少年少女のための
油屋熊八物語
1999年3月、別府中央ロータリー・クラブ創立10周
年を記念して同名の小冊子をつくり、2000部を別府
市に寄贈して小学生を中心に配布していただくことにし
ましたが、その後各方面からの要望がつよく、これに応
じて再販を考えておりますが、とりあえずスライドにして
ご覧に入れることにしました。
2007年 8月
作 者 鳴海淳郎
イラスト 村 津 孝 仁
油屋熊八は1863年
(文久3年)四国 宇和島
の城下町に米問屋の長
男として生まれました。
1869年(明治
2年)7才になって
城下町の寺子屋
に通いましたが、
当時の寺子屋で
は商家の子には
主にそろばんで算
数を教えていまし
た。
寺子屋から小学校に移って13
才で 学校を卒業すると、お父さ
んについて米屋としての商法を学
びました。
そして農家から買い集める米の
品質の見分け方や、米の価格が
どうして変わるかなどについて習
いました。
持ち前の向こう気の強さで家業
の米問屋の仕事に全力を注ぎ、
親を助けました。
その真剣な働きぶりは町の
人々を感心させました。
青年になった熊八は
米問屋・油屋の若主人
として次第に頭角を表
し、27才で町会議員と
なりました。
当時(明治25年頃)、
経済界には不況の嵐が
吹きすさび、地方では
それが特にひどく、熊八
は不況のひどい宇和島
をはなれて大阪に行く
ことにしました。
大阪に住むようになった
熊八は株で大もうけをし、
一時大金持ちになりました
が、日清戦争(明治28年)
後失敗し、頭の切りかえに
アメリカへ行く決心をしまし
た。
35歳で渡米した熊八は、
レストランなどで働きながら
日本人の牧師について英会
話を習いました。
その頃の彼の会話にはユー
モアがあり、初対面の人でも
親しみを感じたといいます。
キャバレーで働いていた時、あ
る事件がもとで死ぬ目に遭いか
けましたが、神父さまに助けられ
ました。
これを神の恵みと考えた熊八は、
こつこつ貯めたお金をそっくり教
会に寄付してキリスト教の洗礼を
受けました。
これまで豪放磊落で、荒武者的な熊八の人生は、
この時以来大きく変り、人生の目標に物質的な富の
ほかに精神的な富のあることを知りました。
つまり、お金に替えられない人間的な心というもの
を学んだのです。
帰国後、大阪で再び立ち上がろ
うとしましたが成功せず、熊八は
これまでのように株で商売をする
ことをあきらめ、第二の人生を賭
けて別府の人となりました。とき
に明治44年熊八49才の時でし
た。
この時、彼の頭にひらめいたのは 「旅人をもてなすこと
を忘れてはなりません」 というキリストの言葉でした。
別府は 「将来、温泉で発展する町」 と考え、この町こそ自
分が再び立ち上がることのできる場所と考え、別府に
ずっと住むことを決めたのです。
熊八の外遊中、妻ユキは別府に移住し、亀の井旅館(いまの
亀の井ホテルの前身)を経営しながら熊八の帰国を待って
いました。
大阪商船で別府に着き、小舟に乗り
かえて船だまりに上がった熊八は、
蒼い鶴見岳、湯煙たなびく町、紺碧の澄
んだ海に思わず唸りました。
そして山と海と温泉の町、別府は今後
観光客の心を大いに引きつけることに
なるだろうと思いました。
別府温泉の赤ネクタイ
別府に住みついた熊八は、キリ
ストの言葉 「旅人をもてなすことを
忘れたはいけません。」を何時も忘
れることなくお客を送り迎えし、どん
なお客に対しても平等に行き届い
たサービスをしたので、お客はだん
だんとふえて行きました。
「限りなき湧く温のように客を呼ぶ」 これが熊八の理想でした。
熊八は船がつくたびに 「ようこそ別府へ・亀の井旅館」 という歓
迎幕をもって湯治客を迎えました。
それで、この桟橋で活躍する熊八は 「別府温泉の赤ネクタイ」 と
呼ばれる名物男になりました。
ところが、一方で熊八は地元
業者からよく思われず、反対さ
れることもありました。
しかし、いつも町全体のことし
か考えていない熊八は、これを
問題にしませんでした。
熊八がこのんだ聖書の言葉に
「わたしの父は今もなお働いてお
られる。だから、わたしも働くの
だ。」というのがありますが、熊
八は別府観光のために私利私
欲を捨てて尽くしたのです。
大正6年11月、大阪商船にはたらきかけて別府桟橋
が完成しました。
年ごとに増える観光客を迎えるのに、これまでの“船だ
まり”ではどうにもならないと考えた熊八は、大阪商船
にはたらきかけて桟橋の建設を実現させました。
オトギクラブの成り立ちと別府温泉宣伝教会
熊八は別府の人となっ
て色々な人に出逢いまし
たが、中でも宇都宮則綱
との出逢いは後に地獄め
ぐりをはじめるきっかけと
なりました
その後、童話家の梅田凡平、写真家の原北陽
とも知り合い、ピカピカのおじさん(熊八)、チャッ
プリンのおじさん(則綱)、ニコニコおじさん(凡
平)、水引のおじさん(北陽)というニックネームを
もつ4人が集まってオトギクラブをつくりました。
大正8年10月 宝塚少女歌劇団の公演が実現
とても普通では考えられない
少女歌劇団の無料公演が熊八
の熱意で実現しました。
小林社長は熊八が本当に別府を
愛し、別府宣伝に命を賭けてい
る熊八の熱意に惚れて、公演を
承諾することにしたのです。
熊八は別府の民衆外務大臣として財界の大物や政界
人に体当たりして自分の信念をうったえ、不可能と考えら
れていた大事業をなしとげました。
熊八の真剣な表情、必死の身振り、巧みな弁舌には人
の心を打つものがありました。
「山は富士・海は瀬戸内・湯は別府」
大正14年7月 別府のキャッチ・フレーズである「山は
富士・海は瀬戸内・湯は別府」 と書いた大看板をオトギ
クラブの宇都宮則綱や梅田凡平の協力によって富士山
上に立て、全国に宣伝しました。
このキャッチ・フレーズは熊八が考えたものでした。
温泉マーク
いま日本の地図に温泉地のマークとして使われている
温泉マークのデザインは熊八が考えたものです。
昭和3年(1928年)アメリカで開かれた世界日曜学校大
会に仲間の梅田凡平が出席しましたが、その時の名刺
にはしっかりこの温泉マークが印刷されていましたし、ふ
だん着ている羽織の紋にも温泉マークが染めぬかれて
いました。
日本ではじめての大型バスと美人ガイド
客を引き寄せるにも案内するにも乗り物が大切だという
ことをよく知っていた熊八は、日本で初めて25人乗りの
大型バス4台を購入し、地獄めぐりの定期観光に わが国
で初めて美人バスガイドを誕生させました。
最新のバスに美人のバスガイドを乗せるアイディアも熊
八が考えたもので、バスガイドによる流暢な7・5調の解
説は大辺りし、爆発的な人気を呼びました。
全国大掌大会
熊八は亀の井ホテルが20周年を迎えたとき、何かお祝いの
イベントをしようと考え、手のひらの大きさを競う「全国大掌大
会」を開きました。(昭和6年10月)
熊八は手のひらが大きいことを自慢にしていましたが、それは
若い頃手を使って一生懸命仕事をしていた結果であり、心身
共に健全である証拠だと思っていました。
それで、日本国民のすべての人の手
のひらが大きくあってほしいと言う願い
から、全国より我こそはと思う人の手形
を募集することにしたのです。
この企画は大変な話題を呼び、別府温
泉の大宣伝につながりました。
別府の民衆外務大臣
彼はまた、たくさんのお金を使って一流の新聞記者や小説家、
評論家、画家、漫画家などを別府に招き、みずから案内役をつと
め、筆を通して天下に紹介して貰いました。
みずから別府の民衆外務大臣をもって任じ、内外の名士の来別に
は必ず駅頭や桟橋に送迎していました。
外国の名士、スウエーデン皇太子やネパール国王をはじめ、エチ
オピア外相、各国駐日大使ら外国客も次第にふえましたが、熊八
は持ち前の強気で別府温泉のよさを得意の英語でしゃべり、通訳
に汗だくでした。
これらの人々は、いずれも彼のいたりつくせりの歓待を喜びま
した。
ポール・クローデル駐日フランス大使は大正13年につづき1
5年と2度も来別して、次のような 「別府を讃う詩」 を残していま
す。
「別府にわれ再び訪れん。温かき温泉と温かきもてなしに、わ
が生命よみがえる、温かき温泉、なごやけき人の心、われ再び
別府に来たらん」
熊八翁をたたえる
昭和10年(1935年)3月27日、別府観光の先駆者として数々
の功績を残した熊八は波乱に満ちた73年の生涯を閉じました。
これを聞いた人々は皆別府のために惜しみ、日本のために悲し
んで、その功績をたたえ、内外からの弔電は1,000通を超えまし
た。
熊八翁の墓は宇和島にありますが、翁が生前に残した業績を称
える碑が別府市野口原の別府公園内にあり、毎年11月1日、油
屋熊八翁顕彰会(会長 別府市長)によって碑前祭が行われてい
ます。
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