【研究報告】(人文科学部門)
戦後台湾におけるモンゴル人社会の形成過程に関する研究
―オーラルヒストリー調査によるアプローチ―
田 中 剛
京都精華大学人文学部 非常勤講師
緒 言
すモンゴル人とチベット人は合わせて 1000 人ほどであ
台湾には現在、465 人(2014 年 3 月現在)のモンゴル
るが、台湾多文化主義の来歴を把握するためにも、台湾
人が暮らしている。その台湾でモンゴル・チベット関係
へ渡って来たモンゴル人など辺疆民族と彼らに対する中
を扱う政府機関が、行政院に所属の蒙蔵委員会(モンゴ
華民国政府の制度・政策の実態解明が看過できないので
ル・チベット委員会)である。古くは清朝の理藩院にま
ある。
で遡ることもできる蒙蔵委員会の直接の起源は、1912
そこで本研究は、戦後台湾にモンゴル人たちが、モ
年に中華民国政府が国務院に設置した蒙蔵事務局であ
ンゴル高原や中国大陸からどのように移り住み、彼らの
り、28 年に中華民国国民政府(国民党政権)の下で蒙
社会がどのような特質を持っていたのか明らかにするこ
蔵委員会となった。第二次大戦後の内戦で中国共産党に
とを目的とする。研究を進めるにあたっては、戦後台湾
敗れた国民党政権が 1949 年に台湾へ撤退すると、蒙蔵
に移ってきたモンゴル人や関係者にオーラルヒストリー
委員会も台湾に移っている。1912 年の創設以来 100 年続
調査を実施し、文書資料として残されていない在台モン
いてきた蒙蔵委員会は、近いうちに解体されることが議
ゴル人の歴史を蓄積し、検討することに重点を置く。
論されているが、台湾のモンゴル人社会もまた現在、世
方 法
代交代が進みつつあり、ひとつの節目を迎えている。で
は、彼らはどのような経緯で台湾に移り住むことになっ
研究を進めるにあたって、台湾や日本に所蔵されて
たのか。その歴史が学術研究の対象になったことは少な
いる文献資料(政府公文書、書籍、新聞・雑誌など)と、
い。蒙蔵委員会がまとめた通史があるものの、台湾移転
当事者・関係者からの聞き取りをあわせて調査・分析す
後の蒙蔵委員会の活動がいくらかわかるだけで、台湾モ
ることによって、新たな歴史像を構築するよう努めた。
ンゴル人の動向は、ほとんど見えてこない。その研究は
特に聞き取り調査については、これまで進めてきた
台湾在住のモンゴル人に対する聞き取りを引き続いて進
決定的に不足しており、検討の余地が十分にある。
また、台湾では民主化を背景に 1980 年代から先住民
め、オーラルヒストリーの蓄積をはかった。基本的に毎
族運動が展開されてきた。「台湾原住民」を自称する彼
回の調査はモンゴル人 1 名に対して個別に行ってきた
らが当初求めていたのは、大陸時期からの行政機関であ
が、毎年旧暦 3 月 21 日に台湾モンゴル人が集まって開催
る蒙蔵委員会を廃止し、これに替えて「台湾原住民族委
されるチンギス・ハーン大祭を利用して座談会形式の聞
員会」を設置することであった。この運動の結果、「中
き取りも行い、当事者らが忘れている事実の掘り起こし
華民国憲法」の「追加修正条文」に「多元文化」や「原
をはかった。
住民族条項」が盛り込まれ、原住民族委員会が成立する
結果と考察
ことになるのだが、これは 1946 年制定の「中華民国憲
法」が「辺疆地区の各民族」に対する保障や扶助を謳っ
日中戦争期、中国内モンゴルは三つに分断されてい
た条文を基礎としている。こうしてみると、台湾原住民
た。日本の占領下には内モンゴル東部の「満洲国」と中
の権利要求や「基本国策」に謳われた多文化主義は、
「中
西部の「蒙疆政権」があり、国民党政権はかろうじて西
華民国憲法」が規定する「辺疆地区の各民族」であるモ
南部を支配していた。ところが 1945 年 8 月、日本の敗戦
ンゴル人やチベット人などを想定した制度的枠組みから
による「満洲国」と「蒙疆政権」の崩壊は、内モンゴル
展開してきたとも考えられる。つまり、現在台湾に暮ら
に権力の空白をもたらした。モンゴル人の民族主義と中
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田 中 剛
国国民党や中国共産党、さらにソ連の戦略とが交錯する
中国共産党は、10 月 14 日に広州を占領した。しかし、
なか、47 年 5 月に中国共産党の指導下に内蒙古自治政府
国民党政権は重慶に撤退し、なおも抵抗を試みる。蒙蔵
が誕生した。これより先、1946 年に本格的に始まった
委員会は業務整理のために一部の職員を解雇しつつ、疎
国共内戦は、当初国民党軍の優位に展開したが、やがて
開を進めた。11 月 23 日には周昆田が新たに蒙蔵委員会
共産党が反攻に転じ、共産党は 48 年末に東北全域を制
委員長に就いたが、新疆に派遣されていたため、高長柱
圧、49 年1月に天津と北平(現在の北京)を占領していた。
が会務を担当した。この間も中国共産党は攻勢を強め、
大戦終結以来、北平には対日協力政権の崩壊で就学機
11 月 29 日、国民党政権は成都に移転した。蒙蔵委員会
会を失ったモンゴル人学生が多数集まっていた。彼らは
に対する国民党政権の対応は不十分で、蒙蔵委員会のモ
徐々に再開されつつあった北平の学校で勉学を再開した
ンゴル人職員たちは雲南や海南島を転々として台湾に渡
が、48 年頃になって中国共産党の活動などで授業停止の
り、一部は戦局の悪化で成都に留まるしかなかった者も
学校も多くなると、モンゴル人学生は内モンゴルに帰る
いた。
1949 年 12 月 7 日、国民党政権はついに台北移転を決
者、上海・南京方面に移っていく者に分かれた。この後
定した。政権の中枢が台北に到着し、行政院は 9 日から
者のなかの一部モンゴル人学生たちが台湾に渡っている。
1949 年 1 月 25 日、行政院は 2 月 3 日をもって首都南京
執務を開始した。蒙蔵委員会も台北市内の「介壽館」
(現
での業務を停止し、2 月 5 日から広州で政府業務を再開
在の総統府)で再開した。年末までに台湾へ移った蒙蔵
することを決定した。行政院の決定以前からすでに進め
委員会関係者は 30 人に過ぎなかったという。行政院は
られていた政府機能の撤退は、2 月になって政府中央機
政府各機関に対して緊縮整理を命じ、蒙蔵委員会は附属
関や国民党組織の人員が連日 100 人規模で陸続と広州に
機関 2 つを残し、その他すべての附属機関を廃止した。
移って来た。2 月 4 日には行政院長の孫科が広州に到着、
この整理で蒙蔵委員会に占めるモンゴル人職員の割合
翌 5 日から行政院は執務を再開した。行政院に所属する
は、大陸時代と比べて大きくなった。
蒙蔵委員会も広州移転を進め、広州市内に事務所を開設
一方、新疆では日中戦争末期の 1944 年 11 月にイリの
した。南京にあったモンゴル・チベット関係の各機関も
トルコ系住民が「東トルキスタン共和国」の成立を宣言
広州に移動、一部は桂林に移って業務を再開した。
するなど、国民党の新疆統治はすでに陰りを見せてい
立法院も広州に移転することを決定した。モンゴル
た。1949 年 8 月には中国共産党軍が甘粛まで進軍したこ
選出の立法委員 22 名のうち、広州移転の直前まで南京
とから、国民党政権は新疆防衛策を現地指導者と協議す
にいたモンゴル人立法委員は 15 名。また、モンゴル選
るため、蒙蔵委員会委員長の周昆田たちをウルムチに派
出の監察委員は 8 名のうち 5 名が南京にいた。しかし、
遣した。ところが、新疆の現地指導者らは 9 月 25 日以
聞き取り調査によれば、当時南京にいたモンゴル選出の
降、相次いで通電を発し、国民党政権との関係を断絶し
国民大会代表、立法委員、監察委員、これらいわゆる中
て中国共産党の和平交渉を受け入れると宣言した。国民
央民意代表の多くは広州に移ることなく、上海を経て台
党の新疆支配が崩壊したことから、国民党支持の現地関
湾に渡ったという。
係者ら 100 余名はウルムチを急遽脱出、パミール高原を
このころ、内モンゴル西部のアラシャー旗では、モ
越えてパキスタン方面に逃れた。このなかに新疆のモン
ンゴル王公の徳王らが西蒙自治運動を進めていた。すで
ゴル人も含まれており、また、これとは別に中国共産党
に台湾に渡っていたかつての「蒙疆政権」モンゴル要人
の進出と前後してモンゴル王公らが新疆を脱出してイン
も大陸に戻り、この運動に合流した。1949 年 8 月、アラ
ドから台湾に渡っている。
南北朝鮮の独立によって分断状況にあった朝鮮半島
シャー旗で「蒙古人民代表大会」が開催され、徳王を主
席とする「蒙古自治政府」の成立を宣言した。しかし、
では、1950 年 6 月、北朝鮮軍が 38 度線を越えて朝鮮戦
中国共産党軍が 8 月末に蘭州を占領して西北方面に勢力
争が勃発した。北朝鮮軍は韓、米軍を釜山周辺に追いつ
を拡大すると、蒙古自治政府はまもなく瓦解、徳王は
めたが、これに対してアメリカは国連安保理の北朝鮮非
12 月にモンゴル人民共和国に逃亡した。一方、台湾か
難決議に基づいて国連軍を投入して反撃に転じ、北朝鮮
ら西蒙自治運動に参加していたモンゴル人は、アラ
軍を中朝国境の鴨緑江近くまで追いつめた。北朝鮮を支
シャー旗を離れて再び台湾に渡った。
援するため、中国軍は「人民義勇軍」の名目で出兵して
国連軍を南に押し戻したが、北緯 38 度付近で膠着状態
1949 年 10 月 1 日、中華人民共和国の樹立を宣言した
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戦後台湾におけるモンゴル人社会の形成過程に関する研究―オーラルヒストリー調査によるアプローチ―
謝 辞
となり、53 年 7 月に停戦協定が締結された。このとき、
国連軍との戦闘で捕虜となった中国軍兵士のうち 1 万
本研究を遂行するにあたり、公益財団法人三島海雲
4000 人ほどが中国送還を拒否して台湾に渡っている。か
記念財団より学術研究奨励金を賜りました。奨励金に
れらは台湾で「反共義士」と呼ばれるが、このなかには
よって資料の収集のみならず、台湾在住のモンゴル人の
内モンゴルで集められたモンゴル人兵士も含まれていた。
方々から貴重な経験を多く聞き取ることができました。
ここに記して、心より感謝申し上げます。
以上のことを整理すると、台湾モンゴル人の多くは
内モンゴル出身であり、1948 年から 50 年代初頭までに
文 献
台湾へ渡り、その数は約 400 人。その内訳は、①国民党
政権の関係者、②中央民意代表、③現地実力者、④学
1) 蒙蔵委員会編訳室:蒙蔵委員会会史稿,蒙蔵委員会,
1971.
2) 劉 学銚:蒙蔵委員会簡史続篇―附歴任委員長簡歴,蒙
蔵委員会,1996.
3) 林 桶法:1949 大撤退,聯経出版事業,2009.
生、⑤「反共義士」である。巷間伝えられるように「国
民党政権とともに渡ってきた」というわけでは必ずしも
ない。台湾モンゴル人社会の政治的・社会的背景は多様
であった。
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