特集:東アジアにおける戦後和解─戦争は「終わった」のか?─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
目次
はじめに
第一章 満州プロテスタント史における東亜伝道会と熱河伝道 渡辺祐子
第二章 国民動員期の戦争協力と熱河伝道 張宏波
第三章 伝道者たちの言説における戦争「被害者」の不在 荒井英子
では、興隆県総面積の約42%に当たる1301km2が
はじめに
無人区にされ、人口の81%に当たる約11.2万人が
「九山
199の人圏に囲い込まれた(4)。興隆県は、
2006年11月、本共同研究のメンバー三名(渡辺
半水半分田」と言われるように9割近くが山岳地
祐子・張宏波・荒井英子)は、精神医学者で旧日
帯のため、住民の住む谷間等全てが軍警の管理下
本軍による戦争被害者の聴き取り調査を精力的に
に置かれたと考えてよい。1939年の国勢調査では
行っている野田正彰をリーダーとする中国河北省
総人口は約16万人だったが、無人区政策のための
興隆県への調査旅行に参加した。目的は、興隆県
「討伐」
「検挙」の過程及び人圏収容後の死者数は、
における旧日本軍「無人区」政策の実態について、
約5.5万人に上った。また、逮捕された農民1.5万
生存者からの証言を収集することであった。
人余りのうち8割以上が東北部の炭鉱などに強制
戦時中、共産党勢力の抗日戦に手を焼いた「満
(1)
州国」 は、西南部の国境地帯からの「敵」の「侵
連行された。その結果、45年秋に人口は約9.9万
人にまで減った(5)。
入」を食い止める作戦を計画した。そこで、国境
私たちが聴き取りをしてまわった村々は、その
線である万里の長城沿いの「山海関から古北口に
無人区の重点地区であった。そしてその地がまさ
至る長城線九〇〇粁の延長線内において、長城線
(6)
の地でもあった。はたしてそ
しく「熱河伝道」
より幅三二粁の地帯を無住禁作地帯とし民家は破
の地でどのようなキリスト教伝道が行われていた
キロ
(2)
。こ
のか。伝道者らはこの「長城のホロコースト」の
れが「無人区」である。区域内での居住や農作を
現状をどのように見ていたのか、見ていなかった
禁じて、共産党と民衆との接触を徹底的に遮断
のか。
壊または焼却して部落民を移住させ」た
し、活動させないようにしようとした。そのため
に、「三光作戦」(焼きつくし、殺しつくし、奪い
レンジュェン
(3)
熱 河 伝 道 と は、1935年11月 に「 満 州 伝 道 会 」
(1933年に結成され、37年に「東亜伝道会」と名
つくす)を大規模に展開し、住民を「人圏」 と
称変更)より派遣された福井二郎・敏子夫婦に
呼ばれる「集団部落」に強制移住させた。凄惨を
よって、熱河省承徳で始められた伝道に端を発し
きわめたこの無人区政策のため、43年の強制移住
ている。その後、福井に影響を受けた牧師や信徒
─15─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
たちが次々に熱河省入りして、45年5月までの9
の全員が日本に帰還した。
年6ヶ月の間に、10名の男性と13名の女性が熱河
満州国は、関東軍と官吏によって作られた傀儡
省各地で伝道活動を展開した。活動地は省内の承
国家と言われるが、そこには理想を掲げて「建国」
徳、興隆、囲場、赤峰、平泉、青竜、凌源、隆化、
に加わった多くのキリスト者がいた。その頂点に
濼平、烏丹城、林西、さらに「蒙古」の大板上に
いるのが、1936年国務院総務庁官に就任して満州
まで及んだ。そして13名の子どもたちがその親た
国の国政全般を司った星野直樹であり、彼のもと
ちと運命を共にした(下記地図参照)
。
で総務庁弘報処長の要職にあった武藤富男であ
45年5月13日、満州在住のすべての45歳以下の
る。武藤は89年に出版した回顧録『私と満州国』
日本人男子が応召され、熱河伝道は一挙に破綻す
において、星野をはじめとする満州でのキリスト
る。しかし敗戦後、行方不明の沢崎堅造、砂山貞
者の働きを「軍政のもとにあって武断政策を如何
夫、シベリアにて発病死去した永見愛蔵を除い
に和らげて、諸民族に愛を注ぐかで苦労した」と
て、メンバーが次々に帰国するなか、満州伝道会
総括し、
「満州建国は支那事変とは異質のものが
が終焉した後も48年まで福井によって熱河伝道は
あり、同じ侵略であるとしても、これとは区別し
続けられた。53年4月、失明しつつも夫の帰りを
て論ずべきである」と主張する。そして賀川豊彦
待っていた砂山節子母子が帰国、同年9月には吉
の遺言と称して次の言葉も伝えている。「武藤さ
田順子母子が最後の帰国をして、熱河伝道関係者
ん、あなたほかのことをしないで、満州国の歴史
図1 1945年当時の熱河省周辺(飯沼二郎編『熱河宣教の記録』より)
─16─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
を書いて後世に残しなさい。日本が行った侵略の
「まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、
う ち で、 満 州 国 だ け は ロ マ ン を も っ て い ま す
わたくしどもの教会もまたその罪におちいりまし
(7)
。
よ」
た」と明言されているが、しかし前二著には罪責
今日、このような「満州」認識に同調するキリ
の言葉が全くない。
スト者は必ずしも多くないであろう。しかし「熱
さらに、熱河伝道者やその支援者のみならず、
河伝道」だけは例外である。日本が行った「満州」
『日本基督教団史資料集』でも熱河伝道者たちは
伝道のうちで、熱河伝道だけはロマンをもってい
満州伝道会の中でも特異な存在であるとして以下
るという認識がキリスト教界では支配的である。
のように記されている。
「彼らはそれぞれ日本基
たとえば、65年に出版された飯沼二郎編『熱河宣
督教会、自由メソヂスト、ホーリネス、日本伝道
教の記録』の「まえおき」で、京都北白川基督教
隊などに属していたが、満州伝道への強烈な召命
会牧師・奥田成孝は次のように記す。
「大戦最中、
感に支えられ、この地域の人々と言語や生活を共
剣で荒らした隣邦人の中に、平和の福音をもって
にしつつ、ひたむきに福音を伝道した。彼らは日
仕え、また生命を捧げた同胞が少数でもあったこ
本の軍部、官僚、満鉄当局とは一定の距離を保っ
とは、せめてもの感謝であったと思う。
(中略)
(10)
。1999年刊行の本格的な「満州」伝道
ていた」
かかる伝道を、当時の日本の大陸進出の波にのっ
の研究書、韓晢曦著『日本の満州支配と満州伝道
て行われたものではないかとの感をもって観る人
会』でも同様の評価である。私たちの管見に入っ
もあるときくが…あの敗戦の混乱の中にあってこ
たところでは、小川武満の「中国伝道の課題と展
れら宣教に従事された人々が、…隣邦の友だちか
(11)
以外に、熱河伝道を
望─熱河宣教の視点から」
ら、どのようにまもられたかをみるとき、それは、
批判的に検討しているものは見当たらない。
これらの方々が如何なる態度を以て宣教に従事さ
(8)
れたかを、よく物語っていると思う」 。
満州伝道会の傘下で行われた熱河伝道が、その
強烈な召命感と「殉教」精神の故に今なお高く評
あるいは、熱河伝道に携わった人々によって戦
価され、
「戦責告白」の枠外で礼賛されている現
後結成された「熱河会」が編集・出版した『荒野
実に対して、本共同研究では興隆の現地踏査・戦
をゆく─熱河・蒙古宣教史』
(67年刊行)の「序文」
争被害者への聴き取り調査を踏まえて、戦中・戦
で、当事者の和田正が「我々はかつて日本が侵略
後で連続している「熱河伝道の語られ方」の問題
の血に染む皇軍という旗を掲げて、隣邦の村や町
性を明らかにし、歴史認識を更新することを目的
を、その鉄蹄の下にじゅうりんしつつあるとき、
としている。
同じくキリストの十字架の旗を掲げて、聖戦をた
第一章では、渡辺祐子が、満州における日本人
たかった人々の足跡をたどってみようとしてい
によるキリスト教伝道を宣教師資料や中国側資料
(9)
「あとがき」でも、福井自ら、
る」 と述べている。
を用いながら満州プロテスタント史全体の中に位
沢崎堅造・砂山貞夫・永見愛蔵夫妻をして「殉教」
置づけ直し、東亜伝道会と熱河伝道の記憶にどの
という言葉を使う。
ような問題が含まれているのかを明らかにする。
これらの書物が出版されたのとほぼ時を同じく
第二章では、張宏波が熱河伝道の舞台となった当
して、日本基督教団からは「戦争責任告白」すな
時の熱河省の歴史的政治的状況について「無人
わち「第二次大戦下における日本基督教団の責任
区」政策と協和会の役割を中心に論じ、戦争被害
についての告白」
(67年3月復活節)が総会議長・
者からの聴き取り調査も踏まえて中国人の目に
鈴木正久の名で出されている。そこにおいては、
映っていた熱河伝道を立体的に描く。最後に第三
─17─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
章で、荒井英子が熱河伝道の主導者・福井二郎・
言説分析を通して熱河伝道の目的と実態を検証す
敏子、沢崎堅造・良子、さらに興隆で伝道した
る。
いさやま
砂山貞夫・節子の三組の夫婦を取り上げ、彼らの
─18─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
第一章 満州プロテスタント史における東亜伝道会と熱河伝道
渡 辺 祐 子
(本学教養教育センター)
中国伝道に限らず、非キリスト教地域における
ら、例えば朝鮮伝道を唱導する牧師たちは、西洋
19世紀的キリスト教伝道は、キリスト教化されて
人のキリスト教伝道の影響を排除し、いわば日本
いない闇(=非文明)の中にある民をキリスト教
的キリスト教によって朝鮮人の同化政策を推進し
の光(=文明)の恩恵に浴させようとする「文明
ようとした。こうして欧米由来のキリスト教文明
化の使命」としばしば表裏をなした。さらにこの
化の使命は、よりいびつでより暴力的なものへと
使命感は列強の権益拡大の論理と補完しあい、中
変質を遂げていった。
国においては、キリスト教伝道を妨害する要素を
満州事変によってヨーロッパ文明国から排除さ
列強の軍事力によって取り除くことをよしとする
れた日本は、歪んだ形で、すなわち大東亜共栄圏
事態までもが生み出された。個々の宣教師の姿勢
思想の喧伝を通じてアジアの代弁者を名乗るよう
は多様であり、植民地支配に懐疑的な者や軍事力
になる。この時キリスト教指導者らに期待された
の発動に反対の立場を取る者も少なくなかった。
役割は、欧米列強が作り出した日本の国際イメー
また列強が常に宣教活動に協力的だったわけでは
ジを、彼らが有している欧米宣教師とのチャンネ
なく、特にイギリス当局と宣教師たちとの関係は
ルを通じて是正するとともに、軍事支配を円滑に
良好というには程遠かった。しかし「キリスト教
行うための宣撫者として、被支配域の人々を精神
文明化の使命」が結果として、帝国主義支配を理
的に馴致させる伝道活動を行うことだった。中国
論的に正当化したことは否定できないであろう。
においてはとりわけ日中全面戦争勃発以降、キリ
自らを文明の側に置き、非文明国の蒙をキリス
スト教伝道は軍事侵略の手段として、軍の完全支
ト教によって啓こうという使命感は、19世紀末の
配下に置かれることになる。軍は優秀民族として
日本人キリスト教指導者たちの中にも徐々に浸透
の日本民族が指導的立場に立って日本精神を注入
していった。日露戦争がキリスト教文明国ロシア
するために、キリスト教宣教師を含む宗教者を利
と非文明国日本の戦いであるというイメージを払
用しようとした。
拭し、むしろ文明国日本と野蛮国ロシアの戦いで
以上が、欧米文明を摂取した日本のなかでも、
あることを印象付けるために日本人キリスト教指
とりわけキリスト教文明の担い手たることを自負
導者が動員されたことは、山室信一によってつと
していたキリスト教指導者たちのたどった歩みで
(12)
。日露戦争に
あるが、それでは日本人宣教師たちは、自身の務
勝利した日本が選択したのは、ヨーロッパ文明国
めが大状況の中で上記のような意味を持っていた
の一員となって朝鮮や中国に文明を与え、東アジ
ことを客観的に認識していたのだろうか。どうも
に指摘されているとおりである
(13)
。1910年
そうではなかったようである。満州国建国の翌
の韓国併合に続く植民地朝鮮のキリスト教伝道
1933年、日本人キリスト者有志によって中国人伝
は、このような自己とアジアの認識を背景として
道を目的とした満州伝道会が結成されたとき、こ
いる。しかもヨーロッパ文明の一員を自認しなが
の計画が軍事侵略と深く関わっていることが明確
アに君臨しその再編を図る道だった
─19─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
に意識された形跡はない。さらにこの問題は、戦
(15)
教会(the United Presbyterian Church of Scotland)
後65年を経ようとしている今に至るまで、歴史研
からも宣教師が送られ、プロテスタントによる満
究の俎上に載せられることは一部の例を除いて稀
州伝道が次第に本格化していった。
スコットランド教会及びアイルランド長老教会
であった。
の両ミッションは伝道協力体制を強化する一方
以下の行論ではまず、満州プロテスタント史全
体を振り返りつつ、日本人による満州伝道の客観
で、
「本色化」と呼ばれる中国人教会の自立を少
的位置づけを試みる。その上で満州伝道会(1937
し ず つ 促 進 さ せ、1891年 に は 早 く も 満 州 中 会
年以降東亜伝道会に改称)の自己認識のあり方を
(Presbytery of Manchuria)が形成された。1907年、
検討し、さらに同伝道会に対する批判的論考が世
中国人による自立教会のひとつである中華基督長
に問われてから後も、東亜伝道会の第三教区を
老会の設立を期に、満州中会は関東大会(Synod
担った熱河伝道グループのみは批判の対象外に置
of Manchuria)となり、その傘下に遼東、遼西、
かれていることについて考察を深めていきたい。
吉林の三つの中会が置かれた(16)。1923年には、
スコットランド長老教会が設置した奉天医学校以
1.満州プロテスタント史の概略
外の全ての事業の財務管理が関東大会に委託さ
れ、さらに1925年、関東大会は正式設立が目前に
満州におけるプロテスタント伝道は、スコット
迫っていた中国史上初の超教派中国教会である中
ランド人宣教師ウィリアム・バーンズ(William
華基督教会(17)に加わり、中華基督教会関東大会
Burns、英国長老教会派遣)によって開拓された。
となった。1922年時点で、両ミッション所属宣教
彼は1867年8月、英国領事館があった牛荘(営口
師の数が105名であったのに対し、関東大会の中
市)に居を定め、伝道活動に着手した。しかし間
国人聖職者の数は約700名、中国人信徒の数は2
もなく病を得、翌年4月に志半ばにして死去して
万人近くに達していた。
し ま う。 そ の 死 の 床 で ア イ ル ラ ン ド 長 老 教 会
満州のプロテスタント伝道に、他教派のミッ
(Presbyterian Church in Ireland)に満州に宣教師を
ションが参入する余地が全くなかったわけではな
派遣するよう訴えたバーンズの要請に答えて、同
い。しかし下記の表が明らかに示すように、満州
教会は即座にバーンズの仕事を引き継ぐ決議を行
伝道全体に果たしたスコットランドおよびアイル
い、1869年1月にはハンター(Joseph Hunter)と
ランド長老教会の働きと影響はもっとも大きかっ
(14)
の2名の宣教師の派遣
ワデル(Hugh Waddell)
たということができる。ちなみに満州の総人口に
を決定した。また1871年にはスコットランド長老
対するプロテスタント・クリスチャン人口の割合
項目・伝道会名
スコットランド長老教会
アイルランド長老教会
デンマーク・ルーテル教会
アメリカ北部メソディスト教会
セブンスデイ・アドヴェンティスト
総計
宣教師数 中国人聖職者
61
44
55
6
172
359
341
156
14
9
893
陪餐会員数
9,909
9,024
1,405
195
53
20,586
伝道担当地積
伝道地人口概算
(平方キロ)
57,600
5,256,000
51,400
7,457,000
16,000
3,266,000
5,000
98,000
──
──
365,700
19,998,989
表1 満州伝道教派別統計一覧
(中華続行委辦会調査特別委員会編『中華帰主−中国基督教事業統計』521頁の表より作成)
─20─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
は、0.1パーセントときわめて低いが、社会的影
孔子廟参拝問題は、時をおかずして勃発した日
響力はその数の比ではなかった。戦前の日本で
中全面戦争を経て神社参拝問題へと発展し、それ
も、岩波新書第一号としてよく知られた『奉天三
とほぼ同時に満州政府は、ミッション所有の教育
十年』の著者でスコットランド長老教会の医療宣
財産をすべて学校評議会組織に移譲する法人化を
教師、クリスティに代表される医療事業、更に教
要求してきた。1938年1月のスコットランド及び
会立の小中学校における教育事業は、満州社会に
アイルランド宣教師の会議で神社参拝に反対する
広く浸透していた。宗教活動と並んで、否それ以
決議が下されると(中国人聖職者中心の関東大会
上に、こうした医療、教育、福祉面でのキリスト
は官憲の眼が厳しく、この問題を議論することさ
教の影響力と浸透力は極めて大きかった。それを
えできなかった)、満州政府は法人化に更に厳し
どのようにそぎ落とし、日本の支配を強化してい
い条件をつけ、宗教活動を行う団体の法人化を認
くのかが、満州国建国後の大きな課題となるので
めない方針を通告してきた。1938年は、満州国民
ある。その課題解決の務めを負わされた満州伝道
(20)
を発布し、
生部が「暫行寺廟及布教者取締規則」
会は、全くの後発組として、両長老教会が66年に
布教の目的、方法、布教者の素性、施設の場所、
わたって開拓してきた伝道地に入ったのだった。
大きさ、資金の来源等、ありとあらゆる情報を申
満州国建国後、キリスト教にとってはしばらく
告させ、宗教活動を厳格な監視下においた年でも
無風の時期が続いたが、1934年8月、
「中華基督
ある。神社参拝拒否を貫くことを改めて確認した
教会関東大会」の「中華」を「満州」に変えるよ
ふたつのミッションは、敢えて法人化を拒否し、
うにとの指導を皮切りに、
「中華」を冠している
教育事業からの撤退を表明する。他の教派の中に
教会名はすべてそれを削除し「満州」を冠するこ
は政府の要求に屈服するものもあったが、1941年
とが義務付けられた。それは同時に、中華民国国
までにはほとんどの教会教育不動産が政府によっ
内の教会組織との関係を絶つことを意味した。関
て買い上げられ、満州におけるキリスト教教育は
東大会の場合、上海に置かれている中華基督教会
壊滅的な打撃をこうむった(21)。
(18)
総会との関係が絶たれた
。
1941年暮の太平洋戦争の勃発が満州国における
中国人教会の最初の大きな試練は1935年にやっ
キリスト教伝道にもたらした最大の影響は、欧米
てくる。同年10月10日、中華民国建国記念日に奉
宣教師が国外退去するかあるいは軍管理下の収容
天等主要都市で治安警察による大検挙が断行され
所に収容され、満州の諸教会が日本の教会の指導
た。反満抗日分子の取締りという名目であった
の下で合同し、日本の教会による満州の教会に対
が、この時スコットランド及びアイルランド長老
する全面的な支配が成し遂げられたことである。
教会寄りと見なされていた指導的な牧師を中心
この教会合同が、内地における日本基督教団成立
に、40人以上もの中国人キリスト教徒が逮捕され
(1941年6月)を雛形としていたことはいうまで
た。翌年にはミッションスクールを含む全ての教
もない。合同への動きは日基教団成立直後から始
育機関に、春季と秋季における孔子廟参拝が義務
まっていたが、戦争勃発と共にその動きは本格化
付けられる。当時奉天医学校(1912年にスコット
した。教会合同事業を任された新京在住の日本人
ランド長老教会が設立)に勤務していた医師ガー
牧師石川四郎は、全満州を9つの地区に分け、9
ヴェン(Garven)が、1935年12月に一時帰国した
名の中国人牧師をそれぞれの地区代表とし、石川
際教会の会議で行なった報告は、この問題の深刻
自身を含めて10名の執行体制を組織化した(22)。
さを浮き彫りにしている(19)。
後述する熱河伝道の地、熱河省は、錦州省と合わ
─21─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
せて「錦州教区」となり、教区長に中国人牧師、
キリスト教史上初の外国人伝道を掲げる「満州伝
副教区長に熱河伝道の開拓者である福井二郎が就
道会」が結成された(26)。日本基督教会富士見町
任した。この合同を熱河伝道の伝道者たちがどの
教会(現日本基督教団)会員で伝道熱心な退役軍
ように捉えていたのかという問題については後に
人日 疋 信亮が、日本の各派キリスト教会と協力
触れたい。
して、
「満州人」に対して「満州語」でキリスト
ひびき のぶ すけ
石川は、執行部会議の際に中国人牧師たちを新
教を伝道することを目的に設立し、本部は富士見
京神社に参拝に連れて行くこともあり、神社参拝
町教会内に置かれた。会の規約には「本会は満州
が宗教行為には当たらないことを、中国の教会人
国に於て満州人に対する基督教の伝道を目的と
(23)
。プロテス
す。右の外日語教育又は医療其他慈善事業をも行
タント教会は、欧米ミッション由来であれ、土着
ふ」とある。同年9月15日、委員長の日疋信亮は
的教会であれ、ほぼすべて合同の対象となった。
本会在満代表の山下永幸を伴って、「満州国」執
関東大会のケースを見ると、1942年6月の会議で
政の溥儀に面会し、満州国に対するキリスト教伝
合同案を承認し、奉天の教会事務所を閉鎖してい
道の趣旨を説明して満州語訳の旧新約聖書を「捧
る。こうして「中国人キリスト者が信用をおかな
呈」すると、溥儀はこれを「嘉納」したという。
(24)
い」
「政治的圧力のみによって統合させられた」
その後奉天と新京に教会が設立され、12月のはじ
合同教会「満州基督教会」が成立し、敗戦までの
めに両教会の開設式が挙行された(27)。
たちにしばしば語っていたという
約3年間、「宗教報国」の一翼を担ったのだった。
1937年7月7日、盧溝橋事件を機に中国との全
欧米ミッションが所有する教会財産の処分は、軍
面戦争に突入すると、満州伝道会は「東亜伝道会」
の判断に任されていたが、少なくとも長老教会
に改称、中国全土に伝道圏を広げ、その活動は
(関東大会)のケースに関する限り、軍は石川に
1943年暮に日本基督教団に設置された東亜局に同
一切を任せたため、ミッションの不動産は満州基
会が包摂されるまで続いた。
(25)
督教会が接収することになった
。
都合10年にわたって存続した東亜伝道会とは、
概略史にしてはいささか長い上に、本稿のテー
いかなる組織であったのか。戦後、1931年に始ま
マとは一見関係のないような神社参拝問題にまで
る中国との戦いが侵略に他ならなかったことが明
深入りしすぎたかもしれない。しかし、東亜伝道
らかになってから、東亜伝道会の伝道事業はどの
会はもとより、熱河伝道グループの「中国人伝道」
ように記憶されたのか。1967年、日本基督教団は
が、欧米ミッションとその影響の下成長した中国
過去の戦争協力についてアジアを含む全世界に謝
人教会との緊張関係の中で行なわれたことを念頭
罪する告白を発表したが(28)、同教団の加盟団体
におくことは、必要不可欠である。主観が勝りが
でもあった東亜伝道会が戦争協力に関わったのか
ちな当事者の回想にのみ寄りかからずに、こうし
否かに関する総括は行なわれたのだろうか。
戦前大連日本人教会の牧師を務めた三吉務は、
た大きな歴史的状況の中に、東亜伝道会、そして
熱河伝道グループの活動を置いて初めて、その実
1964年3月、文京区六義園で開かれた第2回熱河
像に近づくことが可能になるからである。
会の会合で、東亜伝道会を回想し次のように述べ
ているという。
「日本キリスト教会の一部の人々
2.東亜伝道会はどのように記憶されたか
の中には、東亜伝道は当時の軍部の大陸侵略に便
乗して中国に宣教したのであって、純粋に外国宣
満州事変から2年あまり後の1933年6月、日本
教の召命によったのではないという者があるが、
─22─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
とんでもないことである。
・・
(満州伝道会を創設
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
の宗教政策と関連付けながら一瞥してみよう。
4
した)日疋氏は元軍人であったが、そのために軍
4
4
4
4
三吉は「のちのことは知らんが」と述べている。
部と何か連絡したことなどは一度もないので、あ
しかし、伝道会設立当初の動機が如何にうるわし
くまで零細な個人献金を集めて、この運動を進め
いものであったとしても、満州伝道会が最初から
たのであった。のちのことは知らんが、少なくと
軍との関係を持っていたことは明白な事実であ
も自分が日疋氏と満州伝道会創立について語り、
る。会長が元軍人であることがすでにそれを匂わ
またその後の事業の推進については、まったく祈
せているが、設立に当たって日疋と山下は溥儀と
りと主の聖言によったものである(括弧及び傍点
面会しただけでなく、関東軍司令官・菱刈降にも
(29)
筆者、以下同様)」 。これは1967年、まさに日
会って、周到に満州伝道について諒解を取り付け
本基督教団の戦責告白が公にされた年に、
「熱河
ている。関東庁長官と駐満全権大使を兼任してい
会」が出版した『荒野をゆく』の中に引用されて
る関東軍司令官の承諾がなければ、宗教活動を円
(30)
いるものだが
、ほかにもこの著作には「戦後
滑に始めることはできなかったのである。
たちまち手のひらを返すように、世俗のジャーナ
三吉が「知らん」という「のち」の時代にあた
リズムと共に熱河宣教を白眼視し日本軍侵略の手
る日中全面戦争勃発以降、彼らの活動は大きな政
先に乗った便乗主義者の行動だったなどと、平気
治的状況の中に完全に飲み込まれることになる。
(31)
で批判するものが多い。
」 「軍部や政府による
このことを示す事例は少なくない。一例として日
国策的なものは皆無であった。
・・・いかにこの
本政府が「支那事変勃発二周年」を「記念」して
会が他の国家的な機関に関連を持たないもので
「国民精神総動員実施要綱」を発布した際、戦前
(32)
等の記述がちり
あったかは明らかであった。
」
唯一のキリスト教超教派組織、日本基督教連盟が
ばめられている。
取った対応を挙げることができる。運動への全面
日本キリスト教史を網羅する唯一のツールであ
的協力を要請された日本基督教連盟は(34)、1939
る『日本キリスト教歴史大事典』の「東亜伝道会」
年8月25日付で「国民精神総動員新展開ノ基本方
の項目にも同様に、同会は「純然たる宣教目的」
針ニ対スル基督教ノ実施強化案」を発表し、
「国
で設立され「資金はすべて信徒の自発的な浄財に
際世論」の是正のために在華宣教師に働きかけ
よって賄われ、本来の趣旨である中国人による中
て、日中戦争の真の目的を説明し彼らの理解を得
国伝道という理想を一貫して守り」云々とあ
ることと、清水安三の北京愛隣館(35)等を通じて
(33)
。この項は『荒野をゆく』の執筆者でもあっ
「支那大衆ニ奉仕シ」
「日支提携ノ一助」とするこ
た二橋正夫が担当したので、ふたつの記述が酷似
とを目標に掲げた(36)。さらに具体的な方策とし
しているのは当然ではあるが、これが事典の内容
て「
『東亜伝道会』ヲ機関トシテノ支那人伝道ノ
に相応しい公平な評価であるのかどうか、その客
タメ教師ヲ派遣シ又各派教会ノ協調ノ下ニ『中支
観性が検討されるべきであろう。
(37)
其他ノ機関ト関連シテ宗教工作
宗教大同連盟』
る
三吉の発言をはじめとする上記の主張は、熱河
員ノ派遣ヲ更ニ継続実施スルコト」が提案されて
伝道をふくむ満州(東亜)伝道会の伝道事業全般
いる(38)。そもそも中国伝道そのものが、1938年
を、国策や大陸侵略とは全く無縁の純粋無垢な信
8月に文部省宗教局が神仏基三教の代表者を集め
仰的働きとみなしている。しかし彼らの信仰の業
て開催した「宗教団体対支布教協議会」の方針に
が政治状況を完全に超越して行われ得るはずはな
よ っ て、 軍 特 務 部 の 完 全 統 制 下 に お か れ て い
かった。以下、東亜伝道会の歴史を軍や政府当局
た(39)。同年民生部が「暫行寺廟及布教者取締規
─23─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
(40)
則」
を発布し、宗教活動を厳格な監視下におい
である。
たことは、すでに述べたとおりであるが、この規
富士見町教会には、1942年に東亜伝道会から外
則に合わせてその翌年には錦州省が省令として
務省宛に出された「補助金増額申請理由書」の草
「布教者身分証明書発給規則(41)」を定めるなどし、
稿も残っている。そこにも、上記のメモに符合す
監視の目はさらに強まった。このように自由な伝
る外務省からの4回にわたる「奨励金」への感謝
道活動をする余地は、いささかも残されなくなっ
が述べられている。さらに草稿では、本会は共栄
ていたのである。
圏内の欧米流のキリスト教の禍根を排除し、
「東
国策との関わりは、何よりも国からの資金提供
亜人ノ東亜建設ノ側面工作トシテ日本基督教ヲ宣
の事実によって裏付けられる。富士見町教会所蔵
布シ、之ガ教化善導ニ全力ヲ傾倒シツゝアル」と
(42)
の一つで、1938年
して、特に太平洋戦争突入後の「本会ノ事業ノ進
10月に東亜伝道会から発行された「報告」
(1枚
展拡張ハ大東亜戦争ト表裏一体トナリテ永久ニ続
綴り)には、「昭和十三年度予算収入明細」とし
ケラルベキモノ」であるゆえに、
「東亜共栄圏内
て「臨時寄附」の項目で2万円が計上されている。
ノ基督教ノ一大連盟ノ結成ヲ見ルニ至ル可ク、将
これとは別の富士見町教会所蔵の資料の中に、
来ノ宣撫工作モ共存共栄モコノ線ニ沿フテ行ハル
の「東亜伝道会」関係文書
「東亜伝道会々計調査(創立より)
」という手書き
日アランコトヲ期待スルモノナリ」と結んで、補
の7頁のメモが残っており、1933年7月10日募金
助金増額を懇願している。この文書の中では、事
開始に始まって、1942年まで毎年の収支報告が記
業拡張の一環として熱河伝道にも言及がなされ、
載されている。それによると、
「外務省ヨリ」と
して最初に入金があったのは1938(昭和13)年で
「熱河省承徳市ニ宣教塾ヲ開設シ伝道者十名ヲ派
遣」の文言がある。
あり、「報告」にあった臨時寄附と符合する。こ
1940年10月、現地代表理事であった山下が、神
の臨時寄附2万円が外務省からの援助であった可
学校建設問題や新たに加盟したバプティスト教会
能性はきわめて高い。外務省から東亜伝道会への
関係者との対立が引き金となって辞任し、翌11月
金の流れを示すこの記載は、
「国策的なものは皆
日疋が急死した頃から、東亜伝道会は次第に求心
無であった」という前掲の主張を、完膚なきまで
力を失って行く。規模の拡大に、外務省からの特
に否定するものである。
別援助を受けても財政面での手当てが追いつか
韓晢曦はその著書『日本の満州支配と満州伝道
ず、資金不足が深刻化した影響も大きかった。会
会』の中で、41年より外務省から補助金を受け
は日疋亡きあと政財界に影響力をもっていた松山
(43)
、実際はそれよ
常次郎(44)が引き継いだが、最終的に43年日本基
り数年さかのぼって38年から資金援助を受けてい
督教団の東亜局に包含され、発展的解消を遂げ
た。38年と40年に各2万円、そして41年42年には
た。侵略戦争が太平洋戦争を契機にアジア全体に
取っていると指摘しているが
それぞれ3万円(現在の約147万円に相当)が外
拡大されるのに伴い、東亜局は東亜伝道会の遺産
務省より東亜伝道会に入っている。会は当初か
を受け継ぎ「大東亜共栄圏」建設を担うことになる。
ら、毎月一口1円50銭の出資者と、各教派や教会
以上、法令と資金の流れを中心に、東亜伝道会
単位による大口出資をもって運営されており、金
が国策の中に明らかに位置づけられてきたことを
銭の収入支出は極めて厳しく管理されていた。そ
検証してきた。彼らは確かに主観的には敬虔に満
れが日中全面戦争勃発以降、伝道圏を拡大するに
ちた使命を持っていたのだろうし、様々な困難を
つれて資金の出所にも大きな変化を生じていたの
乗り越えてひたすら中国及び「満州」の民にキリ
─24─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
ストの福音を述べ伝えようとした彼ら自身に「侵
主張するのは、余りにも近視眼的な見方であろ
略」の意図がなかったことは確かであろう。多く
う。大多数の中国民衆が彼らに向けた眼差しに思
の制約に囲まれながらも、中国人信徒との間に信
いを致すことがない限り、満州伝道をめぐる言説
頼関係を築き上げ、精一杯神の命に従ったにもか
は、当事者の思い出話の域を出ず、歴史的検証に
かわらず、「侵略者」の烙印を押されることに、
堪え得ないだろう。日本人による「満州人伝道」
いたたまれない思いを抱く心情も全く理解できな
が、現地の人々にどのように受け止められ、見ら
いわけではない。一方で、
「はじめに」で引用し
れていたのかについては、現地調査を踏まえた張
た奥田牧師の言葉が示すように、彼らの体験を聞
宏波による議論に譲ることとする。
く側も、その純粋さを信じることによって、中国
に対する申し開きの出来ない侵略の罪がもたらす
3.熱河伝道だけは「違う」のか
重苦しい思いから救われようとしたのかもしれな
い。満州伝道の「侵略性」を指摘する声に対する
富士見町教会に保存されている東亜伝道会資料
三吉の反論が、具体的にどのような批判に対して
を駆使した韓晢曦の労作は、日本人満州伝道が紛
であったのかは定かではないが、1950年代末から
れもなく国家事業の一端に位置づけられていたこ
60年代にかけて大陸侵略との関わりから伝道活動
とを解明した、戦時下における日本人海外伝道史
を批判した著作としては、安藤肇の『深き淵よ
研究の空白を埋める画期的な研究である。その研
り』、『あるキリスト者の戦争体験』が挙げられ
究史上の意味は極めて大きい。しかし本稿のテー
(45)
る
。しかしこれら二著は、東亜伝道会や熱河
マに直接かかわる熱河伝道の評価については、議
伝道に特化した実証的な研究ではない(46)。実証
論の余地が大いにあると言わなくてはならない。
研究がものされるには、韓晢曦による満州伝道研
換言すれば、満州伝道全般のあり方に深く切り込
究が世に問われる1999年まで待たなくてはならな
んだ韓の研究のメスは、熱河伝道そのものまでに
かった。その間、満州伝道事業は学問的に検証さ
は及んでいないのである。韓は熱河伝道の開拓者
れることなく、「純粋な動機に基づく国策とは無
である福井二郎を次のようにとらえる。「満州伝
縁の満州伝道」像が、少数の批判だけでなく、教
道会の中で何故熱河伝道だけが根深く強力に進展
団の戦争責任告白すらすり抜けて、満州時代を懐
しつづけたのか。
・・・蒙古奥深くにまで危険を
かしむある種のロマンとともに生き延びたのであ
ものともせずに伝道し続けたのか。
・・・それは
る。
みな、この福井二郎の生きざまに発している。誠
こうした満州伝道の自己像は、狭隘で内向きの
に朝鮮における乗松雅休を連想させる、ただひと
敬虔主義がなせるものだったといわざるを得な
すじにキリストの十字架の道を歩んだ人の生きざ
い。当時を懐かしむ彼らに決定的に欠落している
まであった」(47)。この結論に示されている如く、
のは、第一に自らの行為を歴史的、政治的状況の
東亜伝道会のあり方に疑問を呈しても、東亜伝道
中に定立し、客観的に捉えなおそうとする意識で
会の第三教区を担った熱河伝道だけは批判の埒外
あり、第二に「伝道活動が当の中国人にどのよう
に置かれ続けている。
に見られていたのか」ということに対する関心で
それは何故なのか。まず何よりも福井二郎の強
ある。確かに中国人の中には少数であれ彼らを歓
烈な敬虔信仰が挙げられるだろう。連日熱烈な祈
迎した人々や、彼らと活動を共にした人々がい
りを通して聖霊の導きを求め、ひたすら神の命に
た。しかしそのことを以って伝道活動の正当性を
従って示された土地に赴くその姿は、多くのキリ
─25─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
スト者を感動させ、その後に続くものが次々に現
が、共産軍の支持者ないし協力者と目された人々
われた。東亜伝道会第三教区を形成した彼らは、
は、容赦なく虐待、惨殺され、遺体はトラックで
他の二つの教区よりも条件も環境も厳しい熱河で
運ばれ街外れの所定の場所に捨てられた。また熱
開拓伝道を行なったと捉えられている。このこと
河省成立後改修拡大された承徳監獄には、逮捕、
もまた熱河伝道が特別視される理由であろう。ま
連行されてきた人々が多数拘留されていた。
た日本軍の蛮行に心を痛め、同胞の罪を償うこと
平信徒であった福井二郎は、上海東亜同文書院
を目的の一つとしていた沢崎のような例もあっ
を卒業後、故郷の山口高等商業学校で中国語の教
た。さらに多くの伝道者が劣悪な環境の中で愛す
師を務めていたが、1933年8月隣邦伝道の召命を
る子どもを失っていること、そしてその伝道者自
受け、1935年9月、日疋信亮による面接と、富田
身が「殉教」の死を遂げていると理解されている
満日本基督教会牧師らによる資格審査を経て、満
ことも、塗炭の苦しみの中にあっても、神の言葉
州伝道会の「自立伝道者」として承徳に派遣され
を伝える使命に忠実であろうとした姿勢を表す逸
ることが決まった。福井は1935年11月に承徳に来
話として熱河神話を支えている。熱河伝道と植民
着、翌月承徳教会の開教式が執り行われ、以後13
地支配との関係については張宏波の議論に、個々
年続く熱河伝道がここに始まった。
の伝道者たちの意識や伝道の実態については荒井
福井が熱河伝道の召命を受けたのは、山口市内
英子の議論に譲ることとし、本節では熱河伝道の
のとある山での毎朝の祈りを通してであった。こ
概略を振り返った後、熱河神話を支えている要素
の有名な「山の祈り」の習慣は承徳来着後も続け
の一つを、熱河伝道グループと欧米ミッションと
られ、祈りの中で次に赴くべき「宣教の地が示さ
の関係や合同問題を中心に、宣教師および中国側
れた」という(48)。こうして福井は、承徳以外に
の資料を用いながら検証していくこととする。
も赤峰、囲場、興隆を新たな伝道地に加えた。そ
の一方で福井は承徳監獄で伝道活動も行ってい
1)熱河伝道の概略
た。ここに収監されていた中国人凶悪犯王玉新が
1933年、満州国建国の翌年、Jehol とも呼ばれ
彼の導きによって劇的回心を遂げたことは、熱河
た地方熱河は、関東軍の熱河作戦によって熱河省
伝道を象徴する出来事として伝えられている(49)。
として満州国の版図の中に組み込まれた。省都承
しかし福井は、抗日分子の嫌疑をかけられ承徳監
徳には満州国西南地区の防衛本部のほか、憲兵隊
獄に収監され処刑されたであろう多くの中国人に
司令部、民生部警務司等々が設置された。熱河省
ついては何も語っていない(50)。
は長城を挟んで中華民国と隣接していたため、中
福井が開拓した伝道地には、その後福井の影響
華民国の影響を防ごうとする日本軍によって抗日
の下伝道の召命を受けた男女が赴いたが、彼らが
分子の摘発が徹底的に行なわれたところでもあ
実際に熱河伝道に従事するのは1942年以降だった
る。本稿「はじめに」にもあるように、日本軍は
(興隆で伝道した砂山は1941年10月に承徳に来着
万里の長城付近一帯の村々を焼き払い、追われた
しているが、興隆入りは翌年4月)
。つまり、承
住民を高い塀で囲った集団部落に強制収容する無
徳開教から太平洋戦争勃発までの6年間は、熱河
住禁作地帯の設定、いわゆる「無人区」政策を敷
伝道は福井夫妻のみによって担われていた。
いた。熱河省の中でももっとも大きな被害を受け
1942年に熱河に入ったのは、福富春雄、中出清
たのが、後に張及び荒井が論及する興隆県であ
夫妻、門馬保久、沢崎堅造夫妻、山田晴枝、野沢
る。集団部落内の生活も悲惨そのものであった
貞子、吉田順子らである。山田、野沢、吉田はい
─26─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
たずに帰国した篠原のような例もあった(51)。
1945年7月、伝道担当地到着後間もない古屋野
と和田は応召、翌8月3日には、ソ連軍の侵攻が
迫る中、古屋野夫妻と共に大板上に滞在していた
沢崎が、妻と古屋野夫人とを脱出させた後、消息
を絶った(以後行方不明)
。ソ連軍侵攻に伴って
みな伝道地からの脱出を図り始めるが、逮捕投獄
されたり、熱河離宮に拘留されたり、シベリアに
抑留されたりと、多くは耐えがたい苦しみを味わ
う。永見夫妻は1946年に死去し、砂山貞夫は同年
拉致され行方がわからなくなった。子どもの犠牲
も少なくなかった。幸いにも1946年から帰国の途
につくことができた者もいたが、福井二郎は1948
年まで承徳に留まり伝道活動を続け、砂山夫人は
興隆に、吉田順子は長春にそれぞれ1953年まで留
まっていた。二人の子どもを失った上に失明もし
た砂山夫人の戦後の様子については、張担当の次
図2 熱河宣教地図(熱河会編『荒野をゆく』8頁)
ずれも独身女性であった。この年の6月頃、福井、
章で詳しく述べられる。
2)熱河伝道における教会合同 沢崎、二橋を講師とする熱河宣教塾が承徳に開設
されている。10月にはすでに北京その他での伝道
熱河におけるプロテスタント伝道は、1897年、
(52)
のイギリス人宣教
弟兄会(Plymouth Brethren)
経験がある二橋正夫が熱河の平泉教会に赴任し
師ステファン(Robert Stephan)が承徳地区の平
た。翌年には永見愛蔵夫妻が到着(隆化教会)
、
『熱河宣教の記録』
泉に入ったことに始まる(53)。
沢崎夫妻と福富は赤峰に移動し、山田、野沢もそ
『荒野をゆく』と、
『河北省志』
『赤峰市志』
『隆化
の後に続いた。また新来者として宮本みち、渡部
縣志』
『平泉県志』等の地方誌(中国の行政府が、
操子、坂東房子らがいた。敗戦の年にも加わった
その地方の歴史、文化、宗教、風土を詳細に綴っ
ものがいる。古屋野夫妻(大板上)と和田正夫妻
た書物で、明清史、近代史研究には欠かせない貴
(赤峰)である。個々の伝道地を誰がどのように
重な資料である)にある弟兄会に関する記述を照
担当したのかは個人差が大きい。図2の地図は、
らし合わせてみると、熱河グループのほとんどの
やや不完全ながら最終段階における熱河伝道の担
伝道地に弟兄会の宣教師がはいっていたことが分
当地区と担当者を示したものだが、承徳や赤峰と
かる。義和団等の政治的、社会的混乱により伝道
いった複数の人間が常駐する都市がある一方で、
が断絶することもあったが、彼らは太平洋戦争勃
二橋は五つもの伝道地を「掛け持ち」している。
発により撤退を余儀なくされるまで、熱河の地を
加えて、地図上に名前が記されていても、病院や
拠点に活動を続けた。40年余りに及ぶ熱河伝道の
保育所、協和会、新聞社等に勤務し、実際には直
主たる担い手は、弟兄会を中心とするミッション
接伝道には関わっていないものもおり、敗戦を待
であり、日本人による伝道は最後の4分の1の期
─27─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
間、しかも福井以外のほとんどの伝道者は太平洋
にあらわれている。先に見たように、教会合同を
戦争後勃発後に伝道地に派遣されているので、そ
心から歓迎する中国の教会人はほとんどいなかっ
の活動期間は3、4年間にすぎなかった。
た。神社参拝の常態化を含めた政治的企図以外の
一部のケースを除けば、宣教師が去って中国人
何ものでもない教会合同からは、いかなる教会で
信徒によって維持されている教会が、着任時にす
あれ逃れる事は不可能であったはずである。しか
でに用意されていたのである。この背景には、第
し『荒野をゆく』によれば、合同は弟兄会側から
一節でも述べたように、太平洋戦争に伴ってミッ
承徳教会に申し込んできたのであって、満州の他
ション財産の処分や教会合同の動きが本格化した
地域のように合同を強制する事は一切なかったと
事情がある。熱河教区は、教会合同によって成立
いう。さらに同書はより踏み込んで、これは満州
した満州基督教会の教区のひとつである錦州教区
基督教会への合同ともいえない、単に福井らに
に組み込まれ、副教区長に福井二郎が就任、
「日
「合同指導を受けることになったとみるべき」だ
(54)
。
本人による熱河宣教は第二期にはいった」
とまで言い切っている(57)。ここでは、福井二郎
『荒野をゆく』には、教会合同の様子、熱河の
が副教区長であったことが政治的に何を意味する
日本人伝道者と欧米人宣教師との関係、あるいは
かも論じられていない。福井自身がこの務めをど
ミッション財産の処分に関する記述が随所に見ら
のように捉えていたかとは全く無関係に、職務上
れる。それらを読む限り、宣教師との関係は満州
彼が軍に協力する存在であった事は紛れもない事
の他地域と比して非常に良好であり、軍の意向で
実であるにもかかわらず、である。このように、
財産処分を任された際も、最大限宣教師の意向を
全体の中に個々のケースを措定し検証しなおすと
尊重する方法を講じるなど(55)、事は概ね順調に
いう作業の欠落が、熱河伝道を特別視する見方を
進んだようである。一度は軍に接収されてしまっ
支えているように思われる。
た教会堂を、福井と二橋が軍にかけあって取り戻
以上、本章では、東亜伝道会と熱河伝道の活動
し、中国人信徒に非常に感謝されたこともあっ
を、満州プロテスタント史、及び満州国政府の宗
た(56)。だが問題は、これらのできごとを事後的
教政策という側面からとらえなおすことを通し
に振り返ったときの解釈がこれでよいのかという
て、両者の記憶のされ方を検討してきた。それは
ことである。軍の横暴さ、戦争の悲惨さには確か
さしずめ広角レンズで両者をとらえようとする議
に批判的に触れられている。しかしそれらの悪と
論であるが、以下の張及び荒井の考察と分析は、
日本人熱河伝道が、歴史的、社会構造的にどのよ
対象物により接近して問題を明らかしようとする
うに関わったかという視点はない。
ものである。
この問題は、教会合同に関する叙述により顕著
─28─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
第二章 国民動員期の戦争協力と熱河伝道
張 宏 波
(PRIME 所員)
した。とくに英国の伝道者が、本国が中国を虐待
1.社会的・歴史的文脈への再定位
し、搾取しているのにたいして、キリストの愛を
もって仕え、福音を伝えることによって、同胞の
本章の狙いは、熱河省や興隆県を「熱河伝道」
罪をいくらかでも償おうとした態度にふかく学
が展開された「伝道の地」としてだけでなく、日
び、自分も隣国にたいする同胞の罪をいくらかで
本軍が三光政策や無人区政策を展開した「侵略の
(60)
。日本の侵略を
も償いたいと願ったのである」
最前線」だったという文脈を導入することで熱河
実際に目の当たりにしながら、英国人伝道者の
「贖罪としての伝道」という理念を疑うことなく
伝道を再検討することにある。
このように課題を設定したのは、伝道の対象
「合理化」して取り入れている。
だった中国民衆の苦悩が一つには日本の戦争に
植民地化の負の側面をある程度認識していなが
よってもたらされているという側面が、日本人伝
「魂の苦悩」と「植民地化がもたらす苦悩」
ら、
道者たちの視点から不思議なほど抜け落ちている
を切り離して捉え、関心を前者のみに限定するこ
と感じられるからである。渡辺論文が指摘する通
とができたのはなぜなのか。権力に抵抗しても無
り、彼らは戦後になっても戦争責任の一端を表明
駄だとの認識があったのかもしれないが(61)、伝
する姿勢を欠いている。
道先が植民地体制下であったことへの躊躇さえ感
例えば、熱河伝道の中心人物であった福井二郎
じられない。
は、戦後に中国国民党軍の捕虜になった際、戦争
ただし、この点を理解するには、幾らか注意を
に対する考えを聞かれ、以下のように答えたと回
要する。多くの戦争当事者が証言するように、当
想している。「僕はその目的はよかったと思う。
時の日本人の意識としては必ずしも悪意からでは
〔中略〕東亜戦争という戦争行為によったという
なく、
「八紘一宇」
「大東亜共栄圏」等の“理想”
ことには問題があるけれども、日本人の気持とし
を掲げて中国に渡ったという自己理解が見られ
ては、いままで虐げられた東洋民族を解放した
る(62)。欧米列強の侵略から日本がアジアを解放
(58)
。東洋民族の解放という「良き目
かったのだ」
するという「普遍性」をもった目標を掲げたが、
的」のためなら戦争をしたのも仕方がなかったと
同時に自己を「世界で最も優秀な大和民族」と特
されており、奇妙なほどに葛藤がない。
別視し、解放の行く手を阻む勢力への鉄拳を正当
福井に感化されて京都大学の助手職から熱河伝
化する「特殊性」を併せ持っていた。この矛盾に
道に飛び込んだ沢崎堅造は、その動機の一つを次
戦後も無自覚のままであることも珍しくない。む
のように考えていたと妻の良子が回想してい
ろん、当時の皇国史観教育や軍部の徹底した情報
(59)
る
。「
〔昭和〕十五年、支那事変のさ中に中国
旅行をし、北京から上海まで行き、日本の侵略政
操作を考えれば、国民間に自省の契機が芽生えな
かった点も理解できないわけではない。
策と、欧米の旧・新教伝道者の伝道のあとを視察
─29─
ただ、キリスト教文化圏外の日本においてキリ
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
スト者であることは、日本的ナショナリズムにと
「満州国内の治安については、連年にわたる大
どまらない「普遍性」に到達する可能性を有して
規模な日満軍警共同の大討伐により治安が安定す
いるが、伝道者の記述からはそうした側面を読み
るに至ったが、ひとり西南地区(熱河省)は、支
とることが困難である。
「普遍性」に到達しうる
那事変以来、隣接の中国本土からの影響を免れる
キリスト者の認識が、日本的「特殊性」の中に埋
ことができず、中国共産党の地下工作が活発と
4
4
4
没した非キリスト者のそれと違いがなかったので
なってきた。
〔中略〕日満軍警一体となって討伐
あれば、熱河伝道のいかなる側面が評価に値する
を開始し、さらに国軍は第一軍管区の部隊を、警
のか、問い直す必要が出てくる(63)。
察は通化省警察隊を応援増派した。中央では、総
そこで、伝道者の視点に欠落していた歴史的・
務庁が中心となり、一九四一年(康徳八年)一〇
社会的文脈を導入し、そこに熱河伝道を位置づけ
月、西南地区粛正工作実施要綱を定めて、特別工
てみることで、戦争で苦しむ民衆という文脈をな
作班を現地に派遣し、東辺道治安粛正当時の経験
ぜ見落としたのか、見ていたはずの現実の一部を
を生かして、協和会の積極的参加により、諸種の
捨象したのはなぜかを明らかにしたい。彼らが帰
治安工作、思想工作を実施、民心の把握、民生の
4
4
4
4
4
4
4
国後にまとめた回想録から窺える伝道者の主観的
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
復興に努めた。治安工作では、国境の無住禁作地
4
4
4
4 4
4
4
4
4
4
4
4
意図を踏まえながら、当時の熱河省で活動する中
帯の設定、集団部落の建設、道路通信網の整備が
で見聞きしていたはずの現実、行っていた活動の
主なるものであるが、思想工作面では、協和会の
意味や帰結を再構成していく。
尖鋭分子による青年行動隊が、共産地区深く進入
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4 4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
して撫民工作を実施した。以上のように組織的な
2.熱河伝道当時の熱河省の治安政策
思想戦、武力戦の努力が結実し、一九四三年には
熱河省も一時治安を回復することができた。しか
1932年3月、「満州国」が建国されたが、植民
し、大東亜戦争における日本軍の戦勢非なるにし
地国家ゆえに反満抗日勢力が存在し、また日本人
たがい、共産八路軍が再び攻勢に出て、鉄道施設、
が圧倒的に少数だったこと等から、最も重要な課
集団部落等に対する襲撃が激しくなってきた。
題は政治的安定にあった。関東軍を中心とした硬
よって八路軍活動の拠点をなす河北省、特に冀東
軟併せ持った治安政策等が展開されると「政治的
地区の治安を粛清せんがため、関東軍と北支方面
安定化」は一定の成果を上げた。1937~38年に全
軍との協定に基づき、〔中略〕熱河省は警察隊を
面戦争に突入すると共産党の抗日活動が活発化
糾合して一心隊(兵力四五〇〇)を編成、国軍は
し、政府、軍、警察等が全力を挙げて「治安粛正」
鉄石部隊(兵力一万五〇〇〇)を編成して、とも
に当たった。特に「国境」地域の熱河省は最重点
に北支特別警備軍(司令官加藤柏次郎中将)の指
地域とされた。
揮下に入り、関外の冀察熱地区の討伐並びに治安
その最たる施策が、「はじめに」で述べた通り、
(64)
。
維持に任じ、終戦に至った」
共産党勢力の根絶を目的とした「無住禁作地帯」
熱河省においては、日本軍の指揮下で、軍、警
化=無人区政策である。それに伴い、
「大検挙」
が協和会と一体で共産党勢力を一掃することが国
「大討伐」(42~45年)が断続的に繰り返された。
策に沿った重点課題であり、
「治安」と「思想」
この過程に関しては、元関係者が中心になって編
の両工作が遂行されたことがわかる。無人区政策
纂した『満州国史』が詳しい。熱河伝道期の政治
が本格化した41年秋とは、砂山貞夫牧師らが続々
状況がよく示されているため引用しておきたい。
と熱河入りする時期である。
─30─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
以下では、伝道者が見聞きしていた政治的、社
会的状況を描出するために、
「治安工作」と「思
植松は実際に命令に従って討伐を行った時の様
子を次のように供述している。
想工作」の実態、具体的には上記引用中にある
「1943年3月19日、承徳憲兵隊第二憲兵隊生田
「討伐」「無住禁作地帯の設定、集団部落の建設」
大尉が140名を率いて、特高課長木村光明の『赤
「協和会」について検討していきたい。
化地域では草木一本も残さず、掃蕩粛正を徹底せ
よ』との指示に従い、熱河省興隆街西南長城線茅
3.治安工作:
「討伐」の実態
山から黄崖関に至る村の道で、逃げ遅れた病人や
老人35名、乳飲み子4人、合わせて39名を皆殺し
上記の引用で、軍警と協和会が一体になって共
にした。その後、罪行隠滅のため、被害者の死体
産党勢力への討伐を行っていたことが記されてい
を焼却した。その際、私は、生田隊長の命令で、
た。その実態を、42年4月から約3年半にわたっ
分隊長水野軍曹、高橋兵長、田中兵長、尾崎と五
て憲兵隊員だった植松楢数が証言している(65)。
人で、村に残っていた病床の老人や、赤ん坊を抱
植松は、承徳憲兵隊に着任した日に隊長から次
のような訓辞があったと回想する。
いた婦女を狭い山道に引っ張り出し、その両手を
縄で縛り付けて地面に坐らせた。私は、日本十四
「君は覚悟はできているか、この熱河は満州で
年式拳銃二挺で、45歳から60歳前後の婦女9名、
一番治安の悪い、中国共産党の巣窟だ! ここに
60歳前後の男性5名、2歳前後の女児1名、合わ
住んでいる中国人は、皆共産党員の匪賊であり、
せて15名の抗日民衆を殺害した。その他の24名
その親戚の奴らだ。したがって我々日本の皇軍、
は、同行の憲兵らに銃殺された後、付近にあった
就中、憲兵がこの匪賊を一人残らず粛正する事は
コウリャンの茎等を死体に被せガソリンを撒いて
非常に重要な責務である。男、女の区別なく、全
火を付けた。その中で死んでいない2、3名を自
部捕まえてしまえ! そして使いものにならん奴
(67)
ら焼き殺し、鬼獣よりも非道の虐殺を犯した。
」
は、子供だろうが老いぼれだろうが、全部殺して
むろん、これは植松だけの経験ではないこと
しまえ! なまじっか情容赦する事はかえって敵
は、仁木ふみ子が行った多数の被害者からの聴き
を残すことになる。さらに匪賊どもの根を絶つた
取り調査でも明らかである(68)。この「討伐」が
めに、建物の一切はもちろん、草木一本も残して
行われた興隆県でも、福井や砂山らが伝道活動を
(66)
行っていた。各地で数年にもわたってこうした残
はならぬ……」
「討伐」が「戦闘行為」の域を優に超える激烈
忍な討伐が展開されていれば、伝道者がその実態
なものだったことを示す証言である。まず、共産
を聞き及んでいないとは考え難い。「熱河省で最
党に通じる「敵性部落」の一般住民の無差別殺害
も治安の悪いこの興隆」との言及もあるが(69)、
を上官が命じている。憲兵が本来の軍事警察的機
共産党に連なるとは見なせない乳幼児や動けない
能を逸脱する行為をここ熱河省では行っていたこ
老病人まで殺害することが広く展開されたのであ
とが分かる。「戦争犯罪」である住民虐殺が組織
れば、そうなるのも不思議はない。それは相手が
的に命じられた点も見逃せない。また、次に述べ
牧師であっても変わらないはずだが、伝道者らが
る三光作戦の命令でもあり、憲兵が軍警と一体に
接した地元の信徒からはそうした緊張が読みとれ
なって加担していたことを示す。
「良き目的」の
ず、むしろ日本人に協力的でさえある(70)。
「討伐」は、やがて「無人区」作りの一環とし
障害となる共産党に連なる民衆は殲滅の対象で
あった。
て大規模かつ組織的に展開されていく。満州国官
─31─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
吏のいう「無住禁作地帯の設定、集団部落の建設」
4
4
が治安政策として推進されていたのであれば、伝
察や憲兵等が増員されたことが何を意味するかに
ついても、伝道者らは沈黙している。
道者がその「外部」に存在していたとは考え難い。
5.伝道者たちの見た協和会
4.治安工作:
「無人区」政策の展開
次に「思想工作」について見ていきたい。満州
前述のように、「国境」から共産党が侵入して
国の治安維持において「治安工作」がハードなア
くると考えた満州国は、興隆県等の国境地帯を無
プローチに当たるとすれば、
「思想工作」はソフ
住禁作地帯・無人区にすることで、共産党に対す
トなそれに当たる。
協和会は満州国における事実上唯一の政治結社
る民衆の支援を徹底的に断ち切ろうとした。その
レンジュェン
ために、住民を軍監視下の「集団部落」
・
「人圏」
であり、
「民族協和」と「王道楽土」という国家
に強制移住させた。これが「集家工作」である。
イデオロギー浸透のための国民教化機関として創
日本軍が無人区を作った際に、先の植松の回想
設された。熱河伝道のピーク時には、地域社会や
に見られるように、共産党の協力者として逮捕さ
職場での相互監視体制を組織化する翼賛態勢へと
れた人々が数多く虐殺されていった。その際、見
変貌していた。だとすれば、熱河の各教会もこの
せしめのため承徳や興隆の街に連行されて処刑さ
翼賛態勢の網の目の中に組み込まれていたはずで
れたケースが少なくなかった。例えば、42年3月
ある。事実、教会と協和会との関係を垣間見せる
の大検挙で、興隆の街から南へ一時間半ほどの4
伝道者の記述が散見される。
つの村で、軍と警察が計300人余りを逮捕し、そ
例えば、1942年の正月、福井が最初に入信に導
のうち「六一名が、二台のトラックで興隆に運ば
いた王玉新とその兄の王玉成のいる承徳教会を訪
れ、一部は南土門で処刑されたが、大部分は承徳、
れたある日本人伝道者は、
「協和会の正服を着た
(71)
。主に街区で暮らし活動して
錦州に送られた」
王兄弟から『あけまして、おめでとう』と日語で
いた牧師らが、無人区作りの一環で連行されてき
のあいさつを受け」たと記している(73)。
4
4
4
4
4
4
4
4
4
た中国人の処刑を頻繁に見聞きしていた可能性が
さらに重要な一節として、熱河伝道を象徴する
あることを示している。しかし、彼らの記述から
もう一人の人物である沢崎堅造と協和会との関係
は同県が無人区政策の最前線であった様子はまず
性を示すくだりを確認しておきたい。
1945年5月、沢崎の同志社時代の教え子であっ
伝わってこない。
43年、共産党の抗日活動が全面化すると、軍側
た古屋野哲二が宣教のため渡満することになっ
の「討伐」「検挙」も拡大していった。軍、憲、
た。当時、熱河を越えてさらに北方の大板上(興
警のいずれも増員されて2万人余にも上り、興隆
安西省)入りしたものの蒙古人伝道が進展せず苦
県総人口との比は7:1となる。実際に憲兵や警
しんでいた沢崎は、古屋野が活動しやすいように
察に逮捕された者の数は5000名を超え(72)、臨時
次のように考えた。
「沢崎はいろいろ考えて、彼
4
4
4
に何処でも開廷でき便宜性の高い「特別治安廷」
が直接伝道するよりもこの奥地ではむしろ、協和
で即決裁判を受ける者もいた。裁判さえ「討伐」
会に入り、地域社会の民衆の中に働きかけていく
「検挙」を補完する都合のよい手段となっていた。
方がいいと結論した」
。また沢崎良子の手記には
熱河伝道がピークに達した時期は、同時に討伐や
「〔古屋野は〕さっそく協和会に勤め、独特の直情
検挙が日常的に行われていた期間でもあるが、警
と情熱とで、満人、蒙古人を知ろうとし、また地
─32─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
域について知ろうと努力されたようでした」
、
「古
て、日本側は満州を「開発」し、地主層は農村を
屋野さんは協和会に入って現実的な面から蒙古人
支配し続けることができ、様々な対立関係を一挙
に接せられることになった」ともある(74)。
に解消できる点でも利益が合致した。こうして32
伝道者らの協和会に対するこうした記述には、
年7月、
「五族協和」
「王道楽土」を掲げ、執政溥
特に否定的な意味合いは含まれていない。むし
儀を総裁に、関東軍司令官を名誉顧問に、国務総
ろ、協和会の有する日本人と現地人との繋がりを
理を会長に据えて「満州国協和会」が結成された。
積極的に活用しようとしている。後輩が協和会入
りして蒙古人に接することを「いい」ことだと判
(2)国民動員期
断した沢崎には、協和会の活動実態が相当程度見
地主・富農層との連携で政治的安定化という目
えていたはずだが、特に慎重さも感じられない。
標を一定程度達成した満州国は中央集権志向を強
しかし、先に引用した『満州国史』の記述では、
め、協和会もそれに対応して「国民動員」のため
協和会が軍、警と連携して治安粛正を積極的に展
の組織として発展していった。36年7月の改組で
開していたことが示されている。協和会とはいか
は「国民動員」が綱領に明記され、37年以降国民
なる組織で、教会や伝道者とどのような接点を
組織化を図るべく「従来厳格であった会員資格は
もっていたのか、引き続き検討しよう。
撤廃され」、会員増加が図られた(77)。また、国民
訓練、国民組織に属する活動として「青少年訓練
6.協和会の成立と展開:
「地主層との連携」か
ら「国民動員」へ
施設」が作られ、
「民族や性別、職場の差を問わ
ず」全て協和青(少)年団で協和会の指導を受け
た。都市部では隣組が協和会の末端組織を兼ね、
協和会の組織構成と主要活動は、熱河省独自の
(75)
展開も踏まえると、三つの時期に区分できる
。
農村部では保甲制の活用によって、警察と連携し
た国民隣保組織が確立された(78)。綱領に「協和
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
会ハ唯一永久挙国一致ノ実践組織体トシテ政府ト
4
(1)政治的安定志向期
4
4
4
(79)
表裏一体 トナリ」
と謳われている通り、「全国
関東軍の満蒙対策の下で「満州国」が作られた
民の網羅を目ざす日本ファシズム独特の国民組織
ものの、人口構成や都市部に偏った支配といった
に転換」を遂げ(80)、後に内地の「大政翼賛会」
不安定要因を抱えていたため、様々な対立要因を
のモデルとなった(81)。
可能な限り解消し、分裂を防ぐことが至上命題で
あった。ごく少数の日本人が多数の漢民族はじめ
(3)武装活動期
多民族をどう支配するか、抗日勢力にどう対処す
1938年頃から共産党の抗日活動が活発化する
るかを模索する中で、中国人協力者層を確保する
と、関東軍と満州国軍は国境警備と共産勢力討伐
という課題が浮上した。そこで関東軍が目を付け
のための特別工作を実施した。しかし「単に武力
たのが、地主・富農層と繋がりのあった満州青年
討伐のみでは用をなさず、軍、官、協和会の一体
連盟(協和会の前身)であった。政治的安定化の
的指導下に政治、思想工作を総合実施する」必要
ためには、「満州国は農村の支配階級としての地
に迫られた。41年4月には「政府と協和会の二位
主・富農層の利益を擁護すべきであり、王道を主
一体性の確立」が要請され、
「関係機関の総力を
唱する協和会は『地主的自治』の援助者となるべ
結集して指導体制を強化し、国家要請に応え よ
き」と考えたからである(76)。両勢力の連携によっ
「協和会は協和青年
う」とした(82)。具体的には、
4
─33─
4
4
4
4
4
4
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
行動隊を結成し、情報蒐集、収穫援護、宣撫宣伝
(83)
約250の村協和会分会が順次設置されていった。
「正確な情報の入手は治
工作に従事させた」 。
これは協和会が国民動員組織へと変貌していく経
安工作にとって絶対的に必要であった」ため、
「青
過に対応している。各級の協和会会長は、その行
年行動隊は部落民、労働者などから諸情報を引き
政の長が兼任し(県協和会なら県長が会長、中国
出すことに務め、あるいは労働者の宿舎に便衣を
人)
、各部署の役人も同様に協和会の同級ポスト
まとって潜入し、共匪の活動状況〔中略〕等の情
に就いた。ただ、本部にはそれぞれ事務長職が設
4
報蒐集に努めた」。熱河省では、青年行動隊「自
4
4
4
4
4
4
体武装をなすこと」になり、
「滅共行動隊」とし
(84)
。従って熱河省では「既に
て展開していった
二位一体制は実施され」ていて、
「協和会の仕事
けられて日本人が就き、全ての決定権を握ってい
た。「満州国協和会」総体で二位一体制が確立さ
れるよりも以前に、熱河省では政府と協和会が表
裏一体の組織構造をもっていたことが分かる。
の中の重要項目の一つは粛正工作」であり(85)、
1940年代の熱河省協和会にとって最も重要な任
次第に軍警との役割分担が曖昧になっていく。43
務である「粛正工作」の実施に関しては、以下の
年以降は、
「無人区」「討伐」
「掃討」
「三光」の実
通りである。省本部には「情報室」と「別室」が、
(86)
施に軍憲警と共に直接従事するようになった
。
県・旗・街本部には「指導班」が設置され、それ
ぞれ特務(スパイ)活動に従事した。これらとは
以上のように、1937年以降の協和会の国民動員
別立てに、各レベルの協和会には「嘱託」職が設
活動は、政府や軍側を補完することを目的とした
置され、事務長の直接管轄下で「専案」
(=重大
ものであった。日本軍の侵攻が広がって戦争が全
事件、特別処理案件)や宣撫工作(=人心の安定
面化すると、「広大な満州の内部に治安維持上の
や治安回復)
、共産党に対する情報収集等の秘密
空白が生じる」ため、
「協和会の各種団体は、軍
工作を担当した。
「嘱託」の訓練は、理論、実践
事力の薄くなった銃後の治安維持に重要な役割を
の双方にわたって、省レベルの警察や憲兵のトッ
(87)
もった」のである
。
プが直接担当した。嘱託の採用は各事務長の推薦
による特別任用で、専ら「地元有力者」かつ協和
7.軍隊・警察と一体化する協和会
会トップと信頼関係があり、高度な能力を有する
者が求められた。郝が属した本部や村分会は、主
協和会の一員として活動することの含意をさら
に教育界や地元の名士が嘱託を務めていた。対外
にくみとるために、以下では、郝 席庵が書いた
的には名誉職のようなイメージを持たれていた
「筆記供述書」を参照したい。郝は興隆県及び熱
が、実際には憲警とは異なるルートやアプローチ
河省の協和会において重要な役割を果たしていた
で特務活動に従事し、あらゆる重要な政策制定か
ことから戦後拘束され、その活動の全容を供述し
ら実施にまで関わっていた。
ハオシーアン
(88)
。民衆からの共産党に関する情報収集、無
例えば、42年、「西南国境治安粛正」が満州国
人区化、「人圏」への強制移住活動の全てに関与
政府の政策として打ち出された際には、「集家併
する協和会の実態を生々しく伝えている。以下、
村」を実施する段取りや場所の選定等の全てにわ
郝供述書に基づいて検討しよう。
たって「嘱託」が積極的に関与していた。
た
まず協和会の組織構成について。協和会「熱河
1943年以降、県協和会の嘱託は各村を歩き、生
省本部」の下に13の県・旗本部、承徳街本部が置
活必需品や薬品等を無料で村民に配布して安心感
かれたのに加え、1940年以降はさらにその下位に
を与えながら、「集家」に抵抗する村民や共産党
─34─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
の粛正に必要な情報を自然な形で収集した。事務
ほか、第一線の村分会で情報収集を担当したりも
長が外出・視察する際にも嘱託が必ず随行して協
した。その際、各村の協和会分会の主要メンバー
力した。嘱託の中で成果をあげた者は、本部委員
と関係を深め、
「常務員」や「評議員」といった
という協和会の上級職に就いた。
役員に任命し、十分な生活必需品等を配給するよ
郝自身の経験に移ると、地主出身で警察に勤め
う県本部に申請した。常務員、評議員らに綿入れ
ていた郝は、43年7月に協和会興隆県本部情報室
の服等の生活品や薬品を無料で住民に配布させる
幹部の紹介で、本部「行動隊附」
(本谷義雄隊長)
ためである。そうした活動の中で村人との関係を
となり情報収集を担当した。行動隊の任務は、討
緊密にし、村人の状況や八路軍との関係等を自然
伐隊に協力して長城付近の掃討を実施し、
「大集
な形で聞き出し、憲兵や軍警等に提供していた。
家」を仕上げることにある。その中で村民の思想
なお、郝供述書に繰り返し登場する承徳憲兵隊
動向や共産党根拠地、武装活動等の情報収集も
附の木村光明特高課長は、先の古海や植松らと同
行った。具体的な様相は以下の通りである。
様に戦後戦犯となり、その供述書の中で対共情報
「自分は、まず各村の甲長や有力者に接近し、
の収集組織やその活動について記している。
集家後の困難をできるだけ解決することで関係を
「対共調査班に就いて
密接にした。これは情報収集に有利だった。次に、
西南防衛軍二二五部隊安藤司令官の命令によ
毎日三~四人の隊員〔中国人〕を連れて薬や氷砂
り、植山大佐参謀を班長とし金澤憲兵中佐を副班
糖等をもって各村を歩き回り、甲長や部落長宅を
長とし、日憲吉田特高科長(少佐)、熱河省警務
訪ねて氷砂糖を子供に渡したり、また女性に婦人
庁後藤特務科長、協和会科長某及び私の四名を組
薬や小児薬を渡して感情を密にした。村民の家で
長とし、班員は軍事部長島参事官以下三名、憲兵
食事が出た場合は必ず費用を渡し、協和会は軍、
二名、警察二名、興農合作社二名、満軍二名、鉄
警と違い「善良な組織」だとアピールした。雑談
警一名、検察官一名、等を以て対共調査班を組織
の中でもなるべく同情を示し好感を与え、好まれ
しました。
4
4
4
4
4
4
る存在になるように工夫した。部落入りを拒否し
その任務は中国共産党を目標とする各種資料の
た村人は、共産党と関係があるケースが多かっ
調査並びに通報、及び宣伝等の共産党に対する敵
た。部下の隊員も自分が情報収集を目的に村人に
(89)
対行為を致しました。
」
熱河省の治安政策担当の各部門の最上級者から
接しているとは気付かないぐらい巧妙にやった。
得た情報は、隊長、副隊長と秘密会議を開いて分
なる「調査班」の中に、協和会課長も含まれてい
析した上で、本部に報告していた。事務長の佐々
た。側面支援というより、軍憲警と一体化した様
木小春に直接報告するケースもあった。
」
子がここからも見て取れる。協和会末端でもそれ
このようにして彼が収集し提供した情報に基づ
に準じた活動へと変化していたと考えられる。
いて、実際に軍警が討伐を実施していた。集家に
以上の供述からも分かるように、協和会側が収
抵抗して山に入る者が多いような村は共産党との
集した情報が軍や警察に提供されているだけでな
繋がりが深いため、
「下山」させて共産党との関
く、対策を共に講じたりしてその役割は極めて重
係を断ち切る工作も行った。親族の安否と取引き
要であった。協和会に勤務した古屋野や、現地の
したり、好条件の職の提供を申出たりして、共産
人々と直接関係を作る上でそれが早道だと勧めた
党から引き離したのである。郝は能力が評価さ
沢崎は、協和会が現地住民との接触を図る「狙い」
れ、後に協和会熱河省本部「別室」勤務となった
も当然理解し得ていたはずである。
─35─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
8.教会と協和会との相互依存
派と位置づけられていたことがわかる。
以上のように、伝道者には地元の名士で熱心に
さらに、郝の供述書の中には、熱河伝道との関
教会運営を支えた信仰厚き人物としてのみ描かれ
た中国人が、一方では満州国による支配体制を積
連で興味深い記述が見られる。
伝道を初期から支えた興隆協会の「三執事」に
極的に擁護する支配層であったことが浮かび上が
関する言及である。牧師の「宣教レポート」では、
る。彼らはそうすることで社会的地位を守れる立
三人について、「新しい教会の発足に執事として
場にあった。三執事もまた「キリスト者であるこ
選ばれたのは、公医の劉芸田、村の旧家で地主で
と」と「対日協力者であること」の矛盾に引き裂
ある廬儀卿、初級学校(小学)の姚振興先生の三
かれなかった点で、伝道者と同様であった。
既に触れたように、福井が最初に回心させた王
人、いずれもこの地方の重責を負っている人々で
あった」と記されている(90)。
玉新一家も地元の名士で協和会メンバーであっ
ルーイーチィン
まず、廬 儀卿については、郝供述書によると、
協和会興隆県本部の設立時から「本部委員」を務
(91)
た。元警察で阿片中毒者、かつ凶悪犯だった玉新
の救済を依頼した兄の王頴璞(玉成)は県公署総
め、後に「義勇奉公大隊長」 を兼任したと記さ
務課長を務め、県協和会副会長でもあり(94)、福
れており、廬が郝よりも一層主体的に満州国への
井と熱河伝道を支え続けていた。福井は、協和会
協力活動をしていたと考えられる。廬は協力者層
と現地有力者との共存関係をよく知る立場にいた
に多い地主であり、興隆が満州国領となった初期
ことが窺える。また、沢崎に共産主義者の嫌疑が
の「財政局長」を務めたほどの有力者であった。
かかり逮捕されそうになると、顔見知りの憲兵曹
しかし、伝道関係者の回想等からは、廬の協和会
長に取りなして窮地を救ったのも福井であっ
との関係は語られない。砂山牧師の妻節子の回想
た(95)。憲兵の判断にまで影響力を行使できるの
では「廬儀卿も、もともと興隆の名門ではあるし、
は一定の協力関係があったことを示唆している。
共産軍に狙われる人であったが、共産軍の入る前
また、沢崎が蒙古の大板上に入った時に最初に
(92)
と示唆するのみ
にどこかへ逃走していった」
繋がりをもった蒙古人は「“阿 其図”という二十
で、それ以上踏み込んだ記述はない。
三歳の青年であり、彼は協和会の職員をしてい
リュウイゥンティェン
ア
ジ
ト
二人目の執事で公医の 劉 芸 田 は、通訳として
た。アジトは王爺廟(興安西省都)の国民優級学
も伝道を大きく支えた。公医とは政府が任命し公
校を出ており、この町の蒙古青年の中では文化的
衆衛生や医療に携わる職である。劉は、1935年に
教養を身につけた指導者であり、日本語もよく話
興隆で設置された初の公医院長として首都新京か
すことができた」とある(96)。阿其図が協和会で
ら派遣された人物だと郝は記している。節子の回
スパイをしたかどうかは不明であるが、協和会が
想では、国共内戦の後「興隆教会の柱石であった
有能かつ地位のある蒙古青年を協力者にしていた
劉芸田医師は人民裁判にかけられ、
〔中略〕銃殺
ことの意図を、沢崎は知りうる立場にあった。
(93)
との記述がそれを裏付けており、単な
された」
る医師ではなかったことが伝わってくる。
永見愛蔵牧師についても、1945年5月に軍に召
集される際、隆化県の「協和会事務長の山口とい
ヤオヂェンシィン
三人目の姚振興についても、郝供述書の中で、
う人が永見牧師のために送別会を開いてくれると
小学教員から後に「優級国民学校長」に抜擢され、
いうので、福井と和田もごしょうばんにあずかる
戦後は廬の紹介で国民党特務組織に加入したと述
ことになった」とある(97)。嘱託を駆使して宣撫
べられている。有力な対日協力者で徹底した反共
や諜報活動を行う立場にある事務長が、伝道者の
─36─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
応召前に送別宴をもつことは、それまでの協力関
係を物語っていると考えることも可能である。
「救霊」一筋の伝道を基本方針としたため、協和
会員がいかなる活動をしているのかを問題にする
また、最後に熱河入りした古屋野についても、
ことはなかったのであろう。むしろ政府や協和会
「古屋野夫人と〔子供の〕恵義ちゃんは哲二氏の
の有力者が後ろ盾になることは伝道活動に利する
応召後、協和会事務長の留守宅に住んでおられ
点が大きいと歓迎していたのではないか。従っ
(98)
、古屋野が協和会
て、中国人執事や信徒の協和会との関係に言及し
事務長と親密な関係にあった事実を伝える。事務
ながらも、その含意には触れることはなかった。
長の立場からは、彼が蒙古人の中に分け入ったこ
こうした伝道者らの姿勢は、満州国とその協力
た」との沢崎良子の回想が
とは伝道的観点とは別の意味を持ってくる。
者層とが維持に努めた支配体制を結果的に支える
4
4
4
4
4
4
4
4
4
砂山、二橋正夫両牧師は医療伝道を行うことが
ことになった。その意味で、伝道者の主観にかか
一般民衆への伝道の早道だと考えて実践したが、
わらず、伝道者と協和会とは相互依存関係にあっ
その医薬品も一部は協和会から供出されていた。
たといえよう(100)。従って、協和会の有力会員と
「砂山は、この辺鄙な地域の医療伝道の必要を
なることのない一般民衆の苦悩にまで思いが及ぶ
4
4
4
痛感し、内地の教会に資金の援助を求めると共
には至らなかったと考えられる(101)。この点を、
に、教会員の公医劉芸田と漢医の李元仲の協力に
さらに被害民衆の視点から裏付けてみたい。
マ
マ
より、着々その準備を整えてた。医薬品も外国宣
4
4
4
4
4
4
4
教師たちの残していったものや、協和会などから
4
4
4
4
9.中国の一般民衆が見た熱河伝道
4
求めたものなど、下痢剤のアスピリン、胃腸薬、
かぜ薬、虫下し、各種の軟膏、アルコール、注射
興隆県において2006年11月及び07年8月の2度
液、消毒綿、繃帯など、手当たり次第に集める一
にわたり聴き取り調査を実施した。無人区政策の
(99)
方…。
」
被害者からその実態と、日本人伝道者の様子につ
協和会からの医薬品の提供は、もちろん教会の
信徒を増やすことを目的としたものではない。教
いて僅かながら聴き取ることができた。その要約
は以下の通りである。
会が体制維持の一環として活用され、教会側もそ
張紹茹(女、2006年11月当時77歳):
うした意図を理解した上で医薬品の供出を求めて
「〔興隆で伝道した砂山貞夫牧師一家について〕
いたと考えた方が自然であろう。
当時、周囲に無人区が作られ、多くの人が殺さ
以上のように、協和会の会員や日常活動の狙い
れた。この近くの「南土門」には一度に52人もの
を明確にした場合、伝道者が記したのとは異なる
「地下共産党員」が殺された処刑場があり、私の
執事や信徒の姿が現れてくる。伝道者は彼らを通
兄が見に行ったことがある。
じて、また自ら協和会と関わることで、その実態
わが家は、道を挟んで砂山牧師宅の向かい側に
を多かれ少なかれ知る立場にあったことが見えて
住んでいた。砂山宅は、立派な建物でお手伝いさ
くる。さらに踏み込んで言えば、協和会にとって
んもいた。わが家は貧しく階層が全く違うから、
教会は宣撫活動のチャネルとして利用価値が高い
牧師とは互いに挨拶もなかった。砂山宅にはいつ
と捉えていたことを自覚した上で、協和会との関
も高官や日本人に通じる警察、金持ち、例えば、
係を有していたといえる。協和会の人脈から辿り
李興、史煥章、劉公医らが訪れていた。週末には、
着く人を相手に信徒を増やしても、宣教の一端を
牧師がいつも和服姿で出かけていた。
達成することに変わりはない。その際、福井らが
─37─
(102)
とよく遊ん
砂山宅の長女の「ちよこちゃん」
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
でいたが、彼女は私たちの食べ物には絶対触らな
う。この時代の興隆街に関する著書や聴き取りで
かった。戦後、牧師が帰ってこず、奥さんと三人
はいずれも言及されるほど沈痛きわまる事実だっ
の娘さんだけになった。2~3年後、母と子の生
たようだが、伝道者らの回想だけはまるで別の世
活は段々苦しくなっていったと思う。長女は、私
界を見ていたかのようである。
たちの食べ物を受取るようになった。真冬なの
また、渡辺論文でも言及されていたように、熱
に、袖の短い上着を着て腕にはアカギレができて
河伝道だけは純粋で献身的な宣教であったとする
いて、可哀相に思った。私の母は、普段から食べ
関係者の礼賛は今も続いている。その裏付けの一
物を、祝祭日には自家製のご馳走を届けたりし
つとして、戦後の苦境の中でも伝道者たちがクリ
た。奥さんは礼儀正しくきれいな女性だった。母
スチャンの相互扶助によって守られた点があげら
は政府から綿をもらい、大工の父が糸より車を
れる(104)。しかし、上記証言によると、砂山節子
作って、糸の作り方も奥さんに教えた。奥さんは
を助けたのは、牧師から挨拶することさえなかっ
できた糸を売って生計を立て、また看護婦もして
た貧しい隣人であった。節子の回想でも、戦後の
いた。帰国前の52年に三女が亡くなり、兄が棺桶
苦しい生活を糸紡ぎなどをして切り抜けたことが
を作り近所の人々と河辺に埋めた。
記されているが、それが近隣の人々からの支援に
2000年夏、奥さんが長女、次女夫婦と興隆に来
基づくものであったことは記されていない。娘の
た。県の人が対応に当たった。砂山さん親子はわ
亡骸を河原に埋めたことについても「前のお百姓
が家にも来て、記念写真を多く撮った。みんなで
さんに手伝ってもらい」と記されているだけであ
河辺に行き、三女のお墓参りもした。
」
る(105)。敗戦後は逃亡したり処刑された執事らへ
街区の知識階層に求道者が増えてくると、砂山
の感謝の述べられ方と著しい対照をなす。砂山が
は「大きな課題は何としても農村への伝道」だと
伝道したいと考えていた農民は、戦前も戦後も夫
考え、日々の暮らしや戦争に苦しむ農民に分け入
妻の前に「顔」を表すことがなかった。
(103)
りたいと考えていた
。その思いとは裏腹に、
貧しい近隣の人とは挨拶程度の接点もなく、有力
張文生(男、2007年8月当時76歳)
者とだけ交流していたという証言が得られた。
「〔砂山牧師らの伝道活動について〕
ここでの有力者の一人「劉公医」とは、執事の
8歳の年に集家を経験したが、家族は部落に入
劉芸田のことである。また、
「史煥章」の名は先
らず、興隆街に移った。学校では日本語が最も重
に見た郝供述書の中にも頻繁に登場する。興隆が
視された科目であったため、ある程度会話もでき
満州国領にされた際に、実業局長に就任した有力
ていた。
者で、協和会県本部委員でもあり廬儀卿執事と積
当時のわが家は、砂山宅と道を挟んで斜めの約
極的に宣撫、情報収集活動に携わったとも記され
50メートルの所にあった。散歩感覚で「教会」の
ている。こうした人々と行動を共にし、砂山の応
伝道の場を見ていた。言語は日本語で、地元の入
召後は彼らに後を託したことを考えると、満州国
信者は殆ど政府関係者、討伐隊員等の対日協力者
や関東軍の治安政策自体を懐疑する姿勢は殆ど見
で、普通の民間人は極めて少数だった。砂山家族
られなかったと考えるよりほかないだろう。
には特に接したこともなく、牧師のことも印象は
また、仁木の聴き取りを裏付けるように、教会
から遠くない場所(南土門)に処刑場があり、共
薄い。ただ、牧師が憲兵に通じ、抗日中国人の情
報を流したため逮捕者が出た、と後に聞いた。
産党協力者として逮捕された者が処刑されたとい
─38─
戦後、牧師が消息不明となり、母と子しかいな
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
くなった砂山家族は周りから温かく接されていた
かったが故に、一般民衆、そしてその苦悩が見え
こと、また奥さんの働きぶりが高く評価されてい
ることもなかった。
たことが非常に鮮明に印象に残っている。
戦後、私は地元の「鋤奸団」長になり、対日協
10.日本的「特殊性」にとどまった熱河伝道
力者の摘発・追及に中心的な役割を果たしてい
た。当時の状況を考えると、牧師が共産党側に逮
植民地体制の確立・維持という社会的・歴史的
捕・処刑された可能性はゼロだ。日本人牧師が摘
文脈の中に熱河伝道を埋め込んでみると、秩序維
発されたとなると、団長だった私の耳に入らない
持の歯車の一つとなることで伝道が可能になって
はずがないし、民衆教育のためにも公開処置が執
いた実態が浮かび上がる。これは本稿第一章で渡
られたはずだからだ。」
辺も指摘しているように満州伝道会全体のあり方
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
聴き取りに同席した興隆県史室研究員の劉玉蘭
と同型である。つまり、純粋さを強調する関係者
は、次のように紹介した:砂山は医者、キリスト
の意識とは裏腹に、国策に沿うことで満州での伝
者の顔以外に、憲兵のスパイという顔も持ってい
道が可能となっていた。
4
4
4
4
4
4
4
4
た。彼の下で働いた劉芸田は、同じくキリスト者
熱河省という地域でも、伝道を進めるには満州
で且つ医者、スパイとして共産党関係者及びその
国や地元有力者層による秩序維持体制に協力する
活動について情報収集をしていた。戦後、人民裁
ことが不可欠であった。具体的には、国民動員組
判にかけられ、46年7月7日に処刑された。憲兵
織となっていた協和会の網の目の中の一端として
──砂山──劉、という上下関係だったという。
教会に求められた役割を果たすことで、伝道活動
この張文生は日本語を使うこともできたが、や
を展開することができた。
「キリスト者であるこ
はり牧師らとは接点を持っていなかった。そうし
と」と「日本人であること」が奇しくも両立でき
た民衆の目には、教会に通い入信したのは「政府
た様相が見えてくる。
関係者、討伐隊員」だったと明確に映っている。
ここから、彼らが戦争に苦しむ民衆を見出すこ
憲兵と通じていたというのも、先に述べた協和会
とがなかった点も演繹できる。
「良き日本人」た
と憲兵、協和会と教会との関係を考えれば不思議
ちが「敵」とした抗日共産勢力は、普遍性を志向
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
はない。民衆には教会が純粋な宗教活動の場とい
4
4
4
4
4
4
しているキリスト者にとってはそれでも「救済」
うよりも、満州国支配を支える活動拠点の一つと
の対象のはずである。しかし、協和会との相互依
映っていたことを物語る。伝道者自身には、戦後
存ひとつをとっても、
「良き日本人」にとっての
を含めてそうした視点は見られない。
「敵」は、
「良きキリスト者」にとっても「敵」で
執事劉芸田については、先に、ただの医師では
あったことを意味する。砂山や二橋らが召集され
なかったと述べたが、ここでは憲兵のスパイだと
ると、教会の後事を憂慮するものの、共産軍と直
指摘されている。人民裁判で処刑されたという説
接交戦することへの躊躇や抵抗感が語られること
明は先述の砂山節子の回想とも一致する。教会を
はなかった(106)。これに大東亜戦争の目的を「よ
支えた中国人の多くが体制派だったことがここか
かった」と表明する冒頭の福井の言葉を付け加え
らも窺える。砂山牧師の医療伝道も、現地の民衆
れば十分であろう。「キリスト者」という彼らの
の目には、軍や憲兵に協力して住民の様子等を探
属性をいったんカッコに入れてみれば、
「良き目
るための一つの「手段」として映っていた側面さ
的」をもって満州を開発し、大東亜戦争を戦った
えある。伝道が支配層との協力なしにはなしえな
当時のごく一般的な日本人像がそこに姿を現すだ
─39─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
けである。当事者の主観や意図がいかなるもので
4
4
4
4
4
あったとしても、侵略戦争に加担したことを直視
「日々の暮らしや戦争に苦しむ農民」ではなく単
なる「お百姓さん」にすぎなかった。
できない点も、日本社会と通底している。
以上は、ノンクリスチャンが社会的・歴史的に
「良き目的」のために戦争体制に協力するのは
「熱河伝道」を検討した結果言えることである。
当然だと感じていた日本人=キリスト者が、抗日
ただし、キリスト教内在的にいえば、一面的な批
勢力を「戦争被害者」と捉えることができなくと
判にとどまっている可能性もある。次の荒井論文
も不思議はない。しかも、伝道者たちの意識には、
では、
「キリスト教」と「戦後」という視点から
伝道への自己陶酔の陰で戦争に協力していたとい
の検討が行われる。
う自覚さえ希薄なのだから、彼らが見た民衆は、
─40─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
第三章 伝道者たちの言説における戦争「被害者」の不在
荒 井 英 子
(恵泉女学園大学人間社会学部)
1930年代、日本のキリスト教諸派は「伝道報国」
書的根拠としての「一粒の麦」の譬である。
「一
を唱え国策奉仕に懸命であった。
「国家への忠誠、
粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のまま
奉仕は、日本国民であり、キリスト者であるもの
である。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の
の当然の義務と考えていた。彼らはそれを天皇制
命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の
国家の基礎を強固にし、国家、社会の進歩、発展
命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」
(ヨ
(107)
のであ
ハネ福音書12:24-25)。このイエスの言葉に、熱
る。当時、国家とはいうまでもなく軍部支配下の
河伝道者それぞれが運命を託した。福井は入熱直
に寄与するものとして確信していた」
それであり、従って同時代のキリスト教徒にとっ
前の沢崎に、
「尊兄が一粒の麦としてこの大地へ
て「殉教」と「殉国」は表裏一体のものであった。
おちらるることに依り神は更に多くの果を結ばし
しかし、
『荒野をゆく─熱河伝道・蒙古宣教史』
め給うことを確信いたします」と励まし、同時に
の終章は次の言葉で締めくくられている。
「
『熱河
沢崎の妻にも、
「祖国にある多くの奥さんたちが、
宣教塾の伝道活動も、日本軍部の大陸侵略政策に
その夫を聖戦のために送り出し、その多くが戦場
便乗したのだ』と批判する人々も多い。われわれ
の花と散っています。キリストの精兵もその福音
が、あくまで純粋に福音の使徒として宣教活動を
宣伝のために死地を探すのであります。…一切を
行ったと主張することは、主観的意見であるかも
棄てて貴女も御子様を抱き乍ら霊戦へ加わりくだ
しれない。しかし私は、ありのままの熱河におけ
さい」と覚悟を促している(109)。あるいは砂山夫
る宣教活動の事実に基づき、その召命と開拓と発
妻の場合は、熱河伝道に同伴した長男 正 が病死
展と、敗戦の怒濤による壊滅と殉教の歴史を綴っ
した時、母節子が「興隆教会の最初の一粒の麦と
た。あとはただ、これを読む人々の判断と、神の
して、わが子が召されようとは」と、宣教論的に
(108)
正しい審判を待つのみである」 。
まさし
わが子の死を意味づけている。
「殉教」をめぐる
熱河における自らの伝道活動を、戦後20年を経
言説にいたっては、枚挙にいとまがない。
て「純粋に福音の使徒として」と総括し、戦責告
熱河伝道者たちにとって一粒の麦となること、
白の枠外に置く。信仰の世界における「自己相対
すなわち殉教は無上の光栄であった。しかし、
化」の難しさを如実に物語る言葉である。このよ
「死」の使命を帯びた伝道者たちから、中国人・
うな信仰の営みをどのように「判断」すべきか。
蒙古人はどのような「いのち」の福音を聞くこと
本章では、熱河伝道の主導者であった福井二郎・
が出来ただろうか。沢崎は先の福井の手紙に、
「福
敏子、沢崎堅造・良子、さらに興隆で伝道した砂
音の喜び、解放の音信を、力のかぎり伝えたい」
山貞夫・節子の言説を手がかりに、熱河伝道の目
と返信しているが、皮肉にも熱河伝道の現場に見
的とその実態を検証する。
出されるのは、伝道対象であったはずの戦争「被
熱河伝道者たちの言説の背後に共有されている
害者」の不在という現実である。
のは殉教を辞さない信仰であり、それを支える聖
─41─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
1.熱河伝道の発端−承徳の福井二郎
福井が獄中の彼と面会した際に日本人キリスト者
ほうが
の副典獄・法亢照夫に出会ったことによる。それ
福井二郎(1889年生、1907年山口で受洗)は、
が縁で、法亢の要請で福井は毎月監獄で聖書講話
1920年上海東亜同文書院(出身者は貿易か外交官
をするようになった。さらに、興隆県公署総務課
の道に進むのが常)を卒業し、馬関毎日新聞社を
長の王玉成の弟で、凶悪犯と名高い王玉新が承徳
へて山口高等商業学校で中国語を教え、中国人教
の監獄に入獄していたが、福井の働きかけで改心
師たちと接するようになって熱河伝道の志をもつ
したのを機に、王一族はもとより監獄医から看守
ようになる。
まで多くの監獄関係者が入信するようになったと
福井の熱河伝道への傾斜は、生い立ちと周りに
いう。後に、この王玉成の熱心な要請で興隆伝道
中国人が多いという環境もあるが、原始教会の異
が始まり、弟玉新も二年後に献身して伝道者と
邦人伝道の拠点となったアンテオケ教会(110)と、
なって福井を助けることになる。劉も王も政治犯
自らが属する山口日本基督教会とを重ね合わせ
ではなかったが、この監獄伝道は当局からすれば
て、隣邦に最も近い地理的位置にある山口教会こ
反満抗日を改悛させる機能を有していたことは言
そ異邦人伝道の核となるのが相応しいとの確信が
うまでもない。福井自身こう述べている。
根幹にある。同時に、時代の人としてナショナリ
「承徳で伝道をはじめた当時は、まさに関東軍
ズムに裏打ちされた「日本基督教」
(皇国基督教)
が華北に突入しようとする直前で、熱河はその作
を内包する隣邦伝道への使命感も見られる。福井
戦の根拠地だったのです。つまりスパイのるつぼ
4
4
4
夫妻が熱河へ出発する直前(35年10月)
、両人の
のような所です。そこへ投げこまれたのですか
連名で発行した小冊子『芥種』には、
「大和民族」
ら、たいへんでした。私のあとには必ず人がつい
を強調する次のような言葉が記されている。
てくる。私と話している人だったら、あなたはど
「わが大和民族のことを考へます時、神はわれ
こから来たのですかときかれる。そういうふうに
等の永い歴史を通してこの民族を恵みよき賜物を
日本のほうの官憲からみられるし、また中国のほ
与へられました。…この民族が最後に基督の十字
うからも、この日本人はキリスト教にかこつけ
架の贖に与ることにより全世界に向つて働きかけ
て、われわれの思想をさぐりに来たに違いないと
る時、最も良き貢献をなさしめらるゝのでありま
みられる。つまり私は板ばさみになったわけで
す。神はわが大和民族に非常なる期待をかけてい
(112)
。
す」
(111)
らるゝと思ふのであります」 。
ここで言う「スパイ」とは、どこに軸足をおい
こうして1935年11月13日、福井二郎・敏子は承
ての発言だろうか。召命体験において啓示された
徳に到着し、12月15日には開教式を行った。出席
神の言葉、「なんじ、親愛なる隣邦の友に、汝の
者は、信徒の郭朝慎(師範学校教諭)
、求道者の
主なる、イエス ・ キリストを彼の国語をもって書
程育民(承徳師範付属小学校教師)
、劉邁倫(県
き著わし、かの国をして、イエス ・ キリストによ
公署勤務)ほか、家主など5名の中国人と、来賓
る真の救いにあずからしめよ」からすれば、
「ス
として憲兵隊員、警察の特務関係者などが12名、
パイ」と「親愛なる隣邦の友」は形容矛盾であろ
計17名であった。この顔ぶれと肩書きに、熱河伝
う。いずれにせよ福井の伝道が、
「その最初から
道の現地人脈の特徴の一つが早や現れている。
熱河省政府関係の官吏、公吏に多くの求道者が出
翌36年9月より承徳での監獄伝道が始まる。そ
て、いわゆる“ホワイト・カラー”の伝道となっ
のきっかけは、求道者の劉が憲兵隊に拘束され、
たことは、それまで熱河省内で伝道してきた弟兄
─42─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
会の宣教が、ほとんど農民や商人にのみ限られて
マ
マ
(113)
シャ語を、6月に入った二橋が実践神学を担当し
いたことと極めて特異な対象を示している」 。
た。宣教塾には日本語の分る2、3の中国人も参
福井の伝道活動は精力的に行われた。朝は未明
加したが、大部分は日本人の研究生が主体となっ
には起きて、承徳の街から30分行ったところにあ
ていたという。ところが肝心の満州事情を学ぶ科
る「南山」という草山で祈ることから始まった。
目はない。伝道とは、遣わされる地とそこに住む
朝食後は、毎日10時半から12時半まで中国人と共
人々の苦しみを分かち合うただ中で、神の言葉を
に聖書研究会、午後は2時半から隔日に家庭集
宣べ伝える業である。中国人・蒙古人が何を求め、
会。昼の家庭集会のない隔日の夜にも、夜の家庭
何に苦しみ、何に希望を託そうとしているのか、
集会が開かれた。そして土曜日の夜は日曜学校の
現場の声は伝道者にとっては一番の関心のはずで
教師会と祈り会。日曜日は、日曜学校と大人の礼
ある。しかし彼らは中国人不在のまま、神学論議
拝が日本人と満人向けにそれぞれ1回ずつ計4回
に明け暮れているかのようである。以下の言葉は
もたれ、開教1年を待たずして6~70名の人々が
そのような雰囲気をよく伝えている。
教会に出入りしていた。福井の伝道は承徳を中心
「福井の聖書に対する単純な霊的釈義と、沢崎
に興隆、囲場、赤峰へと発展していったが、その
の原語による神学的な聖書理解とはしばしば対立
原動力は「山の祈り」にあったと福井をはじめと
的な相違をもたらし、さかんな論議に夜を徹する
(114)
して熱河伝道者は口々に唱える
。
こともしばしばであった。ことに沢崎の『砂漠に
しかし福井の伝道の現場から、私たちが興隆県
立つ血の十字架』
『我れ渇く』
『荒野へ』の神秘性
の村々で古老たちから聞いた残虐な戦争被害体験
を加えた神学思想は塾生たちの共感を得て、彼の
は全く聞こえてこない。聖書研究会や家庭集会の
指す蒙古の草原に皆の目が向けられていくようで
場でも、互いに近況などを語り合い、時間になる
(117)
。
あった」
さらに、宣教塾機関誌『祈りの友』第1号には、
と老いも若きも男も女も目白押しに膝を並べ、福
井の聖書講解や会員の奨励を聞き、進んで感話を
彼らの高揚した思いと殉教精神が熱く語られる。
語 り、 讃 美 を 歌 い、 そ し て よ く 祈 っ た と い う
「おおよそ自己のなすべき使命を確認している
(115)
、戦争被害者は影も形もない。福井の興隆
者ほど幸福な者はない。そしてその使命に自己の
県への開拓伝道は1937年暮れから始まった。八路
全生涯を献げて戦い得る者は幸福である。…どん
軍の本拠地にして全くの秘境、道らしい道もな
なに小さくでも、神から与えられたこの使命に真
く、たいていは軍用トラックなどにのせてもらい
実でありたい。そして一粒の麦となって、主の聖
が
(116)
出かけたと記されている
。軍の保護下にある
旨に殉じたい」
(二橋正夫、1942年6月20日付)
、
伝道であってみれば、村人が来ないのも当然か。
「私はただイエス様に従いたい。どこまでも、い
こうして福井が始めた開拓伝道地へ、41年より
つまでも、たとえペテロの悔いはあろうとも、振
福井を慕って熱河入りしてきた後続10名の牧師・
り返えりたもうイエス様の、いかにも厳しく、し
信徒たちが遣わされて行った。大陸伝道に対する
かもあわれみに充ちたその目差しに、ただいつま
準備の乏しかった彼らのために、42年6月中旬に
でも、どこまでも従って行きたい。野の末、山の
は「熱河宣教塾」も開設された(資金提供の一部
端までも、師を捨て、妻子を捨て、たとえ支那語
は外務省から)。早朝の祈りに続いて午前中には、
や宣教塾や満州の人々を捨てても」
(沢崎堅造、
福井が聖書講義と中国語を担当し、この年5月に
(118)
。
42年6月17日付)
承徳に着任したばかりの沢崎が宣教神学とギリ
─43─
一体、
「満州の人々を捨てても」イエスに従っ
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
て「野の末、山の端までも」突き進むというのは、
尊厳)の乖離という問題である。
どのような伝道の内実を伴うものなのだろうか。
しかしこれは、熱河伝道に固有の問題というよ
それは次節で改めて問うことにしよう。この間、
りも、
「伝道」それ自体がもっている問題と言え
1941年7月中旬に、福井は入熱以来5年8ヵ月目
なくもない。私の研究課題の一つであるハンセン
にして初めて帰国し、熱河伝道の報告を北海道か
病とキリスト教との関わりにおいても、同様の問
ら九州まで全国で70日間行なった。福井の熱河に
題性を指摘できるからである(121)。近代日本のキ
おける宣教姿勢、すなわち「徹底したただ聖言に
リスト教「救癩」活動は、ハンセン病患者救済へ
のみ生きている姿」は、内地のキリスト者に深い
の並々ならぬ情熱をもって始められた。しかし同
感動と羨望を与えた。それを次のように伝えてい
時にそれは、
「隔離」を前提に行われたものであっ
る。
た。療養所伝道によって伝えられた福音は、端的
「彼は一日本人として満州国の奥地に住み、現
に療養所での隔離生活を生き抜くために、十字架
地にある日系軍官民や、国策会社の社員、憲兵や
のイエスを仰ぎ、不満や怒りを静め、さらに皇恩
特高の横暴な施策や蛮行について、またそれに対
に感謝して生きるようにとの勧めであった。信仰
する現地の人々の反感や苦痛については、よく
者は社会的変革などを求めるのではなく、どんな
知っているにもかかわらずなに一つ語ろうとしな
に屈辱的な政策であれ、社会の偏見差別であれ、
かった。彼の語ることは聖書の言葉であり、教会
信仰を鍛える試練として受け入れなければならな
の生活であった。国と国とが、民と民とが憎み合
かった。こうして療養所で説かれた「苦難の受容」
い、血を流し合っている現実の中での社会や民族
は、結果として「隔離の受容」を入所者たちに促
の苦悩や哀泣は、彼にとって次元の異なる世界の
していくことになる。人間の尊厳が踏みにじられ
出来事のようであった。一方軍の統制下にあって
ていることを、宗教的言説が覆い隠すのである。
重苦しい生活を強いられている、日本の基督者た
このような「伝道」の果実として、苦難に打ち勝
ちは福井の徹底したただ聖言にのみ生きている姿
つことこそ真の信仰であるとの確信に満ちたクリ
(119)
。
は感激であり、うらやましくもあった」
スチャンが生まれる。1998年にハンセン病元患者
ここに熱河伝道の性格がいみじくも現れていよ
らが提訴したハンセン病国家賠償訴訟において、
う。すなわち、伝道に福井も後述する砂山貞夫も、
原告に加わらなかった在園のキリスト者から以下
本人の意識としては非政治的宣教活動を自認して
のような発言が聞かれた。
「宗教の役割はこの世
いるが(120)、彼らが伝道に出かけた監獄には、日
を突き抜けたところにある」
、
「宗教者は社会変革
満軍・憲兵・警察などに捕まった無数の中国人が
など求めないのだ」と。
おり、また砂山が医療伝道に出かけた村々には、
しかし聖書に証言されているイエスは、人間性
無人区・三光作戦の犠牲者であった農民がいた。
を疎外する政治的権力や宗教的権威に対しては激
彼らが祈りと伝道に明け暮れしていたのは、まさ
しい現実批判の振る舞いに出た。人間の尊厳を奪
にそのような時期であった。それを「次元の異な
いつくして、差別や偏見を甘受させるような宗教
る世界の出来事」と捨象し、
「ただ聖言にのみ生
的言説には真っ向から対立した。イエスは、時代
きる」道を説いたところに、熱河伝道とりわけ福
や社会に対する批判的精神をもちつつ、病む者・
井の伝道の特徴が現われている。
「聖言にのみ生
力なき者と同じ地面に跣足で立ち、解放の主体へ
きる信仰」と「血を流し合っている現実」とが接
と彼らを促したのである。伝道は諸刃の剣、人々
点を結ばない。言い換えれば信仰と人権(人間の
を「救済の客体」に閉じ込める方向性と「解放の
─44─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
4
4
4
主体」へ促す方向性、この二面性を合わせ持つ。
即ち権威を持つことと同時に、他面奉仕性とも云
歴史的状況を捨象して前者の道を突き進むとき、
はるべきものを持つてゐなければならないのであ
時として伝道それ自体が「犯罪性」を帯びること
(122)
。
る」
沢崎は、軍事的・政治的かつ文化的に優位な国
になる。国賠訴訟の原告団長であったハンセン病
回復者島比呂志は言った。
「傍観は黙認であり、
家がアジアを指導するのは当然であるとして、日
黙認は支持であり加担である」と。熱河伝道者た
本は東亜の中でも最も優れた中心性・指導性を備
ちはこの言葉をどう聞くであろうか。
えた国であるが、同時にその中心性には奉仕性も
求められると述べている。ここに、東亜の盟主た
2.沢崎堅造の宣教理解と「渡満」目的
る日本の立つべきキリスト教的基礎付けがなされ
る。さらに沢崎は、東亜の主体性を執るべき日本
沢崎堅造(1907-1945 ?)は、福井二郎と並ん
は「明確なる指導原理を持たねばならない」と言
で熱河伝道の精神的支柱として多くの日本人キリ
い、それは第一に「日本的精神」であると言明し
スト者から慕われている人物である。彼は京都大
た上で、驚くべき付会を行う。「東亜が、世界に
学経済学部助手の任にあった1940年9月、同大学
おける東亜となつた時、即ち世界の重荷を自らの
支那慣行調査会から中国視察に派遣され、その機
肩に負ふに到つた時、真の世界が開けるのであ
会に承徳で伝道していた福井を訪ね、福井の中国
る。それがためには、まだ東亜は摂取し参照しな
人伝道の敬虔な姿勢に心打たれた。以来福井に
ければならない部分がある。それは即ち上来種々
倣って京都北白川の瓜生山での「山の祈り」を続
述べ来つたところの西亜文化圏 とその精神 であ
ける中で熱河伝道への召命を確信し、1942年5月
(123)
。つまり、
る。即ち広義のヘブライズムである」
に福井の待つ承徳に渡った。ちょうどこの時期に
ヘブライズム(具体的には猶太教・回教・基督教)
最初の著作『東亜政策と支那宗教問題』が出版さ
が特殊性と世界性を併せ持つように、日本的精神
れるが、その中で東亜政策論と宣教論に関して注
の特殊性にも世界性を加味すべきであるというの
目すべき記述がある。沢崎は「ヘブライズムによ
である。
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
4
る東亜政策」と題して、
「東亜の主体性」の重要
4
4
そして国体について言及する。
「日本の大いな
4
4
4
4
4
4
4
4
る家または開かれたる家としての国体は、本来人
性を以下のように説く。
4
4
4
4
4
4
4
「東亜の主体性は、まづ東亜の中心性を持つて
(124)
であり、
「元来大いなる
間の在るべき真の姿」
ゐなければならぬ。
(中略)かゝる中心性を持つ
家は人類の根源的原型なのであるから、確に世界
国は、印度であるか、支那であるか、日本である
的な筈である。…日本精神とヘブライズムとは、
か。それはまづ軍事的・政治的且つ文化的に見て、
(125)
と。要する
その根本に於て共通なものがある」
少なくとも現在のところ印度や支那ではない。日
に、日本が真に東亜の主体性を自覚して、大いな
本であると思ふ。それは即ち、中心性と云ふもの
る家の精神をもって東亜にまた世界に政策を行う
4
4
4
4
の本質が、指導性と云ふものを一面に於て持って
ために、ヘブライズムの世界性を国体に接木し、
ゐなければならないからである。少くとも現在の
完成された国体をもって世界に開かれた人類全体
ところ軍事力並に政治力に於ては日本は東亜に於
に奉仕すべきであると言うのである。
て最も秀れてゐる。指導性を持つてゐると云はな
キリスト教と国体思想の合体、これが沢崎の東
ければならぬ。併し次に注意しなければならない
亜政策の結論であり、これこそまさしく「日本基
4
4
4
4
4
4
のは、中心性と云うものは右の指導性を持つこと
督教」の中身そのものである。このような宣教理
─45─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
解をもって沢崎は熱河伝道に赴いたのである。渡
教の愛をもって仕えつつ、福音を伝えることでい
満1年後の沢崎の手紙の中にも、
「最近日本の教
くらかでも償いたいということである。これは、
会では、日本基督教神学又は日本教学の樹立とい
当時の日本人キリスト者の使命として自覚され
うことが大きな問題になっていると思います。ど
た、
「東亜永遠の平和を祈り、国体の本義に徹す
うか真の根の生えた立派なものができますことを
る日本基督教を樹立する」というものと変らな
希います。私としては、日本基督教神学が海外伝
い。
道、異邦異教伝道を充分に含んで欲しいもので
既述したように、沢崎は伝道とは「じっとその
す」という言葉が見出される。同じ手紙の中で、
中に住む」ことと言いつつ、それに反してわずか
沢崎は自らの伝道論の一端も披瀝している。
「わ
3年の間に承徳・赤峰・林西・大板上と北上して
4
4
たしは、伝道とは証しであると思っています。言
いったのも、上記の渡満目的から十分うなずける
葉をもってすることでも、行為をもってすること
のである。しかも、沢崎の満州での生活費は東亜
でも、事務の研修でもないと思います。言わば
伝道会から支給されていたのではない。入熱直
『じっとその中に住む』ということです。…ただ
前、沢崎は大学の東亜問題研究のために発足した
(126)
これらの人々の中に在るだけです」 と述べてい
人文科学研究所に属していたが、渡満にあたって
る。
指導教授が生活のことを心配し、人文科学研究所
それでは、現実に満州・蒙古で展開した沢崎の
の嘱託として1年間、現地研究という名目を与え
伝道がどのようなものであったか、次に妻良子の
て研究費を支給したという。良子の証言によれ
記述から見てみよう。まず、沢崎の学問的関心と
ば、「私達は満州にいる間、ずっとこの研究費に
彼の熱河伝道の目的とが見事に直結している点に
支えられ、また一年を二年にのばして頂いた」と
注目したい。良子は、沢崎の学問的関心について
のことである。沢崎も「戦時中、キリスト教宣教
次のように記している。
「キリスト教による人間
者と名のって奥地に入りにくい場合、こうした資
観、社会観、国家観を学ぶに従って、唯物論の限
格が必ず役だつことを思ってお受けした」とあ
界を知るとともに、日本を害するものは、唯物主
る。さらに加えて、
「大連の満鉄調査局嘱託とい
義だと信ずるにいたった。これに対決するには、
(129)
う肩書きを石川先生から半強制的に与えられた」
(127)
と。
十字架の道をすすまねばならない」
とも良子は記している。
沢崎の中で、反唯物主義と熱河伝道とは合致し
このあたりの事情については、沢崎から福井に
た。
「唯物思想の危険にさらされている国、その
宛てた手紙に詳しく説明されている。「
(大学の)
思想は蒙古、満州をとおって日本に入ってくる。
嘱託は本俸と同額を支給されました。なお満鉄の
自分はそれに逆らってその道を上って行かねばな
嘱託(二年)の手続きも取られました。これは私
(128)
らぬ。それはおそらく死の道であろう」 。同時
の知らぬ間に進められたことですが、私は後に承
に、40年に中国視察をした際に日本の侵略政策を
諾しました。これは全くの無報酬です。両嘱託共
つぶさに見た沢崎は、同胞が犯しつつある罪の償
将来に対して特別の義務は無き由なるも、私とし
いとして、中国の人々に福音を宣べ伝えようと
ては必ずや精神的義務は残るものと覚悟していま
願ったという。つまり沢崎の満蒙伝道の目的は二
(130)
。
す」
つある。一つは、祖国の救いを考え唯物思想の侵
沢崎が満鉄調査局嘱託という立場にあったこと
入を阻止せんがために満蒙伝道へ赴くというこ
を熱河関係者はほとんど問題視しないが、これは
と、もう一つは、日本の侵略政策の罪をキリスト
重要な見落としと思われる。満鉄調査局は多様な
─46─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
機能を有しているが、1928年関東軍作戦主任参謀
はみちたりていた。…信仰にあってすべてから自
として満蒙の地へ赴任した石原莞爾が提起した満
由、自分自身からも自由であった。その自由を
蒙領有計画立案に満鉄調査課は深く関わってい
(133)
と描く。
もって隣人への愛の極みを生きた」
る。
「三一年一月以降毎土曜日関東軍参謀全員と
しかし、むしろ良子は沢崎の生活を次のように
満鉄調査課員有志による満蒙占領地統治研究のた
回顧している。「赤峰教会には英人の残していか
めの会議が開催され…六月にはほぼその大枠を整
れた図書もあって大変喜んでいた。…主人もなる
(131)
とされる。そのような部局へ伝道一
えていた」
べく霊修や勉強のときがもちたく、承徳教会にお
筋の人間が嘱託でも入るだろうか。沢崎の学問的
いてと同様、赤峰においても教会のために、伝道
関心がそれを承諾させたのではないか。沢崎の末
のために、何もすることができなかった。山の祈
路とも関連するが、大板上で沢崎にスパイ容疑が
りと聖書の勉強、研究、また毎晩もたれる教会の
かかり退去命令が出されたときも、満鉄調査局が
集会に出て、ときにはお話をするというだけで
らみのことであった。きっかけは、大連の満鉄調
(134)
。加えてこの地で「蒙古伝道記」の原
あった」
査局の職員で沢崎と京都大学同期の人々の間に地
稿を書いていたことが前述の山本宛の手紙から分
下運動が起こり検挙されるという事件があって、
る。林西教会でも基本的には同じ生活で、大分あ
沢崎が皮肉にもその一味の共産党員と見られたこ
とになってから聖日の伝道説教を奉仕するように
とによる。
なったという。林西では「熱河烏丹に於けるカト
そのような挙動不審を疑われてもしかたない満
リック村」という論文を『東亜人文学報』に送り、
蒙各地での沢崎の行動であった。良子の筆によれ
「熱河に於けるキリスト教」などをまとめ始めて
ば、
「みんなが生産に忙しい時代に、あなたのよ
いた。前者の論文については、備考欄に「烏丹協
うにこの国境地帯にぶらぶらしていると、いつス
和会事務長児玉重雄氏の昭和十八年五月に於ける
パイの誘惑にかかるかもしれない」と大板上のT
調査書によるところ多し」とあり、彼の調査・研
参事官に咎められ、
「旗公署や協和会にいって蒙
究と協和会つながりの密なることを示している。
古人のことを頭において何気なく質問する…日本
44年5月、沢崎はこの林西で次男新を失うが、息
人の群れをはなれてただひとり蒙古人、満人の中
子を葬るや11ヶ月留まった林西をあとにして「ひ
にいるということもいい感じをもたれなかった。
じょうに危険な場所、日本人の圧政に対する蒙古
その前年にも林西で、…他に仕事もなくて勉強し
人の恨みは深く、何年か前も日本人が蒙古人暴徒
ている主人の行動を、ひどく怪しんだのが林西の
に皆殺しにされた所」大板上に行く。
Y参事官であった」など、周囲が疑って当然の沢
せきたてられるように出かけた大板上で、どの
(132)
ような伝道をしたのか。やはり「主人は相変わら
いわゆる伝道者の日常とは明らかに異なる。
ず山や川に祈りにいった。午前中は必ず聖書の勉
崎の行動なのである
。福井や次節の砂山らの
沢崎を送り出した北白川教会牧師奥田成孝は、
強をし、午後は自分の勉強をした。夜は小説をよ
沢崎を「貧しい人々の中にあって、貧しいものを
むのが常であった。午後の研究は『蒙古伝道と蒙
ともに食べては心楽しかった。当時、日本人がう
(135)
と良子
古語聖書』
『熱河伝道の基督教』など」
けられた特配もうけず、貧しい蒙古人と同じ生活
は伝える。興味深いことに、後者の論文について
をした。水の乏しい蒙古地帯で洗う水もない生活
共助会メンバーの堀合道三宛てに「『熱河におけ
の中で、梅毒で鼻のおちた蒙古人の飲んだ茶碗
る基督教』というものを、やや大部になりました
を、そのままうけて、みずからも飲んで、彼の心
が書きました。満鉄へ一寸出した外、どこにもお
─47─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
(136)
目にかけていません」
と手紙を出している。な
「まったくはじめておしめ
うやく生活を省みる。
ぜ共助ではなく満鉄なのか。大板上でも一向に伝
を二、三日洗ってくれた。しかし用事がすむとま
道している様子は見えない。現地の人々の顔が見
たさっさと山にいった。冷淡に思われたが、しか
えない。顔が見える時といえば、たとえば大板上
し十字架のキリストを仰ぎ、いかにして蒙古にす
の協和会で働く23歳の阿其図に蒙古人のことやこ
すむべきかを祈り求める大切なときであった。午
の地方の事情などを聞きに行くといった場合のみ
(138)
と、自らを納得
後はやはり聖書の勉強をした」
である。阿其図はこの地方きっての文化人であり
させる妻の言葉が記されている。慣れない土地
日本語が日本人と変らぬほど上手で、また父親は
で、妻は生活の基盤を築きつつ、家事・出産・育
かつて蒙古軍の将校をしていてその地方の事情に
児に明け暮れる中、夫は一人好きなだけ祈り、
「伝
明るかったという。沢崎が付き合っているのはそ
道」にまい進し、子どもを病で失って死に目に会
ういう人々である。
えなくても「蒙古伝道の尊き犠牲として召されし
沢崎の動きを見ていると、人よりも場所、土地
への執着がひときわ目立つ。逆に「隣人への愛の
4
4
4
4
4
ことを感謝します」と満語で祈る。しかも、夫婦
でそれを良しとする伝道観を共有している。
極み」といった牧会の業は皆無に近い。こうした
沢崎の活動を「伝道」の中に位置づけることが適
3.興隆の伝道─砂山節子の話
切かどうか。隣国にたいする同胞の罪をいくらか
でも償いたいというもう一つの願いも、彼の日常
次に、1941年から53年までの12年間に及ぶ、砂
に具体化された様子は読み取れない。彼はひたす
山貞夫・節子の興隆教会を中心にした足跡をたど
ら祈り、勉強し、執筆している。関係者によって
りたい。本節は、主として『熱河宣教の記録』に
沢崎について語られるときは、常に伝道・霊修が
収録された節子の文章からまとめた。ある意味で
全面に押し出され調査・研究は後景に退いている
女性の目で見た熱河伝道とも言える。1941年、砂
が、渡満の主目的は後者であったことは歴然とし
山貞夫はホーリネス教会のリバイバル・リーグの
ている。むしろ異邦・異教伝道こそキリスト教本
特別宣教の集まりの中で世界宣教という同じ志を
来のあり方と信じた一人のキリスト者が、日本基
持った牧師たちと一緒に、満州に現地視察に出か
督教に基づく唯物主義との対決を秘め、殉教をも
ける。そして承徳で福井と共に祈りの山に行き、
辞さずに満蒙地域の調査・研究を行っていたとい
そこで満州伝道の召命を受ける。
うのが実像ではないだろうか。沢崎の語る「日本
「承徳の祈りの山で、神様の前に祈っていたと
基督教」「八紘為宇」、赤化防止の宣教意図を批判
きに、マタイ伝の十六章のお言葉『人もし我に従
的に検証しないままに、「主の渇きにうながされ、
い来らんと思わば、己をすて、己が十字架を負い
主のまなざしに導かれ、十字架を負い、いな十字
て、我に従え』というお言葉に自分の心はとらえ
架に負われて、寂しき者の友となり、主と共に生
られた。そしてあの満州人の朝から晩まで、とく
(137)
き死にする─これが沢崎さんの歩みであった」
にあの老百姓(現地人)の人たちが、本当に田畑
と総括するのは一面的にすぎよう。
の中に、少しの福音も聞かずに、永遠にほろんで
にな
ラオパイシン
そして沢崎は、家父長制の極みを生きる伝道者
いくということを考えたときに、たまらない気持
の典型でもあった。「奉仕性」は机上の論理であ
がした。どうしても満州伝道にたてという光を心
る。妻の病気にも気づかず、もっぱら祈りと研究
(139)
。
にいただいた」
に専念している。妻が倒れ、他人に指摘されてよ
─48─
砂山が熱河伝道の対象としてその視野に捉えた
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
のは、満州の農民であった。砂山夫妻は1941年9
た。朝から夕べまで田畑に土にまみれて、しかも
月沼津を出発し、42年3月まで承徳の福井のもと
関東軍と八路軍の戦争のはざまに苦しみながら、
に滞在し、42年4月興隆へと入った。当時の興隆
少しの福音も知らずに亡びてゆく多くの魂を思う
の様子を節子は以下のように記す。
とき、止むに止まれぬ気持になるのでした。砂山
「熱河の各地が、そうであるように、興隆も不
は毎朝、会堂脇の小さな祈祷室に約一時間近く入
安な噂でみちておりました。教会堂は、商家の店
りこみまして、満語でもって真剣に祈っておりま
を借り受けたもので、場所は中心地で、良い所で
した。
…そして遂に医療伝道に導かれたのでした。
したが、会堂とは名ばかりで、すべてこれからで
…きびしい戦時下の耐乏生活、貧乏、無理な政策
した。けれどもそこには、すでに福音の種はまか
からくる圧迫、底にひそむ反撥、恨み、伝染病の
れて盧儀卿、劉芸田、姚振興の三執事を始め、そ
発生、そうしたなかに福音をもって行くには、た
の御家族、その他に二、三人約十人足らずの兄姉
んなる言葉だけでは駄目で、主イエスの心を心と
が居られ、喜んで私共を迎えてくださいました。
する愛の業を必要とする。あの人々を主の愛のも
この三人の執事が中心となって興隆教会の前進が
とにお導きしたいというのが、砂山の切なる願い
ルーイーチン
リューユイデン ヤオジェンシン
(140)
(142)
。
だったと存じます」
始められました」 。
劉芸田は公医、姚振興は小学校教員、盧儀卿は
砂山も節子も、
「関東軍と八路軍の戦争のはざ
近くの大地主で小学校長をしているという名の知
まに苦しむ」農民たちの現実を見ている。それを
られた名士たちであった。砂山による伝道開始か
少しでも和らげようと困窮する農村部への医療伝
ら1~2年のうちに、約15名の受洗者が与えられ
道を1943年春から実施した。劉執事(公医)と李
たが、その最初の実りは姚振興執事の弟姚振閣
(漢医)の協力を得て、砂山は医学の知識を学び、
で、彼も小学校の教師だったがアヘン中毒者でも
薬品その他の準備に奔走した。43年11月には内地
あった。彼の入信が一つの導火線となって、妻、
にも帰国した。薬品や医療器具を買い求め、献金
友人、親戚などが信者に増し加えられていった。
を集めるためである。医療伝道地として最初に選
しかし1943年9月、長男正がひどい下痢の末に
ばれたのは盧儀卿の郷里の紅梅子村(興隆から10
召天。この体験を節子は悲しみのなかにあっても
キロ離れた霧霊山の麓にある「紅梅寺」のこと)
宣教論的に意味づけた。
「興隆教会の最初の一粒
で、それ以来毎週、教会に兄弟姉妹が集って、県
の麦として、わが子が召されようとは。…皆で輪
の各村に向かって伝道用の幻灯機やトラクトも持
になって正の遺骸を興隆の河原で賛美のなかに火
参して医療伝道が行なわれたという。しかし砂山
葬にふしましたときは、涙が溢れてたまりません
が医療伝道で回っていた村々と、興隆県での「無
でした。そして一層、私達を救霊の道へとむち
人区」の被害調査を行った仁木がまとめた「興隆
(141)
(143)
で出てくる集家・無人区・
県無人区関係年表」
打ってくれました」 。
興隆教会の構成メンバーと医療伝道について
は、以下のように記されている。
焼き討ち・虐殺などの状況とが、一切接点をもっ
て書かれていない。戦後の回想録であるにも関わ
「村の学校、医院、県公署、興農合作社、協和
らず、節子はその点については沈黙している。
会、郵便局等いわゆる興隆の知識階級といわれる
しかし節子は、八路軍に「通匪」したという嫌
人々のなかに、信仰を求めて求道する人も増加
疑で捕らえられた女性への関わりについて以下の
し、礼拝出席の人数は次第にふえつつありました
ように報告している。
が、大きな課題は何としても農村への伝道でし
─49─
「戦争の悪化とともに、村の警察の留置場は、
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
いつも通匪等の名目でとらわれた人々で溢れてい
を得て、その後約1年間興隆に滞在し、礼拝等は
たようでした。そこで、警察の諒解を得て、その
出来ないが医療活動は継続した。節子もにわか看
所にも入って行きました。厳寒の冬こんなことも
護婦として働いた。八路軍と国民軍の内戦が始ま
ありました。留置場に病人を見舞った砂山が、満
り、再三砂山にも八路軍から招聘が来るが、砂山
服の中にまっ裸でふるえている赤ん坊をつれて
は「自分は一日本人の伝道者である。八路軍とか
帰ってきました。通匪だといって捕えられた女の
国民軍とか、そういうことにはいっさい関係した
人が赤ん坊をかかえて非常に困っていた。あの零
くない」と断り続け、
「個人的な医療方面のこと
下何十度という寒い火の気のない留置場で、この
は、できるだけお手伝い」するというスタンスを
子を一晩おいたら死んでしまう、ひとつなんとか
とっていた。しかし1946年9月15日、八路軍の公
見てやってくれという。それで、その母親が釈放
安局からの正式の命令となり、砂山は家族を残し
(144)
。
されるまで、お世話をしたことがあります」
て家を出て行き、ついに帰らぬ人となる(146)。こ
これは現地女性との接触を物語る貴重なエピ
4
4
のとき砂山は38歳であった。
4
ソードである。「通匪等の名目でとらわれた人々」
4
4
4
4
4
国民党軍と八路軍が入れ替わり立ち代り興隆の
や「通匪だといって捕えられた女の人」という表
街に入ってきて、
「村は老人と女子供だけが残さ
現には、節子の共感的な感情が読み取れる。節子
れた感じ」で、
「しみじみと内戦の悲惨を現地の
は夫から託されたその裸の赤子に服を着せ、お湯
人々とともに味わ」う節子は、子ども等を体に括
に入れ、自ら授乳さえしている。母子を案じる節
り付けて、村の女性たちと一緒にミシンかけ、糸
子の気持に偽りはない。しかしこのエピソードに
つむぎ、靴下作り等で食いつないでいく。「一粒
「夫の医療伝道は、その捕らわれた人々
は同時に、
のとうもろこしも、真冬に一かけらの石炭もな
の中にも行われていた。当局の諒解を得て、週に
い」ことがめずらしくなかったというが、それで
(145)
何回か、必要に応じて行っていた」 との言葉も
も見知らぬお百姓さんが収穫物を届けてくれたり
綴られている。彼の監獄・医療伝道は、軍・警察
石炭をとどけてくれたりして、ようやく生き延び
4
4
側からすれば宣撫工作を期待したうえでの諒解事
る日々の中、ついに1948年3月16日、次女治代
項であったことは明らかである。国策奉仕、
「伝
(5歳)が召天。
「前のお百姓さんに手伝ってもら
道報国」とはこのことである。こうして医療伝道
い、あの河原にシャベルで土を掘って埋めまし
が軌道に乗り教会の土台も固まってきた頃、1945
た」というのは、張宏波の聴き取り証言と一致し
年5月30日、砂山に召集令状が来る。砂山は承徳
ている。その頃の興隆について、また自身の身の
から茂山の日本部隊に配属された。茂山はかつて
上について節子は次のように記している。
医療伝道した地であったので、村人から診療を求
「その頃の興隆は、ほんとうにたいへんでし
められ、部隊長からも部隊でその仕事をするよう
た。土地の人自身が両軍のはざまに入って苦しん
にと命令され、興隆に薬品を取りに来たことも
でいるときですから、敗戦国の日本人の婦人であ
あったという。これは医療伝道が軍の利益に反し
る私が苦労するのはあたりまえのことです。教会
ないことをも物語っている。
の兄弟姉妹もおもだった人々は八路軍に、或は国
4
4
4
承徳で終戦を迎えた砂山は、9月17日承徳教会
民軍の後にちりぢりとなりました。しかし、残さ
員の手引きで興隆へ密行し無事に節子らと再会す
れたわずかの人々や、また村の人達は、私達には
る。帰宅後まもなく9月25日、節子は三女忍を出
いつも親切で何くれとなく助けて下さいました
産している。砂山一家は八路軍の県政府から了解
が、そのうちにだんだん私の視力が衰えまして、
─50─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
どうにもこうにも働くことができなくなりまし
(147)
在していた家をみなこのように無理に一つの城壁
(149)
。和田はホロコース
の中に詰めこんだのです」
た」 。
1952年3月、視力の衰えた節子は県政府に相談
トの現実をこの程度にしか見てはいなかった。福
して承徳の省立病院で手術(白内障と紅彩炎の合
音宣伝のために死地を探すキリストの精兵たち
併症)、5ヶ月間治療したが手遅れで視力はもど
に、現地住民の限界状況のいのちの営みなど目に
らず失明した。省政府の了解のもと、承徳の幹部
入らなかったのだろう。
招待所で9ヶ月滞在後、53年4月砂山母子は帰国
熱河伝道者たちの言説に触れる時、同じように
した。熱河伝道グループは、1948年までにはほと
満州で敗戦を迎え、塗炭の苦しみを経験した満州
んどの人が帰国しており、本人が望んだこととは
基督教開拓村の帰国者たちとの決定的な違いに気
いえ節子一人取り残され、しかも失明している。
づく。それは元開拓村の人々の言説には罪責の言
そのような中で節子が一貫して記しているのは、
葉があるということである(150)。開拓民は現地の
興隆教会員、県長、副県長、そして見知らぬ村人
人々と生々しくぶつかっていた。土地を取り上げ
たちの好意である。東亜伝道会とその人脈からは
て入植し、家を奪い、挙句の果てにその土地で現
経済的・精神的に何の援助もないばかりか、交流
地住民に働いてもらわなければ自分たちが生き延
の痕跡もない。
びられないという屈折した加害体験をもってい
る。しかし熱河伝道者たちは略奪とは無縁で、む
4.むすびにかえて
しろ啓蒙的に教えをたれ医療活動を行い、良いこ
とをして喜ばれたというささやかな自負に戦後も
「砂山節子の話」は、逆境にもめげずひたすら
支えられている。
信仰に生きた一人の女性キリスト者が見た熱河伝
さらに開拓民は、加害者であると同時に国策
道の実際である。しかしそれはきわめて非政治的
(とそれに追従した日本基督教団の宣教政策)の
4
4
4
4
捉え方で、信仰者の心の救いに終始し、人間の解
被害者でもあったという自覚を持っている。彼ら
放や尊厳を求める闘いからは遠いものであった。
は真実を伝えられることなく入植し、国とキリス
節子は、戦後興隆教会の柱石であった劉芸田医師
ト教指導者に騙されたという意識をもっている。
が人民裁判にかけられ銃殺されたことも、盧儀卿
その結果としての被害体験(シベリア抑留・強制
が共産軍に狙われ逃走したことも、自分たちの伝
労働、略奪、凌辱、病死)に憤りを覚えつつも、
道がもたらした結果とは捉えていない(148)。信仰
戦後誰にもそのことを語らなかったし、語れな
による責任主体の確立は、当時も今も日本のキリ
かった。熱河伝道者たちにも開拓民同様に、敗戦
スト者の課題である。
後の混乱、抑留、引き上げ時の被害体験があった。
ちなみに、
「集家・人圏」とおぼしき描写は、
『熱
しかし彼らはそれらを信仰によって乗り越えるべ
河宣教の記録』の中にわずかに一箇所見出され
く、むしろ逆境こそ信仰の訓練の場、あるいはキ
る。1945年5月28日、和田正が福井に同行して興
リストに従う道と心得、試練として受容して被害
隆近郊を旅している場面である。
「小さな部落で
とはしなかった。
4
4
4
4
とりわけ女性たちは、自らの子どもを失うとい
一休みし、からだを拭い、顔を洗い、昼食のご馳
走になりました。銃眼をところどころこしらえた
う喪失感を宣教的意義付けをもって胸に収めた。
粗末な城壁の中にごたごた家が立ち並んでいる。
節子と同様に、沢崎良子も次男新を死なせたと
八路軍の出没する危険な地方なので、そこらに散
き、「この子は神様によって蒙古伝道初の捧げ物
─51─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
(151)
として召されたのだ」
と受けとめ、心に平安が
に関しては、
「満州帝国協和会」熱河省聯
与えられたと言い、再び帰国船中で長女香を病死
合協議会は「高度国防国家の建設に必要な
させたとき、「父と共に、蒙古伝道のために負っ
る労工の供出に絶大なる貢献を果たしつつ
た苦しみをよみし、み国の喜びに入れて下さい。
ある熱河の重要問題であ」るとしている
小さい生涯をもこのようなものとして、用い給い
(杉山三郎「熱河省聯の反省」
、満州帝国協
(152)
しことを感謝します」 と祈っている。熱河伝道
和会『協和運動』第4巻第9号、康徳9(1942)
に同行した子ども1名と大陸で誕生した8名の計
年9月、58頁)。
9名の子どもがいのちを落としている。この事実
(6)
「宣教」と「伝道」という表現は、前者は
は「熱河伝道礼賛」とどのように結びつくのか。
組織的かつ大規模、後者は個別的とのイ
これを「小さな殉教死」と捉えていいのだろうか。
メージで用いられるが、厳密な区分はな
「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪く
い。熱河のそれにおいても、当事者や関係
ても励みなさい」
(テモテへの手紙二4章2節)
。
者は互換的に使っている。本稿でも、固有
熱河伝道者は文字通りこの命令に従って、いのち
名詞として「熱河宣教」と表記すべき箇所
がけで伝道した。悪いのは「折」であって自分た
ちではない。そこに見えるのは「折」と切り離さ
以外は「熱河伝道」と表記した。
(7)武藤富男『私と満州国』文藝春秋、
1989年、
れた「伝道至上主義」である。自らが行った伝道
が歴史的にどのような文脈にあり、どう機能して
12-13頁。
(8)飯沼二郎編『熱河宣教の記録』未来社、
いたのか。そのことを半世紀経てもなお神の前に
自己相対化できない信仰とは何か。戦後和解につ
1965年、3頁。
(9)熱河会編『荒野をゆく 熱河・蒙古宣教史』
ながるキリスト教界の「悔い改め」は、いのちの
尊厳に立脚した自己相対化の作業を地道に続ける
未来社、1967年、9頁。
(10)日本基督教団宣教研究所教団史料編纂室編
ことからしか出発しないであろう。
『日本基督教団史資料集 第1巻、第1篇、
日本基督教団の成立過程(1930~1941年)』
註
日本基督教団出版局、1997年、103頁。
(1)傀儡国家であったという歴史的性格を踏ま
(11)小川武満「中国伝道の課題と展望─熱河宣
えて、「満州国」とカッコ付きで表記する
教の視点から」信州夏期宣教講座編『中
のが一般的であるが、以下では紙数の制約
国・韓国・日本の教会』いのちのことば社、
から、基本的にカッコを外して表記する。
1997年。
(2)満州国史編纂刊行会編『満州国史 各論』
(12)山室信一『日露戦争の世紀』岩波書店、
2005年、137-145頁。
謙光社、1973年、326頁。
(3)「牛圏」(=牛小屋)「豚圏」
(=豚小屋)と
(13)日本のアジアに対する文明化の使命の変遷
いう表現があり、それと同じ非人間的で劣
については、山室信一『思想課題としての
悪な「部落」に収容されたことを表現する
アジア 基軸・連鎖・投企』
(岩波書店、
ために使われるようになった言葉である。
2002年、279-312頁)を参照。
(4)興隆県誌編纂委員会編『興隆県誌』新華出
(14)ワデルは1871年に健康を害し帰国するが、
その3年後に来日、明治学院の前身である
版社、2004年、765頁。
(5)同書、1-2、767、923頁。また、強制連行
─52─
東京一致神学校と明治学院邦語神学部で教
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
Foreign Mission Department of the Church of
鞭をとった。大西・中島・辻『長老・改革
Scotland, 29th December, 1936 by Dr. H. S. D.
教会 来日宣教師事典』新教出版社、2003
Garven on his Arrival from Manchukuo. 極め
年、267-281頁。
(15)同教会はまもなく名称を the United Free
て興味深く、重要な資料であるが、今回は
Church of Scotland に変更する。本稿では、
紙幅の都合上検討を見送らざるを得ない。
スコットランドの長老教会という意味で、
(20)JACAR( ア ジ ア 歴 史 資 料 セ ン タ ー)Ref.
直訳ではない「スコットランド長老教会」
A06031003100、満州国政府公報日譯、康
で統一した。
徳5(1938)年9月分、第1341号(国立公文
書館)
。
(16)長老主義の教会制度は、presbytery(日本
語では中会と訳される)を中核としてい
(21)Austin Fulton, Through Earthquake Wind and
る。presbytery は距離的に近いいくつかの
Fire, Church and Mission in Manchuria 1867-
教会によって形成される。さらに隣接する
1950, The Saint Andrew Press, 1967, p.131-
複数の presbytery が synod を形成し、複数
137.
synod の上に general synod もしくは general
(22)C. B. M. S. Archives, London, China: Manchuria,
複数 presbytery が general synod を形成する
Report of the Position since July 1941, p.1. 場合もある。中国における中会形成の歴史
教区の数については諸説ある。
『荒野をゆ
については、拙著『中国プロテスタント史
く』は「全満を五つの教区に分割し」
(136
研究資料』(明治学院大学キリスト教研究
頁)とし、孫鵬翕は「八教区に分け本部を
所オケイジョナルペーパー11、2009年、16
長春に置いた」
(116頁)としている。ここ
-19頁)を参照されたい。
では公的な宣教師報告に従った。
assembly が置かれる。synod が置かれず、
(17)英語名 Church of Christ in China。全中国の
Box 397 E /T China 51. Manchuria Mission,
(23)Fulton, p.144.
15の教派が加わって建設された、外国人宣
(24)Manchuria Mission, p.2.
教師の指導によらない中国初の超教派中国
(25)Ibid.,p.4-5.
人 教 会。1922年 に 臨 時 総 会 が 設 置 さ れ、
(26)『 基 督 教 年 鑑 』 第16巻、1935年、82-84、
1927年11月に正式成立した。同教会の建設
は、キリスト教土着化(本色化)運動の最
97-98頁。
(27)韓晢曦『日本の満州支配と満州伝道会』日
大の成果だった。ただし超教派を謳いつつ
も、教会政治の体制は長老制を基本に据え
本基督教団出版局、1999年、39-45頁。
(28)「第二次大戦下における日本基督教団の責
ていた。
任についての告白」1967年3月26日、当時
(18)孫鵬翕「日本帝国主义在伪满怎样利用基督
の教団総会議長鈴木正久の名前で発表され
たもの。
教为其侵略政策服务(日本帝国主義はキリ
スト教を如何に侵略政策に利用したか)
」
(29)前掲『荒野をゆく』20-21頁。
『遼寧文史資料』第7輯、1983年、111頁。
(30)熱河会編『荒野をゆく』は1967年に出版さ
(19)C. B. M. S. Archives, London, China: Manchuria,
れ、
1984年に増補改訂版『荒野を往く』
(二
Box 397 E /T China 51. Notes of a Speech
made to the Convener's Committee of the
─53─
(下)福寿書房)が出された。
橋凡羊著(上)
改訂版の冒頭に「推薦のことば」を寄せた
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
島村亀鶴は、熱河伝道が日本軍に便乗した
235頁。
ものではないことを繰り返し強調し、改訂
(38)
『聯盟』第百八十六号、二頁。東亜伝道会
版発行の目的の一つが熱河伝道神話の強化
は1938年11月1日に開催された第十六回日
であることを窺わせている。改訂版の出版
本基督教連盟総会で、連盟への加盟が正式
そのものが、日本の戦争責任が教科書問題
に認められた。
「第十六回日本基督教連盟
などを通してより広く認知されるように
総会記録」『聯盟時報』第百八十一号、昭
なった1980年代においても、熱河伝道の自
和十四年四月十五日。
己認識に全く変化がないことを示してい
(39)この時示された方針の主なものは以下の通
る。なお本稿は、初版を参照している。
りである。1、支那各地に設置する教会に
(31)同書、53-54頁。
は、必ず相当大規模の日本語学校、医療施
(32)同書、21頁。
設等の社会事業施設を併設し、いわゆる物
(33)教文館『日本キリスト教歴史大事典』1988
心両面の救済に精進すること。2、布教師
が伝道活動のため中国に渡る際は、文部省
年、919頁。
(34)1923年に設立された、プロテスタント教会
に申請書を提出し、宗教局長の推薦状を受
を緩やかに束ねる超教派組織。前年に中国
け取り、渡航後必ず現地特務機関に提示し
で成立した同様の組織である中華基督教協
て指揮を仰ぐ。布教師は支那語ができるこ
進会と、日中戦争勃発直前まで交流関係を
とを条件とする。3、布教対象は支那人で
保ち続けた。
あり、在留日本人のみを対象とするものの
渡航は許さない。
『宗教年鑑』有光社編、
(35)清水の北京における働きについては山崎朋
子『朝陽門外の虹・崇貞女学校の人々』
(岩
1939年、65頁。中国布教と特務機関との密
波書店、2003年)や李紅衛『清水安三と北
接な関係については、中濃教篤『天皇制国
京崇貞学園』
(不二出版、
2009年)に詳しい。
家と植民地伝道』
(国書刊行会、1976年)
ただしいずれも、無私的奉仕に焦点を当
に詳しい。
て、軍との関連については踏み込んだ考察
(40)JACAR( ア ジ ア 歴 史 資 料 セ ン タ ー)Ref.
A06031003100、満州国政府公報日譯、康
を加えていない。
(36)
『聯盟時報』第百八十六号、昭和十四年九
徳5(1938)年9月分、第1341号(国立公
月十五日、二頁。
文書館)
(37)中支宗教大同連盟とは、日本基督教連盟の
(41)JACAR( ア ジ ア 歴 史 資 料 セ ン タ ー)Ref.
強化案が発表される前年の1938年に、上海
A06031003600、満州国政府公報日譯、康
特務機関の肝いりで、華中、華南在住の神
徳6(1939)年2月分、第1456号(国立公
文書館)
道、仏教、キリスト教三教関係者の相互連
絡と宗教宣撫工作のために設置された組織
(42)東亜伝道会の本部がおかれた日本基督教団
である。発足時の委員8名うち、キリスト
富士見町教会には、東亜伝道会関連の会計
教側の代表は島津岬(上海日本人 YMCA
簿、会議録、書簡、メモ等が当時のまま保
主事)、中沢豊兵衛、前田彦一ら3名であっ
管されている。私たちの閲覧の申し出に快
た。本庄、内山、久保編『興亜院と戦時中
く応じてくださった富士見町教会に心より
国 調 査 』 岩 波 書 店、2002年、229、233-
感謝申し上げたい。
─54─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
(43)前掲『日本の満州支配と満州伝道会』164
(61)当時の福井は「一日本人として満州国の奥
-167頁。
地に住み、現地にある日本系軍官民や、国
(44)政友会代議士で外務参与官、海軍政務次官
策会社の社員、憲兵や特高の横暴な施策
を歴任した。日本組合教会(現日本基督教
や、蛮行について、またそれに対する現地
団)霊南坂教会員。
の人々の反感や苦痛については、よく知っ
(45)安藤肇『深き淵より』長崎キリスト者平和
ているにもかかわらずなに一つ語ろうとし
の会、1959年。同『あるキリスト者の戦争
体験』日本 YMCA 同盟出版局、1963年。
なかった」
(前掲『荒野をゆく』73頁)
。
(62)満州国国務院総務庁次長だった古海忠之は
(46)安藤自身は、
『深き淵より』出版後、多く
敗戦後に中国で戦犯となり、戦犯管理所で
の非難を浴びたと述べている。安藤肇「戦
十分な食事や時間などの好待遇を受け、労
争協力によって日本基督教団は何を失った
働や自白の強制もなく、長い時間をかけて
か」信州夏期宣教講座編『教会の戦争責
自身の過去を振り返るという「認罪」教育
任・戦後責任』いのちのことば社、2008年、
を経て、植民地支配の罪科を認識するに
62頁。
至った(管理所での認罪過程については本
(47)前掲『日本の満州支配と満州伝道会』147頁。
号の石田論文を参照)。それでも、帰国後
(48)同書、36-37頁。
に出版した著書では、満州国を建国しよう
(49)同書、35-36頁。
とした「理想」や「情熱」は正当化できる
(50) 前 掲「 中 国 伝 道 の 課 題 と 展 望 」135頁。
と記している(古海忠之『忘れ得ぬ満州国』
経済往来社、1978年)。
1929年から中華基督教会営口区会の幹事を
務めた孫鵬翕は、監獄伝道を『政治犯や経
(63)本論文第一章でも指摘されたように、満州
済犯に説教し、彼らが反満抗日を悔悛す
伝道会に関する最新の研究である韓晢曦
る」ための方法で、各地の教会責任者が教
『日本の満州支配と満州伝道会』も同型の
問題を抱えている。
化委員を選んで毎週行なっていたと述べて
いる。前掲「日本帝国主义」118-119頁。
(64)満州国史編纂刊行会編『満州国史 総論』
(51)前掲『荒野をゆく』173頁。
謙光社、1973年、759-760頁、傍点は引用
(52)英国国教会に不満を持っていたアイルラン
者。
ド、イングランドの信徒たちが国教会を離
(65)植松楢数「生地獄」
『中帰連』創刊号1997
脱しプリマスで設立したグループ。
「プリ
年6月、47-53頁。自身の加害行為を証言
マス会」とも呼ばれている。
する旧日本軍人は数少ないなか、植松も上
(53)
『河北省志宗教志』「第五編 基督教」
。
述の古海忠之と同様の過程で自身の罪科を
(54)前掲『荒野をゆく』136頁。
認罪し、
「供述書」をまとめた。彼らの多
(55)同書、152頁。
くは、帰国後「中国帰還者連絡会」(中帰
(56)同書、104-105頁。
連)を結成し、反省と謝罪の思いをもとに
(57)同書、83頁。
加害証言活動を展開してきた。彼らの認罪
(58)前掲『熱河宣教の記録』260-261頁。
は中国側検察による厳格な調査に裏付けら
(59)堅造本人は戦後消息を絶ったとされる。
れており、信頼度が高いことはこれまでも
(60)前掲『熱河宣教の記録』84-85頁。
指摘されてきた(新井利男・藤原彰編『侵
─55─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
略の証言:中国における日本人戦犯自筆供
日本政治学会編『
「近衛新体制」の研究』
述書』岩波書店、1999年)
。
岩波書店、1973年、231-283頁;三谷太一
(66)前掲「生地獄」47頁。
郎「満州国国家体制と日本の国内政治」
『岩
(67)
「植松楢数筆供」(1954年8月1日)中央档
波講座 近代日本と植民地2 帝国統治の
案館ほか共編『東北「大討伐」
』中華書局、
1991年、656頁。
構造』岩波書店、1992年、179-213頁。
(76)前掲「満州国協和会の政治的展開」254頁。
(68)仁木ふみ子『無人区 長城のホロコース
(77)同論文268-269頁。具体的には、1934年に
ト:興隆の悲劇』青木書店、1995年。特に
は30万人だった会員が、38年には100万人
を超え、41年には279万人、43年には412万
「第Ⅱ章 興隆の悲劇」を参照。
(69)前掲『荒野をゆく』79頁。
人に達した(岡部牧夫「『満洲国』協和会」
、
(70)例えば、興隆教会の執事に選ばれた廬儀卿
植民地文化学会・中国東北淪陥14年史総編
は、熱河宣教塾に集う伝道者らを招き、肉
室編著『
「満洲国」とは何だったのか:日
や野菜をふんだんに使った豪勢な食事を振
中共同研究』小学館、2008年、218頁)。
る舞っている(前掲『荒野をゆく』94頁)
。
(78)前掲「満州国協和会の政治的展開」271-
272頁。
山岳地帯の興隆では、県協和会本部関係者
も「食糧不足は甚だしい」として、
「県民
(79)前掲『協和運動』の各号の扉に掲載。
の民食の問題」を最重要課題の一つと位置
(80)前掲「『満洲国』協和会」218頁。
づけていることを考えると(満州帝国協和
(81)前掲「満州国国家体制と日本の国内政治」
208頁。
会『 協 和 運 動 』 第 1 巻 第 4 号、 康 徳 6
(1939)年12月、150頁)
、廬は並外れて裕
(82)前掲『満州国史』130-133頁、傍点は引用者。
福な暮らしをしており伝道者らへの歓待ぶ
(83)前掲「満州国協和会の政治的展開」272頁。
りも尋常ではない。
(84)前掲『満州国史』131-132頁、傍点は引用
者。
(71)前掲『無人区』96頁。なお、1954年8月の
興隆県公安局の調査報告にも同様の指摘が
(85)梅本長四郎「熱河省本部事務長の憶ひ出」
、
見られる。「興隆の南土門に『万人坑』
(興
前掲『協和運動』第4巻第12号、康徳9
隆街から3~4里=1.5~2km)があり、
(1942)年10月、103頁。
興隆で「検挙」された人のうち、錦州高等
(86)前掲『東北「大討伐」
』709頁。
法院の特別治安廷で裁かれた者は、すべて
(87)前掲「満州国協和会の政治的展開」272頁。
ここ南土門で執行された」
。前掲『東北「大
(88)興隆県地方史研究室所蔵の未公刊資料(資
討伐」』710頁。なお、
「特別治安廷」につ
料提供者の仁木ふみ子氏には記して感謝し
いては本号の荻野論文を参照。
たい)
。1951年11月に逮捕後、10年近い歳
(72)前掲『東北「大討伐」
』710頁。
月をかけ、2000頁以上、第12巻まで書き続
(73)前掲『荒野をゆく』79頁、傍点は引用者。
けられた。本稿で主に参照したのは、57年
(74)同書177-178頁。
から59年にかけて筆録された第8~9巻に
(75)本項は、主に以下の文献を参照した。平野
あたる。ページ数が振られていないことと
健一郎「満州国協和会の政治的展開:複数
繰り返しの多い冗長な文章のため、本節で
民族国家における政治的安定と国家動員」
の引用は基本的に要約の形をとった。
『興
─56─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
隆県誌』の「偽協和会」の項目は、同供述
を深めるきっかけを作ろうとする意図から
書に基づいて執筆されているという信頼度
であり、比重が伝道の達成にある点では変
の高い史料である(興隆県誌編纂委員会
わらない。
編、新華出版社、2004年)
。
(102)日本語を解さない張氏はこのように発音し
たが、実際には「きょうこ」であろう。
(89)
「木村光明供述書」
『日本侵華戰犯筆供』
(第
8 巻 ) 中 国 档 案 出 版 社、2005年、411頁、
(103)前掲『熱河宣教の記録』47-48頁。
傍点は引用者。
(104)同書3頁。
(90)前掲『荒野をゆく』94頁。
(105)同書59-60頁。
(91)1941年に設立され、治安工作の一つとして
(106)前掲『荒野をゆく』186-188頁。
(107)日本基督教団宣教研究所教団史料編纂室編
道路整備を担当した。
『日本基督教団史資料集 第1巻 第1篇 (92)前掲『荒野をゆく』247頁。
(93)同上。
日本基督教団の成立過程』
(1930~1941年)
(94)同書45頁、前掲『興隆県誌』763頁。
日本基督教団出版局、1997年、101頁。
(95)前掲『熱河宣教の記録』123頁。
(108)前掲『荒野をゆく』253頁。
(96)前掲『荒野をゆく』167頁。
(109)沢崎堅造『新の墓にて─キリスト教詩文
(97)同書189頁。
集』未来社、1967年、60-62頁。1942年2
(98)前掲『熱河宣教の記録』124頁。
月20日付、福井より沢崎宛手紙。
(99)前掲『荒野をゆく』117-118頁、傍点は引
(110)使徒行伝11:19-30、および13章参照。ア
ンテオケは弟子たちが初めて「キリスト
用者。
者」と呼ばれた地。
(100)牧師自身が直接情報蒐集に携わっていたと
考えるべきだという指摘もある。1943年3
(111)前掲『熱河宣教の記録』25頁。
月に北京に渡って陸軍病院と監獄の軍医を
(112)同書、36頁。
兼務し、戦後は北京天橋「愛隣館」キリス
(113)前掲『荒野をゆく』54頁。
ト教セツルメントの医師等も務め、福井と
(114)同書、36頁。
「沢崎堅
同年に帰国した小川武満牧師は、
(115)前掲『新の墓にて』52-56頁。
造も満鉄調査局からお金をもらっていまし
(116)前掲『荒野をゆく』50頁。1941年、福富春
た。満鉄調査局というのは諜報部ですか
雄が興隆に霊修のため滞在していた福井を
ら、後に彼がスパイ容疑で銃殺されたの
訪問 する 際も、
「 軍 の弾丸 を 輸送す る ト
も、理由のないことではなかった」と指摘
ラックの上に乗せてもらって、興隆に入っ
している(前掲「中国伝道の課題と展望」
た」とある(前掲『熱河宣教の記録』71頁)。
136頁)。しかし、伝道者らの記述では「消
(117)同書、93頁。
息不明」とされるだけで、国策会社に自ら
(118)前掲『荒野をゆく』99頁。
協力していた点には触れられていない。
(119)同書、73頁。
(101)もちろん、砂山牧師のように医療伝道に
(120)前掲『熱河宣教の記録』57頁。
よって一般民衆の間に分け入りたい、とい
(121)荒井英子『ハンセン病とキリスト教』岩波
う思いを持っていたケースもある。しか
書店、1996年、および「ハンセン病とキリ
し、医療効果を通じてキリスト教への関心
スト教」日本キリスト教団出版局『礼拝と
─57─
日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語られ方
音楽:特集 信仰といやし』No.129.2006
(139)前掲『熱河宣教の記録』44頁。
年など。
(140)同書、45頁。
(122)沢崎堅造『アジア学叢書15 東亜政策と支
(141)同書、47頁。他に砂山せつ子「かぞえて見
那宗教問題』大空社、297-298頁(初版は
よ、主のめぐみ」『死の陰の谷を歩むとも
長崎書店1942年)
。
─愛する者の死』日本基督教団出版局、
(123)同書、305頁。
1983年、133-136頁でも正の死を一粒の麦
(124)同書、310頁。
として述べている。
(125)同書、316頁。
(142)同書、48頁。
191-192頁。1943年8月21日付、
(126)同書、189、
。
(143)前掲『無人区 長城のホロコースト』
沢崎より山本茂男宛手紙(満州林西にて)
。
(144)同書、49頁。
(127)前掲『熱河宣教の記録』82頁。
(145)前掲『荒野をゆく』169頁。
(128)同書、84頁。
(146)同書巻末の「宣教塾関係者召天記録」では、
(129)同書、85-86頁。
砂山は「共産八路軍に拉致され行方不明」
、
(130)前掲『新の墓にて』64頁。
召天年月日は「推定昭和21年9月15日」、
(131)山室信一『キメラ─満洲国の肖像』中公新
場所は「興隆県山中」と記されている。し
書、2006年増補版3版、29頁。
かし彼の最期については、張宏波の聴き取
(132)前掲『熱河宣教の記録』122-123頁。
りが別の事情を示唆している。
(133)奥田成孝「序文」前掲『沢崎堅造の信仰と
生涯』1-2頁。
(147)前掲『熱河宣教の記録』60頁。
(148)前掲『荒野をゆく』247頁。
(134)前掲『熱河宣教の記録』98頁。
(149)前掲『熱河宣教の記録』217頁。
(135)同書、116頁。
『改訂版 満州基督教開拓村と賀川豊彦』賀
(150)
(136)前掲『新の墓にて』306頁。1945年3月29
川豊彦記念松沢資料館、2007年、22、24、
日付、沢崎より掘合道三宛手紙。
27頁。
(137)川田殖「我、渇く」前掲『沢崎堅造の信仰
と生涯』23頁。
(151)前掲『熱河宣教の記録』111頁。
(152)同書、143頁。
(138)前掲『熱河宣教の記録』98頁。
─58─
ダウンロード

日本のキリスト教と植民地伝道:旧満州「熱河宣教」の語