2014年5月4日(日)
復活後第2主日
テキスト:ヨハネ20:24~29
主題:“信頼へのジャンプ”
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。
戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。……信じる者になりなさい」。
(ヨハネ20章26,27節)
序
論
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。
自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。
(ヨハネ12:25,26節)
私たちひとりひとりは、一粒の麦である。私たちは、大いなる可能性のある一粒の麦であるが、その殻は堅
く、その中に閉じこもったままである。人間は、自分自身の中に閉じこもったままでいる。人々の顔に、人々
の眼に暗闇があるのは、そのためである。――しかし、一端その殻が破られれば、そうすれば、大いなる光が
放たれる。これはひとつの飛躍であり、ジャンプである。殻は破られる。打ち破ることはできる。それは希望。
殻は破られる。――先ず、三つの次元があることを、確認したい。それは、①「既知」と②「未知」と③「不
可知」だ。「既知の世界」
(既に知っている世界)から、「未知の世界」へと進むことを学ぼう。――そうすれ
ば、人生が素晴らしい興奮、喜び、驚きとなる。すべての瞬間毎に、新しい何かが始まる。少し殻は破れる。
――最後は、
「未知の世界」から「不可知の世界」へ進むときである。
「既知」と「未知」
、
「不可知」の違い
は、未知はいつか既知となるが、
「不可知」は、決して、既知とはならないということ。その「不可知」こそ
が、神である。
「不可知」は永遠に不可知のままである。それこそが真実の神秘であり、神性そのものである。
それゆえ、まず「既知」から、
「未知」へと進むことを学ぼう。泳ぎを学ぶには、先ず、浅い水の中で学ぶ
ことである。そして、泳ぎを覚えたら、恐れなしに、恐怖を一切待たず、海に入る。――この瞬間、生命は、
至福の何たるかを体験する。人は未知へ進むことで興奮を知り、不可知へ進むことで、至福と出会う。
この瞬間、殻は破れ、多くの実を結ぶようになる。イエスの上の『一粒の麦も死なずば』の有名な譬えは、
「既知」から「未知」へ、未知から「不可知」へと進むときに体験する、素晴らしい体験内容である。そして、
最も素晴らしい宗教的な資質は、“勇気”である。他の全ては、その次に来る、といってよいだろう。
勇気がなければ、正直になれない。
勇気がなければ、赦すことはできない。
勇気がなければ、愛することはできない。
勇気がなければ、信頼はできない。
勇気がなければ、真実を問うことはできない。
本
論
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。
戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。……信じる者になりなさい」。
イエスの復活の弟子たちの体験は、まさに、「不可知の世界」の体験である。見える世界は、「既知の世界」
である。――が、見えない世界は「不可知の世界」である。「不可知の世界」は「既知の世界」にはならない
から、常に、“信頼”と“勇気”で臨む、他ない。これは宗教の根本的な課題である。実際問題、私たちの体
験によると、「未知の世界」に望むときに必ず、不安と恐れが付きまとう。――しかしながら、結果的には、
何でもなく、大したことではなかった。それよりは、それを通過することによって、快感を感じることが多い。
――私たちが不安と恐れを感じる「未知の世界」、その背後にある「不可知の世界」は、実は、大いなる調
和の中にある。宇宙は永遠に「不可知の世界」である。宇宙は、大いなる調和の中にある。すべてが、互いに、
調和し合っている。――それは、素晴らしい奇跡である。広大で、果てしなく、計り知れない。
それにも関わらず、全てが調和している。――完全に。ただ、人間だけがその例外。人間だけが、その調和
からはみ出している。人間以外のものはすべて、宇宙と調和している。宇宙と調和することは、極めて自然な
こと。何故、人間は調和できないのだろうか!? ――それは、人間だけに自意識、頭、思考、マインドがあ
るからだ。人間は、調和の中に入るか、その外にいるか、を選択しなければならない。調和か、苦しみか。自
意識(自我)は、神と戦う水の一滴に過ぎない。宇宙を征服しようとしている水の一滴に、過ぎない。あ~あ。
戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
イエスの復活の出来事は、苦しみの中、不調和の中にいる私たちのための、出来事である。「戸にはみな鍵
がかけてあった」とは、神から孤立している人間のマインドの状態を意味している。人間は、自我の中に閉じ
こもっている。イエスは何としても、人間の孤立状態から救済したい。イエスはマインドからハートへ解放。
「あなたがたに平和があるように」
イエスは直ちに、
「開けゴマ!!」
「自我を脇においてハートを全開せよ」と言っている。イエスの復活の出
来事に対して、懐疑的であったトマスのハートの扉を開かせるイエスの宣言である。これは真実の宣言である。
他の弟子たちとは異なり、孤立無援のトマスに向けた、解放の宣言である。万人は宇宙と調和している!!
結
論
トマスに答えて、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」。
(同28,29節)
「幸い」(マカリオス)は、「あなたは、何と神さまから祝福されているのでしょう」という意味である。
ギリシャ語の本文では、「幸いなるかな。見ずして信じる人」、とその順番はなっている。動かない祝福が先で、
それに呼応・調和・響き合うのが、「見ずして信じる人」である。神の揺るがぬ祝福が先で、それに信頼する。
人生は旅、巡礼の旅である。それは静的ではなく、動的な旅である。――それは、未知に向かって行く。し
かし、人はそれを恐れるあまり、人生を先に進ませようとはしない。それは既知の世界(知りえたもの世界)
にこだわるからである。ゆえに、未知の世界へ突き進む自由を、人生に与えようとはしない。大海に向かって、
踊り出す自由を、与えようとはしない。人生はあたかも川の流れのようなもの。人はそれを池にしている。
池になることは、淀み・悪臭、死を意味する。川の流れは、生まれ変わりの人生の意味。川の流れこそ、生
きているそのもの。川の流れには、純粋で、新鮮で、スリルがあり、そして至福がある。人生は、一瞬ごとが
驚きだ。終わりのない驚きのサスぺンス、ミステリーであり、感動の連続である。海まで流れよう。ハレルヤ。
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主題:“信頼へのジャンプ”