中部の
エネルギー
木材流送をめぐる水利権で
電力会社と対峙した 平野 増吉 平野増吉は水力開発をめぐる流木補償問題で、電力会社との
争いを繰り返し、木材業者として波瀾万丈の生涯を送った人物
である。流木をめぐる慣行水利権は、彼の戦いの中で確立した。
平野増吉は、明治11年4月、郡上郡山田村の造り酒屋平野吉
兵衛の次男として生まれた。末弟の力三は衆議院議員で農林大
臣を務め、長子
三郎は岐阜県知
事となった。増
吉は、学齢に達
すると郡上郡八
平野増吉顔写真
(『平野増吉翁伝』昭和35年11月)
幡町で同じく造り酒屋を営む兄新四郎の養子と
なり、新四郎が逝去した後、その弟で材木商を
営む六之助のもとで、木材業の仕事に携わった。
郡上郡八幡町の平野増吉養家
(『平野増吉翁伝』昭和35年11月)
木曽御料林事件・長良川事件
木曽谷では、長年、木曽御料
の人々は流材や漁業への影響を
林をめぐる地元住民との紛争が
恐れ、平野増吉を代表として反
続いていた。平野は、明治32年
対運動を行ったが、受け入れら
から御料林問題に取り組んでい
れなかった。しかし工事が完成
た島崎広助
(作家島崎藤村実兄)
し水の取り入れが始まると、流
と知り合い、村民の説得に協力
域住民が主張したように、川の
した。問題が解決した後、御下
水が減り川流しができなくなっ
賜金3000円の提供が提案された
た。このため、岐阜県知事は反
が、義侠心の強い平野は受取り
島崎広助
対派の主張を容れ、渇水期間中
を固辞した。しかしそれが機縁となり、中山
は許可取水量800立呎/秒を500立呎/秒へ
御料林の立木払い下げの許可
(10年間)を得、
の引下げを命じた。また後に、郡有林設定の
木材業者としての地位を築いた。
ため3万5000円の寄附、事件の補償として
明治41年、名古屋電灯は、武儀郡洲原村
1万7000円で解決がはかられた。
に長良川発電所(4200kW)
を着工した。流域
平成27年10月号
長良川発電所(改修前)
長良川発電所
(中部電力『時の遺産』平成13年1月)
木曽川事件・益田川事件
島崎広助は、大正8年12月から木
曽川上流での電源開発をめぐる補償
問題で住民側代理人として名古屋電
灯(後に大同電力)
との交渉や陳情活
動を行っていた。島崎に協力を求め
られ、平野は郡民大会
(大正10年4
月)で弁士を務め、島崎の代理人と
して大同側と交渉を行い、大正15年
木曽川事件に関する「覚書」
(長野県立歴史館写蔵)
5月、島崎が代理人を降りることで
解決への道筋をつけた。
こうした交渉と紛争は昭和9年10月、高山
平野は飛騨川筋益田川の瀬戸発電所(2万
線が開通し、陸上輸送となるまで続いた。
7700kW)に関しても、木材流送をめぐって
関西電力
(後日本電力)
と激しく争った。瀬戸
発電所は大正10年10月に着工したが、木材
の流送は落木路の建設で処理する計画とした。
平野は、落木路は脆弱である、木材を損傷す
る、流材調整設備がない、時間がかかるな
どとして反対したが、大正13年に完成した。
平野は設計量を上回る木材を集めて流材を困
瀬戸発電所(筆者撮影)
難ならしめ、流送遅延等の補償を求めたが、
庄川流木事件
最大の戦いは庄川流木事件であった。庄川
は庄川筋にわが国最大のダム式発電所となる
水力電気
(社長:浅野総一郎、後に日本電力)
小牧発電所(7万2000kW)を計画し、その上
平成27年10月号
浅野総一郎
(庄川水力電気社長)
流には昭和電力(大同
木材は、大阪の金融業者、乾新兵衛に資金の
電力関連会社)が祖山
支援を受け、訴訟活動や陳情、集会など激し
発電所(4万7500kW)
い反対運動を繰り返した。昭和5年4月に木
を 計 画 し て い た。 飛
材輸送設備が完成し、反対の姿勢をとってい
州木材(大正9年7月
た岐阜県側も内務省の仲介により、補償金
設立)の専務取締役と
120万円の提示で賛成へと転じた。一方飛州
なっていた平野は、木
木材は、4月22日、輸送設備使用禁止の仮
材搬出ができなくなる
処分を申請し、これが認められると、5月8
として反対運動を展開した。小牧発電所は大
日、本訴である「流木権確認・妨害排除請求」
正8年1月に、富山県知事から水利使用の
について提訴し、全国が注目する裁判となっ
許可を受けたが、同15年3月に、小牧堰堤
た。日本電力は直ちに、仮処分申請の取消を
設計変更認可が下りると、平野は、5月28
求めて提訴し、7月10日に認められた(供託
日、堰堤実施設計認可取り消しを求める訴え
金70万円)。県は8月22日仮排水路の締切を
を行政裁判所に提訴した。県は、昭和2年5
認可、9月21日にダムの湛水を許可し、11
月、木材輸送設備の完成後でなければ仮排水
月には小牧発電所、12月には祖山発電所が
路締切はできない旨追加命令を出した。飛州
それぞれ運転に入った。その後昭和8年3
月になって本訴の判決が下り、初めて「流木
権」が認められ、損害賠償20万円の支払いが
命じられたが、その他の請求は却下となった。
双方が控訴し、その後も流送設備が有効に機
能しうるかなど争いが続いたが、昭和8年4
月に資金を提供していた乾新兵衛の逝去が転
機となった。飛州木材は資金的に行き詰まり、
小牧発電所
(『北陸地方電気事業百年史』)
内務省が間に入って8月に和解が成立し、7
年に及ぶ争いは終結した。
庄川問題の終結後、平野は昭和12年から
日本農林新聞社長に就任して山林業発展に尽
くした。昭和16年には国の木材統制に反対
して投獄された。終戦後は、昭和21年衆議
院議員に当選したが、翌年公職追放で辞任し
ている。昭和34年10月、81歳で波乱に富ん
祖山発電所
(『北陸地方電気事業百年史』)
だ人生を終えた。
(浅野 伸一)
平成27年10月号
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平野増吉