解剖小史
l美術家と解剖I
目次
はじめに
第一章西欧における解剖史
古代における解剖
中世における解剖
十七世紀の解剖
近代医学のはじまり
アメリカにおける解剖
二十世紀の解剖
十九世紀の解剖
スイスとイギリスにおける解剖
十六世紀のイタリアにおける解剖
レオナルド・ダ・ヴィンチと解剖
西洋人による日本初の死体解剖
出島の医官、解剖学を教授
本邦初の解剖
『日本書記』にみる解剖の記録
第二章日本における解剖史
解剖の革新者ヴェサリウス
幕末から明治初期の解剖
美術解剖学の誕生
顕微鏡的解剖学の誕生
宮永孝
156(1)
はじめに
解剖は、医学における最も古い研究分野の一つである。じっさい斯学の知識がないと、病気の正しい診断も治療もおぼつかない。
この稿は、古代から二十世紀初頭あたりまでの、欧米ならびに日本における人体解剖の歴史的変遷の概略を述べたものであり、さら
に十五世紀のイタリアにおいて、突如生まれた造形美術のための解剖学(「美術解剖学」)と当時の状況を点描したものである。
(1)
ノトミア
メス
イタリア・ルネサンス期の美術界において、写実主義が力を得てくると、とくに絵かきや彫刻家といった美術家たちは、画布や大理
石に正確な形を再生する一助として、”解剖〃(ロ・斤○目四)に注目し、みずから解剖刀(の8]扇」]・)を握って死体を解いたのである。
(2)
医者や占者ならいざ知らず、美術家がじっさい人体の解剖学的研究をおこなったということは、解剖史上稀有のできごとであった。
人体についての知識は、とくにその辻云術的再生を試みる者にとって、不可欠なものであった。このとき「美術解剖学」(のちに
瘡シロ日・自国胃房p8》とか《シ目8目口ロヰ○国8.と呼ばれたもの)が、はじめて誕生したのであるが、これは西洋の美術界において
こそ生まれはしたが、東洋の美術界ではまったく起らなかった現象である。
筆者は、執筆に先立って、東洋人の乏しい知見をもって見解を述べることの危険を悟り、また独創的な意見をのべることはほとんど
不可能であると判断したので、彼我の専門家の研究成果を依り所とし、それを極力取りいれつつ記述を進めることにした。
とはいっても、本稿のすべてが祖述にもとづいた4
とはいっても、本稿のすべてが祖述にもとづいたものではなく、ところどころに新史料や筆者の管見を添えたつもりである。けい眼
の士はそれを敏感にかぎ取ることができるであろう。
(2)155
解剖小史
第一章西欧における解剖史
古代における解剖
古代のペルシャやインドには、解剖学はあまり発達しなかったようだ。ペルシャの医学は宗教とふかい関係があり、僧侶が薬物や外
か
科療法をおこなった。インドでは宗教上、死体に手をふれることは禁じられていたが、死体の内部を見ようとする試みがなされた。
(3)
一週間ほど水にひたしておいた死体を取りだし、
一週間ほど水にひたしておいた死体を取りだし、外部を巣(くだもの)殻で削りとって体の内部をみようとした。そのとき筋、腱、
骨、脈管、神経などを数一えあげたにすぎなかった。
(4)
エジプトは、ミイラをつくる旧習があったから、 さぞかし解剖学は発達していたと考えられがちであるが、じっさいエジプト人の解
剖学的知識はひくい4℃のであった。
(』0)
(6)
かれらの知識は、人体は単に骨と筋肉からなり、気管や血管がこれに分布し、心臓をその中心とするという簡単なもので、偶然の機
会と動物を解いたときに観察-したものにすぎなかった。
ちなみにミイラのつくり方について少しふれると、正
ると、死後すぐに臓脈を抜きとり、ワイン、ミルーフ樹脂、シナ肉桂、ヤシ油などで洗い
(7)
(8)
きよめる。一
きよめる。ついで香料、樹脂、アスファルト、かんな南
かんな屑などで充填し、縫いあわせたのち、布で死体を巻き、身分に応じて木棺や石棺
におさめた。
紀一兀前一一一世紀ごろ、エジプトのアレキサンドリア(北部海港都市)に医学校がつくられた。その医学校の創設に尽したのは、小アジ
(9)
アのカルヶドンで生まれたヘロフィロス(紀元前一一一三五?~一一八○)とギリシャ人のエラシストラトゥス(紀元前三一○~一一五○)で
あった。アレキサンドリアでは、紀一兀前一世紀まで、ときどき人体解剖が行なわれたが、一一世紀中ごろまでにすたれたという。
(⑩)
ヘロフィロスは当時、公開の解剖をはじめて行なった人物とみられている。生涯に六百体も解剖したとされ、テルトゥリァヌス(初
期キリスト教教父、一六○年?~一一一一五年)から”屠殺者〃と呼ばれた。著述をたくさん残さなかったが、「解剖について」や「眼に
154(3)
(Ⅲ)
せきずい
ついて」などのほか、助産術の手引書を著した。かれはたゆみなく解剖学の研蹟につとめ、脳と脊髄をはじめて体系的に解剖-した人で
あった。かれは脳こそ神経系の中心的な器官として捉え、それを知性がある場所L」考えた。
(胆)
モーター
ヘロフィロスが創った、こ・
ヘロフィロスが創った、こんにちでも用いられている医学用語が二つあるが、そのうちの一つは十二指腸(QEopの目白)、もう一つ
は前立腺(bHCの庁口庁の)である。
エラシストラトゥスは、医歸
ェラシストーラトゥスは、医師であり解剖学者であった。運動神経と知覚神経、神経を腱および血管とはじめて区別し、心臓までさか
のぼって血管や動脈を調べたとされ、カテーテル(尿道、血管、腔などに挿入する管)の発明者でもあった。
(肥)
エジプトの古代王朝の国王ファラオ(エジプト語で〃大きな家“の意)は、医学の実践とふかいかかわりをもち、伝承によると、エ
ジプトの第一王朝初代の王メネス(在位は紀元前一一九一一五年ごろ)の息子は、解剖学の書物を著したとされる。
世界最古の医学文献の一つとみられるものは、紀元前二千年の成立と考えられるバビロニア(メソポタミア地方の古代王国)の「ハ
(M)
ムラビ法典」である。この法典の中に外科医の手術にたいする報酬のことが書かれており、また青銅のメスによる手術の失敗、目の手
術に失敗し、患者を盲人にしたときは、その医師の両手を切断してもよい、L」明記されていた。
ついで解剖や生理についての古い文献は、エジプトの象形文字で書かれた記録である。エジプト医学の歴史に関する文献は、少なか
らずパピルス紙に記されているが、そのうちで最も重要な文献は、つぎの三つである。
エパース・パピルス古文書岳の固げの『切勺四日日切
ブルッグシュ・パピルス古文書ヨの、目的の・ず勺:]『口の
エドウィン・スミス・パピルス古文書岳の固曰ご旨の目昌思日日⑩
これらの名称は、古文書の発見者の名にちなんでつけられたものだが、いずれも婦人科医学に関する記述が多い。
最も有名なのは「エバース・パピルス古文書」(紀元前一五五三から一五五○年ごろ書かれたもの)である。これはドイツのエジプ
(4)153
解剖小史
(応)
モリッッ・エバース (○の。『ぬ三・胃N向くの『⑩》」忠『~@m)が、一八七一一一年(明治六年)にルクソル(エジ
ト学者で小説家のゲオルク・モ
(脇)
|で発見したⅡもので、 長さが二○メートル、幅三○センチ、行数は二、二八九ある。現在、ライプチッヒ
プト南部、ナイル川に臨む町)一
大学の博物館に収蔵されている。
エジプトにおいては、宗教的な理由からたびたび動物の解剖がおこなわれたのであるが、人体の解剖4℃すでになされていた。
ギリシャのみならず、西洋の古代医学の祖と呼ばれたのは、ヒッポクラテスとガレヌスである。ヒッポクラテス四目・尿『貝のの(紀
元前四六○?~三七五年ごろ)は、エーゲ海のコス島で医師の子として生まれた。かれは父からコス派の医学を学んだのち、ギリシャ
ユモル
国内はもとより、エジプト、リビア、スキタイ(黒海・カスピ海の北東部を中心とする古国)まで足をのばし、他の流儀も学んだ。
メランコレー(Ⅳ)
ヒッポクラテス医学では、人が病気になったり、健康を維持できるのは、つぎの四つの体液(目】・『)によるとされる。
黄胆液
黒胆液(月)四長。ご)
しょくと
そしてもしその量的なバランスがくずれると、病気になるのである。治療法としては、食餌療法、新鮮な空気を吸い、睡眠、休息を
とり、運動を規則正しくとることを勧め、マッサージや水浴なども理学療法の一環として用いた。
(旧)
ヒッポクラテス医学の解剖学についていえば、それは主に動物体における所見(屠獣および犠牲)と外科症例(戦時および平時の負
傷)の観察に基づいたJものとされた。
(旧)
この流派は、骨についての正確な知識をのぞくと、およそ解剖学の知識に乏しく、死体解剖を系統的におこなわなかった。そのため
(卯)
神経と腱を筋肉と混同した。人体解剖がおこなわれなかったのは、遺体はすぐ葬られねばならない、といった一示教上のきびしい規定と
死者にたいすブ。迷信的な恐怖心とからであった。
152(5)
粘血
液液
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医学を教授する教師の多くは僧侶であった。
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ガレヌス○口]goの○一四日目の(紀元前一一一九年ごろ~一一○○年ごろ)は、小ァ
(皿)
て遠征した傷病兵が治療をうけた所であり、十一、二世紀になると医学修業のメッカとなった。
サレルノの医学校は、十字軍に加わって単
ラナダ、サーフゴッサなどにアラビア系の医学校があった。
(別)
医学校が創設され、さらに南仏のモンペリェにもできたが、スペインではそれ以前から、たとえばコルトベセピリァ、トレド、グ
に医学校が創設され、さらに南仏のモンペリェにもでき上
中世のヨーロッパに医学校がつくられ、そこでは実学に加えて、解剖もおこなわれた。九世紀にサレルノ(イタリア南西部の港町)
中世における解剖
から、死体の解剖を許さず、ご/、たまに動物の解剖や人骨の研究がおこなわれたにすぎない。
(閉)
アラビアにおける解剖学は、アリストテレスシ『一の(。(の]の⑫(紀元前一一一八四年~三一一二年)の亜流であった。この国では宗教上の理由
かれは解剖の必要性を主張したが、解剖学に基礎をおいた実験生理学は同人をもって先駆者とする。
ガレヌスは『解剖手技』や『人体諸部分の用途』などを著した。かれの解剖学は、中世から十六世紀にかけて斯学の規準となった。
ては、四ヵ年間剣闘士の医師をつとめ、創傷の外科などを研究した。
W0かれはクマ、豚、サル、鳥、魚、ヘビなどのほか象を4℃解剖した。ローマにおい
(配)
町のガレヌスの解剖学の特徴は、動物体の解剖所見を人体にあてはめたこし」である。
Lよ
ロ町洗のである。
》咋の氾濫によって墓地から流れ出た死体とか、盗賊の死体にたいして行なわれた4℃
テ脳
ス部ドリァには五ヵ年滞在したが、この間に何体か人体を解剖した。それはナイル川
の、
“河アレキサンドⅢソァなどで医学を学んだとされ、のちローマに赴いた。アレキサン
M
、ジアのベルガモンで生まれたのち、まず哲学を学び、ついでスミルナ、コリント、
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(6)151
解剖小史
当時の解剖学は、の一。巨屡凹めの①鼻の巴の目の遡(ガレヌスが一一一一口明しているごとく)教えるのがふつうであった。
(泌)
サレルノでは、主に動物の解剖lとくにブタの解剖が系統的におこなわれた.当地の医学校の教授も学生も、ガレヌスの教えに執
着していたが、独自に解剖学の研究をおこなう必要性に気繰つきはじめていた。
やがて解剖学の復興は、医学の革新に大きな影響を及ぼすことになるのだが、十三、四世のイタリアにおいては、解剖はほとんどふ
つうのこととされていた。
(妬)
一二八六年にイタリアでペストが猛威をふるったとき、フランシスクス派の修道僧サリムベネの呂日ワのロの(一二一一一?~八九)は、
クレモナ出身のひとりの医師が疾患の原因を究明するために死体を解剖し、心臓を見るために胸部だけを開いたという。
イタリアにおける人体解剖のたしかな記録は、それから十四年後にはじめて現れる。
一三○二年一一月、アッッォリーノシ目・旨・という男がボローニャで不審な死をとげたとき、毒殺の疑いがあったので、死因と死亡
(師)
時刻を知るために、法医学的な検死が求められた。このときボローニャの医学教授バルトロメオ・ダ・ヴァリニャーナ、胃8一○日の。
:ご口己:山口四を頭に、何名かの医師が検死官となり、胸郭腔を開いて内臓を調べた。当時、これ以外にも、刑死体にたいする解剖が、
イタリア各地かヨーロッパの諸都市でよくおこなわれたようである。
一三四一年ごろ……………パドゥア
一三六六年ごろ……………モンペリエ(フ
(フランス)
(泌)
フィレンツェ
一三六八年~八八年………ヴェネチア、フ
一四○四年.……………・…・パリ、ウィーン
’四八五年………・…・……・チュビンゲン(ドイツ)
(羽)
サレルノ時代の解剖学の知識は、主としてブタなどを開いて得た所見を基礎にしたもので、まだ幼稚なものであった。
アレキサンドリア時代以降、中断していた人体解剖を学術上の目的として再興し、系統的な解剖学の基礎をつくったのは、著名な解
150(7)
剖学者モンディーノ・デ・ルッッィニ・己曰CQ①P口圏(]昌弓~屋図の)であった。
モンディーノはボローニャの薬剤師ネリノの息子として生まれ、その地の大学の医学部に学んだ。’三一四年から一一四年まで、母校
である大学で講師として教鞭をとった。’二九○年博士号を得、一一一一二六年亡くなるまで大学教授の職にあった。
(釦)
モンディーノがはじめて解剖を行なったのは、一三一五年一月のことで、このときは婦人死体の子宮日の『口のを切り開いた。生前、
一二体の死体を解剖したにとどまったという。当時、やはり困難をきわめたのは、解剖用の死体を入手することであった。死体不足から、
一三一九年十一月二十日の夜、ボローニャ大学の学生が墓をあばき死体を盗み、アルベルトゥス・ポノニェンシスの教室で解剖をおこ
(弧)
なういう事件が起ったほどである。ふつう罪人の刑死体をもってそれに当てたが、十六世紀になっても、刑の執行は解剖学者の意見を
仰いでおこなわれた。
解剖が大学のカリキュラムの中に正式に組みこまれるIと、教授はいつの間にか死体と距離を置いてしまい、権威のある椅子に陣どる
(躯)
(畑)
ようになってしまった。教授は教壇で講義をするあいだ、弟子か助手が指示をうけながら、死体を切り開いた。が、モンディーノは人
の手を借、りずに、じぶんの手で解剖を行なった。
の手を借りずに、じぶん9
当時の解剖のやり方には一 一つの方法があった。
公開解剖:go目四℃目一一日
秘密解剖四目(・日田ロュごgo
である。
前者は教育を主旨とするものであり、大学や医師講習所でおこなわれた。
後者は医師、医学生、裁判官(法医学的な鑑定)、芸術家のために、とくくつな目的でおこなわれた。
主として教育のために行なう公開解剖は、死体の保存にとってつごうのよい、寒冷の季節に行なわれるのがふつうであった。’四○
(8)149
解剖小史
(弧)
(鍋)
五年ごろのボローニャ大学では、解剖は通常四日間にわたって行なわれ、それに立ちあえるのは第一一一学年の学生だけであり、男性の死
体のときは一一十名、女性の死体のときは一二十名だけ出席をゆるされた。
ママ
十六世紀になると、学生にかぎらず一般市民も参観をゆるされ、見物人の中には婦人や僧侶の姿もみられた。
一一一一一六年に刊行されたモンディーノの『解剖学』シロ・旨○日一口は、人体解剖の講義にもとづいて書かれた解剖学の専門書である。
(銘)
が、ひじょうに読みづらいといった定評があった。まず書物としての構成がまずく、ごたごたしているばかりか、ラテン語もひどかつ
た。術語が混乱しており、いくつもの名称をJもつ部分がたくさんあった。
(幻)
モンディーノは、まず解剖図式をのべたあと、腹部、胸部、頭部、四肢の所見を記し、そのご生理・病理。外科学にふれた。かれは
(郷)
アーフビア化したガレヌス医学を踏襲し、アラビアの権威に依存していた。人体についての真の観察、新事実の発見はなく、アラビアの
書物を暗記するために解剖をやったというのが本立曰らしい。
しかし、モンディーノの『解剖学』は、十六世紀の中ごろまで、中世の諸大学において教科書として広く用いられた。
なわれた。ヴェネチアでは一三六八年に、内科医と外科医のために
パドゥア大学では、ボローニャとおなじく十四世紀に解剖がおこ
に広がり、フランスやドイツにも伝わった。
やがてボローニャに起った解剖学は、イタリア各地に広がり、フランスやドイツにも伝わった。
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m仇年一回人体解剖をおこなうよう決められた。フィレンツェでは、一
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惇年、⑳三八八年に死体の供給についての規定ができた。シェナでは、一四
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また十五世紀後半より十六世紀初頭にかけて、ペルジァ、フェーフ
辨“咄郎二七年に刑死体の解剖がおこなわれた。
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(調)
近世初期の解剖学は、ガレヌスやアーフビァの大家、さらにはモン
く印.卦われた。
》布眺輌ラ、ジェノァ、ピサ、パヴィァの各都市において人体解剖がおこな
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EK
148(9)
ディーノの範囲外に一歩も出てはいなかった。とくにガレヌスの学説の誤まりを指摘し、斯学を革新し、近代解剖学の基礎をつくった
のは、後述するアンドレアス・ヴェルサリウスであった。
ヨーロッパ人の商業生活や知的な発達に大きな影響をあたえた時代は、十五世紀であった。印刷術の発明、アメリカ大陸の発見、東
ローマ帝国の没落、宗教改革におわるローマカトリック教会の分裂、イタリア美術の興隆、レォナルド・ダ。ヴィンチやマルク・アン
トーーオ・デラ・トレの指導のもとに科学的な解剖がはじまった。
ともかく数々の革新がはじまったのは、十五世紀のことであった。
当時、イタリアのどの町も〃新しいアテネ〃であった。イタリアの詩人、歴史家、芸術家、解剖学者は、学問の炎をかかげながら、
当時、イタリアのどの町も〃新しいアテネ“一
口代世界のもっとも著名なひとびと競っていた。
どウの曰(】さ』~息)は、「絵画論」第二章 (一四三五~三六年ごろ)において、美しい均合のとれた手足と身体を描くために解剖学の
イタリア・ルネサンス期の人文主義者、 建築家、芸術理論家として著名なレオン・バティスタ・アルベルティPの○口忌日の白
は文芸復興の申し子であり、はじめて裸体像を描いた。
人は文芸復興の申し子であり、はじめて裸」
美術解剖学のそもそもの始まりは、イタリアであった。北ヨーロッパIとくにフラマン人は写実的であったのに反して、イタリア
美術解剖学のそもそもの始まりは、イタリアであった。
った。そして芸術家たちは解剖学の知識をうるために、医師に目をむけるようになった。
初期のイタリア絵画は、自然を熟視する}」とに目をむけていた。が、やがて裸体の研究の基礎をしっかり学ぶ必要を感じるようにな
画家マサッチョ三口の四○go(」色]~罠本名はトマソ・グイディ目・目白ロ叩・の日日)が、医者の組合への入会を許されてからである。
とくにフィレンツェの芸術家と医師たちとの緊密な関係がはじまったのは、一四二一年のことであり、〃近代絵画の父〃といわれた
によらず、芸術家によるものであった。
北イタリアで起った知的な発展は、“メディチ家の支配と庇護のもとにおこなわれた。中世に行なわれた解剖学上の主な発見は、医師
合していた。
フィレンツェ、ボローニャ、ミラノ、ローマ、ヴェネチア、フェラーラといった町は、科学や芸術の分野でお互い勝利をめざして競
古
(10)147
解剖小史
知識が必要なことを暗にほのめかし、
これまでは、面の構図について述べてきたが、次に肢体の方に移ろう。まず、すべての肢体が巧く均合うように注意しよう。
(伽)
(中略)裸体を描くのに、まず第一に骨や筋肉をおき、その後それらを肉で覆う。だから、どこの下にそれぞれの筋肉があるかを知るのはむ
ずかしぐない。
と述べている。
(机)
美術家にとって、解剖学の知識は不可欠であることをそれとなしに知らせた、ルネサンス期の最初の文献は、アルベルティの『絵画
ノトミγ
論』第二書であった。が、それより十年後、こんどははっきりと、絵かきや彫刻家が学ばねばならぬ学問や芸術は、文法・幾可・哲学・
医学・天文学・遠近法・歴史・算術・デザイン理論・解剖学(ロ○一・日国は目胃・自囚の古語)であると、明一一一一口している(『覚書』第一
0
造形美術(絵画、彫刻、装飾など)の研究方法にはいろいろあるが、その一つが解剖学の知識を用いてのやり方である。人体や動物
アブロIチ
また解剖学的研究を経験した者とそれを経験しない者とでは、芸術作品の出来ぐあいにちがいがあるのであろうか。
どのていど必要であろうか。
さまざまな人体や動物の形を描きたいと欲する美術家、また多様な彫像を刻ることを望む彫刻家にとって、解剖学や生理学の知識は
美術解剖学の誕生
家やモザイク職人たちの象徴主義から遠ざかるようになった。
先に引いたアルベルティのことばは、重要な一歩であった。フィレンツェの絵かきたちは、写実主義にむかい、初期のキリスト教画
■-/
の解剖において、骨格や筋をはじめ、腱や靭帯、体表(体の表面)などのしくみ、それらの関連、運動や動作などによるその変化など
146(11)
書
を研究することを、こんにち美術解剖学
こんにち美術解剖学と呼んでいる。
この学問は、十五世紀前半のイタⅡ
十五世紀前半のイタリアにおいて自然発生的に生まれたもので、
ロヰ・18》(「美術解剖学」)と呼ばれた。
のちに《しごgo日己四『(一の(一s》とか(シロ呉○曰団
歴史的用語として、こんにちふつう用いられているフランス語の「ルネサンス」は、イタリア語では「リナシメント」
(幻三四の9日の貝・)というが、本来これらの語は”失なわれた命などを取戻すこと“や”文芸などの復興“を意味する。
ルネサンスは、もともとイタリアの十四、五世紀から十七世紀の芸術に現われた、古典芸術の復興を指して用いられたが、いまでは
広くヨーロッパにおける芸術、文学、学問の復活の意として使用されている。
具体的には、中世的体制やキリスト教的文化の束縛から己れを解放させ、人間性の回復を主張し、現実の世界や眼前の人のすがたを
写実的に表現しようとする試みであった。この復興運動は、文化と思想のあらゆる面において総合的に行なわれた。
とくに絵画について述べると、十五世紀前半、絵かきたちが作品をより合理的、より真実らしく見せるために試みた技法の研究は、
遠近法、光の効果、人体比例、自然の事物の入念な観察とその写生、人体解剖学などであった。
写実絵画とともに美術解剖学は発達をとげて行ったのであるが、イタリア・ルネサンスにおいてはじめて、美術と解剖学との関係が
明瞭になった。古代への憧慢から、イタリアの絵かき、
明瞭になった。古代への憧慢から、イタリアの絵かき、彫刻家たちの自由な精神は、古代ギリシャの美術と再結合した。
しアリズモ
イタリア・ルネサンス期の美術家が再興しようと図{
イタリア・ルネサンス期の美術家が再興しようと図ったのは、古代ギリシャのヘレニズム時代(前三三○年ごろ~前一一一○年ごろ)の
彫刻や絵画に見られる写実主義(『の昌印日・)であった。
ギリシャの写実的な彫像(人体像や神像)は、石灰宗
ギリシャの写実的な彫像(人体像や神像)は、石灰石、大理石、ブロンズ、金、象牙、テラコッタ、木材などを用いて製作されたの
であるが、イタリアにおいては、とくに筋肉の外表において真に迫った彫像を再現しようとしたが、成功しなかった。
紀元前四世紀から五世紀にかけて活躍したギリシャの彫刻家Iフェイディァス、ミュロン、リュシッポス、ブラクシテレス、アガ
シャスなどが作った彫像は、いずれも驚くほどの解剖学的な精度をもって人体を再生したものである。
パリの「エコール・デ・ポザール」(「美術学校」)で解剖学を教えたマティァス・デュヴァル(一八四四~一九○七)は、「きわめて
(12)145
解剖小史
(蝿)
辛らつな批評をする者でも、生理学や解剖学の見地から、それらの作口叩に不正確な点をほんのわずかでも見い出すことはむずかしい」
と述べている。
古代ギリシャでは、解剖の研究や人体解剖は行なわれていなかった。死者に対する敬意から死体を解くようなことはしなかった。人
体に関する知識を直かに仕入れるために、医師ヒシポクラテース(前四六○年~三七七年)は、もっぱら動物を解剖し、四足動物の器
官と人間のそれとの間の類似点について結論を下した。医師ガレヌス(前一三○年?~二○○年?)は、サルだけを解剖したし、研究
対象も動物にしぼった。
(梱)
(棚)
ガレヌスは、人間の骸骨をいちども入手しなかったが、川がはんらんしたとき、沼地で人骨をみつけ、それをゆっくりと学ぶ機会を
得たことをよろこんだ。
(妬)
古代ギリシャ人は、人が亡くなる‐と、その死体を茶毘に付した。当時医者や美術家は解剖の経験が皆無であったけれど、芸術が求め
なぜ当時のギリシャ人は、解剖の経験もないのに、人間の形態をみ
ごとなまでに理解していたばかりか、解剖学的な精度をもってそれを
表現することができたのであろうか。
ギリシャ美術は、エジプト美術の伝統をうけついでいた。エジプト
人は、死体に香料や薬品をつめて防腐処置をするすべを心得ていたば
(柵)
かりか、解剖学の知識も有していたと考えられている。かれらはとき
に人間の腹をさき、頭がい骨を開けて手術も行なっていた。
さらに古代人のあいだには、比較解剖学の知識が広まっていた、と
考えられ、エジプト人、ギリシャ人、へプライ人、ローマ人も皆、人
144(13)
るあらゆる知識を有していた。かれらはふしぎにも人体の一般的な形態、均衡、肉体のうごき、骨や筋肉、腱など、こんにち解剖学や
ミュロン作"円盤投げ選手”
inGreekSculpture(1951)より。
生理学を学ぶことによって得られるのと同じ経験的な知識をえていた。
GiselaMA、Richter:ThreeCriticalPcrioods
[ギ神]アプロディーテ-(愛と美の女
CriticalPeriodsinGreekSculpture
(1951)より。
紀元前六世紀ごろ、ギリシャの主な都市には、
Iギムナジラミ三・sご
(14)143
ぼくかん
体の主な器官の形や位置について知っていたようである。なぜなら卜官た
(仰)
ちは、いけにえの動物の皮をはいでから、体をこまぎれにし、さらに内臓
レスリング
を入念に調べたからである。腸を調べ神意を占うのが卜官のIしごとであっ
た。
コーロス
古代ギリシャ人は、子どもの時分から、水泳や格闘技などによって体を
きたえ、またスケッチなども学び、やがて青年(丙8.の)になると、体育、
格闘技、競技、鉄輪投げに精をだし、櫛状筋(己の具冒のロのヨロのO]の②)に富
(畑)
んだ美しい、みごとな体に鍛えあげようとした。
(伯)
裸で走ったというから、彫刻家は競技場で人体の自然な形をふかく観察することができた。
(釦)
暑い南欧においては、労働者、公共のしごとに従事する賃金労働者、ガレー船奴れい、老いも若きも裸体の状態になれていたし、
暑い南欧においては、労“
体は見なれた‘ものであった。
古代ギリシャにおいて、運動選手や体育家になることは名誉と考えられ、肉体美は高貴な人格をつくる条件とみなされた。オリンピ
またギリシャ人の衣服(外衣)は、ゆったりとしており、体の発育を阻害しない作りであった。
バリウム
どである。そのため薄い上下衣と簡単な外とうだけでことたりた。またと戸外の生活が多く、裸体美術が生まれ、育つのは当然であった。
(別)
ギリシャの気候も肉体の訓練や薄着に適していた。アテネやセッサローーキの平均気温は、一月は摂氏八・九度、七月は二七・三度ほ
裸
競技者もときに全
ギムナジョンでは、肉体を鍛錬したばかりか、芸術教育もほどこした。とくに体育のときは、全裸でおこなった。競技者もとき』
と呼ばれる、”裸の練成所〃(屋内体育館)とかレスリング練習所司旦日。『bRがあった。
(パレストーフ)
また古代ギリシャは民兵をもち、強健なる肉体をもつのが 市民のつとめとされた。
神)の像Gise】aM・ARichter:Three
解剖小史
(詔)
(皿)
ァの祭典において優勝すると、賞ロ叩としてシュロの葉、花冠、芸術的な花びんなどを与えられた。
美術家は、個人の注文を》つけて製作せず、国家や神のための製作にたずさわった。
しかし、
しかし、何んといっても、勝利者にとっていちばん名誉なことは、当代の有名な彫刻家によって、じぶんの彫像を刻ってもらうこと
であった。
ここで再び先に述べた質問にもどると、』なぜ古代ギリシャの美術家ことに彫刻家は、解剖学的な研究をおこなうことなく、精度の高
い人体を再現できたのかということである。
(碗)
その答はこうである。ギリシャの彫刻家は、たえずうごいている運動家の裸体をみて、その心理を分析し、さらにモデルとなる人物
を熟視することによって解剖の知識を身につけて行ったのである。
いい換えると、美術家たちはけいこに励む前に、力と美の理想となった作品(裸体)を毎日肉眼で見、それをじぶんたちのモデルと
した。
ギリシャ美術は、若い運動家のための私塾一
若い運動家のための私塾の創設、体育の完成とともに歩んできたのであるが、〃裸の練成所〃におけるけいこがな
いがしろにされるにつれて、すたれて行った。
イタリア。ルネサンス期の美術家たちに、再び話をもどすことにする。
(錨)
十四、五世紀のイタリアのキリスト教的精神界では、美術家はギリシャ人のように常に裸体を観察することはできなかった。かれら
は、人間をテーマとし、芸術の真の対象を人体lしかも自然な人間の体11と考えた.樹々とか野原とか建物は、人間描写への蛇足
とみなした。
イタリアの美術家たちは、古代の歴史から霊感を得ることに加えて、理想的な人体美を描くために、解剖の知識を借りて、人体の構
造を知るしか依るべきすべはなかった。かれらはとっくにスポーツを生きた研究の源泉とみなしていなかった。解剖を学ぶことによっ
て、人体の表現術を研究しようとした。
かれらが人体解剖をより所としたのは、古代ギリシャ人のように、”裸の練成所“をもたず、人体の自然な姿態を観察することがで
142(15)
きなかったからである。
くわ
当時、まだじゅうぶんな鍬が入っていなかった解剖に、美術家が関心を主bち、かつ死体を切り開くようになったのは、一つには医師
から解剖図譜の作成をたのまれることがあり、それが大きな刺激になったと考えられている。
イタリアの十三世紀は、解剖がはじまった時代でもあった。十字軍に非協力的であり、そのためローマ法王から破門され、イタリア
(研)
やシチリアを支配したフリードリヒニ世(神聖ローマ皇帝、一二一五~五○在位)は、勅命を発し、すくなくとも一ヵ年間、解剖を学
やシチリアを支配したフリードリヒニ世(神酎
ばない者は医療にたずさわれないようにした。
アナトミア
その後、イタリアにおいて、解剖学は定期的におこなわれた。ボローニャ大学教授モンディノ・デイ。ルッッイ(一一一五○~一三二
(研)
(閉)
ーハ)は、はじめて人体解剖に関する論文「解剖」を執筆した。が、それが出版されるまで、学生らによって原稿が書き写され、それ
がパドゥア大学にまで広まり、のちヴェネチァにおいて刊行された。
ミケランジェロ三一&の一目、の一○
(’四八三~一五二○)
つ四七五~一五六四)
などであった。
ラファエロ元口【[血の一一○の四コご
レオナルド・ダ・ヴィンチFの。:ao8くヨ9(一四五二~一五一九)
わけ文芸復興期に異彩を放った大士云術家で解剖学の進歩を促したのは、
ル土「すンス
十五世紀のイタリアの芸術家たちの中には、人体の像を描いたり、石を掘りきざんだりするために人体の構造を知りたがった。とり
じっは斯学の進歩に寄与したのは、医学界の専門家だけにとどまらず、美術界の画家や彫塑家たちであった。
ちよ・うそ
イタリアにおいては、外科学教授は解剖学教授をかねていた。解剖学の進歩発展は外科的な実地作業に負う1ところが大であった。が、
*
(16)141
解剖小史
この三人に共通しているのは、みな解剖図を残している点である。
したい
ところがかれらはなぜ体の構造や働きに興味をもったのであろうか。それは自らの芸術の一層の向上をはかるために外ならなかった。
たとえばつぎに引くレオナルド・ダ・ヴィンチの言葉からもそのことがうなづけよう。
解剖
ラチエルティ
(杉浦明平訳「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記山』岩波書店)
どうして画家に解剖学を知る必要があるのか11裸体の人々によってなされうる姿勢や身振りにおける肢体(手足と胴体l引用者)を上手に
描くためには、腱や骨や筋や腕肉の解剖を知る一」とが画家には必要である。
レオナルド・ダ・ヴィンチと解剖
ぴの活躍をした。
かれの解剖学に関するノートは、二世紀もの間発見されることなく、埋も
れていた。当時の画家や彫刻家は、じぶんたちの芸術活動のために、人間の
体の構造を知りたいと思っていた。
人体についての知識を得るには、医学書にある解剖図を見ればよいのだが、
それらはいずれも完壁の域に達しておらず、不正確きわまりないものであっ
た。それは芸術家たちに役立たず、また満足させるものではなかった。
レオナルドの場合、かれはガレヌスやモンディーノの著書から得た先入観
を離れ、わが目で観察し、実験したことだけを信じようとした。
140(17)
レオナルド・ダ・ヴィンチは、何よりも芸術家にして科学者であった。生前、画家・彫刻家・建築家・詩人・科学者として八面ろっ
ダヴィンチが描いた肩と腕の筋肉系統の図。
W弾..=iロ
■----●Ⅱ
).:.I
蝋
EugenHolliinder:DitMedizininderKlassischenMalerei(1913)より。
ミケランジェロとアントニオ・デラ・トレが解剖を行なっている図。
によって早世したために、この計画は頓座した。
フィレンツェの芸術家は、’三八七年に公認されたフィレンツェ大学の解剖講義に
出席し、死体を実見してみて、解剖学が芸術にとって有益であることを知った。当時
の医師は解剖学上の知識を豊富にもっていたわけではないが、人体に関する経験的知
識をもっていた。
十四世紀のイタリアの芸術家たちは、医師や薬屋と親しくしていた。当時、フィレ
ンツェにおいて画家が絵具を求めるとき、薬屋から買うのがふつうであった。そして
ギルド
薬屋のいちばんの得意先であり、かつ顧客であったのは医師であった。芸術家は、薬
屋を介して医者と懇意になり、やがて「医師や薬屋の組合」(シ『『の□の】三の&○一の
の己の凶&】)に加入した。
これを契機として、芸術家たちは人体についてのさまざまな知識や情報を交換した
りした。
十四世紀から十五世紀にかけて芸術家として最初に人体解剖をおこなったのは、
ドナテルロ(一三八六~一四六六)
アントニオ・ポルティウォーロ(一四三二~九八)
アンドレア・デル・ヴェロッキオ(一四三五~八八)
(帥)
レオナルドは同人といっしょに解剖学図譜を著すつもりであったが、マルコは一一一十一一一歳でペスト
その指導を.つけて解剖学に熱中した。レオナルド
(閉)
ったマルコ・アントニオ・デラ・トレ三日8シ貝。己・ロの}]四目○口の(』自画~]臼])と交際し、
レオナルドはパドゥァ大学教授であったマルコ
などであった。
bか
(18)139
解剖小史
ともあれレオナルドは、一四八七年から一五一三年までの約二十六年間にローマ、フィレンツェ、ミラノの病院の死体置場において、
ローソクの光をたよりに、三十体ほどの男女の死体を解剖し、あまたの解剖図を描き、それに所見や説明をそえたのである。
ジョルジオ・ヴァザーリロ・『四・『ロの自(]巴」~屋》イタリアの建築家、画家、美術史家)の『美術家列伝』(一五五○年)による
(皿)
と、「レオナルドは自らの手で解剖したものを細心の限りを尽して赤いチョークで素描し、ペンで書いた綴り紙をつくった。そこにあ
らゆる骨格を一示し、つぎに順序に従ってすべての神経をつけ加え、筋肉で覆ったのである」。
レオナルドに解剖学を学ぶきっかきけを与えたのは、イタリアのルネサンス期の彫金工・彫刻家・画家であったアンドレア・デル・
ヴェロッキォ(少且『の四・の|「のロ・◎三P本名はアンドレア・デイ・ミシェル・チオネシ且『8s三】9の一のQ・ロの』屋、~g)であっ
(腿)
(㈱)
た。セル・ピエロという者が、少年レオナルドの絵の才能をみとめ、かれを画業に進ませるかどうか相談するために、素描を何枚かも
ってヴェロッキォを訪れたとき、レオナルドの運命は決したのである。
ヴェロッキォは、人体の実証的な観察をおこなうために、体の骨格や筋肉の解剖を行っていたとされる。レオナルドは、’四六六年
にフィレンツェに出ると、このヴェロッキォの工房に徒弟として入るのだが、ここでかれがはじめて体験したのは、体表解剖学を主と
(例)
する、いわゆる今日の芸用解剖学にちかいものであった。
(髄)
親方のヴェロッキォが主にやっていた解剖(表面解剖)は、死体の皮膚をはいだり、皮下にある骨格・筋・脈管など体表(か》bだの
表面)解剖学的観察であった。レオナル晦
面)解剖学的観察であった。レオナルドは、師匠のヴェロッキォから、人体の実証的研究法をまなびながら、念入りに解剖実施上)観
察をくり返し、慎重に体系化して行った。
レオナルドは、一四八一年フィレンツェよりミラノに移り住むのだが、このころからかれの解剖学研究はいっそう深まってゆく。ミ
(随)
ラノに移ってから五年後(レオナルドは三十五歳前後)に解剖学のスケッチをかなり沢山描いているが、それらはけっして正確なもの
ではなかった。かれのスケッチは、下肢の筋、後頭
ではなかった。かれのスケッチは、下肢の筋、後頭部か壷b頸・一肩にかけての筋、または頭部の水面断面図であった。
ついで六年後の一四八七年ごろになると、かれは
138(19)
上・下肢の筋の外観図
下肢の水平断面図
頚部の筋、脈管、 喉頭の走向図
(師)
などを描写したが、いずれも正確さに欠け、ときどき人間上」動物の器官を混同して描いたりした。
(胡)
レォナルドは、一五○○年、フィレンツェに戻ってきた。かれは絵画の制作(「アンギァーリの戦い」「モナ・リザ」)ばかりか、幾
何学的な実験から鳥類の解剖から飛翔の考察に没頭するかたわら、解剖学にも深い関心をもちつづけた。
このころのレォナルドの解剖図は、ミラノ時代にくらべて、著しい進歩がみられ、とりわけ脈管系の観察描写は精繊をきわめた。
レォナルドの神経。筋の付着状態や内臓の諸器官についての知識もだいぶ深化した。とくに一五○五年ごろに描いたと推定される、
内臓諸器官と脈管の関係図
各臓器(肺・心臓・肝臓。
各臓器(肺・心臓・肝臓・腎臓など)
横隔膜・肝臓・胃・脾臓などの関係図
(的)
などのスケッチは、すぐれた描写力を一示しているという。けれど機能との関係がかならずしも正確に捉えられていない。
その理由と考えられるのは、つぎの点である。レオナルドの解剖学の知識は、当時としてみれば相当高いものであったにせよ、医学
(刑)
的。生理学的水準が、いまの解剖学から見ると、それほど高くはなかった。さらに医学や生命科学そのものが、いまから見て呪術的な
論理を内包しており、その論理にもとづいた生理学が考一えられていた。
このようにレオナルドは、各》
このようにレォナルドは、各臓器、機関の機能にふかい関心をそそぎ、さらに骨学・筋学・神経・呼吸器・消化器・生殖器・泌尿器
系統や胎生学まで研究を進めた。
このうち美術解剖学の点から重要な、骨や筋肉学の研究に従事したのは、’五○八年から一五一○年にかけてであり、かれは両者を
(20)137
解剖小史
図解することに意を注いだ。
(、)
かれは人間の体を支える重要な要素としての〃骨〃と〃骨格“について、じっに適切なスケッチを描き、四肢の各部分を前面、側面、
(氾)
後面から描いた。かれは異なるタイプの椎骨を一元全に識別し、脊柱の曲線を正確に把握していた。筋学で表面的な外観(表在諸筋l引
用者)に興味をもち、そ}」から徐々に筋肉の構造や生理学(生物体の諸器官のはたらきを研究する)へと進んで行った。
レオナルドの解剖学の特色。
かれの解剖学はどのような特徴をもつものなのか。それについて近代風にいえば、
体表解剖学
人体形測学
系統および局所解剖学
個体発生学
比較解剖学
レオナルドは形態と機能をまぜた解剖生理学(機能形態学)の立場を基調として、新しい解剖図をつく
などの諸分野を網羅している。レオナルド上
り、人体構造を図で示した点に特徴がある、
0
人体を表現する必要を感じていた。
(だ)
レオナルドは新プラトン主義文化の影響をうけたとされ、美や均整、魂、すなわち運動の中に顕現する内的エネルギーの流れとして、
つもりであったようだ。
公にすることであった」 とマチィアス・一プュヴァルは述べているが、レオナルドは解剖の研究から脱却して生物学的真理の追究へ進む
(別)
「人体解剖こそ、かれが注意を向けた、土
「人体解剖こそ、かれ 解注意を向けた、もっとも特別な物であったに違いなく、またじっさいかれが計画していたのは完全な論文を
と
そのためには、先ず解剖学に習熟することが前提条件であった。
136(21)
う3
 ̄、
い
(柘)
レオナルドの解剖学研究は、いかなる手順で、 またどのような段階をふんで行なわれたのであろうか。
それは四つの段階に分けることが可能である。
多くの古文書と比較しながら文献を読んだ。
あらかじめ全てをデッサンとして描いた。
このあと、じっさい解剖に着手したが、|歩一歩、注意深く、畏敬の念をもって進めた。
さいごに解剖図譜を描いた。が、それは全体図ではない。特徴をもつ組織別に、一枚一枚描いていった。
「聖ヒエロニムス」(一四八二年ごろ、ヴァティカン美術館)
「マギの礼拝」(一四八二年、フィレンツェ、ウフィーッィ)
レオナルドの解剖学研究の成果が絵画に応用されている実例として、こんにち、見ることができるのは、
曲がった組織面を平面に投影した(心臓弁)。
体控部の形を知るために、固形化剤を注入した。
臓器を透視するように描いた。
見えないものを見えるようにした(動脈樹)。
省略法により、見えないもの←
たとえば、
またレオナルドは、広範囲にわたる解剖図を描くさいに、天才的な”トリック〃(手品)を用いた。
四三二
(22)135
解剖小史
(両)
などの一一作である。
ミヶランジェロやラファエロも、解剖とは無縁ではなかった。
ミヶランジェロは、パドゥァ大学の解剖学者マテオ・レァルド・コロンボ三四耳の。宛BEC○・一・日す。(」臼①~g)の教えをうけ、
フィレンツェやローマで解剖をおこなったとされる。フィレンツェの聖スピリトオ僧院の地下室において、人体および四つ足動物の筋
(ね)
たくけい
(ね)
肉の解剖をおこなった。解剖に熱中するあまり、時に食欲をなくし、病気(てんかん)になることもあったが、回復すると再び解剖に
(肌)
デッサン
没頭した。それは僧院長からキリストの礫刑像(高さ一一二八センチ)を彫る仕事を託され、研究材料として人体の提供をうけたからで
ある。.
ともあれ、ミヶランジェロは、誰より△公)解剖学に熱中した。そのためかれが描く素描はきわめて解剖学的であり、かつ誇張的であっ
た.当時、フィレンッニの美術家のあいだで流行していた一般的な傾向lミヶランジニロを中心とした解剖学偏重に、ダヴィンチは
非難とも警告とも取れる発言をおこない、つぎのように語っている。
l裸体でとり得る姿勢や身振りを精密に扱い得るものとなるためには、鑿、骨格、筋肉および腱の解剖を知る必要がある.(中略)この明
確な筋肉や、あ里
確な筋肉や、あの部厚い筋肉だけを描いても、しかしよく人(ミヶランジェロ?I引用者)がやっているように、他の筋肉もことごとく描くこ
とはしないがいい。
かぶ・わ
(別)
なぜなら、かれらは素描の大家らしく見せるために、材木同然で少しの優美さもない裸体を描き、そのために、それは人間の皮膚というより
ことう
胡桃袋(ぐるみl引用者)を、また筋肉隆々たる裸体というより、むしろ一束の蕪を見るごとき思いがするか》bである。
(肥)
ラファエロ1と解剖との関係について、くわしいことは分からないが、遺された画稿から、人の骨格を描写したという。
ジョルジォ・ヴァザーリの『美術家列伝』に、「かれは裸体の研究をはじめ、解剖学の図にある筋肉や死んで腺分けされた人間の筋
肉を、生きている人間の筋肉と比較照合しはじめた。(中略)さらに骨や神経や血管のつながり具合を見究めて、ラファエルロはつい
134(23)
(24)133
(鯛)
に最良の画家に要求される必須の条件をことごとくわが物としたのであった」とある。
十六世紀、イタリアの隣国フランスにも何人かの解剖学者が活躍している。
フィレンツェ生まれのグイド・グイディのロ己○○口目(]、台~$)は、パリ大学に解剖学教授として招かれたが、六年後イタリア
にもどると、ピサ大学教授となった。パリ大学の空席となった教授についたのは、アミァンの近くの貧しい家に生まれたジャック・デ
(別)
ュボァ]月目ののo:。]⑪(]ミロ~]爵、)であり、ドイツ人のヴィンター・フォン・アンデルナハニ「旨(の『ぐoご少且の曰四目(生没年不
詳)2℃パリ大学で解剖学の教鞭をとった。かれの解剖学書は、弟子のヴェサリゥスによって刊行された。
十六世紀のイタリアにおける解剖
(鯛)
死体解剖の禁止措置は、 どこの回教国でも仏教国でも緩和されることはなかった。キリスト教国だけは中世の終りごろになると例外
的な存在となっていった。
(脇)
一五○○年以後の解剖学は、つぎのような経過をたどりながら発展していった。
動物の解剖
司法解剖
防疫のための解剖
教育目的のための解剖
ンの医師、神学者ミカエル・セルヴェトゥスは、神学に関する自著○ゴ『厨冒日の目『の⑩昼昌一・において、血液の小循環や肺循環の仮説
道に導かれ、産科学はエウカリウス・ロディオンやパレの弟子ジャック・ギュイュモによって正規の地位につくようになった。スペイ
十六世紀の医学界に、ヴェサリウスの解剖用のメスとペンは大変革を起こした。外科医学は、アンブロワーズ・パレによって新たな
四三二P
解剖小史
をのべた。
(町)
その他ガレノス派の医師パルトロメオ・エウスタッキオ、ヴェサリウスの後継者レアルド・コロンボ、ラッパ管を発見し、膣の命名
者上手して有名なパドヴァ大学の解剖学教授ガブリェレ・ファロピウスなどは、ヴェサリウスの道をいっそう広げるのに貢献した。
スイスとイギリスにおける解剖
ヴェサリウスが現れる以前、ドイツ語圏で最高の解剖学者は、いずれもスイスにおいて活躍した。バーゼル出身のフェリックス・プ
(肥)
(四)
ラター句の冒勺一日の『(]田⑤~]の]←)は、ヨーロッパ各国に留学したのち故郷にもどり、約四十年間バーゼル大学の医学部教授をつと
め、解剖講堂や植物園をつくった。五十年間に約三百体の人体解剖をおこなったとされる。
カスパー・パゥヒン○口のロロ『国四目曰(届g~]①匿)は、バーゼルの解剖学者、植物学者、町医者であった。フリードリッヒ・フォ
ン・ヴェルテンベルク公爵の侍医をつとめ、また長く人々から愛された医師であった。『解剖講堂』二五九七年、バーゼル刊)を箸わ
した。
オクスフォード
(’五五七年)……ゴンヴィル医学校とカイウス医学校で解剖がおこなわれた。
(一五二○年)……早くから解剖がおこなわれた。
イギリスでは国王の許可がないと、解剖を行なうことはできなかったが、つぎの四施設は許可が下りやすかった。
ケンブリッジ
(一五四○年)..…・理髪師外科医の教育のために解剖がおこなわれた。
(釦)
ロンドン
(一五六五年)・…・・王立医師会において、教育のための解剖がおこなわれた。
解剖の革新者ヴェサリウス
ガレヌスの学説の誤りを指摘し、近代解剖学の基礎をつくったのは、ベルギーの医師で解剖学者のアンドレアス・ヴェサリウス
132(25)
〃
シロロ『8mご①の口]旨の(』臼』~量)であった。
(則)
ヴェサリウスは、一五一四年十二月三十一日カール五世の王宮薬剤師の子としてブリュッセルに生まれた。少年のころより解剖学に
興味をもち、ネズミ・犬・猫などを剖見した。かれはルーヴェン大学(ベルギー中部、プーフバント州の州都にある一四一一六年創立のカ
(蛇)
トリック系大学)を卒業したのち、一五一一一一一一年から一五三六年までパリ大学において、グイド・グイディ、ジャック・デュポァ、フォ
ン・アンーフルナハなどの講義を受講した。当時、パリ大学ではガレヌスの医学が主流であり、解剖学に至っては、主に動物の解剖をお
こなっていた。人体解剖の実習はときどき行なわれたが、内容は貧弱なものであった。
大学の授業に満足できなかったヴェサリウスは、動物を解剖したり、人骨をあつめることに力を尽くし、教会の墓地や刑場で独力を
もって解剖学にまい進した。一五三六年に友人のライネルス・ゲンマとともにルーヴェン市外の刑場に出かけ、そこで人骨採集をおこ
なった。のちかれはヴェネチアよりパドゥアに移り、一五三七年十二月二十三歳の若さで、大学の解剖学および外科学教授に任じられ
た。
やがてヴェサリウスは、ガレヌスの解剖学がイヌやサルを使ったものであることに気づき、真の人体解剖論をさし絵をたくさん添え
て、世に問うことにし、一五四二年八月に、不朽の大著
『人体榊造論』□の冒曰四日8『□o臥印[:国目(全七巻、バーゼルのヨハネス・オポリーヌ刊)
『人体構造梗概』の口・『目]Qの駐す『】88『己。『】の百日四巳一一ウ『C日日の目{oロ】の
ができ上った。
主著の『人体構造論』 はうテン語の題名が長いこともあって、
『ファプリカ』
と略称された。
(26)131
解剖小史
(兜)
本書は[第一巻]骨および軟骨、[第二巻]靭帯および筋肉、[第三巻]脈管、[第四巻]神経、[第五巻]内臓・生殖器、[第六巻]
(別)
心臓、[第七巻]脳および感覚器官よりなり、ガレヌスの動物解剖所見をしりぞけ、人体解剖所見を一不説した。
ヴェサリゥスの画期的大著は、大型フォリオで本文が六六○ページ、木版の挿絵が一一一百以上も添えられていた。
しかし、ガレヌスの権威を根底からくつがえすこの名著は、当初、世にすぐに認められず、頑迷な学者たちから非難をあびせられた。
パリ大学の旧師デュポァは、ニ
パリ大学の旧師デュポァは、一五五一年に論文を発表し、ヴェサリウスを〃狂人“呼ばわりし、ローマ大学教授パルトロメオ・エウ
スタッキオもこれに付和雷同した。
『ファプリヵ』の出版と前後して、ヴェサリウスはパドゥァ大学を辞職すると、ドイツ皇帝カルル五世やその子フィリップニ世の侍
医となり、ブリュッセルやスペインで暮らした。のち退隠の意を決し、エルサレムへ巡礼の旅に出、その帰途イオニア海で暴風雨にあ
い、病いを得て一五六五年十月十五日ザンテ島で五十歳を一期亡くなった。
ヴェサリゥスと同時代のイタリアには、すぐれた解剖学者が龍出した。耐)
骨および歯牙の発生学研究に先鞭をつけたのは、ガブリェレ・ファロッピオの:『一の」の同ロ一一・℃目。(]囲塑~g)であり、十六世紀の
ローマ大学で解剖学を教授した、ガレヌスの信奉者パルトロメオ・エウスタキオ
もっとも有名なイタリアの解剖学者であった。かれはガレヌスの教えを痛烈に攻撃した。かれはフェララ、ピサ、パドゥアの各大学に、
解剖学および植物学教授として勤務した。
I
耳管および蝸牛殻軸、副腎を発見したのは、
ロロ『←。]○日の○回口の→四R亘。(]、g~昼)であった。
(船)
ナポリ大学で教鞭をとり、のちシシリー島のパレルモで医師となったジョヴァンニ・フィリポ・イングラシアQ・ぐ目已国]召ロ・
目。、『口のの一四(]画S~g)は、著名な骨学者であった。かれは乳様突起蜂巣やあぶみ骨(中耳)の発見者でもあった。
ヴェサリゥスの後継者としてパドゥァ大学で教鞭をとったのはマテオ・レアルド・コロンボ冨日(の。”8-口○○・]・ヨワ。(」臼C~や)
ドウクトウス・アルテリオスス
であり、かれはのちピサ、ローマに転任した。コロンボは解剖学の先達の誤りを指摘し、聴骨や滑車神経について記述した。
妊娠、子宮、胎児について論文を発表し、動脈管(胎児の肺動脈と大動脈をむすぶ短い血管)を発見した、ギウリオ・チェ
130(27)
ザーレ・アランッィオ○こ】・○の②胃の胃自国一○(]$C~g)は、ボローニャ大学で三十一一一年間も教鞭をとった。
パドゥア大学で終生解剖学に献身したジロラモ・ファブリチオgo]四目・句:円冒。(]$『~]s①)は、比較解剖学や外科学にもすぐ
れていた。その弟子のジウリオ・カセリオQ目○○四mの図。(]田]~]の]①)は、ファブリチオの跡を襲って解剖学教授となり、発声器
れていた。その弟子のジ畔
や聴器の図譜を著わした。
一六一一一二年以降、パドゥァ大学の解剖学および植物学の教授となったのは、ドイツ人のヨハン・ヴェスリング]・冨目『のの一曰、
(]9m~]つち)であった。かれが著した『解剖学書』(の目白、曰四目go目2日]s②)は各国語に訳され、半世紀以上にわたって教
書として用いられた。ヴェスリングは同書と講義とにより名声を博した。
外科学と比較解剖学をもって名望が高かったのは、マルコ・アウレリオ・セヴェリノ三四【8鈩冒の}】・の①ぐの『曰。(]田◎~]$◎)で
あり、長くナポリ大学の教授を勤めた。
つぎにドイツの解剖学者について述べてみよう。
一五一七年ルーターが「九五カ条」を貼りつけて宗教改革の口火を切った町として知られているウィッテンベルクにおいて、涙器や
医史学、法医学上の善
史学、法医学上の著述によって知られたのは、ウィッテンベルク大学教授のサロモン。アルベルティの巴○日・ロシ]すの耳】
(勗色~]@s)であった。
十六世紀にすぐれた解剖学者が誕生したことによって、人体の構造がいっそう明らかになったが、これに伴なうべき生理学の進歩と
なるとはなはだおくれていた。
顕微鏡的解剖学の誕生
古代人は、水晶や透明石などを磨いてつくったレンズで、物を拡大して見ることをすでに知っていた。またアラビア人は、平凸面レ
(w)
ンズのことを知っていた。顕微鏡の初期の歴史については明らかでないが、複式顕微鏡(レンズ|箇だけのものに対して、二箇以上の
レンズを用いたもの)は、一五九○年ごろすでに存在していたらしい。それは、オランダ南西部ミッデルブルフのメガ、不製造者ザッカ
(28)129
解剖小史
(卵)
リァス・ヤンセン自画・ゴロ『一四m]目の⑩のロ(生没年不詳)によって発明され、倍率は九倍ほどであった。
(的)
この顕微鏡を率先して学術上の研究に用いたのは、イタリア人のフランチェスコ・スティルティ向【目8m8m(①一一日〕(]ヨヨ~]①臼)
であり、かれは蜜蜂の眼や頭などの研究のためにそれを用いた。
顕微鏡の発明は医学に応用され、新境地の開拓に大いに貢献するのだが、顕微鏡を使用して種々の解剖学的研究をおこなったのは、
イタリアの著名な解剖学者、組織学者のマルチェロ・マルピギー宣胃Cの]}○三四一口召】(]Sm~①』)であった。
一六二八年一一一月十日、ポローーーャの近郊クレヴァルコレで生まれたマルピギーは、ボローニャ大学でまずアリストテレス哲学を学ん
だのち、医学に転じ、一六五六年二十八歳でピサ大学教授となった。が、数年後健康上の理由からポローーーャに戻った。かれは数々の
(伽)
医学上の発見(動脈と静脈との結合、腎臓のマルピーギ小体)を論文にまとめて発表した。が、顕微鏡的研究は無益のひまつぶしの仕
事‐こし、ガレヌス医学の擁護者たちから敵視された。
(川)
マルピギーの最大の敵は、ピサ大学の解剖学教授パオロ・ミーー、同じく講師ジョバン一一・ズヴァラリアであり、真理はガレヌス医学
(皿)
にあると主張した。一六八九年かれは覆面をした大学関係者に襲われ、命さえ脅かされた。’六九一年ローマ法王イノチェント十一一世
の侍医となってか蕾bはローマに移り、はじめて安穏な生活を送ることができた。
マルピギーの医学上の重要な業績には、つぎのようなものがある。
血細血管および血球の発見
肺の気胞構造
その気胞壁に分布する毛細血管網、腺・脾・神経の構造および発生学上の知見
歯の象牙質と骨質との区別
表皮の脂腺、脂肪細胞
脳の組織、脊髄の繊維小索
128(29)
(伽)
マルピギーの門下生の中から、ピサ、ポローーーャ大学教授フラカサッティ、シルヴェストロ・ブオンフィリオリ(の一一『の異【・
国ロ・ロ【一m一一・一一)などが龍出し、とくにフラカサッティはマルピギーとともに脳や舌の研究をおこなった。
十七、八世紀のイタリアにおける解剖学者として名声を博したのは、フィレンツェ生まれのロレンッォ。ベレーーFoHの目・ロの]]目
(}③盆~弓三)である。かれは弱冠二十一歳でピサ大学教授となったが、飽かずたゆまず研究に精進した。十九歳で腎臓の構造および
L・わく
(Ⅲ)
機能に関する論文「腎臓の構造」(□の⑩(目。白『口『の自曰』①s)を著わした。かれの文体は明蜥をもって聞えていた。ベレニはついで
味覚、尿、脈榑、刺絡(静脈に刺して、悪血を流し去る)などについて論文を発表したが、臨床家としても一流であった。
アントニオ・マリア・ヴァサルヴァシ員・日○三四『厨ご巳⑫四一く口(]&①~」『圏)は、マルピギーの弟子であり、耳の解剖(鼓膜、小
骨、半規管)と生理学に関する研究でその名は知られていた。かれはそのため数百の屍体を解剖し、その成果を『人間の耳について』
骨、半規管)と生理学に関する研究で
(Cの目『の百日目砂]『三)に問うた。
ツパの医学界で〃医化学の祖”と呼ばれたのは、スイスの医学者・化学者のパラヶルスス(本名・弓苣の。g日の目の
十六世紀のヨーロッパの医学界で》
)ずの目の目・Eg~〕臣])であった。もうひとりは”近代外科学の父〃と呼ばれる、フランスの外科医パレ
団OBウロの庁巨のぐ○口四○ずのロロの冒貝E①単
鈩曰耳○一のの宅囚臥(]□S~g)である。
後者のパレは、メーヌ地方マイェンヌ県ラヴァルの町にちかい片田舎に生まれ、はじめ床屋の徒弟となり、のちパリで最古の病院
「オテル・デュ」で外科学を三、四年修業し、医師となった。かれは軍医としてたびたび戦場におもむき、治療にあたった。銃創の新
治療法(卵黄、バラ油、テレビン油をまぜ合わせたものを傷口にぬる)をはじめ、焼灼するそれまでの止血法に代わって、
動脈の緊縛
ヘルニアの手術
骨折および脱臼の処置
気管切開
兎口の手術
(30)127
解剖小史
包帯法
(肱)
異常分娩(胎児を回転する術)
などを創案発明した。その偉業の多くは、修業時代につちかった解剖学の知識に負うところが大きかった。
(順)
十七世紀のイギリスにおいては、医者・生理学者ウィリァム・ハーヴェーミ旨画曰四四コのど(]巴、~]①ヨ)が最も重要な人物とさ
れ、その影響が著しく、解剖学、生理学研究が一時さかんになった。
ハーヴェーの門下生フランシス・グリソン(]巴『~届。)は、肝臓および動物運動の研究で顕著な業績をあげ、またその友人トーマ
(M)
ス・ワートン(]Sc~己)は、顎下腺分泌管の発見者として知られ、さらにナサネル・ハイモーァ(]S②~忠)は、上顎洞と男子生殖
(咽)
器構造(睾丸縦隔)の研究をもって有名であった。そしてリチャード・ローワー(]①四]~①])は、心臓解剖においてすぐれていた。
十七世紀のヨーロッパの大学における解剖学。
医学部をもつヨーロッパの圧
医学部をもつヨーロッパのほとんどの大学は、
人体解剖を冬期の正規課程にかかげていた。が、教育の一環とIしての解剖を阻害して
いたものは死体不足であった。
だから規則正しく解剖実習をおこなうことはできず、人屍に代わって動物の死骸を利用するか、高価なろう製模型を使用するしかな
かつた。
ボローニャ大学では、全修学期間を通じて、学生がじっさい解剖実習にたずさわったのは、わずかに三回であった。ストラスブール
大学では、毎回十六日間にわたり、数体の1
学では、毎回十六日間にわたり、数体の人屍と動物屍とを併用した。イェナ大学では、一六一一九年に二死体を解剖し、一六三一年以
降毎冬期、同ていどの解剖がおこなわれた。
大学には〃解剖講堂〃(『宮のg日日目鼻・目目曰)が設けられ、そこで講義と解剖がおこなわれた。解剖執刀者の多くは外科医また
は理髪師であり、教授は手をくださず、ただラテン語で書かれた医学書の講釈をするにすぎなかった。
じっさい死体を切り開き、体の構造や形態を実見することができなければ、とうてい解剖学の知識を身につけることはできない。
126(31)
アクト・オブ0パーラメント
ョ1ロッパのどこの国においても深刻であり、 そのため墓を発掘し、死体を盗みだし、それを売買する商売も生まれた。
死体不足は、ョ1ロッパのど一
イギリスの実例を見てみよう。
イギリスにおいては、’五四一
’五四一一年に早くも国会制定法により人体解剖の重要性がみとめられ、理容師や外科医の組ムロは、処刑人
の死体を入手することができた。
スコットランドのグラスゴーやエディンバラの医学校は、定期的に死体を手に入れていたが、それは貧困者たちが葬られる墓地から、
‐死体盗掘人」(『の⑫貝【の2○コ目目)
「死体盗掘人」(『の2月の
が盗取したものであった。
(川)
エディンバラの解剖学者がダルのふたを開けたところ、そこから出てきた
塩水の入ったダルの中に入れて運ばれた。貧窮者が埋葬される墓地は、番人がいないために出入りがやさしく、死体の盗掘
死体は、塩水(
が容易であった。
、、、、、
まい子になることがあった。
ときどきダル積めの死体が、まい子』
のは死体ならぬハムのくん製であった。
盗掘人はグループをつくり、またグループ同士の抗争も起った。死体の値段は、一体が数シリングから数ポンドするものまであった。
十七、八世紀、解剖学の教師や医学生が、墓地の死体を盗掘するのが慣例となっていた。十八世紀末、とくにロンドンでは、どの墓
(Ⅲ)
にも番人を置く必要が生じた。墓番は、一方の手に〃朝顔形の口をしたピストル“を、もの片方の手にはグログ酒(ラム酒の類)の
地にも番人を置く必要が生じた。墓番辿
入ったピンをたずさ一えて仕事についた。
(Ⅲ)
非合法的手段で墓をあばいて死体を手に入れたとしても、死体不足の問題は解消されなかった。そのため死体の欠乏をろう製模型で
補ったり、動物(犬など)を用いて剖検の練習をした。
十七世紀の解剖
十六世紀は解剖学の隆盛にむかった時代であるが、つぎの十七世紀もヨーロッパ各国において解剖学が盛んであった。パドヴァやポ
(32)125
解剖小史
こ》つ
どう
ローニャの大学に学んだスイス人医師のカスパール・パオヒン○四8回『恩目曰(]⑪s~]s←)は、解剖学や植物学研究でその名を知
られ、ジウリオ・カセリウスの目一.○四の印の『旨の(】患]~]の]①)は、耳と喉頭の研究で有名であり、『解剖表』を著した。
ボローニャ大学解剖学教授であったアントニオ・マリア・ヴァルサルヴァシ日○二一・二目囚く口]のロぐ四(冨霊~』『圏)は、大動脈洞
口・己。の冒巨のの研究で知られていたが、耳の解剖学的特徴を描いた『人間の耳』(□のシ旨の出口白目四.]『E)を著した。
ジョヴァンニ・バティスタ・モルガニgoぐ自己国四三の白三・『ぬP、己(〕②田~〕『『])は、病理学的解剖学者である。十六歳でポロー
(皿)
カ
ーーャ大学に入学し、ヴァルサルヴァに師事し、病理学研究を生涯のしごととした。二十五歳のとき、ボローニャ大学の講師兼死体解剖
者となった。
ー七一五年パドヴァ大学解剖学教授に栄転したが、肛門柱、虫垂、舟状骨の窩などの分野で数々のすぐれた研究を発表した。
その他、さまざまな医学分野において独自の貢献した医学者、解剖学者につぎのような人々がいる。
ガスパレ・アセリ○mg四『のシの、の一一(]、巴~」s①)……………………………………ミラノ生まれ、胆汁管とリンパ管の発見者。
かっか
レニェ・ド・グラーフ幻の傾已の『Qの○『g{(]窪]~『])……………………………オランダの医師で解剖学者。小胞の発見者。
じか
トマス・ウォートンヨヮ・日四mミロロ『(。。(]@屋~『函)……………………・………:イギリスの解剖学者。顎下腺の発見者。
どう
ニコラウス・ステノヱ】8]目印の(のロ。(』Sm~忠)…………………・……………:デンマークの医者、博物学者。耳下腺の発見者。
じんう
ナサニェル・ハイモァヱ四s目一の一四輌冒】。【の(扇一山~圏)……・…・……・…………イギリスの医師。上あごの空洞の発見者。
ロレンゾ・ベリニトC『の目・国の一一日】(]③念~』『E)……………………………………ピサの人。尿をあつめ腎孟へ送る管の発見者。
ヨハン・コンラッド・ブルンナー]。g目○○コ『且西日目の『(屋団~]「日)……ハイデルベルク大学の解剖学教授。十二指腸腺の発見者。
ウィリァム・カウパーミ目四日○・○℃の『(】3つ~』『g)・……………………・……・イギリスの外科医、解剖学者。カウパー腺(男性の尿道球腺)
の発見者。
カスパル・バルトリン○四のロ山『国胃sC-ヨ(]句囲~]『患)……………………:……・コペンハーゲン大学の医師・解剖学教授。大前庭腺の発見者。
フレデリック・ライシュ厚巴の『一戸幻昌の:(]$②~]扇]):……………・………冠状動脈の解剖に貢献。
124(33)
P旧■
17世紀のライデン大学の図
北イタリアの諸都市にある各大学は、解剖学の分野で顕著な活躍をし、ことにパドヴァ
大学はその先駆的な役割をはたした。が、同大学に負けずおとらず、医師の養成と解剖学
研究で大きな影響を与えたのは、オランダのライデン大学であった。
十七世紀の前半、パドヴァやライデンの大学の医学部で学ぶものは多かった。とくにこ
(胴)
れらの大学は、留学生に人気があった。その理由として挙げられるのは、教育水準の高さ
や博士号を取得するのが容易であったことである。
まずライデン(レイデン)大学から述べてみよう。この大学は、一五七五年にオラーーエ
公ウィレム一世(一五三三~八四)によって創立された。一五七四年五月から十月にかけ
て、ライデンの町はスペイン軍に包囲された。そのとき市民は、勇敢に戦い、包囲軍を撃
退した。
戦いが終ったとき、国王はラィデン市民の勇気をたたえ、ほうびを与えることにし、税
の免除か、
免除か、大学の創設か、好きな方をえらぶようにいった。ライデン市民は、大学のほう
を選んだ。
ライデンというこの〃知的な聖域“から、数多のすぐれた人物が輩出した。
クリスティァン・ホィヘンス(一六二九~九一一一)……………………オランダの物理学者。遠心力の法則や土星の環を発見。
七○八年)を著した。
ヘルマン・ブールハーフェ(一六六八~’七三八)…………………オランダ医学者。ライデン大学教授。臨床家としてすぐれ、『医学論』(一
ヒューゴ・グロティゥス(’五八三~一六四五)……………………オランダの政治家、法学者。〃国際法の祖〃と呼ばれた。
を風刺した。
デシデリゥス・ウラスムス(一四六六~一五三六)…………………オランダの人文主義者。一五○六年『痴愚神礼賛』を著し、王侯貴族、教会
JamesMoores BaⅡ:TheSack-Em-UpMen (1928)より.
(34)123
解剖小史
アントニ・ファン・ルーウェンフック(一六一一一二~一七二三)……オランダの博物学者。単レンズ顕微鏡を発明。赤血球、動物の精子を発見。
ライデン大学の医学部は、外国人とくにイギリス人に人気があった。たとえば一七○九年から一七三八年の約十年間に学んだ一九一
九名の留学生のうちの大半はイギリス人であった。
イングランド出身者………三五三名
スコットランド出身者……二四四名
アイルランド出身者………一二二名
ラィデン大学医学部の令名を高めた最大の功労者は、ヘルマン・ブールハーフェ■の『日ロ自国oの【冨口ぐの(]②g~ゴ路)であった。
かれは医学教育の改革に手をつけた当時の最もすぐれた臨床医学者、化学者、植物学者、解剖学者であった。
ブールハーフェが生まれるずっと以前の一五九七年、大学に”解剖講堂〃がはじめて造られたが、その製作の指導にあたったのは、
アムステルダム生まれのピーテル(又はペトルス)・パウ国の(の『(勺の(『Eの)勺:言(]詔』~]巴『)であった。
パウはライデンやパリの大学で学んだのち、ロストック(ドイツ北部港町)の大学で学位をえた。
かれはライデン大学の初代の解剖学教授となったが、同大学の解剖学教育を一躍有名にしたのは、ドイツのフランクフルト大学から
招いたベルンハルト・ジークフリート・アルビヌス国の日冨己四の、(『]の□乞亘目、(一s『~]。◎)が来てからである。
アルピヌスは二十四歳の若さで、解剖学と外科の教授に就任した。かれは一七四七年骸骨や筋肉に関する論著『人体の骸骨と筋肉の
(川)
表』(『:巳四ののCの]の(一の庁日Pの8]・日日8s・鳥)を公刊した。アルビヌスは筋肉をはじめて体系的に分類した人であり、かれが筋
肉につけた名称は、解剖学の専門用語としていまも用い》われている。
もう一人著名なオランダの解剖学者がいるが、その名はフレデリック・ロイス句円の。①『一戸両目の○す(]9m~」囹])という。
122(35)
ロイスはアムステルダムに生まれ、一六六五年同地の大学の解剖学教授に任じられた。かれは血管やリンパ管に液体を注入する方法
(順)
を考案し、それによって人」
考案し、それによって人体の各部位や器官のもっとも小さな脈管までも見ることができるようになった。かれは”解剖学を観察する
科学“のレベルまで盲同めた。
ロイスは液体注入法や独自の防腐処理によって、解剖や生物学上のサンプルを保存することができ、博物館まで作った。そのロイス
のコレクションを見学したのは、ロシアのピョートル一世(一六七二~一七二五)である。
このロシアのツァーは、珍奇なものを偏愛したことで知られているが、ロイスの博物館を訪れたとき、防腐液の中の子供の死骸を見
(服)
、、、
た。かれはその顔があまりにも生きとしていることに驚き、その死体を得たいとおもい、三万フロリンの大金をはたいて、博物館ごと
手に入れてしまった。
解剖用の死体が不足していたのはオランダも同じであった。そのため解剖学者は、代替物として木やろうで模型をつくった。十六世
紀中葉に、アムステルダムで最初の公開解剖がおこなわれた。
当時、アムステルダムの外科医たちは組合をつくっていて、定期的に人体解剖をおこなっていた。その会員であったニコラース・ト
ルプ目8」目印弓已已医師(一五九一一一~一六七四)は、七名の組合員である医師たちに人体を解剖して見せたが、その様子を絵(”トル
プ医師の解剖図〃)に描いたのは若き日のレンブラント(一六○六~六九)であった。
この絵はニハニ八年に描きはじめ、四年後の一六一一一二年に完成した。トルプ医師はヴェサリウスの信奉者であった。アムステルダム
市長を勤めたこともある解剖学者であり、外科組合の死体解剖の任にある執刀者であった。
パドヴァ大学の名声。
パドヴァは、ヴェネチァの西三十八キロに位置する北イタリアの町である。ローマ時代にもっとも豊かな町の一つとして栄えたパド
ヴァは、交通の要衝であり、丘陵を背景に水濠が街を取りかこんでいる。
(川)
この町にある大学が大きな名声を博したのは、自由主義と知的な雰囲気がみなぎり、著名教授をたくさん擁してからであると考えら
れている。当時、パドヴァは文化と商業と貿易を中心として栄》えていたヴェネチァ共和国の一部であった。
(36)121
解剖小史
ガレノス学説の誤りを指摘し、近代解剖学の基礎をつくったベルギーのアンドレァス・ヴェサリウス(一五一四~六四)は、二十三
歳の若さでパドヴァ大学の解剖学・外科学の教授となった。かれの後継者として名声をはせたのは、
(一五二三~六二)
マテオ・レァルド・コロンボ三四耳の。宛gl8oo-・『:。(一五一六?~五九)
ガブリエレ・ファロピオ○四ワユの}の司凹一一○℃ロ。
(一五六一~一六一六)
ヒェロニムス・ファプリシウス田の『。□]『目⑫句:『自巨の(一五一一一七~一六一九)
ジウリオ・カセリウスの旨一一○○酷の。『E②
の四人である。
コロンボは一五一六年北イタリアのクレモーナ(ロンパルディア州南部の県)の町からさほど遠くない村に生まれた。少年のころか
ら動物の解剖に興味をしめし、十四歳のとき、薬店に徒弟に入った。のちにかれはミラノに移り、’五三五年にはベネチアに赴き、ジ
ョァンネス・アントーーオ・プラトという名の医者のもとで外科学を学んだ。
コロンボはこの師匠に勧められ、パドヴァ大学の医学部に進んだ。かれはヴェサリウスの講義や解剖の実地授業にも出席した。師の
サピエンッア
ヴェサリウスがパドヴァ大学をはなれると、同人に代って解剖学を教えた。
’五四四年、コロンボはピサ大学に移り、一五四九年にはローマ大学の教授に迎えられた。かれが彫刻家・画家・建築家・詩人と
して著名なミヶランジェロ(一四七五~一五六四)と面識をえたのはローマにおいてであった。
(Ⅲ)
コロンボは〃肺循環〃を発見し、肺や心臓のうごきを説明するために動物を用いた。死体解剖の著述としては、一五五九年に刊行し
た『解剖』(□の『のシご日。且8)がある。
(畑)
スペインのイエズス会創立者イグナティウスーデーロョラ(一四九一?~一五五六)がローマで亡くなったとき、その遺体を解剖した
のはコロンボであった。
120(37)
パドヴァ大学においてヴェサリウスの後任者となったのはファロピオである。一五二三年イタリア中北部のモデナ(ミラノの南東一
七二キロ)に生まれ、はじめ僧侶になる勉強をはじめた。が、医学を学ぶためにフェラーラ(イタリア北部)に赴いた。記録によると、
一五四四年十二月十三、十四日に、モデナの町の外科学校で死刑因の死体を解剖した。
ファロピオはヴェサリウスの著述に深い感銘をうけた一人であった。が、この偉大な教師の講義や解剖の実演に出席したかどうか定
かでない。
ともあれ二十六歳のとき、コロンボによって空席となった教授職につくためピサ大学に移り、さらにパドヴァ大学に招へいされ、そ
こで解剖学・植物学・外科学などを教えた。かれは〃卵管”(・ぐ】目g)の発見者として知られ、また著述としては、ヴェネチァで刊
行した『解剖所見』(○すの①円く目○口ののシ二日・目Bp扇巴)がある。
ファロピオの弟子であったのが、ファブリシウスである。かれは一五三七年、イタリア中部の市場町オルヴィェトに近いアクァペン
デンテに生まれ、はじめ哲学を学んだが、のち医学に転じた。一五六二年ファロピァの跡をついで、解剖学教授となり、一六一三年ま
デンテに生まれ、はじめ哲学を坐
で五十年ちかくその職にあった。
ししとして研究に勤んだ。 とくに〃胎児“や動物に関するさまざまの研究を行ない、比較
かれは人体の構造を正確に明かすために、ししと‐
解剖学、発生学、機能解剖学の分野にも秀でていた。
生前、多くの著述や発見をなしたが、発生学の代圭
発生学の代表な研究としては『鳥の卵の発生』(発行年未詳)があり、また『血管内の弁』□
などもある。
六○三年)、『胎児の形成』(一六○四年)などもある
バドヴァ大学でファブリシウスの跡をついだのは、イタリア北部の町ピァチェンッァ(ミラノの南東六六キロ)で生まれたカセリウ
,せん
スである。かれは医学部を出てから、師のファブリシウスの助手となり、この間に解剖学の技術をまなんだ。
かれは正確をモットとするすぐれた解剖学者であった。まぶたの中の腺について説いたのは、かれが最初であった。カセリウスは、
耳や喉頭に関する比較解剖学の研究でその名を知られていた。その代表的な著述としては、『聴覚器官の声』(一六○一年)、『解剖表』
(一六三二年)その他がある。
(38)119
解剖小史
近代医学のはじまり
イギリス人の医者、生理学者のウィリァム・ハーヴェイ言冒四目国胃ぐの](』臼の~」①臼)をもって、十七世紀の”実験医学〃がは
じまった。ハーヴェイはヴェサリウスと同じように解剖の上手な医学者であった。
一五七八年四月、南イングランドのフォークストンで、九人兄弟の長男として生まれた。父は町の名士であり、いちど町長にもなっ
た。十歳のときキャンタベリーのキングス・スクールに進み、五ヵ年間在籍した。’五九三年ゴンヴィル。アンド・カイァス。カレッ
ジ(一三四八年創立)に転じ、自然科学や人文科学を中心に学んだ。
一五九七年、ハーヴェイは学士の学位をえると、翌年パドヴァ大学の医学部に進学し、一六○二年四月博士号を取得した。同年、イ
カレッジ
ギリスにもどりロンドンで開業した。一六一五年にはカレッジ・オブ・フィジシャン(”医学校”)で教えるようになり、二九年にはチ
ヤールズ|世の侍医になった。
’六四一一年にはオクスフォード大学で教え、四五年から四六年までマートン学寮の学長をつとめた。
ハーヴェイの名を不朽のものにしたのは、’六二八年に刊行した主著『動物における心臓と血液の運動の解剖学的実験』
(伽)
(因滉の『昌昌oPpgo目3Dの]》{・日○・『曰の①(の目的已己⑫旨シ日ロ】四一冒巨の)であった。これは七十一一ページの小冊子にすぎなかった
が、ガレヌスの説を完全にくつがえす、画期染
が、ガレヌスの説を完全にくつが》えす、画期的な内容をふくんでいた。
ハーヴェイは、同書において血液が循環すデ
ハーヴェイは、同書において血液が循環すること、その原動力は心臓の榑動にあることを実験により明らかにした。これは医学史に
おける新しい時代を開く大きな発見であった。
(Ⅲ)
かれはパドヴァ大学在学中、ガリレオから数学と天文学を、ファブリシウスの講義からは”静脈弁〃のことを聞き、それが血液の逆
流をふせぐものにちがいないと考一え、それが大発見のきっかけを与えたという。
ハ1ヴェイに先立って血液の循環を予見したのは、イタリアの医学者、植物学者のアンドレァ・チェザルピーノン且司の四○の田一口ロ・
(」巴①~]s⑭)である。かれはパドゥヴァとピサの両大学で哲学と医学をまなび、’五五五年、ピサ大学の植物学と医学の教授となり、
118(39)
(週)
さらに九一一年、クレメント八世の侍医となるため首都に移り、ローマ大学医学部教授となった。
一五八三年『植物について』eの
一五八一一一年『植物について』eの四口貝一の)を公刊し、同書において植物の受精器官による分類体系を発表、スウェーデンの医者、
植物学者リンネにも影響をあたえた。
ミラノの南三八キロの所にあるパビーァ大学(一三九○年創設)の解剖学教授であったのは、ガスパロ・アセリの口の己胃・少の①]一一
(]認]~]S「)である。
リンパ管については、ファロピウスやヴェネチァの解
ファロピウスやヴェネチァの解剖学者ニコロ・マサ呂o8-ogPの切四(]亀①~]画g)らが発表していたが、血
管の機能的な重要さについてはよく知られていなかった。
にゆうび
アセリは最近まで飼っていたイヌが死んだので、 その死体を解剖したら、腸内膜に白い糸状のものを沢山みつけた。
一六二二年七月、ァ」
それは乳嘩管であった。
アセリは、血液は肺動脈を通り肺に運ばれ、空気とまざったあと肺静脈を通って左心室にもどると考えていた。
その他、大きな医学上の発見をした人物について述べると、つぎの人々がいる。
シモン・パウリの】ロ]8勺口昌一(一六○三~八○)…………………………………胸部の管を発見。
にゆうび
ジョン・ヴェスリング(一五九八~’六四九)・…・……………・…………………ヴェネチァ大学の外科、解剖学教授。胸部の管、リンパ管など
を実地説明をした。
ジャン・ペケ]の目での8口①((一六二一一~七四)……,……………・……………・…フランスの解剖学者。乳摩や乳廃管の発見者。
トマス・パルトリンニ・曰四⑪国囚『房・盲(一六一六~八○)・………・…・・……・・コペンハーゲン大学解剖学教授。リンパ腺に関する所見で知ら
れている。
オロフ・ルドベック○」・【用且すの○戸(一六三○~一七○二)…・・……………・…スウェーデンの科学者。リンパ系の発見者。
ヤン・スワンメルダム]目の邑四日日の『:ロ〕(一六三七~八○)・…………・・……オランダの博物学者。ライデン大学医学部に学ぶ。リンパ管の
弁の発見者。カエルの発生について研究。
(40)117
解剖小史
ミヵェル・セルヴェトゥス冨○富の」の①『ぐの白の(一五一一~五三)………………スペインの医師、神学者。ジ
スペインの医師、神学者。ジュネーブで異端者として焚殺され
た。血液の小循環や肺循環の発見者。
リチャード。ロゥワーョC高aFoざの『(一六一一一一~九一)・………・…………・イギリスの医師、生理学者。動物輸血のパイオニア。
ウィリァム・チェルセルデンづ「旨四日○旨のの一口のロ(一六八八~一七五二)……イギリスの外科医、膀胱結石切除術や虹彩切除術で知られた。
『人体解剖』二七九五年)を著す。
十八世紀のイギリスの医学界において有名であったのは、外科医、解剖学者のジョンとウィリアム・ハンター兄弟であった。ウィリ
ァム・ハンター言昌四日四目庁の『(]『]、~忠)は、一七三一年グラスゴー大学に入学し、三年後に卒業するとスコットランドの医師ウ
イリァム・カレンの徒弟となった。
やがてウィリァムはロンドンに出ると、セントジョージ病院に勤務した。一七四一年から翌年にかけて、外科医で解剖学者のジェー
ムズ・ダグラスの助手となり、かたわら解剖学者フランク・ニコルズ(一六九九~一七七八)の講義を聴いた。
ウィリァムはのちに解剖学者、産科医として、またグレート・ウィンドミル街に「解剖学校」を創ったことで知られる。
弟のジョン・ハンター]・百出巨日国(]『腿~田)は、ロンドンの兄ウィリアムの学校で解剖学を、チェルシー病院のウィリアム・
チェルセルデンのもとで外科学を学んだ。一七六○年から六三年まで軍医としてポルトガルに赴き、帰国後はロンドンで開業した。六
七年セントジョージ病院の外科医となり、九三年には陸軍軍医総監となった。著述としては、銃創による炎症や動物の組織に関するも
のがある。
十八世紀になると、顕微鏡の発達と使用により、人体の奥深くまでのぞくことができるようになり、解剖学者の研究に新しい展望を
ひらいた。解剖教育は、各国において盛んになると、人体解剖や博物館に収蔵されている標本などの研究にも力を入れるようになった。
また当時の著名な学者の手で、解剖学の教科書や解剖図譜などもつくられた。
私立の解剖学校や解剖研究所が欧米の各地につくられるようになった。
この時代、解剖学の科学的な基礎に顕著な功績をあげた解剖学者は数多いるが、つぎにその名をかかげてみよう。
116(41)
フィレンツェ大学解剖学教授。ろうで解剖学上
フェリーチェ・フォンタナョの]】8句o員:ロ(一七三○~一八○五)…・・……………・……………フィレンツェ大学解剖学教授。
の標本をつくり、多くの学校で用いられた。
ヤコブ・ベニグヌス・ウィンスロー]四六・ワロのロ一瞥Pのミヨ⑪一。三(一六六九~一七六○)………パリ大学の外科、解剖学教授。臓器を取り去る
ことなく、その本来の場所で解剖することで知
られていた。
ヨハン・ナタナエル・リーバーキュン]・冒目z日。:四の一口のワの『穴昌ロ(一七一一~五六)……ベルリンの医師、解剖学者。脊髄動物の目を研
究し、腸線を発見した。
ガスパール・フリードリヒ・ヴォルフ○四切目『『『-818三○一廟(一七一一一一一一~九四)……………ベルリン、大学講師。『発生論』(一七五九年)
そけい
を発表。現代発生学の基礎をきづく。
:…………・……ドイツの外科医、
ドイツの外科医、植物学者。’七五五年眼につ
発表。
ドイツの医師、筋膜や鼠径部の一一一角筋について
フランッ・ヘッセルバッハ同『口目函のい⑪の-99(一七五九~一八四五) …・…………・………・……ドイツの医師、
ヨハン・ゴットフリート・ツイン]Cゴ目pooヰヨ8国ごロ(一七二七~五九)
いての最初の解剖学書を著す。
フリードリヒ・シュレム句181●ずの○三の日ロ〕(一七九五~’八五八):……・……………………ベルリン大学解剖学教授。輪筋(開口部を輪状
にとりまく)を発表。
………………………ハイデルベルク大学の解剖・生理学者。
ハイデルベルク大学の解剖・生理学者。人体の
た最初の人。
ドミーーコ・コッニョロ・日の日○○○○日、ロ。(一七一一一六~一八二二)・…・…………・…………………イタリアの解剖学者。脳脊髄液について詳説し
フリードリヒ・テーデマン句『一目『-8国の月日:ロ(’七八一~一八六一)
動脈について図譜を刊行。
剖で有名。
イタリアの外科医、解剖学者。眼や神経節の解
アントニオ・スカルパシロ8己om8B四(一七四七~一八三二) …・…………・………………・……イタリアの外科医、
マルクージャン・ポールジェリ三胃?]3口国。■『ぬのミ(’七九七~一八四九)……………………フランスの解剖学者。人体の構造について百科
(42)115
解剖小史
全書的な書物を八巻著わす。
(隅)
十八世紀になると、ふつうの解剖学教育は、ヨーロッパ各国でおこなわれたが、重要な発見となると前世紀より少なかった。当時の
解剖学研究の中心は、オランダからパリに移り、さらにパリからスコットランドの首都エディンバラに移っていた。
(川)
医科学のたいまつは、いつも一国、|都市だけでいつまでも燃えていたわけではなく、それは”鬼火”のようにとらえ所のないもの
であった。世界の金融の中心がヴェ、不チァからアムステルダムに、さらにそこからロンドンに移行したように、解剖学も移動をつづけ
(噸)
た。
(剛)
エディンバラは、解剖学の教育で知られていた。’七二○年一月二十九日l市議会は、スコットランドの軍医の息子であるアレキ
サンダー・モンローを年俸十五ポンドで〃市と大学の解剖学教授“に任命した。アンドレアス・ヴェサリウス(’五一四~六四)が、
その不朽の著述『人体解剖図』(一六四三年)を世に間うてから、一七七年ぶりで、スコットランドにおける解剖学の体系的な教育が
はじまったのである。
ここでいうモンロー(一六九七~一七六七)
])は初代であり、一一代モンロー(一七一一一一一一~一八一七)、三代モンロー(一七七一一一~一八
五○)とつづいた。モンロー一家は長命であり、一七二○年から一八四六年ま
解剖学者としてすぐれていたのは初代と二代目モンローとされ、両人は比較
7mで百二十六年間、エディンバラ大学の解剖学の講座を担当した。
胡E
ロ艶
弍賑
》姉乢解剖学爵一般解剖学の分野ですぐれた貢献をした。初代モンローは『人骨と神
(噸)
一mよ経の解剖』(日ロのシロ呉・曰く。(Sの出口日自国。■の⑩目・Zの『ぐの⑪】『急)を著
ダBj
泄辨》唾わし、骨格のしくみを正確かつ詳細に叙述した。
の争う
港沁辨輌一一代目モンローは、開業医兼解剖学者であった・主な業績としては、神経系
鍬諏町山の構造と機能や粘液嚢などに関する研究『人体の粘液嚢についての叙述』
114(43)
(□のの。『】官一・口。【岳の国巨『の四冨巨8m四○[岳の西ロョ自国。&」『恩)がある。
三代目モンローは、父や祖父に比べると力量において劣っていたらしく、講義のとき祖父のノートをことば通りに読みあげた。「一
七一九年、ライデン大学の学生であった時分に……」といった風に。
思慮が足りず、運にめぐまれなかったのは、エディンバラの解剖学者ロバート・ノックス幻○ヶの『庁【ロoH(]ろ〕~]、s)である。
(畑)
ノックスは、一七九一年九月四日八人兄弟の五男として、エディンバラに生まれた。が、子供のころに患った天然痘のせいで左の目
を失明した。やがて地一工の高校に進学すると古典的教育をうけ、そこを優秀な成績で卒業した。
一八一○年九月、ノックスはエディンバラ大学の医学部に入学した。のちかれは医学博士の学位を得るための試験をうけるのだが、
三代目モンローの試問に落第した。試験官はすでに述べたように無能な人物であった。
幸いなことに、大学の聖域以外にジョン・バークレー博士(一七六○~一八二六)が運営する私立の解剖学校があり、そこに通って
幸いなことに、大学の節
補習をうけた。一八一四年、ノックスは大学を卒業すると、翌年軍医となりブリュッセルに赴き、そこでワーテルローの戦いで負傷し
補習をうけた。一八一四淀
た兵士の治療にあたった。
二年後、七十二高地連隊とともに希望峰に行き、一八二○年秋まで駐留した。翌年、一ヵ年休暇をとると、いったん国にもどり、そ
の後パリに赴き医学の勉強をつづけ、著名な博物学者で比較解剖学の父といわれるキュヴィェ(一七六九~一八三二)や解剖学者ジェ
フロイ・サン・イレール(一七七二~一八四四)、比較骨学のド・ブランヴィュ(’七七八~一八五○)などと親交を結んだ。
一八二二年十二月、ノックスはエディンバラにもどった。かれの恩師ジョン・バークレーは、ノックスがつぎつぎと発表する論文に
感心し、いっしょに解剖学校を{
感心し、いっしょに解剖学校をやらないか、と誘いをかけた。ノックスは協同者となることを承諾し、一八二五年から解剖学と生理学
の講義をはじめたが、翌年パー鐺
の講義をはじめたが、翌年バークレー博士は死亡したので、ノックスが学校を引き継いだ。
(卿)
ノックスの講義は人気が高く、一八二六年から一一一五年までの九年間の学生数は、年平均三三五名、一八二八年から二九年の学期だけ
ノックスの講義は人気が高く、
でも、五○四名の受講生がいた。
でも、五○四名の垂
ノックスの失墜。
(44)113
解剖小史
ノックスの医学者としての人生も、
ウィリァム。パーク(一七九二~一八二九)
ウィリアム・ヘア(?~一八二九)
ら、二人の悪党から解剖用の死体を購入したことから破滅した。
(伽)
この両人は、アイルランド生まれの死体盗掘人であった。エディンバラの行政長官やスコットランドの法務総裁らによる捜索がおこ
やくさつ
なわれなかった露b、ノックスは致命的に信用を落とすことはなかったはずである。
ドチャーティという名の老婆が、パークとヘアにより拒殺された。犯人たちはその死体をノックスに売ったのである。
ノックスは、死骸を解剖室のブリキの容器のなかに入れておいたが、当局の家宅捜索がはじまったとき、それが発見された。
一八二八年のクリスマスの日に、陪審団は首謀者パークにたいして有
罪の判決をくだした。ヘアとその妻は訴追免除特権をえ、死刑だけはま
ぬがれた。ヘアはその後ロンドンへ行き、そこで約四十年間盲目の物ご
いとして暮らした。妻はベルファスト(北アイルランドの首都)に帰っ
(皿)
たが、その後の消息は不明である。もう一人の共犯者ヘレン・マクドゥ
ガルは、オーストラリアに行き、そこで死んだ。
パークは、一八二九年一月二十八日lエディンバラの。ウンマーヶ
ットの広場で、三万名ほどの群衆の面前で絞首刑になった。このとき民
112(45)
この事件にだれもが恐怖を覚え、世間を震憾とさせたばかりか、憤りを買った。パークとヘアの裁判は、一八二八年十二月二十四日
JamesMooresBall;TheSack-Em‐
アム・パーク(1792~1829)の肖像。
UpMenU928)より。
にはじまり、何度か休憩をとったのち、翌二十五日の午前の中ごろまでつづいた。
遮体を解剖に供された首謀者ウィリ
衆は、ヘアもノックスもつるしてしまえ、といって叫んだ。
パークの亡骸は判決に従って解剖されることになり、エディンバラ大学の解剖学教授三代目モンローのもとに運ばれ、公開解剖され
た。
◎
まち
その教育を助けたのは、ロンドンのジョン・フォーザージル博士(’七一二~八○)であり、解剖学教育に必要な絵図や模型を送っ
からなる学生に解剖学を教えた。一七六五年ペンシルベニア医学校の創設のさいに、理事会より解剖学と外科の教授に任じられた。
(四)
ン・ハンター(一七二八~九一一一)の兄弟やエディンバラの初代モンローのもとで医学を学び、一七六二年アメリカに戻ると、十名ほど
シッペンは十八世紀の“
シッペンは十八世紀のイギリスの解剖学者の中でも名を知られていた、ロンドンのウィリァム・ハンター(一七一六~八三)とジョ
シペンは解剖学と産科を、 モーガンは物理学を担当した。
フィラデルフィアは、英領北アメリカで最大の市であった。「ペンシルベニア医学校」はのちに、ペンシルベニア大学となった。シ
あった。
ガン(
ン(’七三五~八九)らの医師により、アメリカで医学校がはじめて設立されたのはフィラデルフィアであり、一七六五年のことで
新大陸のアメリカには、一七六五年以前、医学校はひとつもなかった。ウィリァム・シッペン(’七三六~一八○八)とジョン・モー
アメリカにおける解剖
死体の公開のあと、パークの体は四分の一に切りわけられると、講義一ナープル用にフォルマリンづけにされた。
(腿)
解剖講堂への入場者は五十名とかぎられ、毎分六十名ほどの見物人がパークの死体を見た。その数は計二万五千名ほどにもなったら
し
い
インディアンとの戦争のとき軍医となった。一七六○年、モーガンはロンドンに赴くと、ハンター兄弟に医学を学び、またエディンバ
モーガンは一七五七年フィラデルフィアのカレッジを卒業すると、ペンシルベニア病院の住込みの薬剤師となり、のち対フランスや
。
た
(46)111
解剖小史
ラで初代モンローに師事した。
一七六三年にサミュエル・クロシー医師が解剖学を学生に教えていた私立学校を起原とし、一七
のちフランスやイタリアを遊歴し、科学や文学の予備教育の必要性を痛感して帰国した。医学枝が創設されたとき、物理学の教授に
任命された。
(剛)
アメリカで二番目に古い医学校は、
六七年にニューヨークに創設された。
クロシーはダブリンのトリーーティ・カレッジの出身であり、のちにコロンビア大学となるキングス・カレッジで自然哲学(いまの
まち
〃物理学“にあたる)の教授職についた。そしてキングス・カレッジが設けられたとき、かれは初代の解剖学教授となった。
オトプシI
やがてアメリカの人口がふえ、市が建設されるにつれて、各州において医学校がつくられ、解剖学教育も定着した。
アメリカにおいて死体解剖がおこなわれた最も古い記録は、キリスト教の伝道者としてインディアン社〈室に身を献げたジョン。エリ
(剛)
オット(一六○四~九○)によると、一六四七年ごろであるらしく、そのとき解剖実習の経験がない若い医学生が死体を解かねばなら
オット(一六○四~九○)
なかった、と述べている。
ニューイングランドのボストンでは、’六七六年九月二十一一日に対前日に処刑されたインディアンの死体が解剖された、という話が、
ボストンのサミュエル・シュウェル判事の日記に出てくるという。
一六七四年から七八年の四年間、ニューイングランドでは、六体の死体が解剖に供された。
アメリカにおいて、最もはやく解剖を手がけたのはトマス・キャッドウォラダー(一七○八~七九)という名のフィラデルフィアの
医師で、一七五○年のことであった。かれはランス(フランス北東部の町)の大学やロンドンにおいて医者となるべく修業した。
同年、ニューヨークの医師ジョン・バードとピーター・ミドルトンが、処刑された囚人へルマヌス・キャロルの死体を医学生のため
同年、一一一
に解剖した。
また活字となった解剖学の講義に関するもっとも古い公告は、一七五二年一月十七日付の『一一ユーョーク。ウィ1クリー・ポストポー
イ』誌に載ったものである。この中でトマス・ウッドという名の外科医は、来月ニューブランズウイック市において、骨学と筋学の講
110(47)
義をおこなうと発表した。
やがて医学を志望する有能な若者たちは、大西洋を渡ってヨーロッパにおもむき、ロンドン、エディンバラ、ラィデン、パリなどの
有名校で学んだ。
そういった学生の中には、既述のシッペンやモーガンがいた。
アメリカにおける医学校は、漸次左記のように創立されて行った。
ボストン……・…・…・…ハーバード大学(一七八三年)
一一ユーハンプシャ……ダートマス・カレッジ(一七九七年)
ボルチモア……・・・……メリーランド大学(一八○七年)
ボルチモア……・・・……メリーランド大学(一八○L
--1Iヘイブン………イェール大学(一八一二年)
フィラデルフィア……ジェファーソン大学(一八二四年)
オーガスタ大学二八二八年)
ジョージア大学C八二八年)
ニュオリンズ…………テュレイン大学(一八三四年)
(燭)
人口約七百万人に対して医学校は五校あり、その数十年後には人口約一千七百万人に対して三十校以上にもふえた。が、
一八一○年、人口約七百万人に対して医学校は一
医学校の急速な増加は、教育の質の低下を招いた。
アナトミーライオット
まち
医学教育には、解剖実習は必須であるが、ヨーロッパと同じくアメリカでも、解剖用の死体不足は深刻であった。
(町)
何よりも〃解剖騒動”と呼ばれる事件が、フィラデルフィアやニューヨークといった大きな市で起った。解剖講堂は、ふつうあま
り人目につかぬ建物の奥まった所か秘密の場所にあった。が、ペンシルベニア医学校の解剖講堂が一般公開されたとき、市民の中には
不審の念を起こすものもいた。
(48)109
解剖小史
(噸)
そのためシッペン教授などは、何度か暴徒によって仕事のじゃまをされたし、身の危険を感じて家を捨て、身をかくさねばならぬこ
‐こ△もあった。
死体不足の解決のために、教授や医学生は〃死体盗掘人“を雇って、貧困者や黒人が葬られている墓地から死体を手に入れてもらう
ポターズ、フィールド
(噸)
lときどき無縁墓地から死体を一体もらうことがあります。
と、すなおに生ロ白した。
シッペンは如才がなく、立派な人物だったので、市の名士や当局の支援をうる
ことができた。
フィラデルフィアで始まった解剖教育は、ニューヨークに伝わり、一七六三年
十一月二十五日サミュエル・クロシー医師によって学生相手の解剖の講義がはじ
まり、五年後かれは解剖学教授になった。
一三1ヨークでは、解剖にたいする大衆の偏見から、たびたび暴力事件が発生
した.’七八八年四月十三日lこの曰は日曜日であったが、「ニューヨーク病
院」の内と外において暴徒があばれだした。
事のおこりは、医師らが解剖用の死体を墓地から手に入れている、といったう
わさに端を発していた。暴徒の中には、病院内の解剖室まで押し入ってきた者も
いた。かれらがそこで目撃したものは、バラバラに切断された何体かの道体であ
った。
暴徒らはそれを見ると怒り狂い、切断された頭部、手足をわしづかみにすると、
108(49)
こともあった。シッペン教授は、市民の疑惑を一掃するために新聞を使って、墓地を荒らしたことのないこと、解剖用に供される死体
JamesMooresBall:TheSack-'Em-UpMen(1928)より。
迦体を盗まれないための鉄柵。
は、自殺者か処刑された囚人に限られていると公言した。しかし、
エディンバラの「グレイフライアーズ墓地」に見られる,
窓やドアから大勢の群集がいるところを目がけて投げつけた。
(剛)
この騒ぎを静めるために、警察ばかりか軍隊までが出動した。その鎮圧に二日も要した。医学生たちは暴徒に襲われる懸念もあった
ので、安全のために全員が一時刑務所に入れられた。こ〈
ので、安全のために全員が一時刑務所に入れられた。この騒ぎの結果、翌一七八九年一月、ニューヨーク市は、解剖用に死体を墓地か
ら掘りおこし、移動させることを禁じる法律を制定した。
(川)
解剖教育のための死体の需要は、供給をはるかに上まわっていた。相変らず死体の盗掘がおこなわれた。アメリカにおいては、一八
七○年代後半まで五千体ほどが医学校において解剖に供された。その多くは、盗まれたものか、非〈ロ法的に手に入れたものであった。
十九世紀の解剖
近代的な解剖学の基礎をつくったのは、アンドレァス・ヴェサリウスであり、それは十八世紀までつづいた。それまでの解剖学は、
器官・筋肉・骨などの大まかなものであったが、徐々に細かく正確になってきた。
十九世紀になると、人体構造についての知識が二つの点でいっそう深化した。一つは組織学の発達、もう一つは微視的な解剖学と細
胞説8-」岳の・こ(細胞が生物の構造・機能の基本単位であり、生物はすべての自律的細胞から成るとする学説)であった。
近代組織学の基礎をきずいたのは、フランスの医学者マリ・フランソワ・ザビエル・ビシャ冨口『一の甸日この○一のH四コの『四目g
(腿)
(」。〕~]⑭g)であった。組織学と病理解剖の分野で名をなしたビシャは、フランス南部のモンペリエ大学に学び、のち同じ町の
オテル0デユ
市立病院の医師となり、生一別六百体もの解剖をやったとされる。
かれは顕微鏡にたよることなく、生物学的な単位としての器官よりも、組織にもとづくふつうの、病理的な構造に基礎をあたえた。
その他、各専門分野においてすぐれた業績を残した医学者に、つぎのような人々がいる。
ミルン・エドワーズ冨冒の‐図三四a、(一八○○~八五)…・………………………………:フランスの動物学者。
フランスの動物学者。人間の動物の比較解剖学の書を
著した。どの動物の細胞も〃球面小体“から成るとした。
(50)107
解剖小史
ロバート・ブラウン”・ウの『【国8言ロ(一七七一一一~一八五八)…………・…………・……・…エディンバラ大学で医学を学ぶ。植物細胞核を発見し
た。
マティァス・ヤコブ・シュレイデン三四昏国の]四8ウの:]の丘の口(’八○四~八一)……ドイツの植物学者。細胞説を発展させた。
イギリスにおいては、外科医・解剖学者のチャールズ・ベル卿の】【○宮『]⑦の国の}](』。」~」、色)が、脊髄の前根は運動を、後根は
知覚をと、異なる機能をもつことを発見し、自著『脳の解剖』(一八二年)の中で述べた。これは”ベルの方則“と呼ばれた。
短命であったのは、イギリスの解剖学者ヘンリー・グレー国のロq○日](]田切~巴)である。その書『人体解剖』(シご日・曰『。{岳の
西口白目、Cs』②認)は、二十数版を重ねるほどの売れ行きを示し、グレーの名を高めた。
アメリカには、つぎに掲げるような人物が輩出し、独自の業績をあげた。
ペンシルベニア大学の解剖学教授。『解剖学体系』
カスパー・ウィスター○四切目『二一の白『(一七六○~一八一八)……………………………………ペンシルベニア大学の解剖学教授。
(の『の扁曰。【シロgo曰『)屋]])でもって知られた。
ウィリァム・エドモンズ・ホーナーミー一言日団ロョ・目の四・『ロの『(一七九三~一八五三)……”張筋“を発見した。
ジョゼフ・レイディ]・の①目Fのこ](一八二一一一~九一)…・……………………・………………・…アメリカの博物学者、解剖学者。比較骨学の専門
家。ブタの旋毛虫(寄生虫)を発見した。
ドイツでは、ヤコブ・ヘンレ]四8ヶ四目」の(]⑭g~」、$)の活躍が目立った。解剖学者、病理学者であったヘンレは、毛髪、血液、
乳魔管、腎臓、つめ、神経組織などの構造を研究した。ジョゼフ・ヒルトル]・のの已函胃(一(]②]◎~程)は、ウィーン大学の解剖学教
(噸)
授であった。かれは耳の解剖、脈管学など知られ、その人体解剖(一八四六年プラハで出版)のテキストは、二十二版を重ねた。ヘン
しは局部解剖学の創始者であった。
十九世紀フランスを代表する解剖学者といえば、アントワーヌ・ポルタル男爵である。かれはコレージュ・ド・フランスで六十四年、
106(51)
'
ジャルダン・デュ・ロワで四十五年教鞭をとった。一八○五年、『医学解剖の講義』(○・日切Q》目go目の目のso巳の)五巻を刊行した。
テラトロジー
は
ロシアでは、解剖学者のレオポルド・ウェンセスラス・グリューパートの○℃・巨三のご・の⑭一口の○日すの局(]、]←~g)がサンクトペテル
スブルクで解剖博物館を創設した。かれは奇形学に関する著書を多く著した。
イタリアでは、パヴィーァ大学の解剖学教授バルトロメオ・パニッッァ、胃(・}・ョの○℃目§口(]『、、~〕⑭①「)は、目や爬虫類動物の
リンパ管の研究でその名が知られていた。
リンパ管の研究でその名が知られていた。が、かれの本領はリンパ腺や脳神経であった。イタリアでは、顕微鏡による解剖の講座をは
じめてひらいたのはパニッッアであった。
つぎのような人々がある。
その他の解剖学者には、つぎのような’
ルイジ・ロランド目碕一幻・}口且。(一七七三~’八三一)……とくに脊髄の構造や脳について研究した。
アルフォンソ・コルティレ}[。□の○○・日(一八二一~七六)……網膜や内耳の構造について貴重な研究をした。
マウロ・ルスコニニロ員・宛巨の8日(一七七六~一八四九)……有名な比較解剖学者、発生学者、魚や爬虫類に関する重要な研究を発表した。
知られた。
フィリポ・パチニコ]ごo勺囚、目(一八一一一~八一一一)……………もっとも初期のイタリアの組織学者、解剖学者。網膜や魚の電気器官の研究で
(川)
ドイツ人のテオドール・シュヴァン曰声の。□・『の○日『四目(一八一○~八二)は、リェージュ大学の解剖学、生理学教授であり、胃
液内のペプシンを発見し、人、動物、植物のすべての組織において、細胞が構造上の基本単位となっていることを知った。
スイス人のアルブレヒト・フォン・ケリカーシ一宮の・宮ぐ。ご【◎一一房の円(一八一七~’九○七)は、解剖学者、組織学者、発生学者、
パイオーーア
らん
動物学者として、その名を知られた学士
動物学者として、その名を知られた学者であった。チューリッヒでヤコブ・ヘンレの解剖の助手をやり、また約半世紀にわたってヴュ
ルッブルク大学の解剖学教授であった。
(噸)
ケリカーは、畑抱説をはじめて発生】
細胞説をはじめて発生学に応用した草分けであり、卵の細胞分割、睾丸の中で精虫が発育-し、受精のさいの役割につい
て発見Iした。
(52)105
解剖小史
ドイツの解剖学者、ハル大学教授。比較解剖学
ヨハン・フリードリッヒ・メッケル一一世」・盲目句『一のQ1g富⑦。【の一(一七八一~一八三一一一)……ドイツの解剖学者、
で顕著な業績をあげ、”メッヶル憩室“を発見
した。
アウグスト・マイャーシロ晒巨⑪盲の三の]の『(一八二七~六五)……・……・……………………………・自然哲学的組織学。
フランッ・ライディヒ句『自国Pの己一目(生没年不詳)・・………・……………………………・…・…・…比較組織学。
ヴィルヘルム・フォン・ヴァルダイャー弓旨の一日ぐ○口三四一口の】の『(一八三六~一九二一)……ベルリン解剖学研究所の所長。生殖上皮を発見
した。
エルンスト・アベ因目の庁シgの(一八四○~一九○五):……………・………………………………油浸顕微鏡(一八七○年)
二十世紀の解剖
十九世紀前半の解剖学は、顕微鏡を使った研究者に大いに影響されることが多かった。が、それまで解剖学の重要な部分を形づくっ
ていた一般的形態学よりも、微細胞についての顕微鏡研究に向おうとしたのが二十世紀の解剖学である。
完全な組織学的研究
(噸)
の使用
ミクロトム(生体組織
ミクロトム(生体組織などの顕微鏡検査のための切片をつくる機器)
新しい染色方法の開発
顕微鏡の改良
サイトロジー
などにより、組織学や細胞学の知識が大いに深手よった。
104(53)
モーフオロジー
もはや研究がやり尽され、さいごの結論が出たといった医学界で、もう研究の余地がないのは解剖学の分野であった。
(伽)
形態学は、生物や人体の構造を研究する学問である。}」の学問は、肉眼的に観察され、その形態上の変更もほとんど正確に研究し
尽されてしまい、もう意外な研究がでる期待もなくなってしまった。解剖学という研究分野は、地平線のかなたに沈みはじめた。
十九世紀から二十世紀にかけて、解剖学者として傑出していたのは、つぎの人々である。
(ド,イーツ)
………………………………………・………:ドイツの動物学者。
ドイツの動物学者。ハイデルベルク大
の研究で知られる。
教授を歴任。血管の分岐、発生機構学
チヒ、インスブルック、ハレの各大学
(一八五○~一九二四)…………:…:……………・……………・………ドイツの解剖学者、発生学者。ライブ
ドイツの解剖学者、発生学者。ライプ
学雑誌』を創刊(一八六五年)。
の原形質概念を確立。『顕微鏡的解剖
マックス・ヨハン・ジギスムンド・シュルッェ三四〆]○戸目ロの垣②ロ】口目の:巳同の(一八二五~七四)…ハハル大学を経て、ボン大学教授。細胞
ヴィルヘルム・ルーーヨニの}日用○巨滅
ハンス・シュペマン四目のの己の日:ロ(’八六九~一九四一)
学で比較解剖学をまなぶ。イモリの胚
発生のメカニズムを研究、実験発生学
の基礎を築いた。
F・G・メルヶル句・●・富①『六の}(一八四五~’九一九)…・…………・・………:…………………・……………結合組織の研究で知られる。
ヴィルヘルム・ヒス言一宮①一日屑の(一八三一~一九○四)……・……………………………………・…………・スイス生まれの解剖学者。ベルリン。
ヴュルッブルク大学に学んだのち、ラ
イプチヒ、ポーゼン大学教授を歴任す
る。リンパ腺、リンパ管の組織学、胎
(54)103
解剖小史
児の神経系の発生学研究シ皀呉・目の
房二の。⑪。声」冒すの同国閂ごす『『○口の。(』⑭②Crjm)
で知られる。ミクロトムの考案者。
カルル・ハイッマン宍凹『一因の】(目]目(一八三六~九六)……………………………………・…・………:……:解剖学図譜で知られ、同書は数十年に
(川)
わたってドイツの大学で解剖学の教科
書として用いられた。
カルル・バルデレベン【四『一国四日の-8のロ(一八四九~一九一八)………・………・……………………・………『解剖学便覧』(一八六六~一九一五年)
で知られる。
でないことを明らかにした。
カルル・ゲーゲンバウァ【且の①胸の:目『(一八二六~一九○一一一)…:…………………・…・………・・………比較解剖学者。脊椎動物の卵は単細胞
スペインとイタリア。
解剖学は、単に死体を観察する〃冷たい科学〃にとどまらず、生物学や生理学とも密接な関係をもつようになり、また動物の組織を
構成する諸要素の性質を検討する学問として発展して行った。
こ・つ
スペイン人のラモン・イ・カハール勾口目・ロ『○回亘(」、巴~S農)はマドリッド大学の解剖学教授であったが、神経系の細胞学の
研究にすぐれ、またその弟子の一一コラス・アチュカルロやピオ・デル・リョ・オルテガなどは、神経膠の細胞の発見を可能にする染色
法を改良した。『ゴルジの染色法』二八八八年)や『神経系の変性と再生』(一九二八年)を著わした。
スペインやイタリアの組織についての顕微鏡的な研究は、とくに神経系の解剖学や生理学において有名であった。中でもイタリアの
解剖学者カミロ・ゴルジ○回目]]・の○一四(]、仁~巴呂)は、パヴィァ大学教授であったが、ゴルジ染色法(硝酸銀を用いる)を発明し、
神経細胞を染め、神経系の研究をおこなった。’八九九年、〃ゴルジ体“を発見した。のちラモン・イ・カハールと共にノーベル医学。
生理学賞を受賞した。
102(55)
脇い
(川)
その他、イタリア人の解剖学者に、皮膚の顕微鏡的な研究で名をなしたエゥセビオ・オェル固巨の①豆○○の亘(]&『~]@$)がおり、
またA・ルフィニシ,冗員【目(]mmP~」&①)は、原腸胚形成に関する重要な研究をおこなった。
フランスの解剖学者にM・F。C・サペイ(一八一○~九六)、A・A・フェルヌイル、P。E・ロノワ、PoGoポワリェなどが
おり、また組織学者に、抹消神経や崩壊細胞を研究したルイ・ランヴィェがいる。
アメリカには、動物学者でイェール大学教授のロス・グランヴィル・ハリソン幻○mmの『目a]]の西口『『一の○口(一八七○~一九五九)
プラセンタ
がおり、脊椎動物の神経組織の発生を研究。実験発生学に貢献したハーバード大学の発生学者、比較解剖学者チャールズ。S・マイノ
ット8口『]の②m・冨冒・【(一八五一一~一九一四)は、発生学に関する専門書を数多く著わし、また新たにミクロトムを発明し、胎盤
に関する貴重な研究をおこなった。
オプサルモスコープ
勺口【六の『 (一八六四~一九五五)は、高等脊動物の初生の神経筋のメカニズムを解
ジョージ・ハワード・パーカーのの。『ぬの函。肴四日軍
明した『初歩の神経組織』二九一九年)を著わした。
イギリスの解剖学者、生理学者、眼科医ウィリァム ・ポーマンヨンョ}国】曰】団。こく曰:(一八一六~九二)は、検眼鏡使用の先駆者
である。かれ匹
筋肉などの微細構造、腎臓における尿の生成について研究し、晩年は著名な眼
である。かれはまた組織学的研究にすぐれ、眼や腎臓、
科医となった。
(56)101
解剖小史
第二章日本における解剖史
(1)
解剖とは、生物の体を切りひらき、その内部の構造(内景)、各部間の関連、病気の原因、死因などを調べることを意味する。漢語
には、古くから〃解剖“という語があるし、また同義語の〃解体“がある。
江戸時代、わが国では”解剖〃という語は使われず、
の用語が用いられた。この中でいちばん多く使われたのは”肺分〃の語である。
れいきゅう
解剖とは、人間の体を切りさくことであるから、古来、洋の東西を問わず、その行為は罪悪視された。
古代の中国では、すでに人体解剖が行なわれていたらしく、|世紀ごろに書かれた中国の古医書『霊枢』の「経水(月経)篇第十一一」
》」、
26口
、、、、、、、、
(2)
注・傍点は引用者による。
外可度量切循而得之。其死可解剖而視之(外より度量切循Iしてこれを得るべし、其の死は解剖して、これを視るべし)。
とあり、すでに”解剖“の語がみられる。
おうもう
棺葬というものが行なわれなかった古代中国においては、解剖がたびたび行なわれたと考壱えられている。
中国の正史に人体解剖のことが出てくるのは、前漢書の王葬(前四五~後一一一一一、後漢末期の政治家)の伝記(巻九十九中)が最初で
100(57)
解観lIIIr』・
体臓分#
あるとされる。
それにはつぎのようにある。
おうそんけい
(3)
濯義党王孫慶捕得葬使太医尚方與巧屠共削剥之緬幽認””過度五蔵調織部亟以竹筵導其肺知所終始一云可以治病
て8が
ちくていはた
雷義の一味王孫慶を捕える}」とができた。罪は太医・尚方(天子の御物をつくる仕事を担当)に命じて腕ききの屠殺人とともにこれを解剖させ
小竹武夫訳
た。五臓の目方をはかり、竹鐘(機の縦糸をととのえる竹製の道具)を4℃ってその脈をたどって終始するところを知り、病気を治すことができ
(4)
ると一一呂った。
『日本書記』にみる解剖の記録
ひめみこ
日本において初めて人体を解剖した記録は、「日本書記』(巻第十四l雄略天皇のくだり)にみられる.それは皇女の死体を法医解
剖した、といった記事である。
三年夏四月、阿閉臣国見、繩嶢廠譜三拷幡皇女輿二場人一
極搾磯譜三拷幡皇女輿二場人魔城部連武彦一日、武彦軒二皇女一而使任身囮(中略)
、、、、
(←0)
いば色ぺのむらじだけひこしこい
ひめ
注・傍点は引用者による。
々々對言、妾不レ識也。俄而皇女簡二持神鏡〈詣二於五十鈴河上〈伺二人不修行、埋レ鏡經死。(中略)
天皇聞遣二使者《案間皇女廻々々對言、妾不レ識也。壁
Lこどひたくはたのひめみこゆゑ
得二皇女屍宅割而観之、腹中有し物如レ水。々中有し石。
ばつうづきあへのおおくにみまた
はら
つかひつかば
か
かむが
こたまう
やっこ
し
一二年の夏四月に、阿閉臣國見、更の名は、 磯特牛.樗幡皇女と鶴人(皇女の資養者l引用者)震護書とを讃ぢて曰わく、「蔓驫
みこけが
色こ
女を軒しまつりて任身ま’しめたり」といふ。
皇女を案へ間は’しめた十まふ (罪を調査する)。皇女、對へて一一一口さく、「妾(わたし)は、識らず」とまうす。
天皇、聞lしめして使者を道して、皇女を一
(58)99
解剖小史
にわか
かばねえ
あやしきかがみ
きろ
も
いすずかは似とりい
ばらなかものあ
ひとあり
いしあ(6)
うかがかがみうづわむし
俄に-)て皇女、神鏡(八腿鏡)を齋り持ちて、五十鈴河の上に詣でまして、人の行かぬところを同ひて、鏡を埋みて經き死ぬ。
皇女の屍を得た、リ。割きて観れば、腹の中に物有りて水の如し。水の中に石有り。
(7)
しょうぜん
古代エジプトにおいてはすでに人体解剖がおこなわれ、中国では王葬のあと、宋の時代にいたるまで人体解剖は、ほとんど行なわれ
なかったようである。
わが国の医書で、はじめて人体の内部について記載したものは、梶原性全(?~一一一一一一一七?Ⅱ延元一一・建武四?、鎌倉後期の医僧)
が撰述した『頓医抄』(一一一一○|||年に作られ、五○巻よりなる)の巻四四に出てくる、五臓六服の解剖記事と十二経脈の経路について
の記事である。
、、、、、、、、、、、、、、季、、、、(8)
注・傍点は引用者による。
‐‐--{且州の推管呉簡トイフ人一一日ノァヒタニ欧希範トイフ人トトモニシテ五十六人力腹ヲサイテッマヒラカニ五臓六府ヲミルニ……
また寧崇年間、賊を町中で処刑したとき、郡守李夷行は、医者や画家に解剖した死骸を絵に描かせた。
(9)
その他、「欧希範五臓図」(欧希範は宋代Ⅱ一○四五年Ⅱに解剖された者の名前)
といったものがあり、何一陽の解屍があると伝一えている。
またこれに「欧希範五臓図」を収載した。
医書は中国からあいついで輸入された。その中には、北宋の時代以降、
「華陀内照図」
「景岳内照図」
98(59)
りょうあん
蝋
,J1灘
寛保元年(1741)根来東叔が描いた連骨図の一枚
[筆者によるスケッチ]
(皿)
と題する”解剖書“が舶載された。
享保年間(一七一六~三五)に、服部玄黄は
『内景図説』を著わした。が、この中で”華陀〃
および“景岳“の内照(景)図を訂正し、みず
から新図をつくり一家の説をなした。
(⑩)
けれどそれは臆測の域を出ないものであり、
あまり医学的価値がないとされた。
鎌倉時代の梶原性全の『頓医抄』『万安方』
ばつ
にも、中国の医書にみられる内景図説が収録さ
れた。
寛永八年(一六一二一)に青柳安真の「政」
(序文)をつけて上梓された『新刻華陀内照図』
(中国解剖図)や、正徳三年(一七一三)に寺
(如皿)
|」の「経絡部」中にみられる、五臓六脈図(内景図)などは、当時のロ]本人が理解していた解剖学であった。
(旧)
そこに掲げられている、人体と体の各部位(器官)のさし絵は、中国の医書から採ったものであり、それに異論をはさむことは、
1こんどなかった。
貞享元年(一六八四)、長崎の人、中村宗瑛は、ヨーロッパの解剖学の一端を紹介するために『紅毛秘伝外科療治集』を著わすのだ
8の日。、『:旨目の(○日]巴旨、□のの三のロの・ずの]員の巨○訂の目の『人体解剖図譜』)をオランダ語訳より抄訳した。
ついで天和二年(一六八一一)に、本木圧太夫がヨハン・レメリン]・冨目幻の日日の一目(一五八三年、ウルム生まれ)の勺冒目目CHC
ほ
崖一一才図会』(全八一冊、一○五巻)の「巻第十
島良安(生没年不詳、江戸中期の医者)が完成させた、わが国の百科事典の囑矢『和漢一一一才図会』(全八一冊、一○五巻)の「巻》
趣』銀
(60)97
解剖小史
不明
が、同書には〃解剖学の事項“が些
同書には〃解剖学の事項“がたくさん見られる。かれは経路、胴骨、骨の性事、頭の性事、頭の骨、髄目性、歯性、心の朧、肺の
臓、腎臓などについて説いている。
腎臓などについて説いている。
たとえば「骨性事」については、
あわせてあり
l骨ノ性ハ篝ニシテ燥也.臂数台二百二拾有。此分ヲ|請脅.セツ耳二六シ上アキ二拾ニァキニ□口中二拾一、胴二二拾四、大骨二平
注・原文には区読点はない。
骨ニッ。両ノ腕首二拾六両ノ手一一八ッ。両腕ノ骨一一一拾両。腰ニーーッ。両股二三ッ。両脚二四ッ。両躁’一二ッ。両足ノ踵二四ッ。両足首一一十ヲ両
(M)
足ノ指二二拾八也。
やく
享保十七年((’七一一一一一)に、京都の眼科医・根来東叔は、烙刑(火あぶりの刑)になった金柑長兵衛、中衆茂兵衛らの死体を偶然み
る機会があった。
それは「肌占
「肌肉腐化、臓腕燗脱両手戸骨、亦随落焉」(梅園全集上巻「造物余讓」)とあるから、すでに肉は落ち、骸骨になってい
たのであろう。
根来は無縁仏のごとく、打ちすてられていた人骨を観察、写生し、それに説明をそえた。
「造物余讓」の第一ページみられるのは、全身の「連骨正面図」であり、第二ページはそれをうしろと側面から見た「背面図」と
「側面図」である。第三ページは、主として脊髄の部分図である。
本邦初の解剖
とうよう
山脇東洋(一七○五~六一一Ⅱ宝永一一~宝暦一二)は、江戸中期の古方医である。が、じっは同人は、わが国で最初に人体解剖をおこ
(応)
ない(じっさいは人を使って執刀させた)、みずから体の内部を観察し、『蔵志』(宝暦八年[一七五八]から九年の成稿)を著わし、
それを刊行して、古来の迷妄を打破したことで功労があった。
96(61)
かわうそ
。
hグ
たかのり
山脇東洋は、名を尚徳、通称を道作という。字は玄飛・子樹し」いい、号は移山、
よのちに東洋と称した.実父は丹波亀山の人l清水立安である.東洋は幼少より学
、ノ
像術間を好み、やがてその才を愛せられて、医官法眼玄修の養子となり、享保十一一年そ
肖年
越杣の家を嗣いだ。
こんざん
癖”医は養父玄修にまなび、のち後藤艮山(一六五九~一七三一一一、江戸中期の医家)
山蝿について古医方を修めた。
FI
lnロ、山脇は、良山先生の家を訪ねたとき、話題は内臓のことになった。そのと
蹄山脇が人体解剖を行なうに至った動機なり経緯は、つぎのようなものである。
き師は、内臓をみるには腕分けするのが一番であるが、人体を解くことはご禁制で
あるから、〃獺“(川や海にすむ、イタチ科の食肉獣、七○~八○セン.チ、背は黒茶色、腹側は白)を解剖してはどうか。
獺を腕分けした者は大勢おり、その者たちの話では、内臓は人間に似ているということである。山脇は師の教えに従い、獺を解いて
みたところ、先生のことばが正しいことを知った。が、小腸と大腸との区別が、獺では見つからないため、ひとり怪しむしかなかった
みたところ、先埖
弓蔵志』乾ノ巻)。
山脇は少壮時代から解剖学にたいする興味が盛んとなり、人体の内部について古来の五臓六肺が正しいものかどうか知りたいと思っ
ていた。山脇家にはヨハン・ヴェスリングス]○富ごく①の言い巨の(言のの旨、〕$、~]量Pドイツのヴェストファーレンのミンデンの生
(烟)
まれ、バドゥア大学の外科、解剖学教授)が著わした解剖書虞の冒薗的目色目日・目2日.(]医』》勺目巨四)があり、その解剖図が中国の
医塞已にみられるものと大きいな違いがあることを知り、早くからその是非を腕分けによって確かめたいと思っていたようである。
思いに沈むこと+有五年l山脇はついに宿望を達する機会にめぐまれた.
ときの京都所司代は、若狭の小浜藩主酒井讃岐守忠用(一七二○~七五)であった。同藩の医師三名、
(62)95
解剖小史
原松庵(一七○五~八六)
伊藤有信(一七二二~八一一)
小杉玄適二七三○~九一)
(Ⅳ)
らは、かねて主君に刑屍解剖を願い出ていた。宝暦四年(一七五四)の閏一一月七日、京の西郊(西土手刑場)において処刑がおこなわ
れ、その死体を下げわたされたからである。
(旧)
、、
斬罪に処せられたのは男五名であり、その中のひとりは屈嘉(本名・嘉兵衛?)といい、齢のころは三十八歳くらいの男屍であり、
それを解く}」とを許された。同人は恐喝が露見し、断罪に処せられたのである。
これらの医師のうち、伊藤と小杉は、山脇の門人であった。かれらは山脇を中心として社中(結社)をつくっていた。
!
鰯
山脇東洋の「蔵志」に添えられた解剖図
(筆者によるスケッチ)
けがはじまった。
としや
ろが敷かれ、その上で牛馬の屠者(切りさばく人)が執刀して、肺分
、
処刑された屈嘉の死体は、京の六角獄舎(「感化保護院」現・京都市中京区六角通大宮西入あたり)に運ばれると、そこの庭にむし
I
(い)
しゃく
死体には頭部はなく、胴体と四肢があるだけで、解体図は山脇の門
人である浅沼佐盈が描いた。解体は胸部からはじまり、笏(細長い薄
ひだ
板)のような胸骨を見、ついで左右の肋骨各九枚を数えた。さらに
どちょう
ぜんよく
「右肺の壁一一つ、左肺は壁一つ、管をもって気道を吹けば、すなわち
両肺は皆怒張(ふくらむl引用者)し、鮮沢なる一」と蝉翼(せみのは
ね)に似たり」(原文は漢文)。
と、いった風に、そのときの解剖の様子を生々しく伝えている。
『蔵志』に記されている解剖所見を専門的立場から概評した解剖学
94(63)
象
胸
腹
図
 ̄ ̄ ̄
京都新京極うらの「誓願寺」墓地にある山脇
東洋先生の墓。(筆者撮影)
(釦)
(64)93
そほん
者・小川鼎一二によると、「粗策」(あらつぽく雑)であるという。このことは山脇も
よく承知していて、精確なる解剖学が築かれるまでのつなぎとして、『蔵志』とい
った簡単な一書を世に問うたのである。
『蔵志』(二巻、宝暦九年刊)がひとたび世に出るや、解剖に対する非難も現われ、
(Ⅲ)
その非人道的行為を指弾した。讃岐の人、佐野安貞は『非蔵志』(宝暦十年刊)を
著わし、機能を失った内臓を見るこL」の無益さ、山脇の形態学無視の態度を明らか
にし、あまつさえかれの行為は暴挙であるとし個人攻撃した。
『蔵志』において、山脇は大腸、小腸の区別を見おとし、五臓六脇(五臓とは、
心・肺・肝・腎および脾をいい、六腕とは胃・臆・小腸・大腸・三焦および膀胱を
(醜)
山脇社中は、 その後も処刑人の解剖をおこなったが、一同手厚くそれを葬むり、祭尊してその礼をのべた。京都の新一泉極のうらの醤
る書であった。
は間違いの多い、 しかも欠点だらけの解剖記録であったが、真理は実物に即してのみ得られるといった貴重な教訓をおしえ
『蔵志』は問
た。それは山脇の実証的精神の成果であった。
て西洋の解剖書ヨハン・ウェスリングの著書)が正しいことを知ったことは大きな収穫であっ
を作らせ、解剖を実見することによって西洋(
ヨヨヨヨ
いう)説から抜けきれないという誤りはあった。 が、木版彩色の図版四枚、すなわち、
背九九剥
骨臓臓胸
側背前腹
面面面図
図図図L-
解剖小史
レプリカ
戒名から見ると、この中には男性十名、女性四名がいることがわかる。
京都において、公許をえた人体解剖が行なわれた、といったニュース
こうあん
は各地に伝わったようである。山脇のひそみにならって、宝暦八年(|
七五八)’一一月一一十六日、長州荻の手洗川の刑場において、栗山幸庵(江
戸中期・後期の医学者、山脇東洋の門人)は同僚の熊野玄宿らと男子の
(羽)
刑屍体を解剖し、翌九年六月二十一日、待望の女体を荻の南郊大屋(大
谷)の刑場において解いたが、これは日本書記の記述についで、女体解
剖の第二号である。
同年五月二十七日、カスパル外科の伊良子光顕(’七三七~九六)は
伏見の平戸島(京都市伏見区葭島金井戸町)において、刑死体を解剖し
92(65)
願寺の墓地の入口ちかくに、山脇東洋の墓のそばに社中の建てた「解剖供養碑」(碑文を刻んだ黒っぽい本物の石柱は、いま京都大学
剣剣剣利利利剣
京都新京極うらの「誓願寺」墓地にある「解剖供
養碑」(躯者撮影)
総合博物館に移され、複製品だけが元の(口座のうえにのっている)がある。
剣剣剣大剣剣利
刃刃刃心室光剣
朝春秋受如凉夢
橦風声剣幻月覚
信信信信信信信
士士士士女士士
性光室剣剣宅光
利向如浅大祐利
生西心良悟剣脱
信信信信信信信
女女女士士士士
(別)
た。このと生
このときの腕分けにより、大腸と小腸上」の区別が認められたが、尿が小腸から泌るというのは謬見であった。
明和六年
相六年(一七六九)十一月十九日、福井の明里において半井彦、山室知将が男の刑死体を解剖し、のちその記録を『減鑑』と題し
て著わした。
・几こワフ
翌七年(一七七○)四月二十五日、紅毛外科の河口信任(一七一一一六~’八一一)は京都の西郊において刑死体を二体とき、そのとき
こつ
の記録『解屍編』(一冊)を明和九年(一七七二)三月に出版した。
ばぱ
明和八年一二月四日(一七七一・四・一八)--千住の骨が原(現・荒川区南千住五丁目にある「小塚原回向院」の墓地があるあたり)
において、京都生まれの老婦あだなを〃青茶婆“の刑死体が、九十歳ぐらいの屠者によって解かれた。
このときの肺分けの見学者の中には、
中津藩の侍医)
前野良沢(一七二一一一~一八○三、中津藩の作
小浜藩の侍医)
杉田玄白(’七三三~’八一七、小浜藩の枠
ほしゅう
中川淳庵二七三九~八六、小浜藩の侍医)
桂川甫周(一八一一六~八一、幕府奥医師)
らがいた。屠者は、これは何、これは…であると臓器を切りわけて説明した。
(妬)
前野、杉田の両名だけは、このときドイツ人のヨハン・アダム・クルムス】・冨目シ目白【巳日巨の(]③$~』『怠)が著わした『解
剖学表(図譜)』(し目8目の目①曰号の]]のP」「圏)のオランダ語訳○員]①の9百且碕の曰四〔の」のロ…」『⑫亀)を携えていたので、同書とじ
っさいの人体の各部位とを比べみて、まったく同じであるので、ただ驚嘆するしかなく、西洋医学の卓越性をあらためて認識した。
解剖がおこなわれた翌日から、最年長の前野を盟主として、その家宅(奥平家の屋敷Ⅱ京橋区鉄砲洲新栄町七丁目)にあつまり、ク
ルムスの解剖書の翻訳がはじまり、安永三年(一七七四)八月に『解体新書』(本文四巻、附図一巻の五巻)が刊行された。
(66)91
解剖小史
(”)
(蹄)
同書の出現により、はじめて体系的な西洋の解剖学がわが国に移植され、と/、に系統立った神経解剖学がはじめて紹介された。また
はるすえ
同書により、解剖による病理学研究勃興の機運がつくられ、中国医学とオランダ医学の統ムロ研究が刺戟された。
明和八年(一七七一)十一一月二十五日、山脇東洋の次男・玄陶(’七三一一~?)は、女屍を解き、のち『玉砕臓図』(図譜、安永一一一
(配)
年刊)を著わし、虫様突起(盲腸)を描いた。玄陶(号は〃東門“)は、その後も安永四年(一七七五)八月女屍を解いている。
安永五年(一七七六)二月一一十一日、甲州において町医石氏初鹿ほか一一一名が、男の刑死体を解いた。同年一一一月、玄陶は京都の西郊で
男屍を解剖し、のち『男人内景真図』を著わした。
(閉)
天明三年(一七八三)六月一一十五日、橘南躍(一七五三~一八○五)小石元俊(一七四三~一八○八)らは、伏見豊後橋(いまの観月
Cろづ
(初)
橋)の西方l平戸の刑場において、平次郎(四十歳)という窃盗犯を解剖し、画家吉村蘭洲らが「平次郎臓図」(絵巻物)をつくった.
天明七年(一七八七)十一月一一十八日、周防国室津においてとらえられた備中丈助ほか七名の海賊は、萩の大屋刑場で斬罪に処せら
・・・Ⅱ.:I咄.Ⅶ.I
LⅡ
(別)
骨標本をつくった。
寛政四年二七九二)岡崎良安は、
松山で男屍を解いた。翌年日光にお
いて、諸葛君測二七四八~一八一
三)、晁俊章らは男屍を解き、『解屍
新編』を著わした。寛政八年二七
九六)二月十八日、宮崎或は、大阪
の合掌洲(Ⅱ浪花区木津川町)にお
いて男屍を解き、「三之助解剖図」
90(67)
れた。栗山玄厚、小河内信邦、中原煥、大嶋玄沖らはその死体をさげわたしてもらい、それを解いた。寛政三年(’七九一)四月六日、
ヨハン・アダムス・クルムスの肖像(k)と
=
広島藩の星野良悦、恵美三伯ら竹ヶ鼻刑場で処刑された男刑屍を仁保島柞木に運び、そこで一体を解き、もう一体を煮て骨骸のみとし、
解き、もう一体を煮て骨骸のみとし、
原本のスケッチ(下)
(絵巻物)を著わした。
(鉋)
同年十月一日、眼科医柚木太淳は、京都において男屍をとき、とくに眼球を精査し、のち『眼科精義』を著わした。
(鍋)
同九年(一七九七)十月二日、柚木太厚(?~一八○三、京都の眼科医)、海吉王、中川貞らは、京都の西郊刑場の正西十五歩の地
を解体場として男屍を解き、柚木は『解体頃一一一一コ』を著わした。寛政十年(’七九八)一一月十一一一日、一一|雲環善(’七六二~一八○五)、
山脇東洋(一七五七~一八一一一四)らは、京都において男屍(佐兵衛、三十四歳)を解き、「施薬院解男体臓図巻」を著した。
同年十二月十九日、木村涛禎(一七七四~’八三四)は、仙台において男屍を解いた。
寛政十二年(一八○○)閏四月、大谷尚斎(一七六五~’八二六)は、大坂において二十七歳の女屍を解き、「寛政女屍解剖図」(絵
巻物)を著した。享和一一年(一八○一一)の冬、京都において男屍の解剖がおこなわれ、近江の人三谷公器(一七七五~一八二一一一)は
巻物)を著した。享和二年二八○二) の冬、京都
『解体発蒙』(文化十年Ⅱ一八一三年刊) を著わした。
(別)
文化二年(一八○五)十一月、福井医学所の浅野道有らは、小山谷仏所(火葬所)において男屍を解いた。文化五年二八○八)十
と.つう
月九日、海上随鴎らは京都において新介(一一十六歳)を、同月十四日には勘介を解いた。文化六年(一八○九)、加古良玄は}」の年
|月九日、海上随鴎ら墜星
まで男屍を計十五体といた。
文化九年(’八一一一)十一月一一十七日、小森桃鳩(一七八一一~一八四一一一、ときに一一一十一歳)は、藤森普山らと京都において男屍を解
(弱)
(躯)
いたが、日本ではじめて乳廃管を実視した。文化十一一年(一八一五)十二月二十一一一日、栗山幸庵は第二回目の解剖を萩の手洗川刑場で
おこなった。このときの男屍は弥助という盗賊であり、執刀者は尾周策という者であった。
文政二年(一八一九)’二月八日、中津藩医村上玄水は、長浜の刑場で男屍をとき、のちそのときの記録『解蔵記』を著わした。文政四
(師)
年(一八二一)十一一月十六日、小森桃嶋らは、京都の西郊において教道(二十三歳)という男屍を解いた。このとき腕分けに立ちあつ
ちゆうたく
たくけい
たものは、見学者を含めると、総数百一二十一一一名の多きにたっした。のちこのときの記録を『解臓図賦』(文化五年一一一月上梓)として刊行。
文政五年(一八二一一)六月一一十九日、佐々木中沢(一七九○~’八四六、江戸後期の蘭方医)は、仙台の北郊において礫刑になっ
た女屍(三十六歳)をとき、絵師畠山仙江が解剖図「存真図腋」(女子生殖器)を描いた。
(68)89
解剖小史
(銘)
文政六年(’八二三)一月、酒井元貞は、久留米の郊外尾島において男屍を解いた。同七年六月十八日、賀川秀哲、斉藤方策らは、
大坂の葭島において女屍を解いた。これは子宮狭部を実見した最初とされる。
(羽)
文政八年(一八二五)十一月二十日、宇和島藩において、晋済らは男屍をといた。文政十一年(一八二八)九月二十二日、福井の小
天保三年(一八三一一一)十一月十三日、越後長岡藩において無宿人(一太郎)をといた。天保
十年二八三九)十月、半井仲庵、田代万貞ほかは、福井の小山谷仏所において刑屍をといた。
天保十一年二八四○)、甲州東八代郡山崎において、小野通仙、森沢三省らは、無宿人
(辰五郎)の刑屍をといた。天保十二年(’八四一)一月、博多において、百武万里、武谷元
立らは刑屍をといた。天保十四年(’八四一一一)三月、佐倉藩の鏑木仙安は、城外の江原刑場で
いた。
嘉永二年(’八四九)十月十六日、橋本佐内らは福井の小山谷仏所において刑屍をといた。
た。
同七年(’八五四)二月十九日、石黒通庵、伊藤圭介らは、名古屋東懸所において女屍をとい
(⑩)
イタリアの場合、医学の分野において屍体の解剖が恒常化すると、執刀者は絵かきの協力を
えて教科書に解剖図譜(挿絵)を添えるようになり、これが契機として美術家も漸次盛んに解
剖をおこなった。
しかし、日本の場合、絵師が解剖に立ちあい、みごとな解剖図を描くことはあっても、その
解剖学的知識を人物画に生かすことはなかったし、イクリアのように熱烈なる実践応用者も生
まれなかった。
88(69)
、男屍をといた。翌年三月十四日、島原郊外今村において、市川保定、賀来佐一郎らは男屍をと
「婦人之罪屍図」(筆者によるスケッチ)
山谷仏所において、平野玄察、妻木敬蔵らは男女の刑屍二体をといた。のち『女屍解拭略次』を刊行。
妻木敬蔵らは男女の刑屍二体をといた。のち『女屍解試略次』を刊行。
ロヘホJ、
つぎに江戸時代の解剖方法について述べてみよう。
解剖はひんぱんに行なわれるものではないから、仮設の解剖所(草屋)をまず作らねばならない。解剖に供される死体は、いつも斬
首者であり、罪人といえども病死者はけっして用いることはなかった。病死すれば一切の罪業が消滅するから、当局は許さなかったか
らである。
解剖所が設けられる所は、刑場または火葬場の近くであり、そのまわりを竹矢来や幕で囲って、他人の出入りを禁じた。解剖所の大
きさは一定せず、嘉永七年(一八五四)二月に名古屋において行なわれたときの広さは、南北に三歩、東西に五歩ぐらいであった。
解剖に立ちあうのは、いっさいを監督、指導する執事者のほか、執刀者、記録係、絵師、侍者(雑用係)などであり、めいめい職を
解剖に立ちあうのは、いっさいを監督、指韓
分担した。その他、解剖の見学者も多かった。
解剖をおこなうにあたって、一同刑がおわるのを待ち、やがて死屍が解剖所まで運ばれてくる。雑役人夫が屍体を受けとると、それ
を解剖台の上にのせる。やがて首に布巾をかけ、香を焚き、水や酒をそなえ、祭文をよみ、死者の霊を祀る。
それが終わると、いよいよ屍体を解くのであるが、執刀者は左に、助手は右に位置する。執刀者が臓器を取りだすごとに、説明者は
くかん
それを解説する。右手にいる書記(記録係)はそれを記し、また絵師はそれを描く。
解剖は頭蓋から始めるときもあれば、躯幹(胴体)から先にやる場合もある。躯幹からのときは、女性ならまず乳房を剥いで乳腺を
解剖は頭蓋から始めるときもあれば、躯幹(胴体)か壱
調べたり、男性なら男根を切りとって、これを検見した。
肋骨を切断して、肺・心臓・四大血管幹を検見したり、竹管を用いて肺に空気を入れたりした。
ついで喉下から胸皮を縦に切りさげ、肋骨を切断して、
けいこつ
ぴりよ
隔膜を切った。腹部臓器を摘出し、その断面を見たのち、女性なら子宮・卵巣・腔などをしら
つぎに冑・腸・肝臓・脾臓などを見、横隔膜を切った。艫
べ》CO
たつ
とり
さいごに死体をひっくり返し、頚骨(首の骨)から皮肉を尾閨骨(尾骨)まで縦に裂き、骨賂を1しらべ、筋肉を刮り去ったり、神経
こ・つ
の行路をあきらかにした。解剖がおわると、一同屍体に拝礼したのち、退席した。執刀は辰(午前八時ごろ)より始め、酉(午後一ハ時
どろ)に終わるのがふつうであった。執刀者はことおわれば、小豆粉や糠(ぬか)などを用いて手を洗った。
(70)87
解剖小史
解剖を執行するには、相当の費用がかかった。役人や寺僕や人夫の費用に加え、半紙・ローソク・筆・酒・茶菓子代などを要した。
お上から下げわたされた死体は金を支払う必要がなかったが、買い求めるときは、一体につき六両前後要したようだ(藤浪剛一「江戸
時代の解剖」(『中外医事新報』一二六七号所収、昭和u・5.詔)。
出島の医官、解剖学を教授
幕末期、日本人の医学」
日本人の医学生に系統的にヨーロッパの解剖学をおしえ、しかも刑屍をかれらの目の前で解いて見せたということは、まつ
たく異例のことであった。
解剖学といった日本人にはあまり聞きなれぬ、未知の学問を教えたのは、オランダの海軍軍医ヨハネス・リディウス・カタリヌス・
ファン・メールデルフォールト(一八二九~一九○八、略称して”ポンペ“)であった。
(狐)
ポンペはカツテンディーケ少佐(のちオランダの海軍大臣)が率いる第二次海軍教育班の一行三十七名とともに、安政四年八月四日
(⑫)
る「国立陸軍軍医学校」(㎡四房の【急の①【の9..}く。。『三】」旨】『の
ポンペは大学の医学部出身の医師ではなく、オランダ中部ユトレヒトにあ
アンナ号にのり帰国の途についた。
よび、文久二年九月十日(’八六二・一一・|)オランダ商船ヤコブ・エン。
(’八五七・九・一一一)の夜、長崎に来、諸藩の医師や医学生にヨーロッパの医学を体系的に教授した。日本に滞在すること五年にお
像
硝○の二の①の丙目二一mのロ)の出であった。
曰卒業し、同時に一二等軍医に任官した。四ヵ年在籍し、つぎのような教科を
エポンペは同校に、一八四五年七月二十一百に入学し、一八四九年八月十六
ポ
学んだ。
86(71)
|年次……物理・化学・植物学・解剖学・生理学・繍帯学。外科器具の使用。歩兵操練および体育実習。
(相)
二年次……病理学・薬理学・一般療法・物理学・解剖学と実習。顕微鏡の操作・植物学・健康管理論。
三年次……調剤学と処方。外科学・内科学・解剖実習。死体を用いての手術実習。
四年次.:…外科臨床講義・臨床実験・毒物学・病理解剖・気絶の取扱い方。解剖学と実習・医学法規。
ポンペが来日するさいに蘭領東インド政庁から受けとった内命によると、日本の動植物や鉱物・地質を調査することであり、またそ
の肩書は、
「総督府付医官兼日本における博物学調査官」
といった、長たらしく、仰々しいものであった。
(来日時、 二等軍医)の担当科目と受けもち時間は、
第二次海軍教育班の隊員としてのポンペ(来[
物理学……三時間
化学……三時間
岨うたい
(机)
解剖学……三時間
繍帯術……一二時間
であった。
ポンペは四十名ほどの受講生を相手に講義をはじめるのだが、日本,人は物理学や化学の学習にたいして並々ならぬ熱意を示した。け
アナトミエオントレートクソデ
れど数学の知識に乏しく、たくさんの数字や複雑な数字をみると、すぐ意気阻喪したという。
日本人は、オランダ語でシご日・曰一①とか○口一一の①口百且●と呼ばれる”解剖学〃についての知識に乏しかった。そのためポンペは、人
体の各器官の構成についての概念を得させるために、一般解剖学と図形解剖学から教えることにした。
かれは日本に来るとき、相当な数の医学書(解剖学、同図譜をも含む)を持ってきたが、活字本や図解だけでは生きた、真の解剖学
(72)85
解剖小史
を修得することはできない。
そのため長崎奉行・岡部駿河守に働きかけて、解剖用の死体を入手しようとしたが、なかなか許可は下りなかった。
ポンペは解剖学の講義において、
一般解剖学
骨解剖学(骨組織崩解)
じんたい
靭帯学(関節を強固にし、その運動をコントロールする弾力性のある繊維質に関する学問)
動脈学
静脈学
などについて示説した。が、じっさい医学生の前でメスで死体
(妬)
クンストレ-ク
を解くまで、掛図やパリから取り寄せた”紙張り子”製の模型
によって説明するしかなかった。
ポンペがわざわざパリに発注した、一」の人体解剖模型の製作
者は、ルイ・トマ・ジェローム・オーズーF・巳⑩弓可・白田
]貝・曰のシ目○員(]ヨヨ~」、g)というフランスの医師である。
この人体模型は万延元年(’八六○)ごろ到着した。
この模型は、一八四三年ごろオランダで普及するようになり、
大学の医学部や一般の医学校で広くもちいられた。軽く堅牢に
84(73)
神経学
解剖模型(証者孤影)
脈管学
内臓学
長崎大学医学部図雷館にあるオーズーの人体
できており、持ち運びに便利であったばかりか、バラバラにすることができた。背丈は約一・一メートル。男性体。頭部や内臓はなく、
左半身は上下肢とも欠けており、脊柱だけがある。日本には四体ほどあり、うち一体(身長約二○センチ)は、長崎大学医学部図書
館二階の貴重図書室の片すみのガラスヶースに納まっている。
西洋人による日本初の死体解剖
かねて出島の商館長ドンヶル・クルチウスを通じて、解剖用の死体の提供を要請していたが、安政五年八月二十四日、ついに江戸よ
り服分けの許可がポンペのもとに届いた。返事がおくれたのは、国内に嬢夷論が沸騰しており、何よりも日本人の死体が外国人によっ
て解剖されることが世間に広まったら、大きな騒ぎが起る懸念があり、そのため当局は返事を渋ったからである。
刑屍は桜町の獄舎内で打ち首になった者で、棺桶に入れられたのち、西坂の丘に運ばれた。そこには水や火も使えるようにした約八
メートル四方の”解剖室“(小屋)が用意されていた。そのまわりには百五十名ほどの役人・下吏らが警戒にあたっていた。
罪人の首(第六頸椎あたりから斬り落したもの)はかごの中に、胴体は棺の中に入れられ小屋に運びこまれると、それぞれ解剖台の
上にのせられた。ポンペのまわりには、医学生が二十一名、長崎と近在の医師ら二十四名、計四十五名の見物人がいた。
安政六年八月十三日(一八五九・九・九)、午前八時ごろ、ポンペは解剖を開始した。まず胸部と腹部を切開し、その位置と臓器と
の相互関係を説き、そのあと胸部と腹部との位置を明らかにした。そのあと肺を取り出してみせた。
解剖は午前八時ごろ始めたのだが、切開と説明に思わぬ時間がとられ、腹腔部の解剖のすべてがおわったのは午後二時ごろであった。
このあとポンペは、解剖にさいしての一般的な心構えについて話し、ついで腕を解いてみせたが、もう片方は学生に解剖させた。学
生たちはじっさい死体を解剖した経験はなかったが、みごとに腕を解いてみせた。
夕やみが迫ってきた。手もとが暗くなり、灯を必要とした。飲まず食わずで十一時間以上も経っていた。この間に食事の時間を十五
分ほどとったにすぎない。科人の死骸は、その日のうちに埋葬することになっていたが、まだ解剖は終了していなかったので、奉行所
にたのんで、翌日の夜まで待ってもらうことにした。
(74)83
解剖小史
そけい
あしくび
けつさつ
翌八月十四日lボンベは鼠径部(足が胴にっなが夛・所の内側)の導管について解いたのち、大腿動脈や膝後面の結紮(血管をしば
る}」と)をおこない、そのあと足指や足根、大腿(ふともも)、下腿部などを切断してみせた。ついで学生に、左足を解くことを命じ
この日も時間が足りなかった。脳、眼、耳、睾丸は解かずに、アルコールの中につけ、医学所に運び、あとで標本をもとに説明した。
同日の夕方六時、死体は郊外の火葬場に運ばれ、そこで茶毘に付し、そのあと僧侶に読経をあげてもらい、町はずれの墓地にねんご
(妬)
ろに葬られた。解剖に供された罪人は、刑場に臨むと、死後解剖のことを告げられ、また法要建塔のことも語り聞かされると、大いに
満足し、いささかも恨みごとをいわず、静かに刑についたという。
安政六年二八五九)十月、村田蔵六(大村益次郎)は、種痘場の要請により、骨ヶ原において女刑屍をといた。
やなかわ
文久元年(一八六一)十月十三日、福井の小山谷仏所において、男女の死体二つが解かれたが、このとき大勢の官医や町医が解剖に
立ちあった。このときの記録は、翌年細川東陽によって『解臓図記』(三巻)としてまとめられた。
幕末から明治初期の解剖
尤溜のり
石黒忠恩(一八四五~’九四一、明治期(
明治期の軍医、のち子爵)は、幕末に放郷の奥州(福島県)伊達郡梁川をあとに江戸に山山、医学所
(のち東大医学部)に学ぶのだが、同人の同
同人の回想録(『懐古九十年』)によると、人体解剖がおこなわれたのは在学中に一度だけで、いつ
も犬や猫で間にあわせたということである。
当時、解剖学を学ぶには、第一に解剖書をよみ、第二に講義を聞いたという。解剖書としては、
『解体新書』
プレス氏の書
ポック氏の書
82(75)
。
た
ウニーベル氏の解剖図
などであったという。その他、オーズーの〃紙張り子“製の人体模型が医学所に一つあった。
もう一つは、すでに述べたように長崎の医学所(のち長崎精得館と改称)にあった。
江戸の医学所には、松本良順が寄贈した頭蓋骨が一つあったが、これはひっぱりだこであり、医学生にも容易に見ることができなか
ったらしい。
’千住小塚原の刑場
一同、野犬に喰いつかれてはたまらぬと思い、ほうほうの体で引き揚げてしまった。人骨は一般人に
そこに野良犬の群がやって来て、恐ろしく吠えたてはじめた。
}」とになった。石黒とその仲間一ハ名は、夜半例の荒地に行って、鍬をふって掘りはじめると、たちまち
くわ
けれど人骨が欲しくてたまらない。そこで回向院の坊主をなんとか手なずけ、夜中に秘かに発掘する
とに拒絶されてしまった。
あそこを掘って人骨を手』
そこを掘って人骨を手に入れようということになり、回向院へ行って掛け合ってみたが、もののみご
その地には、ときどき人骨が士の上から顔を出していることがあった。その光景を見た石黒たちは、
ことである。
これらは身寄りがあった場合であるが、無縁仏となると、〃荒地の大石碑〃のところに埋めたという
墓地に葬ることができた。
であった。処刑者の死体辿
であった。処刑者の死体は、ふつう引取り人があれば、下げわたされ、また願い出により回向院分院の
Cえこ●つ
勉学の助けにしようと、石黒とその学友たちは謀った。当時、いちばん人骨が手に入るのは、何んといつ
そのため人骨を手に入れ、勉学の助けにしし
小坂原刑燭附近(吉田東齋箪)
ても刑場である。石黒たちが目をつけたのは、
「荒川区史上巻』(昭和30.3)より
(76)81
解剖小史
しゅう
とって醜怪であってJ喝〕、医学生にとっては”金玉にまさプ
”金玉にまさる珍宝〃 であった。だから宝の山を目のまえにして、手をこまねいて傍観する
わけにはいかない。そこで再度、挑戦することになった。
こんどは猛犬を手なずける者、骨を掘る者と、仕事を分担し、翌日の夜、犬の食物、人骨を入れる網袋、天秤棒などをもって小塚原
いまど
へむかった。幸い犬を手なずけることができ、沢山の人骨を手に入れることができた。
(〃)
土が付いた骨は重く、天秤担ぎもなかなか困難であったので、今戸からは舟をやとい、下谷の和泉橋へ乗りつけた。翌日、苦労して
取ってきた人骨の泥を洗い落してみたが、腐蝕がひどく、満足なものは少なかった。けれど解剖学上、骨の研究にはたいへん役立った、
ということである。
、、
当時の医学所の学生は、解剖実習の機会
解剖実習の機会にとぼしく、「真の人体解剖ということは、何年に一度というくらいで、容易にその機会が
得られ」なかったという(『懐古九十年』。
そのため小塚原で人骨を盗掘するはめになったのである。
(相)
(組)
明治維新後、はじめて病死体を用いて行なわれた解剖は、明治一一年(一八六九)八月十四日のことであった。このときみきという一一
十四歳の女性(駒込追分町彦四郎の娘)が、特士心により医学校において解剖され、彼女の里には十両の大金が与えられ、またその遺骸
を葬った小石川戸崎町の倉建寺には、永代御経料として三両あたえられた、という。
石黒によると、明治初年には人体解剖をおこなうにしても、材料(死体)が乏しく、じっに困難を覚えたという。献体する人は絶無、
死者があっても家族の反対があって解剖などできなかった。
かずよし
解剖は実地医学に不可欠であるため、〃筋学〃を担当していた石黒は、たびたび司法省に掛けあい、刑死者の屍体を医学校に廻して
もらうよう運動した。
くらいたつお
刑死者の死体を解剖に用いるといったアイディアは、石黒の発意であり、解剖学教授・田口和美との共同の努力でできたし」いうこと
(別)
で、明治三年ごろ医学校へ死体が六(
、明治一一一年ごろ医学校へ死体が六つ届けられた。その中には維新後、政府転覆を謀ったかどで斬首された、元米沢藩士・雲井龍男
(’八四四~七○)の刑死体があった。
80(77)
かずよし
明治三年(一八七○)十月二十日、大学東校の解剖所(下谷和泉橋通り、旧堂藤家の剣術道場を改造したもの)で刑屍を解剖するこ
とが許可された。同年十月末から十二月末まで、大学東校がえた死体は、
刑死四十九
病死三
の、計五十二体であった。
(剛)
当時、医学校や大学東校で解剖学を担当していた教授は、桐原真節や田口和美(’八三九~一九○四、のち「日本解剖学会」を起す)
であった。桐原はもっぱら講義だけをおこない、一方田口は熱心にメスを握って解剖をおこなった。
明治四年(一八七一)、大学東校で八十二体の解剖がおこなわれた。同年七月、ドイツからミューラー(一八二四~九三)とホフマ
(艶)
ン(生没年不明)の両軍医が来日した。ミューラーは解剖の実習と講義を、ホフマンは解剖学の講義だけをおこなった。
明治六年(一八七一一一)六月、ドイツからヴィルヘルム・デーニッッ(一八三八~’九一一一)が来日し、車昂医学校(東校)の解剖学・
組織学教授に就任した。同人は日本文化に関心をしめし、土器や日本クモの収集などに努めた。
(岡)
明治十年(一八七七)三月、デーニッッの後任としてハンス・ホール・ベルナールギールヶ(一八四七~八六)が解剖学教師として
明治十年(一八七七)三月、デーニッッの後任と‐
日し、明治十四年二八八一)五月まで滞在した。
来日し、明治十四年二八八一)
よしきよ
]ロ河、田口和美は東京大学教授に昇格した。
明治十四年(一八八一)七月、
小金井良精(一八五八~一九四四、明治~昭和期の解剖学者、人類学者)はドイツから帰国し、翌年東大
明治十八年(一八八五)、小金》
(則)
」ディッセに代わって解剖学担当教授となった。小金井こそ、本科生にむかって日本人みずからが解剖学の
教授となり、ギールヶの後任デイ
講義をおこなった最初とされる。
(78)79
粗
圏菌辿鵯起岬遵扇田
(詞)M・Courtin:Encyclop6dieModerne,ouDictionnaireabr6g6DesSciences,deslettersetdesArts,tomesecond,ChezMongieain6,
Libraire,Paris,1823,P248
(“)Enciclopedialtalianadiscienze,lettereedarti,IstitutodellaEnciclopedialtalianafondatadaGiovanniTreccari,1950,Pl26
(ぬ)冬三轡型榊「圏抵幽iMBu(、藻襯、盤’竪屋+<出R画)’111曰|、(。
(-)it!(-)elllllm(・
他)CharlesSinger:AShortHistoryofAnatomy&PhysiologyfromtheGreekstoHarvW,DoverPublications,Inc,NewYork,1957,
p・10
(-)WalterLibby:TheHistoTyofMedicine,InitsSalientFeatures,HoughtonMifflinCo.,Boston&NewYork,1922,pl8
卜)ChaT1esSinger&EAshworthUnderwood:AShortHistoryofMedicine,Clarendon町ress,Oxford,England,1962,p,48
(。。)想卜)elllilm。
(-)駿曇識二縫薑屋辮「鰯・綱朴鍬』(、蝉'堅副+<職|唾)'1〈K|皿(゜
(臼)坦他)elll図1回(。
(■)ArturoCastiglioni:AHistoryofMedicine,translatedfromtheltalianandEditedbyEBKrumbhaar,JasonAronson,Inc,New
York,1975,pl85
(ヨ)二二塁iii遙)燕鑑榊『鵬幽朴e剛』(鵜繊'醍団+柵く画)'旧|、.
(望)粗(ヨ)e田平1m(。
(。)粗(-)elH二lIm(。
(田)超(=)e団員1m(。
(。←)③」
(=)粗(=)S損O皿。
田皇軍盤
グロ、〆ロ、〆■、〆へ〆、〆、〆■、グー、′■、グー、グー、/白、〆、〆へ〆■、〆■、グー、グー、’-,グー、〆 ̄、′=、
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C『炉・)一([の色日の円』四一②(。}『のQの]四一一一[の□の。旨の□のご巳②②の②。ユ飼冒の的旨⑩ロロ》醇口C印]。E厨》 F】ず円巴邑の国・田の句『■口や。厨・祠ロユ妙]@m←・ロ・函『
小川鼎三『医学の感
小川鼎一一一『医学の歴史』(中央公論社、昭和三十九年四月)、一二~一一一一頁参照。
性(3)の九六頁。
注(四)におなじ。
注(3)の一一三二舂
の一一三二頁。
注(5)の四七頁。
注(3)の三二八頁。
注(旧)の四二~四三頁を参照。
注(、)の三一七頁。
注(9)の一一三頁。
注(9)の一一三舂
注(5)の七三頁。
注(u)の三四○頁。
注(3)の四一五頁。
注(u)の三四一頁。
注(u)の三四言
『図説医学史』(朝倉書店、平成元年五月)、一六一頁。
”椅子〃は、ラテン
ラテン垂蚫の○四【ずの□H四 (イス)に由来する。
注(5)の七六頁。
注(3)の四一七頁。
マイヤー・シニタイネック
小川剛三・酒井シヅ・三瀬
尤三共訳
J1
注(3) の四一八頁。
注(9) の二八頁。
注(3) の四一六頁。
注(9) におなじ。
(80)77
(語)粗(毎)e図IP1lm(。
(=)ITI曇塁鑛ミマミ1ト祷榊『鯛鱸』(各蝿纒洲燭墨'H彊酬+画)'固図皿。
(弓)蟻鵲仙曝榊『曰・国・トミマミトヤ「柳澤鱸」』(各宗萄鰐111<篭召婆)′H]11m(。
(等)MathiasDuval:Pr6cisd,Anatomie,al'usagedesartistes,LibraiTie-ImprimeriesR6unies,Paris,1884,pll
(等)匝仰′+111[、(。
●
(尊)SirCharlesBell:TheAnatomyandPhilosophyofExpressionasconnectedwiththefineartsJohnMurray,London,1844,p・
203
(窯)匝悼el11皿.拙裡IManoscrittidiLeonardoDaVincidellarealeBibliotecadiWinsorDeU,Anotomia-FogliA-Pubblicatida
TeobOroSabachnikoff,TranscrittieannotatidaGiovanniPiumaticontraduzioneinLinguaFrancese,Precedufiunostudiodi
Mathias-Duval,Parigi,EdoardoRouveyreEditoreMDCCCXCVⅢ[1898],p、23W徽匿・
(等)超(等)e図掴。
(等)組(写)u鵯轌二゜
(等)輻田鋪N1岨「瀧藝淵e謹聖』(誤拭糊′酉晨+桐出く酉)’’○1m](。
(尋)慨'鶉璽|榊『朴=jM-鞍演」(<わく纈埋’聖屋||+頁ltH皿)’蛆1皿(。
(露)組(尊)ellO団皿。
(田)燭(写)ell皿。
(認)輯(等)elllll皿(。
(露)輯(等)e111国皿。
(認)MathiasDuvaletAlbertBical:L'AnatomiedesMaitres,MaisonQuantin,Paris,l89qp6
(露)厄I。'<皿。
(露)輯(苫)e<ilm(。
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(駐)匝但。
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注(3)の四七四頁。
注(3)の四七五頁。
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訳書『ルネサンス画人伝』(白水社、昭和五十七年四月)、一四八頁。
日田B5Qの]]回ロ庁E3巳炉の○口日・CD回ご旨Q》三・口○○○門pロト
鍔耕趨太郎共著『レオナルドと解剖』(岩崎美術社、昭和五十二年四月)、九三頁。
(の旨ご庁のHEb己○同日芹○国凹一の。固『のご国の。』①@m)p函①
松井喜一一一編箸『レオナルド・ダ・ヴィンチ解剖図集』(みすず書房、昭和四十六年六月)、四頁。
注(開)の一二○頁。
注(船)の九五頁。
注(閉)の九七頁。
注(閉)の一○○頁。
同右。
注(閉)におなじ。
注(9)の一四二頁。
マルコ・チャンキ箸『レユ
『レオナルド・ダ・ヴィンチ解剖図』
柱本元彦訳
注(田)の一二八頁。
胄日四.巨切Cユ茸}Pの○口四『Qo9mぐ冒曰》』函@m.p凹む
加茂儀一『レオナルド・ダ・ヴィンチ伝‐I自然探求と創造の生活』(小学館、昭和五十九年四月)、一一三二頁。
暇蒋御才調・ジニッター箸『西洋医学史ハンドブック』(朝倉書店、平成八年二月)、一九五頁。
注(ね)の六頁。
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(82)75
解剖小史
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A・コンディヴィ箸『ミケランジェロ伝』(岩崎美術社、昭和五十三年二月)、一一一六頁。
高田博厚訳
注(3)の四七五頁。
裾分一弘『レオナルド・ダ・ヴィンチの「絵画論」孜』(中央公論美術出版、昭和五十二年二月)、’二五頁。
同右。
注(皿)の二○四頁。
注(3)の四七六~而
の四七六~四七七頁を参照。
注の
注(巧)の一九四頁。
の一九四頁。
同右。
『シングル・レンズ』(法政大学出版局、昭和六十一年七月)、二六頁。
注(布)の一九八~一九九頁を参照。
注(、)の四二九頁。
注(稲)の二○○頁。
同右。
注(3)の四七八頁。
注(狐)の二○○頁。
注(3)四八三頁。
注(肥)の六三頁。
注(、)の四二五頁。
注(u)の四二九頁。
注(u)の五二頁。
プライアン.J・フォIド署
伊藤智夫訳
注(、)の五一二頁。
注(u)の五二二頁。
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の五六三頁。
の五六五頁。
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の五六五頁。
注(3)の六二四頁。
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同右、二六三頁。
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の七二六頁。
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の六○二頁。
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の三二頁。
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の一六~一七頁を参照。
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注(川)の四三
の四一頁。
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同右。
同右。
注(川)の六四頁。
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(84)73
解剖小史
(噸)注(u)の五九四頁。
(剛)注(沼)の五二頁。
(鰯)注(ね)の五三頁。
(鰯)注(沼)の五四頁。
(噸)注(川)の一六二頁。
(伽)注(泥)の九六頁。
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八四頁。
○○頁。
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(蝿)注(稲)の二九二頁。
(咄)注(u)の六七二頁。
(川)注(伽)の二九八頁。
(即)注(Ⅷ)の二○三頁。
(剛)注(伽)の二○一頁。
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(咄)注(川)の二九七頁。
(剛)注(ね)の一九六頁。
(腿)注(伽)の二九五頁。
(鯛)注(沼)の
(醜)注(川)の八三頁。
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価)注(沼)の一○三頁。
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(山)注(泥)の一一九三頁。
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七七五七七
九八四四九
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同右、四六六頁。
注(2)の五五頁。
注(2)の六八頁。
『日本医学綱要
同右。
注(2)の七二頁。
注(2)の八四頁。
注(2)の七五頁」
の七五頁より引用。
注(2)の七二頁。
「日本庶民生活史料鍵成蕊二十八巻l和漢三才図h」(三一欝一鳧燗和五十五年四月)、一八九頁.
1』(平凡社、昭和四十九年八月)、’九九頁。
日本古典文学大系『日本書記上』(岩波書店、昭和四十二年三月)、四六七頁。
小竹武夫訳『漢書下巻』(筑摩書房、昭和五十四年十一月)
『漢書(漢班固撰唐顔師古注)』(台湾中華書局、中華民国五十七年四月、二版)より引用する。
小川鼎一一一「明治前日本解剖学史」(日本学士院編『明治前日本医学史第一巻』所収、日本学術振興会、昭和三十年四月)、五四頁。
繊魍綱辮(上)黄帝内経古注選集5』(オリエント出版、昭和六十年十一一月)、七四四頁。
日本における解剖史
注注注注注
(86)71
解剖小史
(肥)注(2)の八六頁。
(Ⅳ)小池猪人『図説
日本の”医〃の歴史
六七頁。
通史編』(大空社、平成五年十月)、八二頁。
T
「我邦漢方医及び蘭方医の最初の解剖に関する読史余談(承前と(『中外医事新報』昭和四年刊)、
(妬)注(2)の一五三頁。
七二頁。
(瓢)注(2)の
九頁。
八○頁。
(弱)注(釦)の
八頁。
(狐)注(羽)の一○○二頁。
(詔)注(羽)の九九三頁。
(犯)注(羽)の
(別)田中助一『防長医学史(全)』(聚海書林、昭和五十九年九月)、二一一一頁。
(四)礒韓辨寵輌塞『京都の医学史』(恩文閣出版、昭和五十五年一一一月)、九八二頁。
七頁。
日本解剖学会百周年記念事業』同記念出版委員会、平成七年四月)、
(班)岩熊哲「クルムス解剖書誌」(『日本医事新報』第九五○号所収、昭和十五年十一月)
(型)注(2)の九五頁。
(鍋)注(2)の九八頁。
(犯)呉
(皿)注(2)の九三頁。
(別)注(2)の九○頁。
(四)『唖漢方医学書集成週峰鰄麹馳』(名著出版、昭和五十四年十月)、三一頁。
(肥)『日本科学古典全集第八巻「蔵志」附録』(朝日新聞社、昭和五十三年三月)、
上
(羽)酒井シヅ「日本の解剖学のあけぼの」s日本解剖学会百年のあゆみ
(〃)注(肥)の
。
頁
(鉛)注(犯)の三七三頁。
70(87)
秀
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注(羽)の一○○四’
の一○○四~一○○五頁を参照。
注(羽)の二七三頁。
注(2)の二二一一一頁。
注(2)の二三五頁。
カツテンディーヶ箸『長崎海軍伝習所の日々』(平凡社、昭和五十四年二月)、八頁。
水田信利訳
房・のso具の口仙のC『】己の。ぐ①『目冒・]・P○・勺・已已のぐ目三ののaの『ぐ。。『ご目]]垣急および□の勺・の、。□執筆のポンペ家の家系図を参照。
○の白のの日の一一]穴のシ『C嵐の画一のロ⑩一口(『の。耳からの来信による。
ボンベ箸
注(似)の二六頁。
沼田次郎、荒瀬進共訳『ポンペ日本滞在見聞記」(雄松堂書店、昭和四十三年十月)、二九二頁。および古賀十二郎著『西洋医術伝来史』(日新書
院、昭和一七年十二月)、三○二頁を参照。
鋤釧綱垣校注『松本順自伝・長与専斎自伝』(平凡社、昭和五十五年九月)、一四頁。
石黒忠感『懐古九十年』(岩波書店、昭和五十八年四月)、一四一一~’四三頁を参照。
『東京帝国大学五十年史上冊』(非売品、東京帝国大学、昭和七年十一月)、四四四頁。
注(2)の二三六頁。
注(⑪)の一八四頁。
注(2)の二三七頁。
注(妃)の四三○頁。
注(蛆)の八四七頁。
注(2)の二四一頁。
(88)69
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