素粒子理論の宇宙論への適用に関する疑問
中西 襄
*1
ビッグバン宇宙論によれば,宇宙は最初非常に高温だったが,膨張するに従い次第に冷えたと
される.この際,相転移が起きて,対称性が高い状態から自発的に素粒子の標準理論で記述され
るような対称性の低い状態に移行したという解説がよくなされる.だが,これは場の量子論的に
きちんと定式化された理論に基づく主張なのであろうか.どなたかこの件に関する原理的疑問に
答えて頂けないものだろうか.
素粒子の標準理論は,ヒッグス粒子の存在が実験的に確認されたことにより,
物理学の基礎理論として確立されたものとみてよい.しかし,この 40 年間にな
された標準理論を超える試みはすべてうまくいっていないようである.これら
の試みに共通する所は,人間サイドからの自然への押しつけがましい態度では
なかろうか.自然が「そうじゃない」と繰り返し答えているのに,人間のほうで
「真理はこうであるはずだ」と主張していつまでも譲らないのである.
標準理論を超える物理を検証する実験の装置は巨大化し,これ以上の巨大化は
そろそろ限界に近づいているようだ.そこで建設費用の掛からない巨大実験装
置として宇宙が注目されることになる.しかし,標準理論を宇宙に適用すると
き,いろいろとわからないことが起こってくる.既定の事実として解説記事など
によく書かれている基本的な考え方が,どうも納得のいかないことが多いのだ.
素人くさい疑問で申し訳ないが,どなたか以下のような質問に親切に答えて頂け
ないものだろうか.
ビッグバン宇宙論が正しいことはまず間違いなさそうだ.それによれば,宇宙
は初め非常に高温であったと考えられる.そこで物性論とのアナロジーからか,
温度が高いときは対称性が破れていない状態にあり,冷えてくると相転移が起
こってそれが自発的に破れると考える.たとえば宇宙の初めではカイラル対称
性が破れていない状態にあって,すべての素粒子の質量はゼロであったが,宇宙
が冷えてくるとそれが自発的に破れて素粒子が質量を持つようになったのだと
いう説明が,ほとんど確立された理論でもあるかのように述べられる.だが,こ
の主張はちゃんとした根拠に基づいたものなのか,どうもよくわからない.標準
理論のラグランジアン密度には,どこにも温度 T というパラメータは入ってい
ない.T を入れようとすれば,外から持ち込むよりほかない.KMS 理論などで
は,温度 T は β = 1/(kT ) という形で,時間変数 t の虚部のようにして挿入され
る.ということは,明らかにローレンツ変換は考えていない.対象の系は巨大な
熱浴の中にあり,その熱浴の静止系で考えているからであろう.ところが宇宙は
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京都大学 (数理解析研究所) 名誉教授. e-mail:
[email protected]
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もちろん熱浴の中にあるわけではない.その温度というのはエネルギー密度の
ことで,自前の温度である.だから当然ローレンツ変換を受けるような量のはず
だ.それをどうやって標準理論の中に取り込むのか,どうもよくわからない.
そこで考えられる解釈は,宇宙を 2 つに分け,1 つの素過程が熱い宇宙という
環境の中で起こっているというとらえ方もある.くりこみ群的考察から,実効結
合定数の大きさはエネルギー密度の対数のほぼ線形な関数で与えられると考え
られている.そこで,くりこみ点の値を宇宙の温度に対応させようというわけ
だ.弱い相互作用,電磁相互作用,強い相互作用の実効結合定数を上のようにし
て外挿すると,標準理論では 1 点に集まらないが,超対称性を取り入れるとあ
るエネルギーで 1 点に交わるとかいうような話がよくなされている.宇宙の初
めは高温だったから,3 つの相互作用は統一されていたが,冷えてくるとそれが
分化して現在のようになったのだということである.しかし,この論理はどうに
も理解できない.なぜ S 行列における実効結合定数の一致が,理論の基礎であ
るラグランジアン密度の形を決定することになるのだろうか.どなたか,この辺
の正確な論理を教えて頂けるとありがたい.そもそもくりこみ群のパラメータ λ
はスカラー量で,ベクトルの第 0 成分ではない.λ は 4 次元運動量 pµ を λpµ の
ように変換する形で現れる量だから,もし pµ が光錐的ベクトルであったなら,
λpµ も光錐的ベクトルだ.λ の値によって,質量ゼロから質量ノンゼロに移行す
るわけがないだろう.
ヒッグス機構をそのまま宇宙論に持ち込む話はどうも理解できない.簡単の
ため,ヒッグス場 ϕ(x) を単純な複素スカラー場としておこう.そのラグランジ
アン密度におけるポテンシャル部分は,よく知られているように,
λ
V (ϕ) = uϕ† ϕ + (ϕ† ϕ)2
4
で与えられる.ここに λ > 0 である.ϕ を独立変数のように思って V (ϕ) のグラ
フを描けば,u > 0 のとき原点がただ一つの最小点であるが,u < 0 のときに
は,原点は極大になり,最小はノンゼロ半径の円となる.場の量子論では,ϕ を
√
真空期待値 ⟨0|ϕ(x)|0⟩ = v/ 2 に置き換える.高次補正が無視できるとすると,
最小は
)
1
u + λ|v|2 v = 0
4
で与えられる.すなわち u > 0 のときは v = 0 で,対称性は破れていない.他
方,u < 0 ならば |v|2 = −4u/λ であるから,arg v は任意である.状態ベクトル
による表現空間をセパラブルすなわち可算次元とすると,可能なすべての v を
全部とることはできず,arg v を特定の値に選ばなければならない.したがって
(
対称性が自発的に破れることになる.
さて,宇宙論でヒッグス機構に基づき相転移が起こるという状況を考えてみよ
う.上の考察から明らかなように,そのためには,始め u > 0 であったのが,後
2
に u < 0 に移行しなければならない.ところが,パラメータ u は明らかに基礎
のラグランジアン密度に含まれている量で,もちろん特定の系の温度などに依存
した量ではない.一体どのようにしてヒッグス機構を温度によりコントロール
することが可能になるのだろうか.
ポテンシャル V (ϕ) のグラフで,その最小点の値のことを,よく「真空のエネ
ルギー」などと呼んでいるのを見かける.そして真空のエネルギーは必ずしもゼ
ロではないなどと言われる.これを場の量子論的にとらえると,これは真空期待
√
値 ⟨0|ϕ(x)|0⟩ = v/ 2 がゼロではないことを意味しているようだ.しかし,なぜ
これが「真空のエネルギー」なのか,全くわけがわからない.場の量子論的に考
えるのならば,真空のエネルギーは時間の並進演算子 P0 の最低固有値であって,
それは 0 と定義するはずのものである.真空期待値を「真空のエネルギー」など
と呼んだがために,次のようなとんでもない誤解が流布しているようである.
宇宙開闢から少し時間が経ち,量子重力的効果がよい近似で無視できる状況に
なったとしよう.このとき重力場は古典論的に扱ってもよいであろう.つまり
古典アインシュタイン重力が成立するものとし,重力以外の素粒子の場は量子論
的に扱うものとする.ラグランジアン密度として,標準理論もしくはその拡張理
論の時空計量を一般座標変換に対して不変になるように改変した理論を考える.
すなわち場の量子論と一般相対論のハイブリッド理論である.さて,ヒッグス・
√
ポテンシャル V (ϕ) を真空期待値がゼロの場 ϕ′ = ϕ − (v/ 2) で書き直すと,ϕ′
に関して 0 次の項
v 2
( v )
V √ = u √ +
2
2
λ v 4
u2
√ = − < 0
4 2
λ
が出てくる.通常の理論ではこれは単なる定数なので捨ててしまうが,上のハイ
ブリッド理論ではこれに
√
− det gµν (x) がかかることになる.したがってこの
項を無視することができず,アインシュタイン方程式の宇宙項として寄与するこ
とになる.ダークエネルギーの存在は宇宙項で説明可能なようだが,そのために
必要な宇宙項と比べて何十桁も大きい途方もなくでかい宇宙項を導いてしまう
ことになる.もしも大統一理論のヒッグス場も考えるならば,さらに大きな宇宙
項を付け加えることになる.
このようなばかげた結果が出るのは,もちろんハイブリッド理論を考えたの
が間違いだったからだ.量子論に古典重力場の影響を取り入れるということ自
体は意味がある近似である.しかしそれはあくまでも特定の曲がった時空を選
定した場合の話である.つまりアインシュタイン方程式の特定の解を前提とし
たうえで構成する場の量子論ならば意味がある.しかしラグランジアン密度に
戻って不特定の重力場を考えることは,場の量子論として意味をなさない.古典
重力場は c 数なのだから,場の量子論の立場からすると全く変換できない量であ
る.状態ベクトルによる表現空間は,関数 gµν (x) が異なるごとに別の空間にな
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るわけだ.つまりハイブリッド理論のラグランジアン密度は,何らの時空変換に
関する不変性も持っていないのである.この理論からアインシュタイン方程式
を導くのは全くのナンセンスなのだ.重力を考慮したければ,正しく量子アイン
*2 そうすれば,真空のエネル
シュタイン重力理論に従って考察すべきである.
ギーはあくまでもゼロであって,何もおかしなことは起こらない.(ダークエネ
ルギーの問題は別の話である.)
宇宙項の問題に関連してよくわからないのは,インフレーション理論である.
この理論はもともと大統一理論のヒッグス場を利用して考えられたと記憶する.
ところが大統一理論の予言する陽子崩壊が一向に見つからず,大統一理論の信
憑性が怪しくなってきた.つまり屋根に登って梯子をはずされた状況になった.
そこでヒッグス場はインフラトン場と改名され,手で自由に細工できる自由度に
なったようである.インフラトン場はインフレーション理論のためだけに発明
された場なので,まさに変幻自在,何でもありだ.新しい観測結果が出ると,何
でもインフレーション理論の証拠になるようである.そしてその観測が否定さ
れても,インフレーション理論の正しさには影響がないそうだ.ずいぶん都合
の良い理論ではある.今年の初め,原始重力波の痕跡(宇宙マイクロ波放射の B
モード偏光)が観測され,インフレーション理論を証明する事実として大ニュー
スになったが,その推論がどうもインチキくさくて原始重力波の証拠とは言えな
くなっても,インフレーション理論の正しさには影響ないらしい.
さて,よくわからないのはインフラトン場の正体である.一体これは古典場な
のか量子場なのか.ゆくゆくは量子場にしたいが,現在のところ古典場としてお
いて間に合っているということなのか.まず古典重力場とカップルしたインフ
ラトン場の基礎方程式を仮定し,この方程式の特別な解を採用して,インフレー
ションが起こることと,それがうまい具合に終結するようにできたとする.ここ
までは原理的な問題はない.しかし宇宙の初めの相転移などを論じたいのであ
れば,やはり素粒子については場の量子論的アプローチを避けて通るわけにはい
くまい.だが,上記のようなハイブリッド理論を考えると,論理的矛盾を来す.
やはりインフラトン場も量子場でなくてはならない.しかし,すべてを場の量
子論の枠組みで構成するとすると,並進演算子 Pµ が存在するであろう.ところ
が,インフラトン場は宇宙の初めの短い期間だけ大きな真空期待値を持ち,以後
はゼロまたはゼロに非常に近い値でなくてはならない.つまり,宇宙の初めのあ
る短い期間だけ P0 は大きく自発的に破れていなければならないことになる.そ
うだとすると,ずいぶん人為的な仮定を手で持ち込んだことになるのではない
か.インフレーションの専門家はどのように想定しているのだろうか,
*2
重力場の量子論は,定式化に関しては満足すべき理論である.定量的計算は困難だが,定性的議論を行うのには何
ら差し支えない.なお,くりこみ不可能性は,「量子重力場の第 0 近似は時空計量である」というウソを仮定して
共変的摂動論を適用したために生じた冤罪である.
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