報 告
前漢皇帝十一陵の踏査
橋本 義則
山口大学人文学部の「科学研究費の間接経
盤研究(B)「東アジア諸国における都城及
費に関わる研究プロジェクト経費」を得、
び都城制の比較を通じてみた日本古代宮都の
2009年11月7日から15日にかけて中華人民共
通時的研究」(課題番号:19320102、研究代
和国陜西省西安・咸陽両市を訪れ、前漢の皇
表者:橋本義則)による都城遺跡と陵墓の構
帝陵と皇后陵、及びそれらに関連する遺跡の
造の比較検討を目的とした調査と連繫し、連
踏査を行った(図1・表1)。今回は、主に
携研究者である奈良県立橿原考古学研究所林
地上に遺る遺構の確認、特に建物の台基と陵
部均氏も加わって行った。
園を巡る垣の痕跡をたどるとともに、遺跡・
現地では、西北大学文博学院考古系の王建
遺構の現状写真を撮影することに主眼をおい
新教授の助言と協力を得、その修士課程留学
た。なお、この踏査は、科学研究費補助金・基
生である金杉大志君の同道のもとに踏査を実
図1 前漢皇帝十一陵の分布(『前漢皇帝陵の研究』所収「図1 前漢皇帝陵分布図」を一部修正。図中の数字1〜11
は表1中の数字に対応。)
52
のあいだ、西安・咸陽の天候は極めて不良
て踏査を行いたいと考えている。なお、濃霧
で、視界わずか数メートルしかない濃霧と激
と降雪の中、しかも頻繁に変更される中国の
しい降雨、さらには十一月としては何十年ぶ
道路事情では、中国で購入した最新の道路地
りかの降雪のため、踏査は困難を極めた。そ
図や中国製の簡易なカーナビは全く無用の長
れ故に、当初予定していた全陵の陵園・陵邑
物であったが、緊急連絡用として携帯してい
の全体的な踏査は実現し得なかったが、その
たApple社のiPhoneにGoogle Earthがインス
ような状況においてもなおいくつかの知見を
トールされており、それを用いてようやく踏
得ることができた。また機会を得、天候に恵
査対象にたどり着けた場合が少なくなかっ
まれた中でこれらの点を再確認するととも
た。
皇帝陵 皇帝(在位期間) 通説 王説
構造等
発掘調査等
実施機関
研 究 ノ ー ト
に、今回なし得なかった諸点についても改め
論
文
施した。ただ、我々が滞在した一週間あまり
博物館等展示施設
恵帝 劉盈
(B.C195〜B.C188)
2
2
陵園は皇后陵と一体で平面長方
咸陽市博物館
形、陵邑有
覇陵
文帝 劉恒
(B.C180〜157)
3
3
因山為陵、陵園は皇后陵と各別、
陵邑有
陽陵
景帝 劉啓
(B.C157〜141)
4
4
陵園は皇后陵と各別で平面正方 咸陽市博物館 漢陽陵考古陳列館・漢陽
形、陵邑有、陵園外に礼制建築な 陝西省考古研 陵帝陵外蔵坑保護展示庁
ど建築遺址有、刑徒墓地有
究院
・南闕門遺址保護展示庁
茂陵
武帝 劉徹
(B.C141〜87)
5
5
陵園は皇后陵と各別で平面n正方 陝西省考古研
茂陵博物館
形、陵邑有、陵園外に建築遺址有 究院
平陵
昭帝 劉弗陵
(B.C87〜74)
6
6
陵園は皇后陵と各別で平面正方
咸陽市博物館
形、陵邑有
杜陵
宣帝 劉詢
(B.C74〜49)
7
7
(かつて杜陵陳列館?が
陵園は皇后陵と各別で平面正方
社科院考古研 存在したが、それは廃さ
形、陵邑有、陵園外に礼制建築な
究所
れ、現在遺物は考古研究
ど建築遺址有
所で保管の由)
渭陵
元帝 劉奭
(B.C49〜33)
8
11
陵園は皇后陵と各別で平面正方
咸陽市博物館
形、陵邑無
延陵
成帝 劉驁
(B.C33〜7)
9
9
陵園は皇后陵と各別で平面正方
形、陵邑無
義陵
哀帝 劉欣
(B.C7〜1)
10
8
陵園は皇后陵と各別で平面正方
形、陵邑無
康陵
平帝 劉衎
(B.C1〜A.D5)
11
10
陵園は皇后陵と各別で平面正方
形、陵邑無
プロジェクト
安陵
録
陵園は皇后陵と一体で平面長方
形、陵邑有、陵園外に建築遺址有
演
1
講
1
告
高祖 劉邦
(B.C206〜195)
報
長陵
表1 前漢皇帝十一陵の概要表
53
さて、ここでは、与えられた紙幅の関係と
積雪のために断念し、主に墳丘の南面、陵園
帰国後における踏査記録の整理の進捗状況か
内で観察を行った。南面の陵園の垣は高さ0.5
ら、前漢の皇帝十一陵を個別に全て取り上
〜1メートルで遺り、その中央に南闕門が高
げ、踏査の記録を細かに記すことは避け、ま
さ1〜3メートルほど、厚さ10センチほどの
ず具体的な踏査の報告として、王建新教授が
版築で造られた土の高まりとして遺ってい
「後四陵」と呼び、通説的な比定に疑義を呈
た。衛星写真では南と東西の垣およびそれら
している前漢末の四皇帝陵の踏査記録を記
の中央に開く闕門址が確認できるが、北は明
し、次いで今回の踏査で確認できた諸点や今
瞭でない。陵園内は外に比べて数メートル高
後の課題点について述べることにする。
く、南面では垣から外の西半部が大きく落ち
窪んでいる。陵園内部は平坦でなく、墳丘に
(1)「後四陵」の踏査
近づくにつれ次第に高くなるが、観察を行っ
た南面では南闕門と墳丘南辺の中間点辺りで
11月11日、雪が降りしきる中、西安市街か
墳丘側がさらに一段高くなっている。ただ、
ら北西に30㎞ほど離れた咸陽市渭城区にある
これが本来のものか、後世の造作によるもの
前漢末の四代の皇帝陵、渭陵・延陵・義陵・
か現状では明らかでない。墳丘の南には、
康陵の四陵の踏査に向かった。この四陵は咸
1956年8月に咸陽市人民政府が立てたおそら
陽市街の北を走る一本の道路の南北に、西か
く陝西省第一批重点文物保護単位であること
ら延陵・康陵・渭陵・義陵の順に、ほぼ等距
を記したと思われる「延陵」碑が、碑面の中
離で並び(図1・表1)、現在はいずれも全
央を大きく欠損したままで立っていた。ま
国重点文物保護単位に指定されている。
た、清の畢沅が立てた「漢成帝延陵」碑と陝
西省人民政府が2007年10月30日に立てた「全
①延陵
国重点文物保護単位 延陵」碑もやや離れて
降雪と濃霧で視界は5メートルほどであっ
それぞれ立っていた。なお、皇后陵に推定さ
たため、延陵の踏査はもっとも困難を極めた
れている陵については、降雪ために陵の所在
が、上記したGoogle Earthがここでは大いに
とそこへの進入路が確認出来ず、踏査を断念
役立った。Google Earthの衛星写真(以下単
せざるを得なかった。
に衛星写真と略す)は必ずしも最新のもので
54
はないが、自動車が入れるような道路は十分
②康陵
弁別でき、現在位置を衛星写真上で確認しな
延陵の踏査を終え、その東北に位置する康
がら、延陵の所在を探って進んだため、延陵
陵へ向かった。さいわい雪も小止みになり、
を通り過ぎることなく、また誤った道に入っ
霧も晴れ始めたので、康陵は比較的容易に見
て時間を無駄にとられることもなく無事たど
つけることができた。ただ、康陵も積雪のた
り着くことができた。
めに墳丘の南方に限って踏査を実施するに
延陵の形状は覇陵を除く前漢皇帝陵に共通
止まった。劉慶柱・李毓芳両氏および王教授
する截頭四角錐であるが、遠くから見ても南
の研究ではともに陵園を復原しているが、今
面中央が縦に大きく陥没していることがわか
回の踏査では地上に明瞭な遺構を確認できな
る。ここから墳頂に登れるようであったが、
かった。ただ、衛星写真では墳丘平面の傾き
する遺構を確認できない。
論
文
に合い、周囲の道路の方向に合わない道路や
畦畔が認められるので、あるいはそれが陵園
③渭陵
陵と同様、墳丘に向かって緩やかに高くな
王皇后陵の見学を終えたのち、渭陵を求め
り、途中に低いが段状の地形を確認するがで
て東へ進んだ。渭陵と王皇后陵は周陵郷新荘
き、衛星写真でも墳丘南方に複雑ながら直線
村にあり、村の西外れにある王皇后陵から踏
的な段状をなしていたと思われる地形も認め
査を行った。皇后陵は墳丘の大きさに比して
られる。これが陵園の内外を分ける垣や陵園
広い陵園が設けられ、今日も垣の遺構が陵
内の何らかの建築などにともなう遺構である
園を巡っている(図2)。ただ四面の垣に設
のかもしれない。墳丘は截頭四角錐を呈する
けられていたはずの四基の闕門の遺構は積雪
が、頂部近くにテラスを設けて段を造ってい
のため確認できなかった。墳丘は截頭四角錐
る。なお、陵の南辺一帯は今日も周辺住民た
で、康陵と同様に頂部近くにテラスを設けて
ちの墓地で、造られたばかりの真新しい墓も
段を造っているが、墳頂は大きく陥没してい
研 究 ノ ー ト
の痕跡であるかもしれない。全体の地形は延
存在した。その中に墓碑と混じって、1981年
10月1日に咸陽市人民政府が立てた「第一批
報
陝西省重点文物保護単位 康陵」碑があり、
その横には「全国重点文物保護単位 康陵」
碑と思われる碑が裏面の解説文を上にして倒
れ、また「漢元帝」と刻んだ、清の畢沅が立
告
てた康陵の碑の上半部分と思われる石の断片
が転がっていた。
王皇后陵は康陵から東南東へ700メートル
学研究所の敷地に取り込まれ、その北半部に
図2 渭陵周辺地形図(『前漢皇帝陵の研究』所収 「図71 渭陵周辺地形図」)
講
ほど離れて位置するが、現在は咸陽市農業科
演
あった。墳丘を取り囲むように建物が建て込
み、南辺に位置する建物によって裾部が大き
く削られ、また、西辺には多くの資材が放置
録
されていた。墳丘の南辺には1984年12月11日
に咸陽市人民政府が立てた「陝西省重点文物
保護単位 康陵合葬墓 王皇后墓」碑があ
プロジェクト
り、それからやや離れた西辺には資材と混
じって畢沅の碑(王教授によれば、過去の記
録に「周成王陵」と刻まれていたという)が
バラバラのまま放置されていた。研究所の建
設にともなって大きな改変が加えられたの
か、陵園に関する遺構は現状では全く地上に
見あたらず、衛星写真でも垣など陵園に関係
図3 渭陵陵園概図(Google Earth 衛星写真に加筆)
55
る。墳丘の周囲には幅10メートル前後で高さ
56
2メートル以上のテラスが巡り、現在はその
④義陵
大部分に植栽が行われている。テラス南面の
渭陵踏査ののち、さらに東に向かって進
中央には幅25メートルほどで16メートルほど
み、義陵と孝哀傅皇后陵に向かった。まず、
南に突出した張出部がある。この張出部が本
後者の皇后陵から踏査を行ったが、遠目にみ
来のものであるか否かはテラスとともに検討
ても墳丘、特にその東半部が大きく破壊され
の必要がある。なお、墳丘南面テラス中央の
ていることを見て取ることができ、さらに近
張出部には、「王陵」と彫った碑が立ってい
づくにつれ西半部にも破壊があり、特に東南
るが、それはおそらく畢沅が立てた碑(王教
部は殆どの墳丘を失っていることが分かっ
授によれば、彼が調査した段階では完存した
た。周囲には陵園に関わるような遺構は認め
「周康王陵」碑が立っていたらしい)の下半
られなかった。墳丘が破壊されている西半部
部で、その南で雪の下に埋もれていた石は上
では、それ故に断面で墳丘を構築した版築の
半部であろう。
痕跡を観察できた。版築の一層はおおよそ23
渭陵は王皇后陵の東南にある(図2・
〜24センチメートルと漢代の版築としてはや
3)。陵園は、垣が高まりとして遺っている
や厚めで、あまり締まっていない。なお、こ
ので衛星写真でも明確に見て取ることがで
の墳丘が渭陵の皇后陵であることを示す碑な
き、規模を確認できる。闕門も南と東西には
どは周囲に見あたらなかった。因みに、王教
地上に遺構が遺るが、北は遺構として確認で
授によれば、この陵は「典型的漢代の大墓と
きなかった。墳丘は截頭四角錐で、頂部近く
は形状を異とする」墳頂をもち、また版築に
には康陵同様テラスを設け段を造っている。
は前漢晩期の瓦・陶片が含まれるということ
また、墳丘の周囲には南と東と北で周囲より
であるから、時期が下がる可能性がある。
一段高いテラスが巡っている。東は幅が35
次いで義陵に向かったが、風雪のためやは
メートルほどあるが、南と北は狭く15メート
り墳頂部へ登ることはできなかった。義陵に
ル前後である。西については明確なテラスを
ついては、衛星写真でも東西と南に垣が遺っ
確認できなかった。墳丘の南方には1981年10
ていることが分かる。踏査でも東西と南には
月1日に咸陽市人民政府が立てた「第二批陝
低い高まりが見られ、衛星写真の状況を確
西省重点文物保護単位 漢元帝劉奭 渭陵」
認できたが、北は明瞭でなく、陵園の北限を
碑と2007年10月30日に陝西省人民政府が立て
決めがたい状況であった。陵園の四面に開く
た「全国重点文物保護単位 渭陵」碑が並ん
はずの闕門も地上に遺るのは東闕門址のみで
で立てられているが、墳丘近くに立つ清の畢
ある。墳丘は截頭四角錐で、康陵や延陵と同
沅が立てた碑には「漢昭帝平陵」と彫られて
様に、頂部近くにテラスを設けて段を造って
いる。また、その近くには表面の殆どを欠損
いる。全体が二〜三段で築成されているよう
していてわずかに上部左寄りに「平」の一字
にも見えたが、上述したように墳丘に登って
のみを確認できる碑が立っているが、これは
観察できなかったので、確認できていない。
漢陵の他の事例や碑の形状・材質からみて、
墳丘南面の西半部には新しい破壊の跡があ
1956年に咸陽市人民政府が立てた碑と考えら
り、これは衛星写真でも確認できる。墳丘の
れる。
周囲には一段高いテラスが幅40メートル前後
れを順次発掘調査することも非現実的であ
1981年10月1日に咸陽市人民政府が立てた「第
る。また、外国人による測量や実測による図
一批陝西省重点文物保護単位 漢哀帝劉欣 面の作成が認められていない現状では、踏査
義陵」碑と2007年10月30日に陝西省人民政府
による地上観察と写真撮影、そして様々な年
が立てた「全国重点文物保護単位 義陵」碑
代の衛星写真の収集と検討が必須である。
が立てられていた。
今回の限られた踏査で確認できた具体的な
論
文
で巡っている。なお、義陵にも墳丘南方に、
事項の一端は上記したが、十一陵を踏査して
陵園が周囲より一段高い地形を選んで造られ
と今後の課題
ただけでなく、実際に垣で囲まれた陵園内が
研 究 ノ ー ト
(2)前漢皇帝陵研究に関する確認事項
明らかに外側より高くなっていることであ
ながら回ることは茂陵以外では全く実現しな
が分かった。ただ、このテラスが本来のもの
かったし、また、幾つかの皇帝陵では陵邑
であるのか否か、特に南面に突出部を設けて
の存在が指摘され、その位置も遺構によって
いる事例には検討の余地がある。
確認されているが、それも全く確認作業を行
また、墳丘については、墳丘の途中に数段
えなかった。ただ、今回、強行軍で十一陵を
のテラスを設ける例や細かに多くの段を設け
全て巡り、その所在地を確認したことは今後
て墳丘を造る例もあるが、これらが何時のも
の踏査に十分生かすことができると考えてい
のであるのか検討が必要である。王教授のい
る。実際に踏査して分かったことは、参考と
う「後四陵」に限っても、墳丘の形状、特に
した論著の内容通りの現状であった陵は一つ
康陵・渭陵・義陵で確認できた、墳頂附近に
としてなく、保護されているはずの陵におい
おけるテラスの存在は、延陵には確認できな
ても大きな改変が加えられ、保護が行き届い
い。「後四陵」では、延陵と他の三陵で中軸
ていない陵では驚くべき破壊が進んでいるこ
線の傾きが異なり、延陵は特に北で西に大き
とである。経済成長の著しい中国では開発や
く振れ、これは延陵の西にある茂陵や平陵と
無理解による破壊が横行しているだけでな
共通する特徴である。この事実も考慮するな
く、しばしば陵墓の盗掘が報じられ、近くの
らば、墳頂近くに設けられたテラスは時期差
村がそのまま泥棒村であったとの報道も行わ
を示しているのかもしれない。
れている。しかし、日本と異なり有史以来の
以上のように、前漢の皇帝陵については、
遺跡が多く地上に遺構として遺る広大な領土
比定、皇后陵の比当等基本的な問題が残され
をもつ中国では、それら全てに保護と監視の
ており、その構造や変遷については今後検討
目を光らすことは殆ど不可能であり、またそ
すべき点が多いことを再確認した。
プロジェクト
の周囲にテラスを設けているものもあること
録
きなかった。特に陵園の周囲を細かに観察し
演
高くしているだけでなく、後半の陵では墳丘
講
おして行ったため十分な観察を行うことがで
告
る。また、垣から次第に墳丘へと傾斜をつけ
報
今回の踏査は、上述したように、悪天候を
57
参考文献・参考資料
『中国历史大辞典』秦汉卷、上海辞书出版社、1990年
『汉代长安词典』陕西人民出版社、1993年
『西安历史地图集』西安地图出版社、1996年
『中国文物地图集』陕西分册上・下、西安地图出版社、1998年
陕西省文物局『陕西文物古迹大观』全国重点文物保护单位巡礼之一、三秦出版社、2003年
陕西省文物局『陕西文物古迹大观』全国重点文物保护单位巡礼之二、三秦出版社、2003年
陕西省文物局『陕西文物古迹大观(三)』陕西省省级文物保护单位巡礼、三秦出版社、2006年
陕西省地方志编纂委员会编『陕西省志』第66卷文物志、三秦出版社、1995年
咸阳市渭城区文物管理委员会『渭城文物志』三秦出版社、2007年
咸阳市文物事业管理局『咸阳市文物志』三秦出版社、2008年
阎崇东『西汉帝陵』历代帝后陵寝研究书系、中国青年出版社、2007年
劉慶柱・李毓芳「西漢諸陵調査與研究」文物编辑委员会『文物资料丛刊』6、1982年
劉慶柱・李毓芳『前漢皇帝陵の研究』学生社、1991年(原著『西汉十一陵』陕西人民出版社、1973年)
中国社会科学院考古研究所『汉杜陵陵园遗址』考古学专刊丁种第四十一号、1993年
王建新・毛利仁美「前漢「後四陵」についての考察」『茨城大学考古学研究室20周年記念論文集 日本考古学の基礎研究』茨城
大学人文学部考古学研究室、2001年
王建新「西汉后四陵名位考察」『古代文明』2、北京大学中国考古学研究中心・北京大学古代文明研究中心、2003年
なお、発掘調査やボーリング調査あるいは踏査・実測などの簡報、またそれらに基づいた研究論文は多数あるが、今回の踏査
にあたって特に参考とした文献のみを掲げておくことにする。
写真1 長陵(南から)
写真2 呂大后陵(南から)
写真3 安陵(西北から。中央に見えるのが安陵。その手前
写真4 覇陵(北から。後方の山腹に覇陵がある。)
の段は陵園の北辺で、版築で造られた垣の遺構と思
われる。)
58
論
文
写真7 南闕門遺址門道部分(西北から)
写真8 漢陽陵考古陳列館(東から)
写真9 茂陵(南から)
写真10 茂陵陵園の東門遺址(東南から。中央の高ま
りとその右手にある小さな高まりの間にある
凹部が門道部分。現在の道路は陵園外に位置
し、陵園内と比べて一段低くなっている。)
写真11 茂陵陵園東門の版築(東から。門の遺址中央
部に厚さ10㎝ほどの版築層が見える。)
写真12 茂陵博物館(南から。中央奥の亭のある小丘
が霍去病墓)
報
写真6 陽陵南闕門遺址保護展示庁(南から)
研 究 ノ ー ト
写真5 陽陵(南から)
告
講
演
録
プロジェクト
59
60
写真13 霍去病墓の石刻「匈奴を踏む馬」
(東南から)
写真14 平陵(南から)
写真15 杜陵(南から)
写真16 杜陵(東南から。皇后陵墳頂部より望む)
写真17 渭陵(南から)
写真18 延陵(南から。中央右が筆者、左が林部氏)
写真19 義陵(南から)
写真20 康陵(南から)
ダウンロード

前漢皇帝十一陵の踏査