ヤコブの手紙4章13節-5章11節 「世の富と終わりの日」
1A 神なしの計画 13-17
1B 分からない明日 13-15
2B 虚しい誇り 16-17
2A 富への裁き 1-6
1B 滅びゆく富 1-3
2B 貧しい者への虐げ 4-6
3A 忍耐する待望 7-11
1B 近づいている主の来臨 7-9
2B 忍耐への報い 10-11
本文
ヤコブの手紙4章を開いてください。私たちは前回、4 章 12 節まで読みました。今日は 13 節か
ら読み始めますが、前回のおさらいをしましょう。私たちは、争うことについて読みました。なぜ私
たちの間で争いと戦いがあるのか?それは、自分が欲しがっているものを得られないから、奪い
取ろうとするからだ、と言うことでした。私たちは祈り、主の前に祈って、主の裁きにゆだねなけれ
ばいけないのに、自分の主張、自分の意志を強く出していきます。この自我が、神に対する高ぶり
であります。すべての事は主から来ているのに、それに服することをしないからです。また、争い
があるのは世の友になっているからだ、ともありました。神の国ではなく、世にあるものを捨ててい
ないので、そのまま神の国とは相いれないことを行なおうとします。
これらに対して、ヤコブは「神の御霊は、あなたがたをねたむほどに慕い求めておられる。」と励
ましました。私たちは、ねたむほど愛しておられる神に満たされれていないために、これらの肉の
働きや、世への愛を抱いてしまうのです。ここでの解決は、神の恵みであることも学びました。十
字架につけられたキリストこそが、自分の誇りである。私は罪人のかしらであるが、圧倒的な恵み
によって今の自分がいる。この正しい位置にこそ、柔和さがあり、純真になることができ、義と平和
の実を結ぶことができます。
そして、争う時に兄弟の悪口を言うのですが、兄弟を裁くことがいかに神の律法に逆らっている
ものか、神の位置に自分を置いているかを話しました。そして 13 節以降も、同じように人が高ぶっ
ている姿を描いています。
1A 神なしの計画 13-17
1B 分からない明日 13-15
13 聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」
1
と言う人たち。
ヤコブは、13 節と 5 章 1 節で、「聞きなさい」という呼びかけから始めています。13 節から 17 節
は、ユダヤ人信者で商売をしている人々を念頭にヤコブは語っているものと思われます。そして 5
章 1 節から、ユダヤ人で金持ちの不信者に向けて語っていると考えられます。ここ 4 章 13 章で
は、信者なのですが世の友になっている人、二心になっている人々に語っています。
私たちは教会において争いという問題を見ましたが、教会においてこのような世の富を求める姿
も出てきます。これは、表向きは大したことのないように見えますが、これはちょうど神を愛しなが
ら女を愛していった、ソロモン王の治世と同じことが起こります。すなわち、平和ではあるのですが、
いつの間にか安逸が入り込み、ついに心が神から離れていくという結果です。これはじわじわと教
会の霊的健康を蝕みます。気づいたら神の国ではなく、ただの人間の集まりになってしまうのです。
具体的に問題にされているのは、神なしに計画を立てていることです。本文には出てきません
が、主語は「私は・・」となっています。計画を立てることは間違っていません。聖書には「正しい人
の計画することは公正(箴言 12:5)」とあります。ここでの問題は、神なしで計画を立てる愚かさで
す。ヨブ記の学びで私たちは、人が神のかたちによって造られたこと、けれども人は人であり、神
に拠り頼んで生きるからこそ計画を立て、管理して、物事を治めることができることを学びました。
神なしで物事を決めていき、自分自身で計画し、実行していくところに、争う時と同じ高ぶりがある
のです。自分でやっていこうとする、人間の罪がここにあります。
ヤコブはもちろん、イエス様の警告の言葉を思いながらこのことを話しています。ルカ 12 章 15‐
21 節です。「ルカ 12:18‐20 こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産
はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。『たましいよ。これから先何年
分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。』しかし神は彼に言われ
た。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した
物は、いったいだれのものになるのか。』」ここの箇所でも、「私が」が主語となっています。
自分がしていることが、はたして主の御心なのか、立ち止まっているでしょうか?それとも、これ
だと思って、立ち止まらずに自分の意志で物事を進めていないでしょうか?祈っているでしょう
か?祈っても答えがないのに、祈ったからといって自分のしたいことを決めてしまっていないでしょ
うか?これが、「神なしで計画している」ことになります。
14 あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのよう
なものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。
ここは、とても大切です。「あすのことはわからない」とヤコブは言っています。イエス様も「今夜、
2
おまえの魂はあなたから取り去られる」と言われました。私たちは、いつも計画しないといけないと
いう圧力の中で生きています。人々はあまりにも、短期間にしか存在しないものがいつまでも続く
と思って、安泰できると思って日々を過ごしています。しかしそれは幻想であり、いつか間もなく死
ぬかもしれない身です。いや、一夜にして頼っていたものがなくなった、という経験をした方もおら
れますね。それはちょうど、ヨブのような経験です。ヨブと同じように、その失った人や物を通して神
が命を与え、命を取るということに出会います。霊的にその人は幸いなのです。
ここの御言葉は、命に対する真実を示している大事な部分です。霧にヤコブは喩えていますが、
原語では寒い時に吐く息にも使われる言葉だそうです。それだけはかないもの、消え去ってしまう
ものなのです。荒野において、神の裁きを受けたイスラエルの民ですが、その生活の苛酷さを目
撃したモーセは、詩篇に次のような言葉を残しています。「私たちの齢は七十年。健やかであって
も八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛
び去るのです。だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っている
でしょう。その恐れにふさわしく。それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。
そうして私たちに知恵の心を得させてください。(90:10-12)」
自分の日を正しく数えながら、私たちは生きているでしょうか?キリストを信じて、このような意気
込みを抱かなかったでしょうか?「私は新しい生活が始まったのだ。これから、新しい生活を築き
上げて幸せになるのだ。」いいえ、これは誤った考えです。せっかく新しい人生が始まったのに、古
い自分は全然変わっていないではないか!前提が間違っています、こう考えるべきです。「私は
既に自分に死んだのだ。肉体がいつ滅んでもおかしくない。主の憐れみによって生かされる残さ
れた日々は、ただ主を恐れ、主によって生きていただくだけなのだ。」
15 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、
または、あのことをしよう。」
これが、成熟したキリスト者の生活を端的に表しているものです。主の御心を熱心に求めます。
そして、御心に自分を従わせながら、計画を立てるのです。主の御心がなることを考える時に、不
信者だけでなく、クリスチャンも「それなら、何もしないことなのだ。」と考えます。いいえ、神のかた
ちに私たちは造られたのです。神は私たちに人に、考えることのできる知性、情報を統合する力、
計画を立てることのできる力、そしてそれを実行の移す意志を賜物として与えられました。神は、
ご自分の意志が、私たちの志と願いの中に置いて、物事を達成したいと願われています。
パウロは計画を立てて宣教の行動をしている時に、「主のみこころならば」という言葉を使いまし
た。「「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰って来ます。」と言って別れを告げ、エペソ
から船出した。(使徒 18:21)」自分は強くエペソに行きたいと思っていても、主がそれをお許しにな
るなら行けるのであって、主の御心を度外視して意志を突き通すつもりはない、ということです。自
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分の考えていたことと違うことが起こっても、そこで立ち止まって主の御心を求めます。
主の御心を求めることを、私たちはしばしば占いのように考えます。いいえ、御心を求めるのは、
すでに知らされている神の御心に徹底的に服従することによって、見えてくる世界です。歴代誌の
学びにおいて、その主題は「主を求める」ということでした。この言い回しが何度も出てきました。
例えば、ダビデは神殿建設の準備をして、イスラエルの民にこう言いました。「1歴代 28:8 今、主
の集会、全イスラエルの前で、私たちの神が聞いてくださるこの所で、あなたがたは、あなたがた
の神、主の命令をことごとく守り、求めなさい。それは、あなたがたがこの良い地を所有し、あなた
がたの後、とこしえまでもあなたがたの子たちにゆずりとして与えるためである。」既に知らされて
いる神の命令があります。それで、自分の思いを清めていただきます。その反対のことをした、ソ
ロモンの子レハブアムについては、「2 歴代 12:14 彼は悪事を行なった。すなわち、その心を定め
て常に主を求めることをしなかった。」とあります。
まさに、このような聖書の学びで主の御心を求め、それで自分の欠けや至らなさを示され、思い
を変えて主に従おうとする時に、主の御心を求めているのです。自分の思いや考えを捨てて、神
の思いと考えを選び取ります。その中で、主が自分の願いにご自分の願いを置かれるのです。
2B 虚しい誇り 16-17
16 ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、
すべて悪いことです。
主の御心を求めないで、自分のしたいことを選び取っていくことは、「むなしい誇り」です。使徒ヨ
ハネは、「暮らし向きの自慢(1ヨハネ 2:16)」と言いました。4 章前半では、自分こそが正しいとい
う高慢が問題でしたが、ここでは「自分でやっていける」という傲慢を問題にしています。
4:17 こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪で
す。
私たちはキリスト者であれば、主の御心を求めなければいけないことは分かっています。これが、
なすべき正しいことであることは分かっています。けれども、知っていながら行っていないなら、そ
れは罪であるとヤコブは言っています。ヤコブは再び、「行ないのない信仰」の問題を取り上げて
いるのです。信じていると言っていながら、それが行いに表れていないことの問題です。
そして、ここではもう一つ、罪は行うことだけでなく、行なわないことでも犯すものである、というこ
とです。嘘を付かない、盗みをしない、姦淫を犯さない、これらの「しない」ということで自分を正し
いとするのは過ちで、愛しなさい、分かち合いなさい、親切にしなさい、相手を尊敬しなさい、これ
らのしなさいという命令に従っていないのも、行なう罪と同じだということであります。
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2A 富への裁き 1-6
このようにして、神に頼らないで自分の判断や力、自分の知恵に頼る愚かさをみました。次は、
神に頼らないどころか、神から離れて、独立して生きている人に対する神の裁きの言葉です。
1B 滅びゆく富 1-3
1 聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。2 あなた
がたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、3 あなたがたの金銀にはさびが
来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。
あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。
ヤコブは、1 章から一貫して、金持ちの問題について話していました。聖書全体を見れば、問題
は富そのものにあるのではありません。族長アブラハムも、またヨブも、数多くの富を持っていまし
た。富が問題なのは、神から離れ、神から独立して生きるようにさせるところであります。使徒パウ
ロは、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。(1テモテ 6:10)」と言いました。神と富の
どちらにも仕えることはできない、とイエス様は言われました。富に仕えるなら、神から離れます。
ヤコブは、この世の終わりについて話しています。この世は主が来臨する時に滅びます。「人々
が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ち
ょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。(1テサ
ロニケ 5:3)」主が再び来られる時に滅びるもので、最も特徴的なのは富んだ社会です。バビロン
の滅亡を、エレミヤ等、預言者が預言しましたがが、それは古代バビロンだけでなく、終わりの日
にあるバビロンが突如として滅びることを予告したものでした。
黙示録 17 章に、それが地上の王たちと不品行を犯している大淫婦として現れます。「この女は
紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでい
っぱいになった金の杯を手に持っていた。(17:4)」そして、これらの富は、地上に商人によって築
き上げられたものだと 18 章にあります。「それは、すべての国々の民が、彼女の不品行に対する
激しい御怒りのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女と不品行を行ない、地上の商人たちは、
彼女の極度の好色によって富を得たからである。(18:3)」その富は、まさに商業主義であり、流行
であり、人々が物を買わなければ済まないようにさせている制度であります。
ヤコブがなぜ、4 章の最後で信者に対して、主の御心を度外視して商売をしていることに警告
を出したかというと、これらのものは終わりの日に滅びるからです。私たちがこの世と共に滅びる
ことがないように、バビロンから出ていきなさいという勧めを主は行われています。「私は、天から
もう一つの声がこう言うのを聞いた。『わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないた
め、また、その災害を受けないためです。』(18:4)」
5
ヤコブは、「悲惨」と表現していますが、それは富を愛して生きている人々が、持っている物がな
くなることによって、迫りくる悲惨であります。それは、へりくだって悔い改めをもたらす悲しみでは
なく、ひたすら物を喪失したことを嘆く、死に至る悲しみであります。「神のみこころに添った悲しみ
は、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(2コリ
ント 7:10)」
そして彼は、富が腐る、金銀に錆が出る、着物は虫に食われると言っていますが、これはイエス
様ご自身が、地上に富を蓄えるのをやめなさいと言われた時に語られたのと似ています。事実そ
うなるのですが、それだけでなく「あなたがたの肉を火のように食い尽くします。」と言っています。
これは地上に降りかかる火によって自分の肉が焼きつくされるということもあるでしょう。事実、こ
の手紙を読んでいた時代、その数十年後、紀元 70 年に富を蓄えていた上流階級の祭司たちは、
ローマのエルサレム破壊によって自分たちのものだけでなく、その肉体も戦火の中で焼けてしまっ
たのです。世の終わりにも、火による裁きがきます。そして地上の火だけではありません、死後に、
ゲヘナという燃える火の中に投げ込まれることも意味も含まれています。
2B 貧しい者への虐げ 4-6
4 見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。
そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。
当時の社会では、日雇い労働はその日の賃金が生死を分ける程の苛酷さがありました。彼らに
その日のうちに賃金を払わなければ、死ねと言っているのと同じような貧困があったのです。それ
で、モーセの律法では厳しく、その日のうちに賃金を支払えという神の命令があります(申命
24:14‐15)。ここの叫びは、あまりにも恐ろしい搾取に対する困窮から出てきた叫び声です。それ
を、主ご自身が聞いておられます。ここで「万軍の主」が聞いておられる、とあります。つまり、神は
力をもってこれら搾取している者たちに対して戦われる、ということです。
5 あなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太ら
せました。
金持ちに対する悲惨は、2‐3 節には金銭を蓄えるだけして分け与えないことが咎められ、4 節に
は労賃をごまかして支払わない不正を咎め、そしてここ 5 節では、自分の快楽のために生きてい
る姿があります。旧約聖書にアモス書がありますが、預言者アモスがこのような社会的不正に対
して、神の怠りない裁きを宣言しているところです。「主はこう仰せられる。「イスラエルの犯した三
つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らが金のた
めに正しい者を売り、一足のくつのために貧しい者を売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地のちり
に踏みつけ、貧しい者の道を曲げ、父と子が同じ女のところに通って、わたしの聖なる名を汚して
いる。彼らは、すべての祭壇のそばで、質に取った着物の上に横たわり、罰金で取り立てたぶどう
6
酒を彼らの神の宮で飲んでいる。(2:6-8)」貧しい者を売って、また質を取って、女と遊び、また偶
像礼拝をして、酩酊にふけっている姿であります。
私たちは、このようなあからさまな快楽にふけっていないかもしれません。けれども、自分のこと
だけを考えさせる快楽主義は私たちの社会に浸透しています。他者に対して、触りのよい言葉は
話します。しかし、それ以上のことには関わらないという心の貧しさがあります。人に優しくしてふ
るまっているようで、実は自分のしていることを追及している、自己実現に走っているので、周りの
人々を顧みる余裕がないのです。マザーテレサが来日した時に、日本は精神的貧困状態に陥っ
ていると言いました。
6 あなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。
ここは、貧しいユダヤ人信者を、不信者のユダヤ人が罪に定めていることを書いています。お金
によって裁判においてこれらの信者を有罪にしていきます。これら迫害者はみな金持ちではない
か、ということをヤコブがすでに 2 章 6 節で話していましたね。これら貧しい人々は、裁判において
控訴するお金もありませんし、また信者であればそれをせずに、甘んじて刑を受けます。イエス様
が言われた通りです。「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけませ
ん。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ 5:39)」
3A 忍耐する待望 7-11
ヤコブ書は、結論に入っています。迫害の中で困難な状況にあるユダヤ人信者がいます。そし
て、世の富の惑わしを受けていた信者もおり、そして不信者は搾取をし、信者である貧しい人たち
を罪に定めてさえいました。しかし、報われる日があります。神がこれに対して容赦ない裁きをす
る日が、世の終わりです。そこで彼らに対して、主が来られるのを待ち望み、忍耐しなさいという勧
めをヤコブは行います。
1B 近づいている主の来臨 7-9
7 こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地
の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。
ヤコブは、富の惑わしという罪を取り扱っていましたが、今は再び「兄弟たち」と読んで親愛を込
めて語りかけています。主が来られる時に、すべて報われるので耐え忍びなさいと言っています。
私たちはヘブル書でも同じことを学びました。「ヘブル 10:36-37 あなたがたが神のみこころを行な
って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。『もうしばらくすれば、来るべき方が
来られる。おそくなることはない。・・』」
そして耐え忍ぶ例として、農夫を取り上げています。秋の雨は十月の終わりから十一月に降る
7
雨で乾いた土地に潤いをもたらし、種を植えることができるようにします。そして雨季の冬が始まり、
三月終わりから四月初めに春の雨があり、それによって実が出てくる勢いを与えます。この雨を待
つのに、農夫はひたすら待つしかないのです。これが、主を待ち望む者の姿です。先ほどの、「私
はこれこれをして、商売をしよう。」という、自分の計画で全て物事を運ばせようとすることと対照的
です。キリスト者は、主が成し遂げてくださることを忍耐強く待ちます。しかし、主が命じられている
ことを忠実に行います。農夫が土地を耕し、害虫を取り除き、作物の世話をするように私たちも主
に仕えるのです。けれども、自分ではどうすることもできない事がらを、主にすべて任せて、主が
行われることを期待するのです。
8 あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。
耐え忍ぶ時に、ヤコブは心を強くしなさいと励ましています。私たちは試練と誘惑の中にいつもさ
らされています。試練において押しつぶされ、誘惑に負けるのは、心が弱くなっているからです。し
かし、主が間もなく来られるという希望があれば、心が強められます。「1テサロニケ 3:13 また、あ
なたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私
たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。」主が戻って
こられる約束によって心が強められ、主の前で聖く、責められるところのない者として出ていくこと
ができます。また、こうも言っています。「2テサロニケ 2:16-17 どうか、私たちの主イエス・キリスト
であり、私たちの父なる神である方、すなわち、私たちを愛し、恵みによって永遠の慰めとすばらし
い望みとを与えてくださった方ご自身が、あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心
を慰め、強めてくださいますように。」あらゆる良い業と言葉とに進むことができます。
「主が来られるのが近い」という言葉は、使徒たちがすべて共有していた確信です。使徒パウロ
は何度となく話しましたし、使徒ヨハネも手紙の中で話しているし、ペテロも同じです。新約聖書は
まさに、自分たちの生きている時代に主が戻ってこられるという確信でいっぱいになっています。
つまり、こういうことです。主はどの世代のキリスト者に対しても、主がその時代に、自分たちの生
きている時に戻ってこられるように期待しておられる、ということです。何千年後に主が来られる、
とは考えるのは御心ではないのです。今、今日にでも来られると考えるのが私たちの信仰です。
9 兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主
が、戸口のところに立っておられます。
困難に直面すると、私たちの肉の弱さから互いに呟き合う誘惑を受けます。ネヘミヤ記を思い出
しますと、外の敵の反対工作によって、内側において不満が噴出し、また内側に裏切る者がいた
りして、激しい内なる葛藤がありました。これは霊の戦いであり、兄弟の間で起こる戦いであり、私
たちは常に主に目を向けて、悪魔の策略に対抗するようにしないといけません。
8
ヤコブは、「さばかれないためです」と言っています。理由はすでに 4 章 11‐12 節で見たとおりで
す。呟き合う中で兄弟の悪口を言い出す危険に自分の身を置いています。ですから、慰め主とし
てイエス様が来られるはずなのに、さばき主として戸口に立っておられることになってしまいます。
2B 忍耐への報い 10-11
10 苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。
苦しみと忍耐については、私たちに先輩がいることをヤコブは教えています。預言者たちがそれ
です。預言者で苦しまなかった人はいなかったといってよいでしょう。その筆頭はエレミヤですが、
彼は嘆きの預言者と呼ばれました。彼らを見なさい、彼らも同じようにして苦しんだのだよ、これは
栄誉なことなのだよ、天からの大いなる報いがあるのだよ、とイエスご自身も言われました。
11 見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐
のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわ
れみに満ちておられる方だということです。
苦しみと試練の中で耐え忍ぶのに、最も典型的な模範は、私たちが学んできたヨブであります。
ヨブ記を読んだので、この一節の重みが伝わってきます。彼は、完全ではなかったというのは慰め
です。彼は主に不平をぶつけました。しかし、彼は主を呪うことはしませんでした。最後までしませ
んでした。そして主は彼に現れてくださり、二倍の慰めをもって慰めてくださったのです。試練を受
けている時に、主は憐れみ深い方として接してくださっているのです。
私たちは、物理的な迫害を受け、極度の貧しさにいる訳ではありません。けれども、この多元化
した社会の中で、豊かで安定した社会の中で、極めて巧妙に悪魔は人々を痛めつけています。問
題が複雑化しています。ストレスがこれまでにない形で襲ってきています。全体が苦しんでいるの
で、これは苦しみではないと思っているかもしれません。しかし、背が曲がって四十年間いた女性
のように、私たちは背を曲げられているのです。しかし、イエス様が引き伸ばしてくださいます。神
の約束を受けたのですから、この試練と困難を耐え忍ぶようにしてくださっています。霊の戦いを
戦いぬいていきましょう。
9
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