する件」一九三七年一一月一五日、同前、
一五九頁。
(9)国立国会図書館憲政資料室所蔵、旧陸海軍関係文書 T937、満鉄調査部『蒙疆政府公文集』下輯、一九三九年三月。
94
( )張家口特務機関長あて関東軍参謀長「羊毛買付ノ件回答」一九三七年一一月一八日、前掲『現代史資料』九、一五九頁。
( )張家口特務機関長あて関東軍参謀長「関参満電第四三四号」一九三七年一二月九日、同前、一六〇頁。
( )張家口特務機関長あて関東軍第四課長「関参満電第四八二号」一九三七年一二月一四日、同前、一六〇頁。
( )満鉄天津事務所調査課『帰綏縣経済事情』一九三六年三月、四八頁。
( )『盛京時報』一九三八年一月一八日。
( )『盛京時報』号外、一九三七年一二月二九日。
( )『盛京時報』一九三七年一一月二九日。広田外務大臣あて松浦張家口総領事代理「第二五七号」一九三七年一一月三〇日、外
交史料館所蔵、外務省記録 E.
4.
3.
2.
2『毛皮、羽毛並骨角関係雑件』第四巻。
( )前掲『蒙疆の資源と経済』、一九二頁。
( )満鉄北支経済調査所「蒙疆に於ける阿片」一九四一年五月一五日、江口圭一編著『資料日中戦争期阿片政策』岩波書店、一九
八五年七月、二〇五頁。
( )「蒙古聯盟自治政府の財政問題」、外務省調査部第三課『露西亜月報』第五九号、一九三八年一二月、八二―八六頁。
( )前掲「蒙疆に於ける阿片」、二一六頁。
( )清田康久「西北貿易小論」、京城帝国大学大陸文化研究会『蒙疆調査報告』一九四〇年九月、一五八頁。
( )駐蒙軍司令部「暫行回教工作要領」一九三八年一〇月四日、防衛研究所図書館所蔵、陸軍省・陸支密大日記・S1329『陸支密
大日記』。
( )『盛京時報』一九三八年二月一四日。
( )『盛京時報』一九三八年二月一七日。
( )満鉄調査部『蒙疆政権管内羊毛資源調査報告』一九三九年六月、七七頁。
( )善隣協会調査部編『内蒙古』日本公論社、一九三五年六月、二九〇頁。
( )蒙疆聯合委員会「蒙疆畜産政策要綱」一九三八年七月一一日、前掲『蒙疆政府公文集』。
( )駐蒙兵団参謀長あて兵站総監部参謀長「兵総乙第二二九号」作成年月日不明、防衛研究所図書館所蔵、陸軍省・陸支密大日記・
S1311『陸支密大日記』。
( )陸軍省経理局衣糧課長あて駐蒙兵団参謀長「蒙経電第一〇一号」一九三八年三月六日、同前。
16151413121110
1817
22212019
282726252423
29
95 「蒙疆政権」初期の獣毛統制政策と蒙疆羊毛同業会
(
(
)陸軍省経理局衣糧課長あて駐蒙兵団参謀長「蒙経電第一三一号」一九三八年三月一六日、同前。
)蓮沼兵団参謀長石本寅三「蒙疆地域主要物資対日輸出可能見込額調書送付ノ件」一九三八年三月二二日、防衛研究図書館所蔵、
陸軍省・陸支密大日記・S1310『陸支密大日記』。
)「業務執行細則」、前掲『蒙疆政府公文集』。
)前掲『蒙疆政権管内羊毛資源調査報告』、一〇〇頁。
)陸軍次官あて駐蒙兵団参謀長「蒙特電第一一五号」一九三八年四月二日、防衛研究所図書館所蔵、陸軍省・陸支密大日記・S1311『陸支密大日記』。
)布藤欣一「蒙疆地域の邦人工業資本進出に就て」、名古屋市産業部『蒙疆経済調査』一九三九年一〇月一日、四二頁。
)前掲『蒙疆の資源と経済』、二一九頁。
)前掲「蒙疆羊毛同業会規約」。
)『盛京時報』一九三八年二月三日、同六月三〇日。『盛京時報』号外、一九三八年三月五日。
)『盛京時報』晩刊、一九三八年八月九日。
)前掲「蒙疆地域の邦人工業資本進出に就て」、四二頁。
)前掲『蒙疆政権管内羊毛資源調査報告』、一四二頁。
)陸軍省次官・兵站総監部参謀長あて蓮沼兵団参謀長「蒙特電第一八五号」一九三八年五月九日、防衛研究所図書館所蔵、陸軍
省・陸支密大日記・S1312『陸支密大日記』。
)前掲『蒙疆政権管内羊毛資源調査報告』、一三六―一三七頁。
)陸軍次官・参謀次長あて駐蒙軍参謀長「蒙軍参電第八六七号」一九三八年一〇月四日、防衛研究所図書館所蔵、陸軍省・陸支
密大日記・S1324『陸支密大日記』。
)前掲『蒙疆政権管内羊毛資源調査報告』、一四二頁。
)『善隣協会調査月報』第七九号、一九三八年一二月、一二三頁。
)広田外務大臣あて堀内天津総領事「第一二五号」一九三八年一月三一日、前掲『毛皮、羽毛並骨角関係雑件』。
)広田外務大臣あて森岡張家口総領事「第四六号」一九三八年二月二八日、同前。
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)広田外務大臣あて堀内天津総領事「第二一九号」一九三八年二月二三日、前掲『毛皮、羽毛並骨角関係雑件』。
)『蒙疆新聞』一九三八年一一月二日。
)有田外務大臣あて森岡張家口総領事「第四一二号」一九三八年一一月三〇日、前掲『毛皮、羽毛並骨角関係雑件』。
)『蒙疆新聞』一九三八年一一月二日。
)『蒙疆新聞』一九三八年一一月二九日。
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「蒙疆政権」初期の獣毛統制政策と蒙疆羊毛同業会