中部の
エネルギー
日本の電力王・福沢桃介
PART1
中部経済圏の礎を築いた福沢桃介 ― その3
大同電力社史に、「福沢桃介氏は人も知る
窓松永安左ェ門氏の主宰する福博電車に関係
如く、一時は株式界の流星として溌剌縦横の
せるを切掛けとして電気界の人となり、同じ
手腕を斯会に発揮した事もあったが之は氏の
く同窓の先輩矢田績氏の手引に依って名古屋
生涯に取っては極めて短期間の事に属し、…
電灯会社へ入るに及び、茲に千年開発を待て
氏の電気事業界入りは実に氏の一念発起に依
る木曽川と、是が開発を畢生の事業とする福
れるものであって、ただ事業のみが人間の生
沢桃介氏とがピッタリ結びつけられることと
命を永久に伝え、之を無量壽のものたらしめ
なったのである。…」
と記述されている。
るとの自覚から、人生の幸福を増進し、世間
が感謝を以って迎えるような種類の事業とし
今回は、経営の奇才で日本の電力王の座を
登りつめた最終コースを紹介する。
て選び当てたのが電気事業であった。偶々同
電力王への道
(旧:大同電力株式会社)
大同電力㈱は、
1
9
2
1
(大正1
0)
年、大阪送電・
大戦後の不況や名古屋経済界での抵抗もあり、
木曽電気興業・日本水力の3社が大同団結し
思うように進まなかった。そこで関西地方に
設立された会社で、桃介が社長に就任した。
電力を送る大阪送電と木曽川などの水力開発
名古屋の重化学工業化を図り、木曽川の水
を目的に設立された木曽電気興業と日本水力
力電気を供給するという構想は、第1次世界
が加わって実現されたものである。当時、
日本
水力は北陸の九頭竜川の水力発電を大阪電灯
1922
(大正11)年に建設された大阪変電所本館のモニュ
メント
福沢桃介の揮毫で「曽水一条雷 浪華萬燭春
=木曽川で雷・電気が起きて、浪華の春は萬
燭で明るく輝く」と記されたモニュメントで、
大阪送電を実現した意義と喜びを表現した。
電力王福沢桃介翁像と川上貞奴女史碑
大井ダムが見下ろせる恵那峡の
「さざなみ公
園」
には青銅製の桃介翁像と、その横に貞奴
の銅製レリーフが設置されている。
と京都電灯へ電力を供給する卸会社であった。
事であった。また途中、大洪水により建設中
その後、桃介は木曽川を中心に精力的に電
のダムが決壊し、さらに関東大震災によって
源開発を進め、1
9
3
1
(大正6)
年から約1
0年間
資金難に陥った。そこで急きょアメリカにわ
の間に、7か所(賤母・大桑・須原・桃山・
たり、アメリカ有数の財閥ジロンリード社を
読書・大井・落合)
の各発電所を建設した。
通して1,
5
0
0万ドルの社債を発行することが
このなかで1
9
2
4
(大正1
3)
年、木曽川本流をせ
でき工事を完工させた。
き止め、日本で初めてダム式(堤高:5
3㍍)
の
このようにして、中部と北陸の豊富な水力
大井発電所(出力:4
2,
9
0
0kW)
を竣工させた。
電気を関東・関西方面に販売していたが、戦
この建設には、アメリカ技術顧問団(シー
時体制に入った1
9
3
9
(昭和1
4)
年、電力国家管
ボースター&アンダーソン4名)
を招聘し、
理に基き日本発送電㈱が発足すると電力設備
スチームショベル、ケーブルクレーン、ミキ
および付属設備のすべてを委譲して解散した。
サーなど近代的土木機械を導入した最初の工
資料3 大同電力株式会社沿革図
(明21.
2設立)
大 阪 電 灯
(財産分離出資)
木曽電気興業と京
(大8.
11設立) 阪電鉄の共同出資
(明20.
9設立)
大 阪 送 電
名 古 屋 電 灯
(大7.
9設立)
木曽電気製鉄
(分離)
社名変更
(大12.
6設立)
大 阪 電 気
(大12.
10合併)
(大10.
2設立)
大 同 電 力
(大8.
11設立)
木曽電気興業
社名変更
(大8.
10設立)
大阪電灯・京都電灯・
日 本 水 力
北陸電化の3社出資
(大10.
2合併)
(大6.
8設立)
北 陸 電 化
この経緯は、1
9
4
0
(昭和1
5)
年9月に建てら
れた殉職者慰霊碑に
(大9.
1合併)
に至れり惟ふに当社が我国電力事業の早時期
に措て克く斯の大業に膺り以て抑が国家産業
「当社は大正8年1
1月の創立に係り初め大
の隆興に寄与し使命実行の成果を以て国策に
阪送電株式会社と称し後大正1
0年2月木曽電
貢奉するを得たるは固より当社の至営とする
気興業株式会社並びに日本水力株式会社を合
所より茲に有終の光済を見るに際し…
併して社名を大同電力株式会社と改む
抑も当社設立の趣旨は豊富なる日本中部の
水力主として木曽川及矢作川水系と北陸地方
昭和1
5年9月建之
大同電力株式会社代表清算人
と記されている。
の水力主として九頭竜川及庄川とを開発して
之を中京地方並に関東関西両地方に供給する
に存し爾来星霜有余孜孜として目的の達成に
努め之が補給用火力発電所を始め東西両都及
北陸地方を結ぶ送電幹線其の他の建設を進め
積年の事項変然として顕れ既設水火力4
0数万
キロワットに購入電力を合わせて大量供給を
営為せしか會々電力国家管理の実施せらるる
に及び会社の全事業を挙けて之を日本発送電
株式会社に移譲し昭和1
4年4月竟に解散する
大同電力殉職慰霊碑
増田次郎」
おわりに・桃介ゆかりの遺産
今まで述べてきたように、桃介の本格的な
いったん解体保存し、当時の材料・工法を用
事業活動は中部圏の礎を築いた時代と言える。
い創建当時の姿を東区撞木町に復元した。そ
これを陰で支えたのが川上貞奴である。
して平成1
7年、「文化のみち二葉館(名古屋市
貞奴は、東京日本橋浜田屋の芸者置屋の養
旧川上貞奴邸)
」
として開館した。
女で、幼少より才女の誉れが高かった。明治
まさしく日本の電力王となった桃介は、将
2
7年、壮士芝居オッぺケーペー節で有名な川
来の日本全体の電力に残りの人生を捧げるた
上音二郎と結婚した。そして日本の女優第一
めの本拠を東京に移し、永田町に「桃水荘」
を
号としてパリ万国博覧会で大成功をおさめ、
建てた。このころ、松永安左ェ門は日本を縦
アメリカ、ヨーロッパで名声を博した。音二
断する大動脈送電線(電圧:2
2
0kV)
を建設し、
郎の没後、桃介のパートーナーとなり、大井
周波数を統一して電力を融通する「大日本送
ダムの建設事業などに協力した。
電株式会社」
を設立する構想を持っていた。
貞奴は大正9年、名古屋市東区東二葉町に
日本で初めての住宅会社アメリカ屋の設計で
そのために桃介は創立委員長に就任したが、
時期尚早で日の目を見なかった。
二葉荘を建て住まいとした。当時、「二葉御
桃介は昭和2年に腎臓の摘出手術を受け、
殿」
と呼ばれ、政財界人や文化人のサロンと
体力の衰えを感じ始め、翌年、実業界からの
して利用された。さらに、
昭和8年、
岐阜県各
引退を表明した。大同電力の社長や、兼任し
務原市鵜沼の木曽川添いに貞照寺を建立した。
ていた会社の社長、取締役もすべて辞し、隠
その後、二葉御殿は名古屋市が寄付を受け、
遁生活に入った。そして1
0年後の昭和1
3年渋
谷の本邸で波乱の人生を終えた。
福沢桃介先生寿像
アメリカのユニオン大学から授与されたド
クター・オブ・サイエンスの着衣・角帽姿
の半身像
(彫刻家:新田藤太郎作)
。桃介が
還暦を迎え、実業家として第一線から辞し
たのを記念して制作された。
二葉館と応接間
(寺澤安正)
ダウンロード

福沢桃介