平成 26 年 6 月
一般社団法人全国日本語学校連合会
日本人の文化と精神の研究
第 17 回
サッカーワールドカップで見せた日本人の一体感の歴史と日本の神々
1 ブラジルワールドカップで見せた日本人の「和」の心
6月12日からサッカーのワールドカップが始まりました。各国の最高峰の選手が、しの
ぎを削って、同じルールの中において世界の頂点を目指して戦う姿は、非常にさわやかです
がすがしいものですね。当然に勝負であるから勝ち負けがあり、それがはっきりしてしまい
ます。しかし、逆に勝っても負けても相手の健闘をたたえるというのは、国際的なスポーツ
の世界で一般的に行われる内容ではないかと思うのです。
日本ではスポーツマンシップということを非常に重視します。スポーツマンシップとい
うのは、「正々堂々と全力を尽くして競技するスポーツマンとしての態度・精神」という意
味であり、常に正々堂々と戦う姿、そして力の限りを尽くしてその結果を受け止める姿に、
日本人は感動します。逆に、それだけに誤審やスポーツマンシップに悖るラフプレーなどが
あったり、あるいは相手チームのサポーターなどで相手国を誹謗中傷するような応援があ
ると、非常に残念です。日本人は、その選手だけでなく、観客として見る日本人もすべてが
スポーツの観戦ということに関しては「スポーツマンシップ」を非常に重要視します。その
ために、観客や応援をする側のマナーや礼儀正しさなども非常に重要視します。
6月15日に行われたブラジルワールドカップの日本の初戦、コートジボワールとの戦
いで、日本は2-1で惜敗しましたが、観客は、そのあとスタンドのごみを片付けて帰った
ということで、各国のメディアが称賛していました。
日本のこのような行為が世界で称賛されるのは、東日本大震災の後の秩序だった被災地
の様子のとき以来でしょうか。日本人としては「常識」とされることが、実は世界各国から
見ると素晴らしいこととなっているようです。
このようなことも、日本人が「選手と一体になってスポーツマンシップを大切にする」と
いうことが言えるのではないでしょうか。それだから「自分のできることを行う」というこ
とが一つの大きな行動規範になっているのではないかと考えられるんですね。その行為が
全体の一体感を表すことになります。
この一体感を示す言葉が日本にはたくさんありますね。
「和」
「絆」
「間」というように人と人の関係を示す漢字が多数あり、それぞれに非常に大
切な意味を持っているんです。そして、日本は、その多くの人が集団になってまとまって大
きな力になることを最もよく知っていた、そんな国なんです。
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今回は、その日本人の特性について少し考えてみましょう。
2 「日の本」という言葉と聖徳太子
日本で一番初めに「和」を解いた人といえば、聖徳太子が思い浮かぶのではないでしょう
か。聖徳太子の残した「十七条憲法」は、様々な説があることは認識していますが、やはり、
聖徳太子という実在の人物が、日本の政治のために作ったものであるということが言えま
す。
『日本書紀』、『先代旧事本紀』には、推古天皇 12 年 4 月 3 日(西暦 604 年 5 月 6 日)の
条に「十二年…夏四月丙寅朔 戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」と記述されており、
『日本書
紀』には全 17 条が記述されています。この「皇太子」こそ「聖徳太子」とされているんで
すね。
「一曰、以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。乍違于隣里。然
上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。
」
日本書紀にある第一条はこのように書いてあります。書き下し文にすると「一に曰く、和
を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ。人皆党有り、また達れる者は少なし。或い
は君父に順ず、乍隣里に違う。然れども、上和ぎ下睦びて、事を論うに諧うときは、すなわ
ち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。」
そして現代語に訳すと「一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬ
ことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだ
から、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。し
かし上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道
理にかない、どんなことも成就するものだ。」
このように書いてあります。
このように、聖徳太子は「和」が最も重要なことであるというように、憲法の一番最初に
そのことを書いているんですね。「和」とは人と人とが結びつき一体感を持つこととされ、
その反対側の概念が「いさかいをおこすこと」とされ、それをきつく戒めています。そして
「協調・親睦の気持ちをもって論議する」ことの重要性を言っているのです。
一体感を持ち、協調性を発揮することが日本の基本であるということは、聖徳太子の時代
にすでに最も重要視されていたことなんです。
その「和」という言葉、この重要性は日本人は現代でも重要視していますね。そう、今で
は「和」というと日本のことを意味します。
「和食」
「和風」というのは、すべて日本のこと
であり、その日本であるということが、そのまま「協調性を持った国」ということを示して
いるのです。
この「和」という言葉は「わ」と発音します。日本が中国の文献に初めて出てくるのが「漢
書地理誌」で「楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見す
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と云ふ。」と書いています。日本のことを「倭」と書いていますね。これは中国特有の差別
用語で「倭」は「委(ゆだねる)」に人が加わった字形です。解字は「ゆだねしたがう」
「柔
順なさま」
「つつしむさま」、また「うねって遠いさま」という意味で、この漢字は「中国に
従っていなければならない国」というような意味でこの漢字を使っています。当時、中国は
中華思想が強く、四方を「南蛮」「西戎」「北狄」「東夷」というように賤しく知的な生き物
ではない野蛮な民俗に囲まれて、中国が宇宙の中心であり、その文化・思想が神聖なもので
あると自負する考え方です。その中で中国に従う国々は、まだ中国に近しい考え方があると
して中国が保護するというような思想になっています。そのために「中国に従う国」「中国
に従うことによってしか存在しない国」というような意味で「倭」という単語を使ったので
す。
後に、大和朝廷と名乗るようになってからは「倭」に「やまと」という音を当てることも
ありますが、いずれも、中華思想の中の漢字表現であるということになりますね。しかし、
それまでは「わ」という単語を使っていたのです。
さて、大和言葉で「わ」というのは「国」という意味になります。もちろん、この「国」
は現在のような「国家」というような厳格なものではなく、神社を中心にした地縁的な結合
という感じで、一つの集落というような感じではないでしょうか。現代の歴史の知識から考
えれば、ギリシアのポリス国家のようなそのような「国」という単語を考えていただければ
最も良いのかもしれません。これは、神社を中心にして人や家が「輪」になります。その「輪」
が重なって「環」になることによって、より大きなつながりを持つことになります。そして、
その「環」の中で「和」が保たれることによって、一つのまとまり、ちょうど「国」という
集団ができるのです。
日本には、この当時「漢字」というものはありませんでしたので、漢字に関する知識はあ
りませんでした。それだけに、「倭」というような文字を使われてもあまり感じることはな
かったかもしれません。しかし、当時の日本人は、「わ」という自分たちの集団の「大和言
葉」は全く曲げなかった。そのことは高く評価できるのではないでしょうか。この時代から
日本は「和」の国なんですね。
3 「日本」という名称と聖徳太子による対等外交
さて「和を以て貴しとなす」という十七条の憲法を作ったのが聖徳太子です。その聖徳太
子が絡んで、もう一つ今の日本を示すものがあります。それが「日本」という名前です。も
ちろん、この「日本」という名前を聖徳太子が命名したわけではありません。しかし、聖徳
太子が遣隋使を始めたときに、小野妹子が聖徳太子の手紙を持って行くのですが、その文面
に「日出ずる処の天子、書を日没するところの天子に致す、つつがなきや云々」
現代語でいえば「“日が昇る東の国の天子(天皇)が、日が沈む西の国の天子(皇帝)に手
紙を送ります。お元気ですか?」と書いたのです。時の隋の皇帝は暴君として知られる煬帝
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です。この話を聞いて当然に激怒します。「陽が昇る」要するに、これから発展する国の天
皇が、「日が沈む」要するにこれから没落する国の皇帝に手紙を送ります、お元気ですか、
というような文面である。これから自分が没落するかのような文面を送られて気持ちの良
い皇帝などいるはずがありません。
一時、妹子は処罰されそうになりますが、このころ隋は高句麗への遠征で苦戦しており、
「ここは高句麗の背後に位置する日本と手を結んだ方が得策」と、煬帝は友好姿勢をとるこ
とにしたのです。
また、妹子が公式な官位を持つ外交官であったことから、日本には整った官僚制度があり
交渉が可能だと判断された部分もあるようでした。
翌年、隋の外交官が初めて飛鳥の地を踏み、朝廷で国書を読み上げ日本式の礼(4度お辞
儀をする等)を執った。太子の「これからは対等な関係で行くのでヨロシク」という目論見
は、ここに見事成就したんです。
もちろん、聖徳太子が、隋のこれらの事情まですべて知っていて、強気な手紙を書いたの
であれば、本当にすごいのですが、さすがに高句麗と隋の関係までわかっていたとは思えま
せん。しかし、結果論であっても聖徳太子の目論見はうまくゆくことになったんですね。
逆に、遣隋使を行うまでに冠位十二階や十七条の憲法を行っていたことが良かったとい
う部分もあります。できることを先に行った聖徳太子の政治的な感覚が、隋と当時の日本の
対等外交を成功させたということが言えるのではないでしょうか。
さて、話は遣隋使にそれてしまいましたが、この聖徳太子が隋に差し出した「日出ずる処
の天子」という言葉が「日本」という国号の元になっているというような考え方にもつなが
るのです。
ちなみに、日本国を「日本」と正式に中国の歴史書が書くようになったのは「新唐書」か
らであり、それまでは「日本」と「倭」が併用で使われていました。隋の煬帝がしぶしぶな
がらも、高句麗との関係があったために対等の外交を行い、そのことによって、中国の日本
に対する態度は「対等な国」とするようになったのです。それは唐の時代から日本は大陸の
大国と対等な国として扱われるようになったのですね。その意味で、
「対等な外交」を勝ち
取った聖徳太子の外交、あるいはその運は、日本にとって非常に重要なことになり、日本が
「日本」と呼称することにつながるのです。
まさに、日本の形と日本の名前を決めたのが聖徳太子なのかもしれませんね。
4 「和」という漢字があらわす「稲の神」
その聖徳太子が重要視した、「和」はどうやって生まれるのでしょうか。
そもそも「和」という漢字は「稲」を表す「のぎへん」と「口」という漢字でできていま
す。要するに、同じ「稲」を口にするという意味が存在します。
大和言葉で「稲の神」のことを「さ」といいます。すでに一度この連載では申し上げてい
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るので、復習しますと、稲の神様が「さ」ですね。そして高貴な方の座る場所を「くら」と
いいます。天皇陛下が座る場所を「たかみくら」といいますね。ですから、稲の神様が里に
下りてきて座る場所が「さくら」です。そして、稲の神様の食べるものは、朝餉・夕餉など
という言葉があるとおり、食事のことは「け」といいますので、「さけ」になります。そし
て稲の神様を扱う女性を「さ」の乙女、要するに「さおとめ」ということになります。
このように、「和」という漢字が示すものは、同じ「稲」を「口」にするということにな
ります。これは、単純に「同じ釜の飯を食った」という同一の感覚ではなく、「稲」という
ことで「さ」を共有するということを意味するのではないでしょうか。単純に言えば、
「稲」
を「口にする」のではなく、「同じ稲の神様を共有する」ということであり、それは、同じ
神、そして同じ食習慣、同じ生活習慣を共有しているということになります。
日本では、その神が「女性」であることが注目される部分があります。日本に限らず、古
代ペルシャいわゆる「肥沃な三角地帯」といわれたメソポタミア文明の各都市から、インド・
中国・東南アジアを経由して日本に稲作が伝わっています。その稲作と同時に、
「地母神信
仰」が根付きました。その後ペルシャはイスラム教になり一神教がスタートしてしまいます
し、中国とインドは仏教に帰依することになります。しかし、日本はその時の稲神信仰が残
っているということになります。
では「地母神信仰」とはいったいなんでしょうか。
まさに、「無から有を生む」ものは「神」であるということから、作物を作り出す土地、
そして子供を産む母にいずれも神がいるというような信仰が存在することになります。日
本の古墳などに埋葬されている「土偶」があります。「土偶」はいずれもふくよかな女性の
形をしていますが、これは、物を生み出す「母」を形にしたものです。神をかたどる人形を
作ることで、農作物の豊作を祈るようにしたのです。
ですから、先ほどお話ししましたが、稲を扱う女性を「さおとめ」といいます。しかし、
なぜか男性の記述はありません。「さおとめ」は女性であるというのは、女性は、日本の古
事記の記述から考えれば「黄泉の国」につながっていて、その黄泉の国は「新しい命を生む
力」があることから、稲を「生む」こと「育てる」ことに神の力を借りるという意味で、女
性が稲の神を扱うのです。具体的には「さおとめ」の一つの漢字が「五月女」というように
五月の田植を行うのが女性なのです。
そして、日本においては、それらの上位の存在で「天照大御神」、ようするに太陽の神が
います。この天照大御神も『女性』なのです。
5 日本人の『女性』と『天照大御神』にみる神の意識
日本の宗教は多神教です。そして実は女性を中心にする神の意識があります。
日本人において、「宮」という漢字は、神の国とのつながりを示します。皇族を「宮」と
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つけるのは、天照大御神の子孫である天皇家、要するに神々の子孫との血縁を示しています。
一方、神社においても、直接的に神の国とのつながりがある上級の神社を「神宮」といいま
す。一方、様々な神社の頂点に立つ神社を「大社」、普通の神社を「神社」そして、たまに
神が訪れる場所を「祠」といいますね。ですから「宮」という単語は、日本人にとっては非
常に大きな意味のある漢字になります。
さて、人間の器官で「宮」がついているのは「子宮」要するに、女性の子供を宿す部分だ
けです。女性には、「宮」が存在しています。もちろん男性には「神の国とのつながり」が
ありません。この器官の名前の付け方が、日本人の女性の持つ新たな命を生み出す力に対す
る畏敬の念と、女性の神の国とのつながりを示しているのです。もちろん、日本には「男尊
女卑」の考え方があるというような感じもありますが、それは江戸時代以降の儒教の影響で
あり、古代日本の間は、
「男尊女卑」ではなく、
「女性上位」の内心と「男性を中心にする社
会」という建前で成立していたのです。この「本音」と「建て前」の最もよく表れたのが平
安時代の「通い婚」ですね。通い婚というと、女性が男性を待っているイメージがあります
が、それは相手が「モテる」男性であるからにほかならず、モテない男性は、通い婚であっ
ても、家の中に上げてくれるような女性がいないということになるのです。
男性は、女性の新しい命を生む力に畏敬の念を持つようになります。そのために、恐ろし
い場所、あるいは険しい場所などなかなか近づけない場所、それでも多くの恵みを与える場
所を「女性の神」として祀るようになります。
「山の神」などというのは、今でも怖い奥様
に使う場合がありますが、様々な恵みがあり、また、薪も動物も様々に恵みがある、それで
も山には危険が多く遭難する場合がある。そのような場所を「女性の神」がいると信じてい
たんです。男性が入ると、女性の神が微笑みかけてくれたり、あるいは、女性の神があまり
にも男性を気に入りすぎて「取り込む」、要するに遭難してしまったりするのです。
同じように海の神も「女性」ですね。浦島太郎でおなじみの「竜宮城」の主は「乙姫」で
す。古事記の中でも「海神・綿津見神」の娘豊玉姫神が山幸彦(火遠理命)と結婚し、鵜茅
不合葺命を生むのです。しかし、その後海の神である豊玉姫命は、出産のときに龍に化身し
たところを見られたことから、海に帰ってしまいます。この鵜茅不合葺命と玉依姫神との間
にできた子供が神倭伊波禮毘古命、後の神武天皇になるのです。
このように、日本人は女性を「畏敬の対象」として見ていました。そして、その神を中心
に和をもつことによって、一つの地縁的なつながりを持ち、
「国」を形成していったのです。
そして、その神々の中心にいるのが「天照大御神」まさに、太陽の神であり万物を育てる恵
みの神ということになります。
日本人は、このように「女性」をうまく取り入れ、その中で「和」を実践するということ
になります。そして、その「和」の力を以て、自然と共存し、場合によっては自然を開拓し、
そして悪天候と戦って、自分たちが生き抜く知恵を持ってきたのです。
ワールドカップのサッカーですが、当然に、日本人が「サポーターも一緒になって」とい
うことが挙げられます。その一体感が最も大きな力になるというのは、あながち間違えた話
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ではありません。「和」の力を実践してこそ、日本人の最も大きな力を出すことができる、
それこそが日本の力であり、いま日本人に最も必要な力なのではないでしょうか。そして、
その力を得るために、日本は「多神教」とも言われる日本の神々の系譜を現代まで捨てるこ
となく、しっかりと伝統を守ってきているのです。
そして、世界が称賛する日本の秩序も、そして世界が驚愕するような日本の団結力も、無
意識のうちにあるこの神の意識が、
「スポーツマンシップ」と名前を変えて息づいている証
拠ではないでしょうか。
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