追悼文
追悼
岸保勘三郎先生
当学会元理事長で東京大学名誉教授の岸保勘三郎先
生は,2011年9月19日心不全のため逝去されました.
1924年のお生まれで享年87歳でした.
岸保先生は,日本の「数値天気予報の
」として広
く知られていることと思いますし,その多岐にわたる
お仕事を簡単に記すことも出来ないので,近くに居て
(ちょっぴりずれてはいるが)時代を共にした者とし
て私の見た岸保先生像を記すことにします.年齢は離
れていましたが,先生のフランクな性格もあってずっ
と「岸保さん」と呼んで来ましたので,ここでもそれ
を続けるのを許して下さい.
岸保さんは,広島の出身で旧制広島高
を卒業され
て旧制東大に入学,1945年に理学部地球物理学科を卒
業された.本来なら1946年3月の所を戦争中の「くり
上げ」で半年早い卒業となった.もち論戦争末期の大
んは最終講義では触れておられないが,直ちに同じ問
変な時期で,45年3月の東京大空襲の後,地球物理教
題を自
室全体が長野県に疎開していた.間もなく敗戦,そし
方法で導いて,当時地球物理学教室独自で出版してい
て教室のメンバーは東京に戻り,幸い焼けなかった木
た Geophysical Note に1950年に発表された.実は,
造の
物で活動が再開された.岸保先生は最終講義
ちょっとした簡略化があり,引き続く数学上の論法が
(天気,31,659-672,1984)の中で,この頃のことを
必ずしも正確ではなかったが,敗戦後間もない混乱の
回顧し,陸軍・海軍から復員してきた同年代の仲間と
時期に26歳の若さで高度に数学的な難問に挑戦し自信
乱流のことをはじめ勝手な議論をしていた非常に楽し
を持てる結果を出された才能とそれを支える基礎の確
い時代と懐かしんでおられる.毎日の生活すら容易で
かさには驚くほかない.これに引き続く1951年の論文
ない時ながら,そんな事より長い不自由から解放され
を今回読み返してみると引用されている粘性流体の安
新しい知的活動が始まった喜びの方が大きかった,と
定性に関する文献が,有名な1924年の Heisenberg の
当時青年だった多くの人が語っている.
論文を は じ め,Tollmien,Schlichting そ し て Hopf
の流儀で解き,結果をはるかにすっきりした
科学界にとっては,途絶えていた欧米からの進んだ
とドイツ語の(しかも50ページ,60ページもある)論
情報がどっと入って来たのは大きな喜びである共に衝
文が並んでいるのに仰天してしまった.岸保さんは先
撃でもあったろう.岸保さんと前後する時期に東大理
の傾圧不安定の論文のコピーを Charneyに送られ,
学部を定年退官された色々な
野の方のお話しをうか
それがきっかけで1952年,28歳の時にプリンストン高
がっていて私はこれを第二の明治維新と呼び,岸保さ
等研究所で行われていた数値天気予報開発のプロジェ
んは気象学界においてこの時代が求める役割を担われ
クトに招かれ,1年余をその一員として過ごされるこ
た方と
ととなった.
えるようになった.その上,気象学,特に気
象力学では丁度この時期に革命的な変化が起こってい
最終講義でのお話では,1945年からの楽しい時代は
た.1947年に発表された J. G. Charneyの傾圧不安定
終わり,
「ここから私の運命が変わってしまうのです.
の論文は1年くらい後れて日本にもたらされ正野重方
1952年にプリンストンに行きましてから今度はえらい
先生や岸保さんに大きな衝撃を与えた.謙虚な岸保さ
ものをしょいこみまして,何の気なしに行ったのです
けれど電子計算機というものに遭遇するはめになりま
Ⓒ 2011 日本気象学会
2011年 12月
した.
」とある.数値予報に興味を持っておられたと
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岸保勘三郎先生
思うが,それを実現する手段として,日本はおろか世
た.後にうかがった事だが,数値予報の結果を現場で
界でも初めての,振り返ってみれば科学・技術の歴
活用してもらうため,キリスト教のミッションのよう
で新しい時代を開くことになった電子計算機を日本人
に各管区気象台をまわられた際,札幌・仙台両管区で
として初めて うことになったのである.岸保さんの
は歓迎され受け入れられ易かったが,大阪・福岡では
ことだから自 は何をすべきか直ちに理解されたのだ
散々だったという.巨額の予算を いながら内部の期
と思う.プロジェクトで行われる講義をはじめ電子計
待にすら応えられない岸保さんの悩みは大きく,最終
算機に関する事など毎日のように日本の仲間に航空
講義では「この2億円のことを
で書き送られた.日本では,気象庁・気象研・東大の
の長官でもなんでもなかったわけですが,一人で背負
若手研究者によ る 数 値 予 報(NP)グ ループ が 作 ら
いこんだような気持ちになって,何としても少しでも
れ,活動が開始されていた.この辺の事情は,いろい
役に立つということを見せなくては,という気持ちで
ろな所に記されているし,古川武彦氏による数値予報
した.
」と述べておられる.プリンストン以来の事情
を含む天気予報の詳しい歴
を えると,本当に一人で背負うという自負と責任感
が近々出版の予定(東京
大学出版会,2012)とうかがっている.
え,私自身は気象庁
を持っておられたに違いない.
こうして仲間の期待する中,1954年1月帰国され,
このような中,1969年に東大の正野先生が病没さ
NP グループの実質的リーダーとして活動されるよう
れ,翌年,岸保さんは教授として東大に移られた.ほ
になった.数値予報を実現するには電子計算機が要
とんど入れ違いに当時助教授だった柳井迪雄さんは,
る.NP グループは正野先生を中心として55年に気象
アメリカの新天地で熱 帯 気 象 研 究 を 展 開 し よ う と
学会から気象庁に要望書を出すなどの運動を研究と並
UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス
行して行った.これが実を結び,57年に気象庁が計算
された.岸保さんは当時九大の澤田龍吉先生の下で助
機 IBM 704の導入を決めると岸保さんは東大から気象
教授をしていた私に後任として東大に来ないかと誘い
研究所へ,そして59年4月の数値予報開始とともに気
の声をかけられ,私はそれをお受けして以後岸保さん
象庁予報部電子計算室に移られた.当時の
務員給与
が定年を迎えられた1984年まで気象研究室で一緒に過
体系では教育職から研究職,行政職へと移るたびに給
ごすことになった.東大では岸保さんも私も研究対象
与が下がったという事で,岸保さんの数値予報にかけ
を ったりせず,自
る情熱と金銭に恬淡とした人柄を表すものとして語り
展方向とか,入って来た大学院生の希望や特性を え
草となっていた.こうして1959年日本の気象庁では,
て研究を進める事にしていた.当時既に博士課程学生
54年のスウェーデン(北大西洋領域のみ),55年アメ
だった時岡達志さんは,岸保さんの指導で学位を取得
リカ(北半球)についで世界で3番目に数値天気予報
した最初だったと思うが,彼の研究テーマ, 直安定
が開始された.気象庁幹部の見通しのよさとともに岸
度の小さい大気での傾圧不安定は,当時の岸保さんの
保さんという学問的才能と強い情熱を持ったリーダー
問題意識にぴったりだったと思う.熱帯に近い日本で
が居なければ,こうはならなかったであろう.私は
は,梅雨時の低気圧のように対流と結合していて単純
1957年に大学院に進み,すぐに接触はなかったが,気
な傾圧不安定論では扱い切れない現象が重要である.
象界の華々しいスターとして岸保さんの名を耳にして
当時,岸保さんは数値予報での経験を踏まえ,「中間
いた.少し離れた所を歩いておられるのを先輩から
規模擾乱」という概念を提唱しておられた.
「あれが岸保さんだよ」と言われ,そのような目差し
で見ていたのを憶えている.
)に転出
達で対応出来る範囲で学問の発
東大に移られた岸保さんを待っていたのは学生だけ
ではなかった.1967年に GARP が始まり,日本では
気象庁での数値予報は,当然の事ながらそう簡単に
山本義一先生を中心に活動が進んでおり,柳井さんは
は実際の予報には役立たず,岸保さん始め当事者の苦
長年の夢である熱帯域太平洋での特別観測を実現しよ
労は大きかった.これは世界どこでも同じで,当時の
う と し て い た.そ れ 自 体 は 場 所 を 大 西 洋 に 移 し
計算機能力では 解能が不十
で低気圧の移動速度さ
GATE となるのであるが,ご病気だった正野先生の
え合わず,そのままで予報図とする事は出来なかっ
後任として岸保さんが東大教授になられると,当然の
た.その上,欧米と異なり日本は比較的低緯度にある
如くに GARP の中心に据えられることになった.世
ため断熱を前提としたポテンシャル渦度保存からの外
界 全 体 の GARP を 指 導 す る ICSU-WM O の JOC の
れは大きく,予報現場の期待に応えるのは困難であっ
メンバーとなり,世界と日本をつなぐ役割を果たされ
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〝天気" 58.12.
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岸保勘三郎先生
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た.GARP は1960年代に芽を出した数値天気予報と
に記述されている.1980年代初めに気象庁の数値予報
人工衛星観測を結びつけて,全地球の気象を四六時中
モデルが北半球スペクトルモデルになって
監視しつつ同時にそれをコンピューターの中に再現し
くなり,実際の予報の成績も上がって来た.岸保さん
予報を行おうという,現在我々が手にしているものを
が定年を迎えられた1984年の1月は東京でも度々雪が
当時の世界のリーダーたちが構想し,その実現のため
降ったが,その予報が良く当たり,
「気象庁が雪だな
立てた計画である.1977,78年に予定された FGGE
んていうから雪が降る」と冗談で文句を言う人までい
を目指し,全球をカバーする5個の静止衛星のうち1
た.プリンストンから帰られて30年,岸保さんは自
個を日本が担当する事になり,岸保さんは JOC メン
のやって来た事は間違っていなかったとの確信を持っ
バーとして気象庁の幹部と協力して実現を図ることに
て定年を迎えられたことと思う.
解能もよ
努力された.この過程で,衛星の雲観測から風を推定
定年後の岸保さんは,長い間の激務による疲れをい
する手法の開発に関して,大学院生だった中澤哲夫さ
やすべく別の仕事には就かれず,昔なじみの気象庁数
んを指導しておられる.
値予報課のコロキウムに顔を出して,新しい発展を見
GARP は日本の気象界にとって初めての国際協同
るのを楽しみにしておられた.一方,以前からアジア
研究プロジェクトであると共にビッグサイエンス化の
の隣人として大事にしておられた中国とインドに数か
端緒ともなった.岸保さんは,日本の大学の気象関係
月ずつ滞在して,若い研究者の相談にのったりもして
の中心となり,GARP の一環で日本が中心となるプ
おられた.中国に関しては国 回復前から学術 流活
ロジェクトとして,1974年東シナ海で行われた気団変
動として訪問しておられ,岸保先生ご逝去の報に中国
質実験(AMTEX)に当たって,山本先生らと文部
科学院大気物理研究所では老朋友に尊敬をもって哀悼
省に予算の 渉に行くなど,その実現に努力された.
の意が表された.インド出身で今や世界のリーダーの
その一方,当日本気象学会においても既に1954年30歳
一人である Dr. Shukla は1967年に気象庁で数値予報
の若さで理事に選任されていたが,1976∼84年の間4
の研修を受けた際,お世話になった岸保さんを生涯の
期8年間理事長を務められた.その間,1982年に学会
恩人とし,少し前日本を訪れた際訪問している.
100周年を迎えた時,JM SJ 特集号の発行,国際熱帯
岸保さんが定年で東大を去られる時,理学部広報に
気象シンポジウムの開催などの記念行事を成功に導か
書かれたお別れの文章は「大学に戻り,白い壁に向
れ,これらを通じて日本気象学会の国際的地位が向上
かって
したことは私自身で実感している.
ち雑用のうずに巻き込まれてしまった.
」で始まって
え事でもしていようと思っていたら,たちま
このようにプロジェクトの世話などに多くの時間を
いた.これを見た時,私は何とも申し訳ない気持ちで
割かねばならなかった岸保さんだが,それでもひまを
一杯になった.岸保さんは初期の論文からわかるよう
見つけて研究の楽しみを持たれたと思う.1981年に
にもともと理論家の学究なのである.それが第二次大
Wallace と Gutzler によるテレコネクションの解析の
戦後の学問の再 期と気象学・天気予報の革新に遭遇
論 文 が,ま た 同 年 に Hoskins と Karolyの ロ ス ビー
し,さらに国際化,ビッグサイエンス化という時代の
波束の伝播の論文が発表されると,岸保さんは強い興
流れの中にあって,時代が求める役割を誠実に力一杯
味を示された.日本への影響といった観点から,学生
担って来られた.岸保さんが造り,残して下さったも
だった楠
のの上に私たちの手による新しいものを築いて岸保さ
昌司さんを指導して調べ直し,EU パター
ンと PNA パターンの連なりを見出した.秘書の工藤
恵さんが大学で物理を専攻し,プログラミングにも優
れていた事から共同研究者としてデータ解析を行い,
3次元的波列の形成過程や夏季のテレコネクションを
明らかにし,2編の共著論文を書かれた.現実の大気
で重要な現象を簡潔な力学理論で説明する点で,岸保
さんの研究スタイルに合った問題であったと思う.定
年後も興味を持ち続けられ,佐藤信夫さんと共著の
「新しい気象力学」
(1986年)の中の重点として体系的
2011年 12月
んのご努力に報わねばと思っている.
本文中で省略した英字略記の元の語は次の通りです.
AM TEX:Air Mass Transformation Experiment
FGGE:First GARP Global Experiment
GARP:Global Atmospheric Research Programme
GATE:GARP Atlantic Tropical Experiment
ICSU-WM O:International Council of Scientific
Unions-World M eteorological Organization
JOC:Joint Organizing Committee
( 野太郎)
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